1人で立つことと、誰かに隣で手を引いてもらうこと。1人で重い荷物を背負うことと、誰かにそれを支えてもらうこと。1人で秘密を抱えることと、誰かに分かち合ってもらうこと。どちらが難しいかなんて、小さな子供にだってわかることだ。
その優しい「誰か」が側に居てくれたおかげで、レイチェルは少しずつ日常へと戻ることができた。呪文はまだ効果がいまひとつなものの、授業に置いてきぼりにならない程度には使えるようになってきたし、一昨日の魔法薬学でも大きな失敗はなかった。たとえもし、明日の朝レイチェルが二人を発見したと言う噂が広まって継承者だと疑われたとしても、セドリックはレイチェルを信じてくれる。そう考えると、随分と気持ちが軽くなった。
「どうしてもっと早く仲直りできなかったんだろうって、考えるの」
最近のレイチェルの放課後は、セドリックと2人でマグル学の教室で過ごすことが多かった。そこで本を読んだり、レポートを書いたり、話をしたりする。滅多なことでは誰も来ないし、誰にも聞かれない。奇妙なマグルの道具で溢れた小さな教室が、レイチェルにとっての告解部屋だった。
「どうして……あんなにぶつかってしまったんだろうって」
本当はもっと、早く仲直りしたかった。早く元通り、一緒に勉強したりしたかった。謝りたかった。そうしようとした。けれど、ハーマイオニーの顔を見たら、またカッとなって反発してしまって────頭を冷やそうと距離を置くうちに、こんなことになってしまった。
「たぶん、拗ねてたんだわ。ハーマイオニーにとって、私よりハリー・ポッターとの冒険の方が大事なんだろうって……心配してるのに、どうしてわかってくれないのって……きっと、そんなことないのに。勝手にそう思い込んでた」
ハーマイオニーが危険なことをするときは、いつも仲良しのハリー・ポッターと一緒。目的も理由も、レイチェルには何もかも秘密。それが悔しくて、寂しかった。レイチェルは何も知らなくて、ハーマイオニーが無茶をしていたことだけ後から聞かされる。レイチェルが呑気に日常を過ごしていた間に、ハーマイオニーが危険な目に遭っていたことを。相談してくれれば何かできたのに、とは思わないけれど────たぶん、レイチェルには何もできなかっただろう────自分はハーマイオニーにとって何なのだろう。そんな風に、胸の中で鬱積していた感情が確かにあった。
「私、ハーマイオニーに酷いことをたくさん言ったわ」
ハーマイオニーの親友のハリー・ポッター。レイチェルの大嫌いなハリー・ポッター。もう危険なことはしないと約束したはずなのに、ハーマイオニーは守ってくれなかった。それは、たぶん、彼のせいで。わかっていたから、妬ましかった。レイチェルよりも、ハリー・ポッターの方が大切だと言われた気がして。喧嘩の理由は、元を正せばきっと、そんなあまりに子供じみた感情だった。
「許してくれたか分からないけど……意地を張らずに、ちゃんと謝るべきだった」
ごめんなさいと、ただ一言。ちゃんと、伝えられていたら。そのたった一言さえ言えたなら、ハーマイオニーならきっと許してくれただろう。それはただのレイチェルの希望的観測かもしれないけれど、そんな気がした。ハーマイオニーはとても聡明で────とても、優しいから。
「もしもあのとき、喧嘩してなかったら……そうしたらきっと、躊躇わずに声をかけられたのに」
あと10秒早く、ハーマイオニーを呼び止めていれば。ハーマイオニーは継承者と鉢合わせずに済んだだろう。今頃は図書室の隅で本を積み上げて、試験勉強に忙しくしていただろう。医務室の冷たいシーツの上なんかじゃなく。
「それでも……レイチェルのせいじゃない」
「ありがとう、セド」
セドリックが心配そうに顔を曇らせたので、レイチェルは安心させるように微笑んだ。セドリックが思っているよりは、レイチェルはたぶん大丈夫だ。不安も、後悔も、隣で聞いてくれる誰かが居るだけでずっとずっと楽になる。
深刻な空気を崩すようにレイチェルは一度伸びをした。後ろへと体重を預けると、椅子の足が宙に浮いて、斜めに傾いた。
「セドはウィゼンガモットの評議員にはなれないわね」
