ヒソカは過去を語らない   作:マネ

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天空闘技場 ウボォーギン編
ピースサイン


 天空闘技場の外周を、リーノは走っている。

 

 300キロの胴着を着たまま、それでも足は鈍らない。

 重さに引かれるどころか、地面を蹴るたびに、カラダが前へ前へと伸びていく。

 一目でわかる。今のリーノは、常人の領域にいない。

 

 1ヶ月後。

 リーノとウボォーギンが戦う。

 

 その発表が出てから、天空闘技場の空気は変わった。

 外周を走るリーノに、外周通路のあちこちから声援が飛ぶ。

 アシュラ戦以前のように、実力を疑う声はもうない。

 未来のスター。

 フロアマスター候補。

 2年後のチャンピオン候補。

 そんな言葉が、今では誇張でもなんでもなくなっていた。

 

 実際、話はいくつも来ていた。

 スポンサー契約。

 専属のマネージャー。

 個人での接触を試みる者までいる。

 

 だが、リーノはそのすべてを断っていた。

 

 普段のリーノなら、まず間違いなく話くらいは聞く。

 むしろ調子に乗って、上機嫌になるはずだった。

 だが今回は違う。

 

 走る。

 止まらない。

 声援にも、周囲の熱にも、ほとんど反応しない。

 

 その背中を見つめながら、ウイングは言いようのない違和感を覚えていた。

 

 リーノが期待されるのは当然だった。

 あれだけの激闘を見せたのだ。

 アシュラとの一戦で、リーノはもう面白い新人ではなくなった。

 強者として、次を期待される立場になった。

 

 1ヶ月後の相手はウボォーギン。

 荷が重いと口にする者はいた。

 だが、不可能だと切り捨てる者はもういない。

 勝てるかもしれない。

 本気でそう思わせるだけのものを、リーノはすでに見せていた。

 

 ウイングもまた、理屈の上ではそう考えていた。

 

 リーノはもともと修行が嫌いだ。

 文句も多い。

 隙があればサボろうとする。

 ウイングに向かって鬼師匠と叫ぶことも珍しくない。

 とても優等生とは言えない。

 

 だが、アシュラ戦以降のリーノは違っていた。

 

 真面目に修行している。

 

 それも嫌々ではない。

 何かに追われるように、黙々と、自分を削るみたいに続けている。

 

 これなら余裕で届く。

 ウイングはそう思っていた。

 

 いつも通りの修行でいい。

 いや、リーノのいつも通りは、すでに異常だが。

 

 リーノの成長速度は常軌を逸していた。

 1億人に1人。

 いや、10億人に1人でも足りないかもしれない。

 

 気球から落下しながら、舞空術の理屈を組み立て、実行し、そのまま成功させた。

 あんな真似ができる使い手を、ウイングは他に知らない。

 空を飛ぶという前例のない領域に、あまりにも自然に手をかけてしまった。

 

 世界最高の成長速度。

 そう呼んでも大げさではないと、ウイングは本気で思っていた。

 

 だから信じていた。

 このまま積み上げれば、ウボォーギン戦までに必要な纏と練は手に入る。

 これまでの実績から導いた予測でも、そう出ていた。

 

 修行だけではない。

 リーノは食事にも気を配っていた。

 

 新人料理人のリナに頼み、身体づくりを意識したまかないを用意させている。

 量も内容も、きちんと管理させていた。

 リーノにしては珍しいほど徹底していた。

 

 ウイングは、その姿を見て素直に褒めた。

 

「素晴らしいですね。ズシにも見習ってほしいくらいです」

 

 リーノは何も返さなかった。

 出された食事を、黙々と口に運ぶ。

 食べ方まで雑ではない。

 必要なものを、必要なだけ摂る。

 そこにも無駄がない。

 

 本来なら、笑ってもいい場面だった。

 少しくらい得意げになってもいい。

 リーノはそういう少年のはずだった。

 

 だが、笑顔はなかった。

 

 目が据わっている。

 

 何かを振り払うように。

 何かに追いつかれないように。

 そんな気配をまとったまま、リーノは次の修行に戻っていく。

 

 その姿を見送るたび、ウイングの胸のざわめきは強くなった。

 

 天空闘技場の外周を20周し終えたリーノが、足を止めた。

 荒い息を整えながら、まっすぐウイングを見る。

 

「タイムは?」

 

 ウイングは手元の記録を見た。

 数値を確認するまでもなかった。

 すでに頭に入っている。

 

「昨日と同じです」

 

 ほんのわずかな間があいた。

 

「そう」

 

