瞬く間に恐怖が広がった。
事件から一夜が明けた朝食の席では、ハグリッドがアズカバンに連行されたこと、そしてダンブルドアが停職になったことがマクゴナガル教授の口から告げられ、生徒達はパニックになった。ただ1人、ロックハート教授だけは犯人が捕まったのだから安心だと考えているようだったけれど、多くの生徒はあのハグリッドが継承者だとは信じていなかった。教授達もそうなのだろう。授業の間の移動やトイレに立つことさえも、教授の引率がつくことになったのがその証拠だ。
外には美しい花々が咲き誇り、春らしい穏やかな空気に包まれているのに、城の中は再び冬に逆戻りしてしまったようだった。ただでさえ試験前だからと寮や図書室にひきこもりがちだった生徒達が更に外出を控えるようになったので、廊下はいつも人気がなく閑散としていた。授業や食事のために仕方がなく寮の外へ出なければいけないときは、皆ぴったりと身を寄せ合い、表情を強張らせていた。今度は一体誰が襲われるのかと、不安げに噂する。マグル生まれの1年生の中には、寮の部屋から出たくないと泣き出してしまった子も居たくらいだ。誰もがもう事件は収束したと安心していた反動か、張り詰めた空気はクリスマスの前の恐慌状態よりも輪をかけてひどいように思えた。レイチェルは未だかつて、こんなホグワーツを見たことがない。ホグワーツはいつだって、楽しげな笑顔と賑やかな話し声の溢れる場所だったはずだったはずなのに。ダンブルドア校長の居ないホグワーツなんて、想像さえしたことがなかった。
胸の奥底に無理矢理押し込めたはずの恐怖が、不安が、また浮かび上がってくる。壁際に書かれた赤い文字。穢れた血と叫んだドラコ。魔法省でのルシウス・マルフォイの嘲笑。自分は純血主義なんじゃないかと言う疑念。ハーマイオニーとの喧嘩。そして、石にされたペネロピーとハーマイオニー。そもそも、継承者とは一体誰なのか。
色々なことが胸に引っかかっているせいで、ここのところのレイチェルの授業での成果は散々だった。新しく習うことどころか、もう習得したはずの呪文さえうまくいかない。呪文学では何度杖を振っても教科書を呼び寄せられなかったし、得意なはずの変身術でも、フルートになるはずのヒバリはいつまで経っても籠の中でピイピイ囀るばかりだった。そんなレイチェルに対して、教授達は勉強不足だと叱ることもなく、ただ気遣わしげに眉を下げるのだった。
「魔法は使う者の精神状態に大きく左右されますからね」
火曜日の変身術の授業の後に、「必要ならばマダム・ポンフリーに頼んで元気爆発薬を処方することもできる」とマクゴナガル教授に提案された。けれど、レイチェルはその申し出を断った。試験までずっと薬を飲み続けるわけにもいかないし、薬や呪文で無理に気分を向上させたとしても、効果が切れてしまえば同じだ。それに薬の効力で現実から目を逸らすのは、逃避しているだけにも思えた。とは言え、レイチェルの顔色と目の下の隈を心配したマクゴナガル教授に半ば強制されて、睡眠薬だけは処方してもらうことになってしまった。ここのところ、ベッドの中で瞼を閉じると、石になった2人の姿が浮かんできて、よく眠れていなかった。
「ミス・グラント。授業が終わったら教室に残りたまえ」
数ある教科の中でも、とびきり集中力と正確さを求められるのが魔法薬学だ。つまりその分、レイチェルの今のぐらついた精神状態がより顕著に結果に現れる。大鍋の底に穴を空けてしまった────自分の名誉のために弁解しておくと入学以来初めてだ────レイチェルは、当然スネイプ教授の不興を買うことになった。次の薬草学の授業へとスプラウト教授が同級生達を引率していく中で、1人だけ教室に残されるのは、自分のミスが招いたこととは言えたまらなく恥ずかしかった。同級生の好奇の視線を避けるように、レイチェルはその足音が遠ざかるまでじっと冷たい石の床を見つめていた。
「事情はマクゴナガル教授から聞いている」
レイチェルはその言葉に驚いて目を見開いた。ここのところ、他の教授達がレイチェルを腫れ物に触るように扱うのに対して、スネイプ教授は全くいつも通りだったので、てっきりスネイプ教授は知らされていないのかと思っていた。もしくは、興味がないのかと。スネイプ教授も知っていた。────瞬間、またあの光景がフラッシュバックする。指先に触れたハーマイオニーの冷たい頬。虚空を見つめたままのペネロピーの瞳。レイチェルはギュッとスカートを握り締めた。