「どうして?」
「セドが判断したら、法廷から悪人が一人も居なくなっちゃうもの。10年もしないうちに、アズカバンが空っぽになりそう」
クスクス笑ってみせると、セドリックが困ったように眉を下げる。レイチェルは視線を外して、窓の外を見た。勉強もスポーツも何でもできるセドリックにとって唯一苦手なことがあるとすれば、それはきっと誰かを責めることだ。セドリックは人の欠点よりも美点に目を向けるし、誰かを嫌ったり悪口を言うことはほとんどない。
レイチェルのせいで2人が石になったわけじゃない。セドリックが辛抱強くそう繰り返してくれたおかげで、レイチェルも段々そう考えられるようになった。けれど、ほんの少し何かが違っていれば2人は石にならずに済んだんじゃないかと言う思いは未だ消えないままだった。言いようのない罪悪感も、不安も、胸の中を渦巻いている。レイチェルが何も悪くないなんて、そんなはずはなかった。
だから、今はただ、何よりも────ハーマイオニーに、謝りたかった。
面会謝絶の医務室にも、たった1つだけ入る方法がある。自分が患者になることだ。
「事件のショックの不眠」が原因でマダム・ポンフリーの睡眠薬の世話になっていたレイチェルにとって、その条件は大して難しくはなかった。レイチェルの顔を見るなりマダムは待っていましたとばかりに腕を掴んで医務室の中へと引きずり込んだ。けれど、問題はここからだ。
「マダム。あの……」
「ああ、ミス・グラント。少し留守番をしていてもらえますか。スプラウト教授に呼ばれていて……ミス・グラント?」
「えっ?……ええ。勿論です」
正直にハーマイオニーに会わせてほしいと頼んでも、断られてしまうかもしれない。それどころか、最悪医務室を追い出されてしまう可能性さえある。一体どうやってマダムの目を誤魔化すか頭を悩ませていたレイチェルにとって、マダム・ポンフリーの申し出は願ってもないものだった。唐突に降ってわいた幸運が信じられなかったけれど、マダムはレイチェルがゴブレットの中身を飲み干したのを見届けると、言葉通りさっさと医務室を出て行ってしまった。足音が廊下の端へと遠ざかって行くのを確かめて、レイチェルはベッドを囲むカーテンをそっと開けた。
「……ハーマイオニー。久しぶりね」
ベッド脇に置かれた椅子へと座り、レイチェルはベッドに横たわる友人に小声でそう話しかけた。勿論、返事なんてあるわけがない。ハーマイオニーの姿は、最後に見た時と何一つ変わっていなかった。褐色の瞳は見開かれたままで、レイチェルのことも、医務室の天井も、何も映さない。何も聞こえていない。わかっていたけれど、何となくそうしたかった。そうすることで意味があるような気がしたからだ。
「……あなたに会えなくて、寂しかった。……すごく、寂しかったわ」
ハーマイオニーが何も言わないとわかっているからか、いつもより自分の気持ちを素直に口に出せるような気がした。そうだ。レイチェルは、ハーマイオニーが居なくて寂しかった。石になったからじゃない。喧嘩してしまったあの日から、ずっと。ハーマイオニーと一緒に勉強をしたり、他愛もない話で笑い合ったり、そう言う当たり前だと思っていたことが日常から抜け落ちてしまって、どうしようもなく寂しかった。心にぽっかりと穴が空いてしまったみたいに。
「あなたも、そう思ってくれてたって……そう思ってもいい?」
柔らかな栗色の髪を、そっと梳く。いつか、ジョージが言っていた。ハーマイオニーもレイチェルと喧嘩して寂しいみたいだ、と。それが本当なのかなんて、ハーマイオニー本人にしかわからない。けれど、そうならいいなと思った。レイチェルにとって、ハーマイオニーは大事な友達だった。ハーマイオニーが居ないと寂しかった。もっと早く素直になるべきだった。こんな風に、ハーマイオニーが石になってしまう前に。
またも暗く翳る気持ちを振り払うように、レイチェルは小さく首を振った。
「……今のホグワーツはね、何もかもおかしくなっちゃったみたい」