 リーノはそれだけを言った。

 落胆を隠すでもなく、怒るでもなく、軽口を叩くでもなく。

 ただ力のない声で返し、そのまま休憩に入る。

 

 いつもなら違った。

 少しくらい文句を言う。

 胴着が重いとか、鬼師匠のせいだとか、何かしら騒ぐ。

 そういう男の子だった。

 

 だが今のリーノは、数字だけを受け取って沈黙する。

 

 ウイングは、胸の奥に小さく冷たいものが落ちるのを感じた。

 

 遠くでビスケがそのやり取りを見ていた。

 だが何も言わない。

 その沈黙が、かえってウイングを落ち着かなくさせた。

 

 ふと、2ヶ月前の光景がよみがえった。

 

 路地裏で陰獣に拉致され、荒野で黄金のオーラを奪われた直後のリーノ。

 あの時の彼は、見るのもつらいほど打ちひしがれていた。

 何もかも失ったような顔でうずくまり、絶望をそのまま形にしたような表情をしていた。

 

 あれから、2ヶ月が経っていた。

 

 リーノは強化系に目覚めた。

 フロアマスター級とまで言われるアシュラと渡り合えるところまで成長した。

 常識では考えられない成長速度だった。

 

 あの頃のリーノはもういない。

 とっくに乗り越えたはずだった。

 

 それなのに。

 

 今のリーノを見ていると、時折あの時の影がちらつく。

 

 顔つきが似ているわけではない。

 態度が同じなわけでもない。

 むしろ逆だ。

 今のほうがずっと強い。

 ずっと前を向いている。

 

 なのに、胸騒ぎが消えない。

 

 すべては順調なはずだった。

 試合日程も決まり、成長予測でも十分に間に合う。

 やるべきことも、進むべき道も明確だ。

 

 順調だ。

 順調すぎるほどに。

 

 それでもウイングの不安だけが、説明のつかないまま膨らみ続けていた。

 

 

 

 ◆  ◆

 

 

 

 それから1週間が過ぎた。

 

 リーノは毎日、欠かさず纏と練と堅を積み重ねた。

 走り込みも続けていた。

 食事管理も崩さなかった。

 手を抜いた日は1日もない。

 体調もいい。

 少なくとも、傍から見る限り不調の気配はどこにもなかった。

 

 ビスケは相変わらず何もしない。

 余計な励ましを入れることもなく、ただただ見ていた。

 

 そして、ウイングは再び数値を確認する。

 

 堅の持続時間。

 3時間。

 

 1週間前と変わらない。

 

 練の出力。

 変化なし。

 

 記録用紙の数字を追いながら、ウイングの呼吸が浅くなる。

 おかしい。

 そんなはずがない。

 

 この2週間弱、リーノはまるで成長していなかった。

 

 スランプではない。

 修行不足でもない。

 むしろ逆だった。

 

 リーノは絶好調だ。

 かつてないほどに、仕上がっている。

 

 それでも、止まっている。

 

 その事実だけで十分だった。

 

 ウイングはそれらのデータが形づくる推論をどうしても言葉にできなかった。

 だが、数字は容赦なくそれを裏付けているようだった。

 

 数字を見つめたまま、ウイングはしばらく動けなかった。

 

 何かの間違いではないか。

 ただのスランプなのではないか。

 明日には急激に伸びるかもしれない。

 今日もたまたまだったのかもしれない。

 

 そんな考えが、形にもならないまま頭の中を巡る。

 だが、それが意味を持たないことはウイング自身が一番よくわかっていた。

 

 その様子を見ていたビスケが、静かに口を開く。

 

「ウイング。なんでアンタは、気づいてないフリをしてるの?」

 

 ウイングの肩がわずかに震えた。

 

「アンタが一番最初に気づいてたんでしょう?」

 

 返す言葉が出ない。

 

 わかっていた。

 とっくに気づいていた。

 タイムが止まり、堅が伸びず、練の出力も変わらない。

 理屈では順調なはずなのに、感覚だけがずっと警鐘を鳴らしていた。

 

 でも、認めたくなかった。

 

 そんなことがあっていいはずがない。

 ようやくここまで来たのだ。

 ようやく、希望に手が届くところまで登ってきたのだ。

 

 またリーノが傷つくところなんて、見たくなかった。

 

「なんで、アンタがそんな苦しそうな顔してるのよ」

 

 ビスケの声は厳しかった。

 だが、突き放しはしなかった。

 

「そんな泣きそうな顔してるのよ」

 

 ウイングはふらつくように視線を上げた。

 先に、天空闘技場の店舗の窓ガラスがあった。

 

 映った顔は、ひどく青ざめていた。

 血の気が引き、目の奥だけが妙に暗い。

 まるで、自分のほうが試合に立たされる人間みたいだった。

 

 喉の奥が、焼けるように熱い。

 

 なぜだ。

 なぜ、あの子ばかり。

 

 2ヶ月前、すべてを失ったような顔でうずくまっている少年がいた。

 黄金のオーラを奪われ、希望ごと引き裂かれたような目をしていた。

 それでも立ち上がった。

 強化系という新しい道を見つけた。

 誰よりも速く伸びた。

 誰よりも高いところへ届けるはずだった。

 

 それなのに。

 

 なぜ、また試す?

