ビスケと合流し、上層階レストランへと足を向けた。
店に入ると、店員が現れて「ビスケット様、リーノ様。どうぞ、こちらへ」と声をかけてきた。俺たちは店員に案内される。
厨房の奥から活気のある声が聞こえてくる。
「リナ! そっちの仕込み急いで! スープの鍋、アク回ったらすぐ取って!」
「は、はい!」
先輩料理人がリナと呼ばれた少女に声をかけて、慌ただしく動いている。俺が知らない料理人だ。最近入った新人だろう。
「あ、リーノさん! 師範! こっちです」
ズシが呼ぶ。
中央付近のテーブル席には、すでにウイングさんとズシが座って待っていた。
テーブルの上には、これでもかと豪華な料理が並べられている。どうやらビスケは、命懸けの試合を戦い抜いたリーノへのご褒美として、盛大にご馳走したかったらしい。
「ふん。まぁ、合格とは言えないけれど……今回の戦いぶり、あんたにしては上出来よ。及第点をあげるわ」
肉を口に放り込みながら、ビスケがつっけんどんに言った。
その瞬間、対面にいたウイングが「ええっ!?」とガタッと椅子を鳴らして立ち上がった。
「し、師範が……あの極悪魔女の師範が『及第点』を与えるなんて! リーノくん、これは本当に、信じられないくらい凄いことですよ!!」
「誰が極悪魔女だわさ」
メガネを光らせて大興奮するウイングと、目を輝かせるズシ。
それまでずっとカラダを震わせていたズシが、ついに我慢しきれないといった様子で身を乗り出してきた。
「リーノさん! 自分……本当に感動しました!! 必殺技を封じたり、スプリンクラーの水に『発』を通して操るなんて! それに、最後に右腕を犠牲にして放ったあの一蹴……凄すぎるッスよ!」
ズシの丸い目が、これ以上ないほどキラキラと輝いている。
「自分も、リーノさんみたいに、どんな強敵が相手でも絶対に諦めない武道家になりたいッス!!」
熱烈な、100%純粋な憧れの視線。
ズシにとってリーノは、圧倒的な知略で200階クラスを戦う、背中を追いかけたい「最強の先輩」なのだろう。
……やめてくれ、ズシ。そんな目で俺を見るな。
その純粋無垢な眼差しを向けられるたび、リーノの胃の奥はキリキリと痛んだ。
ズシは何も知らない。
俺がずっと冷や汗を流しながら、実力差に怯えて戦っていたことも。右腕を捨てたのだって、追い詰められた末の賭けだったことも。
ズシが見ているのは、強化系に覚醒してからの『闘士リーノ』だけだ。
みっともなくふさぎ込んでいた時期も、泣きながら修行していた姿も知らない。だからこそ、こんなにも真っすぐに憧れを向けてくる。
「もう少し時間があれば、リーノさんなら『バトルオリンピア』にだってフロアマスターとして出場できたはずなのに……! 自分、本気で悔しいッス!!」
バトルオリンピア……!? フロアマスター……!?
リーノの背筋に、ぞっとするような寒気が走る。
勘弁してくれ。
その持ち上げられ方は、今の俺には恐怖でしかなかった。
黄金のオーラを失ってから、圧倒的勝利なんて一度もなかった。いつも勝てるかどうかわからないギリギリの戦いばかり。いつ転げ落ちてもおかしくない。
自分の凡人さを再確認させられるばかりだ。
リーノは知っている。ウイングさんの正当な弟子であるこのズシが、『10万人に1人』という圧倒的な才能を秘めていることを。器の底の深さでは、ズシのほうが圧倒的に上なのだ。
その本物の天才から、これほど無邪気に高い天井を期待されるのは、生きた心地がしなかった。
さらに、追い打ちをかけるようにウイングさんが眼鏡を光らせて頷いた。
「ズシの言う通りですよ。リーノくんの『成長スピード』、技の『吸収力』、そして何より環境への『適応力の早さ』は目を見張るものがあります。……リーノくんは、間違いなく『適応力の天才』です」
ウイングさんまで何言っちゃってんだよ……!
ウイングから大真面目に紡がれる「天才」という単語。
ちがう。俺は天才なんかじゃない。死に物狂いの小細工で、綱渡りのバトルを演じているだけのただの凡人だ。
褒められれば褒められるほど、内面の自信のなさが悲鳴を上げる。
「適応力の天才」なんて大層な看板を背負わされて、ズシの純粋な目の前で、これ以上格好悪いところを晒すわけにはいかない。
リーノは今すぐにでもこの席から逃げ出したくなっていた。
「……まぁ、な。そんなことも、ありまくるかな。俺、天才だから」
何を言ってるんだ、俺は。
「しっかり基本を磨いておけば、ズシならもっと凄いことができるようになるさ。押忍」
年下の兄弟子に向かって、そんなこと言える立場じゃないだろ!!
