月影《つきかげ》ひとつ差さぬ未明の空に、微かな星群が浮かび上がっている。
穏やかな夜だ。
しかし、その空の下――堅牢な防壁の内側は、静けさこそ保たれていたが張り詰めた緊張感で満ちていた。
兵溜まりにひしめき合う、押し殺された息遣い。
忙しなく揺れ、あるいは一箇所を凝視しているギラついた眼。
「中継より伝達!」
その時、壁上を軍靴が蹴立てる音が響き、ザ……ッと石組みに膝当てを突く音がした。
「頼む」
と、ひと言。
応えたのはその観測手より
「軍勢を確認! 距離二、〇〇〇! 旧街道を用いて進軍中とのこと!」
「数と兵装は?」
彼は落ち着き払って問い返し、赤褐色の瞳を外の暗闇へと向けた。
「およそ六、〇〇〇と推察。騎兵が半数を占めるとのこと。また、攻城兵器も複数基確認。それと……猟犬兜が率いている、と」
観測手の声に僅かな怒気が乗り、見えぬよう座していた壁上の兵士らも仄かに殺気を滲ませる。
「分かった。
が、アルクスは黎髪から覗く瞳を僅かに細めただけで、端的に訊ねた。
「一、〇〇〇を切れば可能です」
「なら頼む。あの
「承知致しました」
観測手が望遠鏡を手に旧街道――開削された山裾を覗く。
「すまない、下に伝令をやってくれ。『敵が来た。合図を待て』と」
アルクスはそれを横目に、じっと耳を凝らしていた兵の1人へ淀みなく命令を出した。
「はっ!」
急いておきながら、くぐもらせた軍靴が鳴る。
「野郎を泳がせた甲斐があったってもんだ」
そこで、さっぱりした声が上がった。
アルクスと共に居た同年代らしき5名のうちの1人――
引き締まった体躯に、胴具のみの軽装。アルクスを含めた6名のなかで最も長身。
「で? アル、指示は?」
と、彼は続けた。
軽い口調とは裏腹に、灰紫の瞳がアルクスにひたりと据えられている。
付き合いの長いアルクスには分かる。
彼は残り4名の仲間らを代表して、『踏み出しちまえば、もう後戻りできねえぞ』と、言っている。
「――」
刹那、沈黙。逡巡を滲ませ掛けるアルクスだったが、
「報告! 距離一、〇〇〇! もう直ぐ先陣が旧街道を抜けます!」
観測手の声を聞くや、奥歯を噛み締めて真正面から友と眼を合わせた。
そして「ああ」と、力強くひと言。
『分かってる』と、赤褐色の瞳に白刃の如き光を宿し、仲間達に頷く。
次いで、立て掛けていたふた振りの刀――鞘の
「指示を出すぞ」
と、振り返った。
鋭い眼光に、はたはたと靡く羽織から漂う
仲間達5名が銘々に背筋を伸ばして応じ、他の兵が息を呑む。
「俺とマルクが先行。敵陣に突っ込む。指揮官と重装備を優先。首を
「おう。任せろや」
と、応じた
真っ先に白目が消え、鼻っ面が突き出し、
同時に牙が鋭く伸び、黒と葡萄茶の体毛が全身を覆う。
人型と狼の
「ラウラは指揮。合図を出したら、砲術兵と一緒に上から撃ち下ろしてやれ。それと、俺達が突っ込んだら下の兵を門の前に。前線の維持、
と、淀みのないアルクスの指示。
すると、仲間内の1人――燃えるような
「分かりました!」
と、長杖のような剣をすらりと引き抜いた。
銀地に青い
「アルさんも、どうかお気をつけて」
僅かに琥珀瞳を憂えさせながらも、こくりと頷いた。
「うん。次、凛華」
「はいな」
と、次いで返事をしたのは、分厚く幅広い諸刃の大剣を担いだ二本角の美鬼。
真朱地の
太めな眉と勝ち気な青い瞳がアルクスに向く。
「凛華はこっちの砲火に紛れて、俺達に続いてくれ。一気に戦線を崩壊させる」
「少しズラして行けば良いのね?」
「ああ」
「了解よ」
「それと、いつも通り頼む」
「ええ、任せときなさいな」
と、尖った鬼牙を見せて薄く笑い、その白い肌に独特の紋様があしらわれていく。
次いで「エーラは」との声に反応したのは、ぴんとした森人の麗女。
濃い小麦色の肌に尖りのある長耳、乳白色を帯びた金の短髪をそよがせ、