「だが、どのような理由があれ、我輩の授業で集中を欠くことは許さん」
トントンと、長い指が教卓を叩く。苛立ちを滲ませたその声に、レイチェルはハッと意識を引き戻された。こうしてすぐ思考を引きずられてしまうから、今こんな事態を引き起こしているのだ。レイチェルは唇を噛みしめた。
「はい……すみません、教授」
スネイプ教授の言葉は、ただの意地悪から来るものじゃない。学年が上がるにつれて、扱う魔法薬はどんどん複雑になって、材料だって危険なものを扱っている。たった一瞬の気の緩みが、とてつもなく大きな事故に繋がるのだ。レイチェルにだって、わかっているはずだった。
「どうしても集中できないと言うのならば、特例として欠席を認めよう。だが、授業に参加するのならば我輩は贔屓はせん」
「いえ。参加します……! 参加、させてください……」
魔法薬学の授業に参加できないなんて嫌だ。それに、レイチェルが授業を欠席したところでハーマイオニーやペネロピーが元に戻るわけじゃない。むしろ自分は2人の分まで、授業を受けなければいけないのに。そう考えて、また胃のあたりが落ち込んだ。何を考えていても、結局思考はここへ戻って来てしまう。
「『自分が居れば、クリアウォーターやグレンジャーを救えたかもしれない』。大方、悩みはそんなところだろう」
くだらん、と鼻を鳴らすスネイプ教授が、レイチェルには理解できなかった。確かに、スネイプ教授は純血主義の生徒が多く所属するスリザリンの寮監だ。そして、自寮の生徒を贔屓する傾向もある。けれど、ダンブルドアが選んだホグワーツの教員だ。だから、きっと教授自身は純血主義者ではないと────そうであってほしいと、願っていた。信じられないと教授の顔を見返すレイチェルに、スネイプ教授は気だるげに溜息を吐いた。
「君は、あの廊下に継承者が現れると前もって知っていたのかね?」
「……いいえ」
レイチェルは静かに首を横に振った。どうして教授は、そんなわかりきったことを聞くのだろう。レイチェルが知っていたはずがない。知っていたら、絶対に2人を行かせたりしなかった。それができなかったから、今こうやって悩んでいるのに。眉を寄せたレイチェルを見て、スネイプ教授は嘲るように口端を上げた。
「それとも、君が一緒に居れば、素晴らしい魔法の腕で継承者を撃退できたとでも?」
「…………いいえ」
「ならば、そんな風に驕らぬことだ」
レイチェルはようやく、教授の意図を理解できた。レイチェルが居れば必ず2人が助かっていたわけじゃない。レイチェルも一緒に石にされただけだったかもしれない。それなのにどうして自分のせいだと考えるのかと────スネイプ教授は、そう言いたいのだろう。
「話は終わりだ。薬草学の授業に遅れる。ついて来たまえ」
黒いローブが翻り、レイチェルの前を進む。レイチェルは何か言いたい衝動に駆られたけれど、言葉として発することはなかった。自分でも何を言いたいのかわからなかったからだ。そして、相手は教授だから。せり上がって来る声を喉の奥に押し込めて、ただその後ろを付いていく。廊下を歩く間、レイチェルもスネイプ教授も無言だった。
────驕り。そうなのだろうか。2人を助けられたかもしれないと後悔するのは、レイチェルの思い上がりなのだろうか。だとしても、「自分が居たところでどうせ助からなかったのだから仕方ない」なんて、そんな風には思えないし、思いたくもない。
「……ありがとうございました、教授」
ようやく薬草学の温室に辿りついたときには、とっくに予鈴は鳴った後だった。もう授業は始まってしまっているだろう。そう考えると、また一つ憂鬱が増えた。後で、エリザベスにノートを見せてもらわなくちゃ。
「ミス・グラント」
錆びかけたドアノブへと手をかけたとき、静かな声が背中を追い掛けてきた。呼ばれた名前に、肩越しに振り返る。少し離れたところに立つスネイプ教授の黒い瞳が、レイチェルを見ていた。その目に浮かんでいる感情の名前が、レイチェルにはよくわからなかった。無感情なようにも見えたし、ほんの少し憐憫が含まれているようにも見えた。
「救えたかもしれないなどと言うのは、救える力を持つ者の言葉だ」
そうかもしれない。
けれどレイチェルには、そんな風に割り切れない。