リーノは必死に心臓のバクバクを抑え込み、余裕を崩さない「理想の先輩」の仮面を被って、不敵な笑みを浮かべながらズシの頭を軽く小突いた。
相変わらず、キラキラした目を向けてくるズシ。
「はい! 押忍!!」
嬉しそうに返事をするズシ。
辛い。その目が辛い。ズシのプレッシャーに押しつぶされる。ウイングさんとは別の意味で悪魔だ! こいつは小悪魔だ!
炎の魔術師アシュラとの戦いの実質的な勝利。周囲からの称賛。そして厳格なビスケからの、初めての肯定。
最高の勝利の余韻が、料理の美味さと共に俺の身体を満たしていった。
――だが、その幸福な時間は、突然の「乱入者」によって一瞬で凍りついた。
「うまそうな匂いがするじゃねェか」
ドサリ、と地響きを立てるような足音が迫る。
振り返るよりも早く、その巨大な影が俺たちのテーブルを覆った。
ジュウウウ、と小気味よい音を立てていた鉄板。そこに乗っていた、俺がまさに口へ運ぼうとしていた極上のステーキ肉を、大男は事もあろうに分厚い手で掴み、乱暴に横取りした。
「えっ!?」
そのまま、躊躇なく大きな口へ放り込む。
目が合う。
「あァ? おまえ……あの『ドラゴン使い』じゃねェか。さっきの試合、上から観てたぜ。おもしれェ戦い方をするじゃねェか」
肉を口に咥え、咀嚼しながら、男はニィと凶悪に唇を吊り上げて笑った。
――人間兵器ウボォーギン。
幻影旅団の特攻破壊獣。
野獣そのものの獰猛な眼光と、肌を刺すような圧倒的なプレッシャーが店内の空気を一瞬で支配する。
「ちょっと、ウボォーさん! そうやって、すぐに人のモノを取らないの。ごめんねェ。うちの腹ペコゴリラが迷惑かけて」
後ろからついてきた金髪の青年――シャルナークが、困ったように眉を下げてウボォーギンをたしなめた。
「もう、ウボォーさんってば、いつもそれなんだから。他人のもののほうが美味しく感じる病気、そろそろ治したら?」
あきれ顔で突っ込むシャルナークに向かって、ウボォーギンは咀嚼音を響かせながら、心底嬉しそうに喉を鳴らした。
「ハッ! 治るわけねェだろ。人の肉を横取りして食べる。これが一番うめェ。極上の味わいだぜ。金払って食う肉なんて、砂でも噛んでるみたいで味もしねェからなァ!」
なんだこいつ! イカレてんのか?
だけど、間違いない。
こいつは本物のウボォーギンだ。
俺の背中に、嫌な冷や汗が伝う。
前世の記憶――原作知識にあるアイツの本質が、今目の前でピタリと符合した。
ウボォーギンはお金を持たない。お金を払って手に入れたものに、何ひとつ価値を感じないからだ。他人が大切にしているもの、他人が楽しみにしているもの。その「他人の執着や感情」ごと、力ずくで奪い取る瞬間にこそ、この男は脳が灼けるような至福を覚えるんだろう。
ほしいと思ったら、絶対に手に入れる。それがこの怪物の、最悪な略奪者としての本質。
最強のジャイアニズム。
いつもなら真っ先に怒鳴り散らすはずのビスケが、今に限っては一言も発さない。
ただじっと、鋭い視線をウボォーギンへと向けている。彼女はその一瞬で、この男の底知れない『やばさ』を把握したのだろう。まともにやり合えば、この天空闘技場ごと消し飛びかねない破滅の化身。
ウボォーギンは俺の皿に残った肉を見つめ、飢えた獣のようにギラついた目を向けてきた。
「もっとくれよ。おまえの肉を。ほしい。おまえの肉が! おまえの肉がほしい!」
その言葉に、俺の胃の奥がカッと熱くなった。
ただの食欲じゃない。俺が死線を潜り抜け、右腕を失うほどの泥水をすすって、ようやく師匠から勝ち取った「誇りの証」――その特別で不可侵な価値を、この怪物の略奪者としての本能が正確に嗅ぎ取って、おねだりしているのだ。
おそらく、ウボォーギンにとって、この肉が最近食べた中で、もっともおいしい肉だったのだろう。だからこそ、すべてを奪い尽くしたくてたまらないのだろう。
ガタ、と椅子を鳴らして俺は立ち上がった。
「ほしい? ふざけんなよ。返せよ」
静かな声だった。低いけれど、まっすぐにウボォーギンを見据える。
「返せよ。俺の肉だ。俺が、ビスケからもらった肉だ。……返せよ」
命懸けで戦い抜き、やっと掴み取った及第点。それを、こんな理不尽な暴力に蹂躙されてたまるか。
ウボォーギンは顎を動かし、最後の一口をゴクリと飲み込んだ。
そして、最高の獲物を見つけた猛獣の歓喜をその瞳に宿し、ニカッと白い歯を見せて笑う。
「食っちまったぜ」
