リーノは空中で息を呑んだ。
あぁ、アシュラ――
おまえが欲しかったのは、この形だろ?
逃げ場を失ったところを左目で焼くために。
たしかに、ここへ追い込まれた。
だが、一発目の天照を外させるなら、むしろこのほうがいい。
リングの上では、隠を混ぜた念弾に追われ続ける。
そして、空中なら、相手が撃つものは一つに絞られる。
――天照だ。
来るなら左目。
アシュラが右手を上げる。
気取った仕草で、左目の眼帯に指をかけた。
こんな場面でも、わざわざ見せつけるのか。
妙に芝居がかったその動きに、リーノはかえって冷えた。
その眼帯を外せ。
そのために、おまえは今それを見せる。
眼帯が外れる。
覗いた左目に、ぞくりとした圧が宿る。
そして、そこへオーラが急速に収束する。
一点に。
鋭く。
明確に。
今だ。
黒炎が放たれる、その直前。
リーノは空中でオーラを噴かせた。
何もないはずの場所を蹴るように、身体が横へ滑る。
アシュラの表情が、初めて崩れた。
黒炎が奔る。
だがそれは、ほんの一瞬前までリーノがいた先の観客席下の壁を焼いただけだった。
熱が頬を裂く。
それでも致命傷には届かない。
避けた。
胸の奥で、何かが跳ねる。
一発目は外させた。
なら次だ。
九秒!!
天照には間がある。
そのインターバルのあいだに、一気に懐へ潜る。
ウォーターキャノンが起動し、その壁の黒い炎に放射される。
アシュラはもう次の構えに入っていた。
黒炎をまとった右腕が、ゆっくりと持ち上がる。
加具土命。
触れれば終わる。そんな圧が、離れていてもわかった。
それでもリーノは止まらない。
もらった。
そう確信して、まっすぐ踏み込んだ。
ここで引けば、また距離を取られる。
リングの上で念弾に追い回され続ければ、次はない。
だから行く。真正面から。相手が最も迎え撃ちやすい角度から。
天照を撃つには、絶好の間合いだった。
だが、来ない。
来ないんじゃない。
撃てない。
リーノはそのまま前へ出た。
試合前、ビスケと何度も洗った情報が脳裏をよぎる。
一発ごとに間がある。
九秒。
撃ちたい場面で撃てなかった。なら、そこを突く。
足は止めない。
迷いも見せない。
今のアシュラにとって、天照をかわされた焦りがあるはずだ。だが、それでも炎化している自分が崩されるとは思っていない。だから迎え撃ってくる。
その油断ごと、踏み抜く。
アシュラの表情は、もう戻っていた。
さっき一瞬だけ崩れた顔が、また余裕めいたものを貼りつけている。
来るなら来い。
そう言いたげな顔だった。
上等だ。
リーノはその懐へ飛び込む直前、膝をためた。
そして、跳ぶ。
上へ。
アシュラの目の前で、垂直に。
一気に視界から抜けるような急上昇だった。
まるでそのまま天井まで突き抜けるつもりみたいに、勢いよく。
アシュラが反射的に顔を上げる。
だが、もう遅い。
そこにはいない。
リーノは上へ飛んだ勢いのまま、空中で軌道を変えていた。
舞空術。
空中で止まり、曲がり、落下すら裏切るこの移動術を、アシュラは知らない。
これが情報戦の差だ。
上へ逃げたと思わせておいて、次の瞬間にはもう横へ流れている。
さらにそこから沈み込むように落ち、アシュラの死角へ潜る。
一瞬だった。
見失った。
それだけで、アシュラは遅れた。
だが、さすがに反応は早い。
目で追えないと悟るや、アシュラの気配が変わった。
円。
見えなくても、位置は取る。
その選択は正しい。
そして実際、アシュラは捉えた。
死角から肉薄してきたリーノの位置を。
だが、それでも遅い。
たぶんアシュラは、この距離に入られてもまだ大丈夫だと思っている。
炎化している。殴られても通らない。そう考えるのが自然だ。
だから、迎え撃てる。
そう思っている相手に、リーノはそのまま手を伸ばした。
殴るためじゃない。
ただ触れるためだ。
「――はあああッ!!」
掌から叩き込んだオーラが、炎の輪郭をすり抜けるように流れ込む。
破壊ではない。
弱体化でもない。
強化。
極限まで研ぎ澄まされた操作が、アシュラの感覚器官だけを正確に捕まえる。
視覚。聴覚。
そこだけを狙って、限界の向こう側まで引き上げる。
一瞬、何も起きなかった。
そう見えた。
次の瞬間だった。
「――ぎゃあああああああああああああああッ!!」
絶叫。
闘技場じゅうに、裂けるような悲鳴が響き渡った。
アシュラのカラダが跳ねる。
炎が、災厄に変わる。
視界に流れ込む光の量が、限界を超えた。
会場を照らす照明。リングを囲む無数の光。そこへ炎の明滅が重なる。
ただの明るさじゃない。目の奥を焼き切る刃だ。
アシュラが顔を押さえた。
見えていない。いや、見えすぎている。
開けていられないのだ。
それだけじゃない。
客席から爆発した歓声が、遅れて襲いかかった。
何万人分もの声が、一つの塊になって両の耳へ突き刺さる。
鼓膜を叩く音じゃない。頭の内側へ直接打ち込まれる暴力だった。
アシュラの膝が折れる。
目も、耳も、もう役に立たない。
光と音の奔流に呑まれ、炎のカラダがぐらりと揺れた。
効いた。
その手応えが、ようやく現実になる。
物理じゃない。
弱体化でもない。
感覚を奪うんじゃない。
感覚強化で壊す。
その発想にたどり着けたからこそ、届いた。
アシュラは泡を吹き、喉を潰すような悲鳴を上げながら悶えた。
炎をまとったまま、自分の能力とこの天空闘技場の観客の熱量そのものに押し潰されていく。
ここだ。
勝負が、初めてこちらへ傾いた。
◆ ◆
観客席で、ヒソカがうっとりと目を細めた。
「ボクのヒントを、そう使うんだ……あぁ♠」
力ずくでねじ伏せるんじゃない。
炎の怪物の、いちばん脆いところだけを見つけて、そこへそっと触れていく。
ひどくやさしげなのに、逃げ場はどこにもない。
悲鳴が上がるたび、ヒソカの喉が小さく鳴る。
あれはもう攻撃なんかじゃない。
もっと粘ついていて、もっと親密で、もっと残酷な何かだ。
「あぁ♦ それでいいよ……リーノ♣」