どんなに異常な状況だって、時計の針は逆回転を始めたりしない。試験は近づいているのだから、勉強をしなければいけない。多くの生徒は人の多い大広間か、談話室で勉強することを望んでいたけれど、レイチェルはそうしなかった。周囲に人が居た方が安全だとわかっている。でも、どうしようもなく1人になりたい。1人にしてほしい。けれど、今のホグワーツでそれは許されない。レイチェルは仕方なく図書室へ向かい、中でも日の当たらない、人気のない席を選んでいた。ちょっと前まで試験勉強をする生徒で一杯だった図書室は、人気がなく閑散としている。わずかなおしゃべりすらもなく、肌に刺さるくらいの静寂を保っていた。にも関わらず、どんなに集中しようと努力しても、文字は黒々と浮いて見えるだけで、内容はちっとも頭に入って来ない。こんな風じゃダメなのに。苛立ちに羽根ペンの先を潰したとき、誰かが近づいてくる気配がした。
「レイチェル」
名前を呼ぶその声と響きだけで、レイチェルは顔を見なくても相手が誰なのかわかってしまった。ささくれだっていた気持ちが、ほんの少しだけ穏やかさを取り戻す。声だけで安心してしまう自分が居た。けれど今は、嬉しくない。会いたくなかった。
「……セド」
そこには予想通り、真剣な表情のセドリックが立っていた。1人なのだろうか。だとしたら、レイチェルを探しに来たのかもしれない。偶然なのか、レイチェルがここに居たことを知っていたのか。そんな疑問が浮かんできたけれど、口に出すことはしなかった。
「セドも本を探しに来たの? 呪文学のレポートに使えそうな本なら、あの辺りにあったわ」
レイチェルは、できるだけ何でもない口調を心がけた。椅子から立ち上がって、本棚の間へと進む。できるならセドリックと今は会いたくなかったし、じっくり話をすることは避けたい。長く話せば話すほど、ボロが出てしまうだろう。本棚の迷路へと逃げ込もうとしたレイチェルの肩を、セドリックが掴んだ。
「一体何があったんだい?」
セドリックが気遣わしげな表情でレイチェルの顔を見つめる。自分でもらしくないと思うことばかり連発しているのだから、セドリックの目から見れば様子がおかしいの明らかだろう。自分のことには鈍感なくせに、セドリックは他人の変化には敏感だから。レイチェルは無理矢理笑みを浮かべた。
「……友達と、仲の良い上級生が襲われたんだもの。いつも通りなんて無理よ。セドの目に、私、そんなに冷たい人間に見える?」
「違うよ。……勿論、それもショックだったのはわかるよ。けど、それだけじゃない。何か、隠してる」
確信を持ったその口調に、思わず怯みそうになる。
ペネロピーとハーマイオニーを見つけたのが自分だとは、誰にも打ち明けていなかった。親友のパメラやエリザベスにさえも。言わない方がいいと、フリットウィック教授にも忠告されたからだ。皆、好奇心と不安でいっぱいで、石になった2人がどんな様子だったか聞きたがるだろうからと。
レイチェル自身、悪気はないとわかっていても、あれこれ詮索されるのも、その度にあの時のことを思い出すのも、そして大事な友達があんな風になってしまったのが噂話の種になるのも嫌だった。いくらパメラやエリザベスが口が堅くても、秘密と言うのはどうしてかどこかから漏れてしまうものだから。
それに、不安だった。レイチェルが2人を見つけたと言う噂が広がって、犯人だと疑われてしまったらどうしようと。ジャスティン・フィンチ=フレッチリーやほとんど首なしニックが襲われたとき、その場に居たハリー・ポッターが疑われた。第一発見者が怪しいと考えるのはごく自然なことだ。パメラやエリザベスなら、きっとレイチェルを疑ったりしない。けれど、レイチェルと親しくない生徒達はどうだろう。今度はレイチェルが継承者に仕立て上げられてしまうかもしれない。それも怖かった。だから誰にも言わないと、そう決めた。
「レイチェル。僕は開心術者じゃない。言ってくれなくちゃ、わからないよ」
「……わからなくて、いいもの。セドには、関係ないでしょう」
言えないわけじゃない。言わないのだ。黙っているのだから、聞き出そうとしないでほしい。そんな身勝手なことを考えたけれど、逆の立場だったらレイチェルだってきっと聞くだろう。心配してくれるセドリックに対してこんな言葉を口にするのは気が引けたけれど、わざとそうした。そうでもしなければ、引き下がってくれないだろうと思ったから。突き放すようなレイチェルの口調に、セドリックはふいに足を止めて俯いた。
「僕じゃ頼りにならない?」
