かなり詰め込む感じになると思いますので、少しずつシーン毎に区切ってゆっくり読んで頂けたりすると幸いです。
「ちくしょー放せー!」
「喧しい! 大人しくしろ!」
舞台から引きずり降ろされた後、私は数人がかりで両脇と背後を固められて連行されていた。
なんじゃこの状況、アメフト部に拉致される大〇洋かっての!
さしもの私も人数差には勝てるわけもなく、そのままなす術もなく体育館裏のドアからペイッと放り出されてしまった。
ぐぬぬ、志麻様め。いつかこの借りは返してやるから覚えていろよ!
なんて心の中で悪態をつくも、パフォーマンス自体は悪くなかった事に手応えを感じていた。
演奏していた時はオーディエンスの皆も乗ってくれていたし、私が学内でも頭一つ抜けた腕前を持つ事はアピール出来たでしょう。知名度を上げるにしても、まずは存在を知ってもらわなくちゃ次には繋がらないからね。
「っ!? げほっ、げほっ……!」
早々に気持ちを切り替えて今後の事を考えていたら、不意に喉から熱を持った渇きが襲って来た。
あー、くそ。最近はやる事が多すぎてボイトレを後回しにしがちだったからな。そんな状態でダンスしながら演奏、〆は紅と来たらそりゃ負担も大きいか。
まぁ文化祭も終わったし、今後はもう少し時間に余裕も出来るからそこら辺のケアにも時間を割き……たいけど、いい加減メンバー集めの方もどうにかしないとな……。
(今のままだと時間を無駄にしているだけなのは否めないし、長くても今年いっぱい。それでも集まらなかったら自分から売り込みをかけるか、最悪はソロ活動か……)
前途多難な状況に溜息を吐くと、
「藤原さん!」
急に大声で呼びかけられた。
うおっ!? びっくりしたぁ!!
なんだいなんだい、急にどうしたい。と念じながら努めて落ち着いて声の方向に顔を向けると、そこには見知った顔が居た。
「えっと……廣井さんだよね。同じクラスの」
そう、そこには以前気になっていたクラスメイトの廣井さんが居たのだ。
これには色んな意味で驚いた。
大人しそうな彼女があんな大声を出せたんだという事もそうだし、遠目から見た寂しそうな表情は鳴りを潜めて必死な表情でこちらを見ている。
呆気に取られていると、こちらにも呼吸が聞こえるくらい大きく息を吸い込んで、彼女は叫んだ。
「私を、バンドに入れてください!!」
……え?
一瞬、彼女が何を言っているのか分からなかった。
だって、視線さえ逸らされてしまった彼女から、まさかそんな事を言われるとは想像もしていなかったから。
リアクション出来なかった私の態度が不満を表していると思ったのか、更に廣井さんは続ける。
「私、何も楽器習った事ないけど頑張るから! 藤原さんの足手まといにならないように一生懸命練習するから、どうかお願いします!」
言霊、というのはこういうのを言うんだろうか。
息を大きく切らしながら叫ぶ彼女の切実な想いが、体の底にまで響き渡った。
──この子、本気だ。
直感がそう訴えかけ、彼女と真剣に向き合う中で、私は彼女の眼に引き込まれた。
宝石の様に澄んだ輝きの奥に小さな炎を宿している、その瞳に。
(普段は伏し目がちだから分からなかったけど……良い眼をしているじゃない)
未知の領域へと踏み出す勇気。
何かを掴み取ろうとする情熱。
私は、彼女の可能性へと賭けてみたくなった。
「うん、よろしくね」
「……へ?」
私が笑顔で受け入れると一変して、廣井さんは顔を青くした上にさっきまでの熱意は何処へ行ったのか、バケツで水をかけられたみたいにプスンと鎮火して慌て始めてしまった。
「ほ、本当に良いの?」
「うん。だって、やりたいんでしょ?」
「そ、そうだけど私本当に初心者で……あ、でも演奏を甘く見てる事なんて無いの! やるからには必死に練習して頑張るから、ごめんなさい素人の私が言っても説得力なんて無いよね……!」
「あはは。大丈夫だから、落ち着いて」
手をパタパタしながら慌てる彼女を落ち着かせようと、両手をそっと握り締める。
「まずは深呼吸しようか。はい、すー、はー」
「す、すー……! はー……!」