白く切り取られた医務室は、管理者であるマダム・ポンフリーが席を外している今は、レイチェルと石になった犠牲者以外誰も居ない。レイチェルが何を言っても、誰にも聞こえない。そう安心すると、心の中で渦巻いていたものが勝手に流れ出てくるようだった。今のホグワーツでは、誰もが継承者や事件への恐怖を素直に口に出すことを躊躇っている。今のホグワーツはおかしい。事件はエスカレートするばかりなのに、ちっとも継承者の手掛かりがない。もしかしたら、次の犠牲者は死んでしまうかもしれない。わかっているけれど、皆言えない。言ったところで何かが解決するわけじゃない。それどころか、自分が吐き出した言葉が、また誰かを不安にさせてしまうから。
「ダンブルドアの後任は、まだ決まらないんですって。今は一、マクゴナガル教授が代理をやってるけど……当然よね。今のイギリスに、あの人より偉大な魔法使いなんて居ないもの」
スネイプ教授が次の校長に、なんて話をスリザリン生達が話しているのを聞いたけれど、どこまでが確かな情報なのか、レイチェルにはさっぱりだ。ダンブルドア以外が校長になるなんてレイチェルには考えられないし、ダンブルドアですら止められなかった継承者が、他の魔法使いに止められるのだろうか?その正体も、どうやって犠牲者を襲ったかも、何もかもまだわからないのに。
「ねえ、ハーマイオニー。もしかして貴方は知ってたの? 継承者が一体誰なのか」
じっとハーマイオニーの顔を見つめる。肯定も否定も、返って来るはずがない。けれど、今となってはもしかしたら、そうだったのかもしれないと思いはじめていた。
ハーマイオニーは闇雲に事件に首を突っ込んでいたわけでも、まして犯人探しを面白がっていたわけでもない。きっと何か、継承者か、事件に関連する手掛かりを知っていたのだ。確信はないけれど、そんな気がした。少なくとも、まやかしの平穏を信じ込んで目を逸らしていたレイチェルよりは、ずっと真実に近い場所に居たのだろう。
「ごめんなさい」
謝りたいことが、あまりにもたくさんありすぎる。
ポリジュースがどうして必要だったのか、理由も聞かずに責めてしまったこと。いくら嫌いな人間だからと言って、仲良しのハーマイオニーの前でハリー・ポッターを悪く言ってしまったこと。頭に血が上って、意地の悪い言い方をしてしまったこと。ハーマイオニーが意味もなく規則破りをするはずがないことくらい、わかっていたはずなのに。ハリー・ポッターがハーマイオニーにとって大切な友達だと、知っていたのに。他に、もっと違う言い方はあったはずなのに。胸に溢れてくるのは、後悔ばかりだ。
「ごめんなさい」
膝の上で握り締めた手の甲に、ぽたりと雫が落ちた。
ハーマイオニーが正しかった。レイチェルが間違っていた。継承者の横暴に、ハーマイオニーのように憤るべきだった。何もせずただ耐えろなんて、言ってはいけなかった。だから、こんなことになってしまった。
コリン・クリービーも、ジャスティン・フィンチ=フレッチリーも、誰かにとってのペネロピーで、誰かにとってのハーマイオニーだったのに。手遅れになって初めて理解するなんて、何て馬鹿なんだろう。
「ごめんなさい」
あとほんの少し早く、声をかけていれば。レイチェルが躊躇ったりしなければ。レイチェルがハーマイオニーに追いついていれば。この手が届いていれば。もっと早く、仲直りしていれば。そうしたら、ハーマイオニーは今も、動いて笑っているはずだった。傲慢だと言われようと、レイチェルはハーマイオニーを救えたかもしれなかった。でも、救えなかった。罪悪感や責任感を持つななんて言う方が無理だ。
「ごめんなさい、ハーマイオニー」
握った手は、今はその温かさも、柔らかさも失われている。そのことが、レイチェルの胸を締めつけた。
許して、なんて言う気はない。こんな一方的な謝罪で、許されるなんて思っていない。こんなのじゃ足りない。これはただのレイチェルの自己満足だ。わかっている。
ちゃんと、目を覚ましたハーマイオニーに言わなければ。ハーマイオニーなら許してくれるだろうなんて言うのはレイチェルの傲慢で、もう二度と仲良くしてくれないかもしれない。それでもいい。顔を見て、声を聞いて、謝りたい。
届かない謝罪なんて、無意味だ。