ぽつりと漏れた呟きが、レイチェルの鼓膜を震わせた。透き通った灰色の瞳が、悲しげに揺れる。罪悪感が胸を締めつけた。「そうだ」と肯定すれば、セドリックはこれ以上何も聞かないだろう。けれど、反射的に言葉が口を飛び出していた。
「違うわ!……違う、けど……」
そんなはずはない。そんなこと、あるはずがない。セドリックのことは、誰よりも信用している。レイチェルが打ち明けた秘密をセドリックが誰かに言いふらすかもしれないとか、セドリックがレイチェルを犯人だって疑うかもしれないとか、そんなこと考えもしなかった。けれど。
「ダメなの。ダメ……。だって……だって、セドは……」
視線がゆるゆると下がって行く。セドリックの目が見れない。今視線を合わせたら、きっと言ってしまう。言ってしまいたくなる。耐えられなくなってしまう。そんなのはダメだ。セドリックには言えない。言ってはいけない。
「レイチェル」
じり、と1歩後ずさる。今すぐこの場から逃げ出したかった。柔らかなテノールが、穏やかな響きでレイチェルの名前を紡ぐ。ずるい、と思った。今、そんな風に優しい声を出すのはずるい。そんな、優しい顔で、レイチェルを見つめるのは、ずるい。
「…………私なの」
「え?」
とうとう、耐えきれなかった。小さく唇から零れた言葉は、セドリックの耳には届かなかったかもしれない。喉までせり上がってきてしまった言葉を、吐き出した。
「石になった2人を見つけたの……それに、ハーマイオニーと…………ペニーと最後に話したのも、私なの。2人が襲われる、たった……たった、5分前にね」
声が震える。涙が滲んで、視界が歪んだ。「クィディッチは見に行かないの」とレイチェルを心配したペネロピーの顔が浮かぶ。「また今度ね」と眉を下げたハーマイオニーの背中が遠ざかって行く。手を伸ばせば、届くかもしれなかった。きっと、届いていた。
「私が、2人と一緒に居たら……ううん、あの時、2人をあとほんの少し引き留めてたら……ハーマイオニーもペニーも、襲われなかったかもしれな……」
その先の言葉を口にすることはできなかった。セドリックがレイチェルの腕を引いて、自分のローブの中へと閉じ込めたからだ。驚いてセドリックの顔を見上げると、ひどく痛そうな、何かを耐えるような、そんな表情をしていた。けれど、紡がれた言葉はそんな表情とは裏腹に、はっきりとした口調だった。
「レイチェルのせいじゃないよ」
瞼の上で留めていた雫が一粒、頬へと伝った。
セドリックの言葉は魔法に似ている。セドリックがいい子だと言ってくれればレイチェルもいい子になれる。セドリックの手にかかれば、世界はこの上もなく美しいものに思えてくる。
怖かった。2人が石になったときの様子を、あれこれ聞かれることが怖かった。レイチェルが2人を襲ったんじゃないかと、疑われることが怖かった。そして、レイチェルのせいで2人は石になったのだと、そう言われることが怖かった。自分でもそうじゃないかと疑っているからこそ、怖かった。だから、パメラにもエリザベスにも言えなかった。けれど、セドリックに言えなかった理由は違う。
「絶対、レイチェルのせいじゃない」
────こうなることが、わかっていたからだ。セドリックは絶対に、石になった2人がどうだったかなんて詮索したりしない。セドリックは絶対に、レイチェルを疑わない。セドリックは絶対に、レイチェルのせいだなんて言わない。そう、わかっていた。
「……だから、ダメだって言ったのに……」
泣きたくなんてないのに。泣く資格なんてないのに。涙が後から後から溢れて来て、止まらない。ここには、セドリックとレイチェル以外誰も居ない。誰も見ていない。優しい幼馴染が世界のすべてからレイチェルを隠してくれるから、そのローブに顔を埋めて、声を殺して泣いた。セドリックはただ黙って、レイチェルの背中を撫でてくれた。
責められるのは怖い。けれど、責めてほしい。レイチェルが何も悪くないなんて、そんなはずないから。許さないでほしい。許されるべきじゃない。レイチェルは自分を許せないから。
慰めないでほしい。手を差し伸べないでほしい。縋りたくなってしまうから。セドリックは優しいから────誰よりも、優しいから。だから、レイチェルを責めない。レイチェルを許してくれる。セドリックは、レイチェルを慰めて、手を差し伸べてくれる。だから、言いたくなかった。
誰かの優しさを拒絶して1人で立っていられるほど、今のレイチェルは強くないから。