「攻城兵器の狙撃、だね?」
左手に持った太めの弓を持ち上げる。
「ああ、撃たせる前に潰したい。出てきたら最優先で頼む」
「まっかせて! あ、その後は?」
「射角を変えて撹乱してくれ。狙いは馬脚と敵の目だ」
「りょーかい!」
ニッコリ、と敢えて普段通りに振る舞っているのだろう。
「それと、出だしは風を頼む」
「もっちろん!」
彼女の弾む動きに合わせて
途端、弓がぎゅるぎゅると尺を変えていき――……やがて
「最後は」とのアルクスの声。
「私だな」
それを引き取ったのは、騎士装束に身を包んでも尚、細身な麗人。
首元には提げた鉢金。後頭部で纏められた栗色髪。
左腕には武骨な騎士盾、腰に長剣。
「ソーニャ、
アルクスはたったひと言。
「ああ、任せてもらおう! アル殿達は安心して戦ってくれ」
それで充分、伝わったらしい。
彼女は
動き出す仲間達にひとつ頷いたアルクスが「翡翠」と、もう
「報告、敵の距離七〇〇! 切通しを突破! 先陣が速度を上げ――……っこ、後方で攻城兵器を横列に展開中!」
観測手の慌てた声。
断続的な蹄の音が
アルクスが外に眼を向ければ、旧街道が水蒸気で煙っており、時折不自然な銀光が反射していた。
「やっぱ連中、音を消すなんかを使ってやがったな」
鼻筋に
「砲術兵の皆さん、お静かに。私の合図で一斉に防壁から砲撃を開始します。伝令を一人、下へ。『指示通り、二回目の合図で開門。素早く展開せよ』と」
朱髪麗人が凛とした声を発し、
「アル殿とマルクが最前線に辿り着けるよう、準備を。二人が行ったら直ぐに構えるぞ」
騎士麗人が鼓舞して廻り、
「はっ!」
伝令を筆頭に兵らが動き出す。
「距離五〇〇!」
観測手の報告――は必要なかった。この暗闇の中でも、もう肉眼で補足できる。
続々と軍勢が駆けてきていた。
その時だ。
「ラウラ、合図を! マルク、先行してくれ! 俺も出る!」
アルクスが自身の紅い籠手の最終確認を終えるや、矢のような鋭い指示を飛ばした。
「はい!」
「了解だ!」
2人は即応。
朱髪麗人が剣を掲げ、防壁の真上へ真白い光を飛ばし、人狼青年がトォンっと石組みを蹴って猛獣の如く駆け出した。
「――!? ――!!」
遠くで猟犬兜率いる軍勢が何事か叫んでいる。
それらを聞き流したアルクスは、それまで大人しく防壁に留まっていた3本脚の大きな鴉へ、
「翡翠、ラウラ達の眼になってやってれ! 何かあれば直ぐに警告しろ!」
指示を出すや、距離を取っていた美鬼の方へ疾走。
「クカカッ、カァ――!」
もう1羽の仲間が空へ翔び立つのを横目に、
「凜華、よろしく!」
左の腰元――太刀と打刀の隙間に中指を突っ込みながらパッと跳躍。
「行ってぇ……来なさぁい!!」
直後、美鬼が
アルクスは強烈な
丁度、人狼青年も防壁を蹴り飛ばして、加速していた。
敵の軍勢は、突如として上がった閃光と飛び出してきた2つの影、そして防壁にずらっと並ぶ兵士に度肝を抜かれたのか、
「――! ――!!」
視線をどこに向ければ良いのかすら定まっていない。
次の瞬間、光を宿した赤褐色の瞳が背後へ。
「エーラ!!」
アルクスが仲間を呼んだ時には、
「行っくよー……!」
強弓に太い捻じれ矢を
最大限まで弦を引いた彼女は刹那――……制止。
カァン!
直後、甲高い
と、同時だ。
「よろしく!」
アルクスの纏う真紅の羽織が有機的に、ぎゅばあっと花開く。
そこへ吸い込まれる寸前、捻じれ矢が解け、放射状に四散。
「助かる!」
籠められていた森人からの贈り物――ひと塊の突風を真紅の羽織が掴む。
途端、失速しかけていたアルクスが急加速し、一気に敵陣へと吹き飛ばされる。
「――!? ――!」
「――!!」
未だ人数も準備も整わぬ猟犬兜率いる軍勢が何言か叫んだのも束の間。
蒼い炎の尾羽根を散らせたアルクスが無慈悲に墜ちていく――。