勢い余って少しプヒーって音が鳴ってしまった廣井さんだけど、本人は必死だから笑っちゃうのをなんとか我慢する。
そのまま一緒に深呼吸をして、しばらく経って彼女が落ち着きを取り戻した所で私は提案した。
「とりあえずさ、立ち話もなんだから何処かでゆっくり話そうよ」
体育館から場所を移動して、私は藤原さんと一緒に屋上手前の階段の踊り場で座りこんでいた。
「ちゃんと話すのは初めてだったよね。改めて、藤原美空です。よろしくお願いします」
「廣井きくりです。その、よろしくお願いします!」
差し出された藤原さんの手に慌てて握手をすると、彼女の手の感触に何か違和感を覚えた。
まじまじと見ていると、藤原さんが不思議そうに問いかけて来た。
「どうしたの、そんなに手ぇ見ちゃって」
「へ、あ、ごめんなさい。藤原さんの手、なんか感触が違うなって」
「お、嬉しい事言ってくれるね」
普通は体をジロジロ見られたら気を悪くすると思うけど、藤原さんは真逆で嬉しそうに笑いながら指先を見せてくれた。
「手で弦を弾く事もあるから指先が固くなるのよね。ちなみに、左手はもっと固いよん」
触ってみ? と言われたので恐る恐る触ると、爪と同じくらい固いんじゃないかってくらい指先がカチカチになっていた。
「わっ、すごい! 漫画に出てくる格闘家みたい」
「部位鍛錬的な? 六式・指銃! なんちゃって」
あまり気の利いた事を言えなかった私にも、藤原さんはノリ良くモノマネをしながら返してくれた。
「廣井さんって、漫画も読むんだ」
「う、うん。学校だと読むのは恥ずかしいから、普段持ってきているのは文庫本だけど」
「気にしなくていいのに。漫画は世界に誇れる日本の文化よ」
「アメリカでも日本の漫画って人気なの?」
「もちろん。翻訳されて出版されているし、漫画とかアニメがきっかけで日本語を勉強し始めた人もたくさん居るよ」
藤原さんはとても気さくで、会話が苦手な私のテンポに合わせてゆっくり話してくれたのが嬉しかった。
しばらくそんな風に雑談をしていて、程よく空気が和らいで来た会話の切れ目で、藤原さんが『さて』と一言置いて切り出してきた。
「早速だけど廣井さん、やってみたい楽器とかある?」
「えっと……その……。なるべく目立たないやつが良いかな~って……」
「いやいや、ステージに上がるんだったら否が応でも目立つって」
「そ、そうだよね。ごめんなさい」
弱気な私の発言に藤原さんがズッコケてしまったけど、気を取り直して考え込みながら案を提示してくれた。
「んー。まぁでも、限りなく希望に応えるとしたら、やっぱりベースかな」
「ベースって、ギターに似ているやつだよね」
「そうそう。音はギターに比べたら低くて目立たないけど、これがなかったら曲として物足りなくなっちゃうから縁の下の力持ちって感じだね」
「縁の下の力持ち……」
そのワードをきっかけに、私の中で一つのビジョンが浮かび上がった。
藤原さんと一緒にステージの上に立ち、彼女と共に演奏する。
先頭に立ち歌い、バンドの進む道を切り開く彼女をサポートする。
彼女の音楽を間近で感じ、それでいて称賛を受ける彼女が更に輝けるよう支える事が出来たら……それはこの上なく幸せで、やりがいのある事だと思えた。
「私、ベースやってみたい!」
「いいの? 試しにドラムをやってみたりギター二人っていう編成もあるけど」
「あ、あのね。今の話を聞いたらステージに立つ自分がイメージ出来たの。それに、まだメンバーを集めなきゃいけないでしょ? なら空いている楽器に入った方が早く活動も開始出来るかなって思ったから」
思わず身を乗り出して答えてしまい、慌てて体を引っ込めて必死に弁明をするけど、藤原さんは優しい笑顔で受け止めてくれた。
「……そっか、ありがとうね。こういうのは最初のインスピレーションが大事だから、それで行こうか」
「うん」
「じゃ、善は急げって事で早速私の家で練習してみようか」
「え?」
「あ、母さん? 今日友達連れて行くからさ──」
驚く私を他所に、藤原さんは携帯を取り出してお家に電話を始めてしまった。
まともに話したのは今日が初めてなのにいきなりお家訪問は早すぎない? こ、これが陽キャ!
