元宮チアキではなく、“元”チアキ 作:元宮チアキ以外の誰か
目覚めた瞬間、視界に広がるすべてが異質だった。
白い天井。見慣れぬ照明。布団の肌触りさえ、どこか他人のもののよう。
まるで他人の人生に迷い込んだような感覚が、背筋をひやりと撫でた。
ぼんやりと目を巡らせると、殺風景な部屋が目に映る。
隅に積まれた段ボール。壁に掛けられた見知らぬ制服。そして窓の外には、知らない街の風景が広がっていた。
――ここはどこだ?
目が覚めたら、知らない部屋だった。
いや、正確には『知らないやつがいきなり入ってきた』の方が正しいのかもしれない。
「元宮……チアキねぇ……」
壁にかかっていた制服の胸元に取り付けられた名札に視線を落とし、私はぽつりと呟いた。口にした名前は、見覚えがあった。見覚え――いや、聞き覚えか。
元宮チアキ
『ブルーアーカイブ』に登場するキャラクターの一人。
それ以外は、何も知らない。
――まあ、言ってしまえばまだマイナーな生徒だ。
ゲームを最近始めたばかりの私には、彼女の詳細な設定も背景も、正直あまり印象に残っていなかった。長らく存在だけは仄めかされていて名前も声も知らないという状況が続いていたのだがついに……という感じらしい。
ストーリー上の「役職」はそこそこ重要かもしれないが、元宮チアキという「個人」は、正直、そんなに目立つポジションにはいなかった。だから、たぶん、原作通りに目立たず、波風立てずに日常をなぞっていけば問題ないはずだ。
原作の決定的なフラグさえ叩き折らなければ。
「……明るく、元気に、チアキっぽく振る舞っていれば……なんとかなる、かな」
そんな独り言が自然に漏れた。自分を納得させるように。
明るく、元気に元宮チアキっぽく振る舞っておけば原作ストーリーは進むに違いない。つまらないと言われるかもしれないが、ストーリーを変えるつもりはない。
というか、ストーリーを変えられるほどの知識も熱意もなかった。そもそも、私自身、ブルアカをやり込んでいたわけでもなかったし。
元宮チアキの名前を覚えていたのは、偶然の産物だ。直近のイベントで取り上げられていなければ、思い出すことさえできなかっただろう。
「――どうせなら、イロハとかが良かったなぁ」
思わず、口をついて出たのは、もう一人の『万魔殿』メンバーの名前だった。あるいは、個人的にそれなりの思い入れがある「鰐渕アカリ」でもよかった。彼女の属する美食研究会の、あのゆるやかな空気感の中でなら、もう少し気楽に過ごせたかもしれないのに。
だが、今さら何を言っても遅い。『私』は、『元宮チアキ』なのだ。
別に望んでいなかったとしても、こうなってしまったからにはできることをやるだけだ。
昔からそうだった。委員長を押しつけられたときも、流れに任せて引き受けてしまう──そんな自分が、今も変わっていない。
机の上で充電されていたスマートフォンを手に取る。新品同様の画面に表示されたカレンダーには、『入学式』の文字が踊っていた。
日付も時間も、「始まりの日」を示している。
急がなければ。
でも、それは私にとって幸運でもあった。
入学式――それは、誰もが一度ゼロに戻る日だ。新たな関係が生まれ、過去の「積み上げ」は薄れていく。すなわち、元宮チアキが積み上げてきた人間関係もまた、今日からリセットされる。
つまり、多少私が「チアキらしく」なかったとしても、言い訳ができる。
「……とはいえ、一応性格の確認くらいはしておくか……」
イベントストーリーだけでは心許ない。
元宮チアキの人柄を、もう少し理解しておく必要がある。
ふと視界に入ったのは、机の上に置かれた花柄の日記帳だった。
手帳サイズの表紙には『Diary』の文字。
ちょうどいい、日記ならチアキの内面がよく分かるに違いない。
少し躊躇いながらも、私はそれを開いた。
○月△日
いよいよ明日から私も高校生!!
しかも、ついに!念願のゲヘナ学園の生徒です!!
今日は朝からずーっとドキドキが止まりませんでした!
胸がバクバクして、もう苦しいくらい!!
しかも、まだ入学もしてないのに、親切な先輩方にごはんまでご馳走になって、おすすめのお店も教えてもらって……!!
ほんとに優しくて、絶対に入学したらちゃんとお礼言わなきゃ!!
ああもう、全部が楽しみすぎてどうしよう~~!!!
どんな友達ができるかな?どんな授業?部活はどうしよう!?
寮生活もワクワクだし、考えるだけでニヤニヤしちゃって、たぶん今日は一睡もできないかも!!!!!!
ああああ~!早く明日になってほしいーーー!!!
でもこれ以上書いてたら本当に寝れなくなりそう!まだまだ書きたいことあるけど、今日はここで終わり!
「……………………」
――ああ、そうか。
完全に、理解した。
私は、どこかで楽しんでいたのだ。この異常な状況を。
現実味のないまま、ゲームの中の世界に来たことで高揚感に浮かされていた。フィクションの世界であれば、好き勝手に振る舞ってもいいと、どこかで軽く考えていたのだ。
でも違う。
この世界には、確かに息づく「明日」があった。
元宮チアキの、過去があった。思い出があった。誰かにとって大切な「存在」だった。
そして、私はその明日を――
「……私が奪ってしまったんだ」
日記に綴られていたのは、小さな希望と不安だった。新しい学校に馴染めるだろうか。友達はできるだろうか。週刊万魔殿をもっと面白くできるだろうか。そんな、ごく当たり前で、けれど大切な「誰かの人生」。
私は、それを何の前触れもなく踏みつけてしまったのだ。
元宮チアキは、『未実装のキャラクター』なんかじゃあない。
このキヴォトスで生きる『一人の生徒』であり、データの羅列ではなく、そこに生きる『生命』なのだ。
いや、チアキだけではない。
道行く見知らぬ市民も、鳥も、虫も、目に見えぬ微細な生物に至るまで、そのすべてがデータや背景情報としてではなく、確かに現実として存在しているのだ。
それを実感してしまった瞬間、 『罪の重さ』を実感して『私』は立てなくなってしまった。動悸が激しい、視界が揺れる。
チアキは、死んだ。
私のせいで。
何が、『イロハとかだったらなぁ』だ。
生徒一人の未来を永遠に奪っておいて、それで『他の生徒が良かった』とは傲慢がすぎるだろう。
このままだと『元宮チアキ』は消えてしまう。
もうこのキヴォトスには『元宮チアキ』は存在せず、『私』がいるだけなのだ。
だからせめて──
せめて、私が元宮チアキになる。
「らしく」ではなく、彼女として生きる。
彼女が迎えるはずだった『明日』を、彼女として過ごす。
それが、私にできる唯一の償いだと信じて。