俺は激しい怒りを宿した目で、ウボォーギンを強く睨みつける。怯えなんて、怒りで完全に吹き飛んでいた。
そんな俺を見たウボォーギンの目が、さらに怪しくギラつく。
「良い目だ。オレにそんな目を向けてくるヤツなんて、なかなかいねェぜ」
ウボォーギンは身を乗り出し、俺の顔を覗き込むようにして低く笑った。
思い出す。
原作のコイツは、大切なものを奪われ、それを命がけで奪い返しに来る人間の剥き出しの執念を見るのが大好きだった。そして、その必死の牙を正面から叩き潰して絶望の底に突き落とす。それこそが、この男にとってこの上ない快感なのだ。
「ちょっと、ウボォーさん。……すみません、本当に。今、新しいステーキを注文し直しますから」
シャルナークが苦笑しながら店員を呼び、気まずそうな顔で場を収めようとする。だが、ウボォーギンは俺から視線を外さなかった。
「なぁ、おまえ――『ドラゴン使い』。あの水のドラゴン、数十トンはあったろ。ただのハメ技じゃねェ。ありゃあ上等なもんだ。オレの拳があのドラゴンをぶち抜けるか試したくなっちまったぜ」
「……破壊獣が。勝手に人の飯を喰っといて、よくそんな寝言が言えるな」
俺は睨みつけたまま、静かに、しかしはっきりと返した。
「ハッ、破壊獣だと? 気に入ったぜ!」
ウボォーギンが、喉を鳴らして大笑いする。天を突くような大質量のオーラが、一瞬だけ肌をチクチクと刺した。
そして、その猛獣の目が、スッと細められた。
「返してほしけりゃ、オレと勝負しろ。リングの上でよォ。おまえが必死に磨いたその牙ごと、オレが全部奪ってやるぜ」
唐突に突きつけられた、200階クラスのバトル申し込み。
その瞬間、レストランの空気が完全に一変した。ざわざわと、周囲の客たちの間に、波紋のように動揺が広がっていく。
「おい、聞いたか……? あの『海王殺し』に『人間兵器』が勝負を売ったぞ」
「天空闘技場の申し子が、また化け物とやんのかよ……!」
「バトルオリンピア前に、凄い戦いが見れそうだぞ」
アシュラを実質的に退けたばかりの俺。今や200階クラスの台風の目となったウボォーギン。
その時。
それまで頑なに沈黙を保っていたビスケが、ついに重い口を開いた。
「――リーノ!」
鋭い声だった。
振り返らなくとも、その一言に込められた意味は、痛いほど伝わってきた。
やめなさい。そいつとは……絶対に、戦ってはいけない。
あのビスケが、明確に静止をかけている。それほどまでに、このウボォーギンという大男は、今の俺が戦って良い次元の相手ではないのだ。
前衛の最高峰。
戦えば、今度こそ右腕どころか、命そのものを奪われかねない。脳をやられたら、強化系の治癒力ではどうにもならない。
ウイングさんが冷や汗を流し、ビスケの横顔を緊張の面持ちで見つめている。
師匠たちの、過保護なまでの静止。
逃げろと言われている。まだ早いと。今はその時じゃないと。
それはきっと、正しい。
今の俺じゃ勝てないかもしれない。いや、たぶん普通に考えれば勝てないんだろう。アシュラ戦で思い知らされた。俺は万能じゃない。黄金のオーラを失ってからずっと、綱渡りみたいな勝負ばかりだ。
この先、本当に王者になれるのか。
最強になれるのか。
最近ずっと、心のどこかで怯えていた。
だけど――だからこそ、ここで引いたら終わる。
ウボォーギンから逃げたという事実は、きっと俺の心の芯に一生残る。あの時逃げたくせに、お前が王者を名乗るのかと、俺をずっと責め続ける。
念は心だ。
ここで退いた瞬間、俺の中の何かが決定的に折れる。
王者になれると信じる心が折れたら、もう終わりだ。この世界で最強になる。そのためにここまで来た。そのために、生きてきた。
ここで引いたら、その存在意義ごと消える。
ズシの純粋な憧れも、ウイングさんがくれた「適応力の天才」という看板も、今はもう関係なかった。
これは見栄じゃない。
意地でもない。
王者になる未来を、ここで手放さないための勝負だ。
俺はビスケの静止を振り切るように、ウボォーギンをまっすぐに見据えた。
「――1ヶ月後だ」
不敵な笑みを、その唇に刻む。
「1ヶ月後、リングの上で勝負だ。……その肉の代償、高くつくと思えよ、破壊獣」
「ヒハッ! 交渉成立だ!!」
ウボォーギンの歓喜の咆哮が、レストランの天井を震わせた。
奪われた誇りを取り戻すためだけじゃない。
王者になる未来を、この場で見失わないために。
俺が世界の理不尽――前衛の絶対強者へと挑む、もう一つの地獄のカウントダウンが始まった。