結局そのままあれよあれよと話が進んでしまい、人生初の友達のお家へご招待となってしまった。
「ただいまー」
「お、お邪魔します」
「おかえりなさい美空。その子がお友達?」
「は、初めまして! 廣井きくりと申します!」
「そんなに緊張しなくても大丈夫よ。ゆっくりしていってね」
出迎えてくれたのは髪を短くした未来の藤原さんって感じのお母さんで、ガチガチに緊張している私相手でも柔らかい笑顔で対応してくれた。
そのままペコペコ頭を下げながら藤原さんの部屋まで案内され、差し出されたクッションの上にちょこんと座った。
「ちょっと待ってて。飲み物とか取って来るから」
そう言い残し藤原さんが出て行った後、部屋の中をしげしげと見回す。
ギターとベースがラックに立てかけてあり、棚には色んなアーティストのCDや本がぎっしり収納されている。
他にもバスケや野球のレプリカユニフォーム、箪笥の上にはアイスホッケーのパックとミニチュアみたいなアメフトのヘルメットも飾られていた。
物は多いけど整理はされているから窮屈な感じはしない。むしろ想像よりも大きい部屋だし、高級そうなマンションの高層階だからもしかして藤原さんのお家ってもの凄いお金持ちなのかな……?
下手に触って物を壊したりしたら目も当てられないので、結局そのまま借りて来た猫みたいに大人しく座っている事しか出来なかった。
「ほい、これがベースね」
やがてお盆の上に飲み物とコップを乗せた藤原さんが帰って来て、早速立てかけてあったベースを渡してくれた。
実際に持ってみるとズシリとした感触で、油断していたら落としてしまっていたかもしれない。
「結構重いんだね」
「よくよく考えると家電みたいな物だしね。私も初めて持った時はびっくりしたわ」
未知の感触を恐る恐る確かめつつ、肩にストラップを回してベースを下げてみる。
「おぉ~……! なんか、これだけでアーティストになったみたい……!」
「分かる分かる~。構えるだけでもテンション上がるよね」
ニヨニヨと笑ってしまう私に対して、藤原さんも同意しながら笑顔で頷いた。
そのまま次に小さい三角の板を私に渡し、もう一枚を自分の手で持ちながら説明を始めてくれた。
「ピックを持つ時は力を入れ過ぎないで、親指の腹と人差し指の側面に挟むのが一般的かな」
「指先で摘まむんじゃないんだ」
「そのやり方もあるけど弾く事全般を考えると安定性に欠ける感じなのよね」
漫画とかでもギターを弾くシーンはあるけど、早速想像とは違う事に遭遇した。
慣れない感覚がむず痒かったけど、折角藤原さんが教えてくれた事だから頑張って実践して、そのまま弦を弾いてみた。当然、機械には繋げていないからチャカチャカした音しか聞こえない。
「よし、じゃあこれも付けてみようか」
何回か素振りみたいに弾いていると、いつの間にか横でギターに小さい箱とイヤホンを繋げて何かしていた藤原さんが話しかけて来た。
ガチャっと小さい箱をギターから外し、今度はベースに取り付けてイヤホンを掲げたのでそれを付けてみる。
「左手は弦を押さえずに添えるだけでいいから、上の弦から下の弦までジャーンって感じで弾いてみな」
「う、うん」
言われるがままに手を振り降ろし弦を弾くと、映画館みたいに耳から体の奥まで震わせるような大音量が鳴り響いた。
