天空闘技場の病棟エリア。見慣れた天井。
リーノが目を覚ました時、最初に視界へ飛び込んできたのはそれだった。
次いで、右肩の先に焼けつくような熱が走る。じくじくと脈打つ痛みだけがそこにあって、肘も、手首も、指先もなかった。右腕を動かそうとして、何もないことを知る。
「……目ぇ覚ました?」
静かな声だった。
視線を向けると、パイプ椅子に腰掛けたビスケがこちらを見ていた。
その隣には、見慣れない女が立っている。
黒髪に民族衣装。ひどく物静かな顔立ちで、ただそこにいるだけなのに、妙な緊張感があった。
誰だよ、と目で問うより先に、ビスケが小さく息をついた。
「彼女はハンター協会お抱えの除念師だわさ。あんたがアシュラの『天照』に焼き尽くされる前に、その呪いを解くために待機してもらってたんだわさ」
一瞬、意味が入ってこなかった。
除念師。
待機。
協会お抱え。
言葉が頭の中で繋がった瞬間、リーノは息を止める。
そこまでだったのか、と思った。おそらく数千万ジェニー規模のお金が動いているはずだ。お金だけで動かせることでもない。
ビスケ一人の判断で呼べる相手でもない。
ネテロ会長の許可まで通して、最悪の事態に備えていたということだ。
つまり誰もが、リーノがアシュラに焼かれて終わる可能性を本気で考えていた。
そこまで差がある相手だった。
そこまでの布陣が必要な試合だった。
その事実が、今さらみたいに右肩の痛みを重くする。
けれど同時に、胸の奥では別の熱が膨らんでいった。
右腕を失った。
記録の上では敗者だ。
それでも、俺はあそこまで行った。
その時だった。
医務室のモニターから、けたたましい速報が響き渡る。
『――たった今、驚きの情報が入ってきました! 来週予定されていたアシュラ選手対ヒソカ選手の一大決戦ですが、アシュラ選手から急遽棄権の申し入れがあったとのことです!』
リーノの目が見開かれる。
『アシュラ選手は試合の中止ではなく、一ヶ月後へ延期を求めているようです! 記録上はヒソカ選手の不戦勝! あの無敗の炎の魔術師アシュラ選手が、ここに来て初黒星を喫しました!!』
『ヒソカ選手はこの延期を受け入れるのでしょうか!?』
数秒、何も考えられなかった。
アシュラが棄権した。
あの怪物が、リングに上がれなかった。
理由なんて一つしかない。
胸の奥から、じわりと何かが込み上げてくる。
熱だった。
痛みよりもずっと強い、笑ってしまいそうなほどの熱だ。
記録は俺の負けでいい。
それでも、あの一戦でアシュラを叩き落としたのは俺だ。
一ヶ月、アイツの予定を狂わせた。
ヒソカ戦を流れさせた。
無敗記録に泥を塗った。
アシュラとヒソカ。怪物同士が当然みたいな顔で組んでいた次の舞台に、俺が割って入ったんだ。
アシュラほどの怪物なら、ヒソカ戦を強行することだってできたはずだ。
カラダがどうなっていようが、這ってでもリングに上がる。そういう化け物だ。
なのに、アイツはそれをしなかった。
それが答えだ。
ヒソカだって一週間後のために調整してたはずだ。
天空闘技場を介して、裏でヒソカと延期の話も通っているはずだ。
だったら、これはただの棄権じゃない。
アイツは、俺との一戦をちゃんと一戦として受け取ったんだ。
無理やり次に進んで、なかったことにはしなかった。
アイツは俺を認めた。
言葉じゃない。
アイツがヒソカ戦を延期したっていう、それ自体が何よりの証だ。
アイツの黒星には、そういう意味がある。
それを勝利と呼ばずに、何を勝利と呼ぶ。
唇が、勝手に吊り上がる。
「……しゃああああっ!!」
かすれた声でそう叫ぶと、ビスケがふっと笑った。
「ま、出番がなくて何よりだったわさ」
そこで、ビスケの視線が俺に止まった。
値踏みするみたいに。
けれど、それだけじゃない、もっと別の熱を帯びた目だった。
「な、なに?」
「リーノ、アタシの弟子になりなさい」
その一言で、胸の奥がざわついた。
弟子。
軽い意味じゃないことくらい分かる。
ビスケがこういう言葉を使う時、それは気まぐれでも思いつきでもない。
本気で、自分の持っているものをすべて渡すつもりで言っている。
なのに、真っ先に頭へ浮かんだのはウイングさんだった。
ズシみたいに、最初から弟子として育てられたわけじゃない。
呼び方だって違う。
俺だけずっと、リーノくんだ。
それでも、腐っていた俺を拾ったのはあの人だった。
天空闘技場で止まっていた俺を、しつこいくらい引っ張って、ここまで連れてきてくれた。
なんで今、あの人の顔が浮かぶのか、自分でも分からない。
ただ、ビスケの言葉にうなずく気にはなれなかった。
「……ならない」
ビスケが片眉を上げる。
「へえ」
「ビスケがすごいのは分かる。ありがたい話だってことも。でも……なんか違う」
自分でもひどく曖昧な言い方だと思った。
けれど、それ以上きれいに言葉にすると、違う気がした。
それとは別に、胸の奥で何かが引っかかった。
まだ形にもなっていない不安だった。
触れたら最後、ろくでもないものが出てきそうで、考えるのをやめた。
「違う?」
「弟子って言われて、そう簡単に、はいって言えるもんじゃないだろ」
ビスケはしばらく黙っていた。
怒るでもなく、呆れるでもなく、ただこっちを見る。
その目が少しだけ細くなって、ふっと笑った。
「そう」
拍子抜けするくらい、あっさりした声だった。
「なら、今はそれでいいわさ」
そこで終わるかと思った。
けれどビスケは、椅子に座ったまま、まっすぐ俺を見た。
「でも覚えときなさい」
妙に静かな声だった。
「アンタはそのうち、アタシを求めるわさ」
思わず眉が寄る。
「……?」
「必ずね」
それだけ言って、ビスケは口元を吊り上げた。
冗談みたいな軽さだった。
なのに、その「必ず」だけが、妙に胸の奥に引っかかった。