 なぜ、あの子にだけ、こんな残酷な形で試練を与える?

 

 強化系の六性図。

 あれは希望だったはずだ。

 先へ行けるという証だったはずだ。

 だが今はちがう。

 希望が大きかった分だけ、絶望が深い。

 

 ウイングの手から紙が滑り落ちた。

 

 ひらりと床に落ちたプリントには、リーノの成長曲線が印刷されている。

 グラフは冷たかった。

 この二週間弱、ほとんど変化がない。

 堅の持続時間は3時間のまま。

 練の出力も伸びていない。

 

 不調ではない。

 スランプでもない。

 体調はいい。

 修行量も十分すぎる。

 むしろ、かつてないほど仕上がっている。

 

 それでも、止まっている。

 

 崩れ落ちそうになるウイングの背中を、ビスケが強く叩いた。

 

「しゃんとなさい。嘆くのが師匠じゃないわさ。導くのが師匠だわさ」

 

 ウイングは息を詰めた。

 

 ビスケは笑っていた。

 いつものように、軽く。

 だが、その笑みが本当に余裕から出たものなのか、ウイングにはわからなかった。

 

 その時、気配がした。

 

 視線を向けると、少し離れた場所にリーノがいた。

 

 ウイングは一瞬、言葉を失う。

 どこから見ていたのかはわからない。

 だが、この顔を見られたのだと思った。

 弟子を支えるはずの師匠が、弟子以上に苦しんでいる顔を。

 

 リーノはすぐには何も言わなかった。

 ただ、こちらを見ていた。

 

 その目に、さっきまでの張りつめた暗さはまだ残っていた。

 絶望が消えたわけではない。

 現実が軽くなったわけでもない。

 

 それでも、ほんのわずかに、リーノの口元がゆるむ。

 

 笑った、というほど明るいものではない。

 せいぜい、自分を見失わないための、かすかな緩みだった。

 だが、それで十分だった。

 

 ウイングはそこでようやく気づく。

 

 あの子は苦しい。

 それでも、自分だけの苦しみに沈んではいない。

 ウイングを見る余裕が、まだ残っている。

 

 黄金のオーラを失ったあの頃なら、こんな顔はできなかったはずだ。

 自分の絶望だけで、世界は埋まっていただろう。

 

 だが今はちがう。

 

 苦しみの真っただ中で、それでも誰かを見ることができる。

 自分の外へ、意識を向けることができる。

 

 その変化が、ウイングの胸を鋭く打った。

 

 成長は止まっているのかもしれない。

 最強への道は、ここで閉じているのかもしれない。

 だが、リーノは終わっていない。

 

 ウイングはゆっくり息を吸った。

 

 リーノはウイングたちに近づき、外周通路に落ちたプリントを拾った。

 

 ちらりとその内容に目を落とす。

 

 ほんの一瞬、リーノの目の奥に痛みがよぎったように見えた。

 

 だが、次に顔を上げた時、その視線は不思議なほど静かだった。

 

 苦しみを消し去った顔ではない。

 苦しみごと引き受け、それでも前に進むと決めた者の顔だった。

 

 リーノは黙ってプリントを差し出す。

 

 ウイングはそれを見つめた。

 

 その口元には、笑みと呼ぶにはあまりにも小さなやわらぎがあった。

 だがそれは、慰めでも虚勢でもない。

 自分の運命から目をそらさないという、静かな決意そのものだった。

 

 ウイングの指先はまだ震えていた。

 だが、もうリーノから視線を逸らさなかった。

 

 導かなければならない。

 

 リーノが、まだ前を向こうとしているのなら。

 たとえその先の道が細く、険しく、見えにくいものだったとしても。

 師匠である自分だけは、そこから目を背けてはならない。

 

 リーノはウイングたちに背を向けた。

 右拳を天に掲げる。

 そして、二本の指を開いた。

 

 それは軽薄な仕草ではなかった。

 慰めでも、虚勢でもない。

 折れていないという、静かな合図だった。

 

 そのままリーノは、また前へ走り出す。

 

 その背中を見ながら、ウイングもまた前を向いた。

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