「わっ……!?」
力加減が分からなくて思い切り弾いたから思わず声が出てしまったけど……たった一弾きなのに、私の心は感じた事の無い高揚感に包まれた。
その感覚をもっと味わいたいと、今度は弦を一本一本弾いてみたり、上下に振り続けてジャカジャカ音を鳴らしてみたりもした。
ひとしきり弾いた後、藤原さんに向き直るとニコニコと笑顔を浮かべながらこっちを見ていた。
「んふふ、どうだった?」
「その、上手く言えないんだけど、体の底までボ~ンって音が響いてくるのが凄く気持ちよかった! あと、適当にジャカジャカ弾いているだけでも楽しいなって」
「お、廣井さん素質あるねぇ」
身振り手振り感想を伝えると、藤原さんは嬉しくてたまらないといった様子で笑った。
「あ、ちなみにギターはこんな感じね」
「きゃっ!?」
藤原さんはベースに繋げていた小さい箱をまたギターに付けると、ピロピロギュイーン! って感じの凄い速さでギターを弾き始めた。
自分のノロノロしたのとは違う迫力ある音を一気にくらったから、つい悲鳴が出ちゃった……。
「び、びっくりした……」
「あはは、ごめんごめん。ひとまずギターとベースの音の違いは感じてくれたと思うけど、どう? ギターやりたくなったらそっちでもいいよ?」
今度は悪戯っ子みたいな笑顔で藤原さんが質問して来たけど、直感的に私の中ではベースの方が合ってそうだと感じた。たぶん、あんな目立つ音を出すって事を考えちゃうとそれだけで緊張しちゃいそうだし……。
「や、やっぱり私にはベースが良いな。ベースもベースで良い音だと思うし、弦が六本もあるのは難しそう」
「OK。んじゃ、今度は左手も使って弾いてみようか」
その後も藤原さんから色々と手解きを受けて、一挙手一投足に気を付けながらベースの演奏を身に付けようと頑張った。
「ん~! 良いね廣井さん、呑み込みが早い」
「あ、ありがとう。藤原さんの教え方が上手だったから、すごい楽しかった」
藤原さんに笑顔で褒められたのが嬉しくも恥ずかしくもあり、用意してもらったコップで表情を隠すように口を付ける。
しばらく練習した後、今は休憩にして藤原さんと一緒にお茶を飲んで話をしていた。
体感的には三十分くらいかなと思っていたけど、時計を見たらもう一時間以上も経っており、それだけ夢中になっていた自分自身に驚いた。
それだけ藤原さんの教え方が上手で私みたいな陰キャにも優しくしてくれたのが嬉しかったんだけど……ネガティブ思考な私には、優しさに触れるほど申し訳なさも湧いて来てしまった。
「藤原さん……」
「うん? どうしたの?」
「あの、本当にいいの? 私みたいな初心者を入れるよりもやっぱり経験者を入れる方が……」
そこまで言って、また自己嫌悪に陥る。
藤原さんの好意を大人しく受け入れて練習を頑張ればいいのに、逃げ道を自分で作ろうとしている。
新しい一歩が踏み出せたと思ったのに、また暗闇へ戻ろうとしている自分が嫌になった。
さっきまでの和気藹々とした空気とは一変して苦しい静けさが包む中、藤原さんが口を開いた。
「廣井さんはさ、どうして私とバンド活動したいと思ったの?」
「え……?」
俯いていた顔を上げると、今日だけで何回も見せてくれていた優しい笑顔で藤原さんは問いかけて来た。
──どうして?
突然の質問に即座には答えらなかった。
それでも藤原さんは笑顔を崩さずに、ただただ待っていてくれた。
彼女の優しさに応えなきゃ、後悔する。
震える唇を必死で動かしながら、私は一つ一つ言葉を紡いだ。
「その、藤原さんの音楽がすごい素敵で格好いいなって。素人の私が聴いても熱いものが込み上げて来て、それでもっと傍で一緒に演奏して感じられたら、それはとても素晴らしい事なんじゃないかなって思えたの」
「そ、それと、私……自分を変えたくてずっと悩んでいたから、藤原さんの音楽に力を貰えた気がして。そこから気が付いたら藤原さんを探し回ってて、その、ごめんね。急にこんな押し掛ける形になっちゃって」
「いいのいいの、気にしないで。……あー、でもそっかー……。そう思ってくれたんだ……」
答え次第では嫌われる事も覚悟していたけど、さっきとは打って変わって藤原さんは赤らめた頬を照れくさそうに撫でていた。
そのまましばらく目を閉じて天井に顔を向けていたりしたけど、ややあって改めて私の方に顔を向けて彼女は話し始めた。
「私もさ、始めたきっかけはそんな感じだったのよね」
「え、そうなの……?」
藤原さんくらいの人だったら自分の意志で志を持って始めたと思っていたから、予想していなかった答えに思わず訊き返してしまった。
「アメリカに引っ越してしばらくした後、クラスメイトにとあるバンドの曲を進められたのがきっかけでね。それが格好良くて、自分もこんな曲を演奏出来るようになりたいって思ってギターを始めたんだ。だから、廣井さんが私の曲で同じように思ってくれた事が、すごい嬉しかった」
「そ、そんな事ないよ! 私、自分探しみたいな理由なのに……!」
「そこも似たようなものなんだよね~。引っ越したばっかの頃は英語が喋れなくてクラスに馴染めなかったからさ、何か自分を変えるきっかけが欲しかったって理由も分かるのよ。私達、案外似た者同士なのかもね」
そう言いながらテーブルを挟んで座っていた藤原さんは私の隣に腰を下ろし、体育館でしてくれたみたいに私の両手を柔らかく包んでくれた。
「それに廣井さん、バンド入れてくださいって言った時、すごく良い眼をしていたよ。その時の真剣で、熱い眼差しから本気だって感じたから、一緒にバンドをやってみたいって思えたんだ」
太陽のように明るく暖かい笑顔で受け入れてくれた藤原さんを見た瞬間……私は溢れる感情と涙を抑える事が出来なかった。
「うっ……うぅ……! あ、ありがとう、藤原さん……!」
「ちょ、なにも泣かなくていいじゃない!」
「ご、ごめ……なさい……。私、ぐすっ……こういう風に、言われたこと……なかったから……!」
「よしよし。そんな気負わなくていいから落ち着いて、ね?」
繋いでいた手を離して抱きしめてくれた暖かさに、私はまた子供みたいに泣いてしまった。
「今日は本当にありがとう藤原さん。道具も全部貸して貰っちゃって」
「気にしなくていいよ。初期投資は何かとお金かかるからねー。しばらくは借りてていいから」
「う、うん。なるべく早く自分のを買えるようにするね」
あの後どうにか泣き止んで落ち着いた後、また少し練習をしたらすっかり遅い時間になってしまった。
流石に帰らないとまずいので、今は駅まで送ってくれた藤原さんと言葉を交わしている。
背中にはベースが入ったケースを背負い、鞄の中にもピックや小型アンプといった練習用道具も入っており、ここまで甲斐甲斐しくお世話をしてくれた彼女には感謝しかなかった。
「それじゃ、さようなら」
「……あ、待って。やっぱりちょっとだけいい?」
改札に向かって歩こうとした時、藤原さんに手を掴まれて引き留められた。
「今日話してて思ったんだけどさ、これからは名前で呼んでいい?」
「へ?」
「一緒にバンドをやるんだからさ、他人行儀で呼ぶのもなんかなーって。あと、親しい人からは名前で呼ばれる方が慣れてるってのもあるんだけど、どう?」
変わらず屈託の無い笑顔で歩み寄ってくれる藤原さんの姿が嬉しくて、断る理由なんて私には無かった。
「う、うん! これからよろしくね。み、美空」
「へへっ。よろしくね、きくり!」
そう言って差し出された手を、また握手する。
手の暖かさと、背中に感じるベースの重み。
自分を変えるきっかけを与えてくれた美空へ絶対に応えてみせると、私は心の中で決意した。
昔のきくりさんが本の虫なのはこの経験が後の作詞作曲に活かされるというこの世界線独自の設定です。