天与呪縛がダンジョンに潜るのは間違っているだろうか 作:ウッウ
血の匂いが微かに漂い、辺りには戦いの熱が残っている。
地面に目を落とすと、大きな魔石が静かに転がっていた。
俺はそれを拾い上げ、掌の上でゆっくりと転がす。
その魔石からは、名残惜しげに揺らめく微細な光が見えた。
視線をずらすと、座り込んだフィルヴィスと視線が合う。
「……終わったな」
「……あぁ」
短く交わされる言葉。
戦いの余韻を共有しながら、静かに呼吸を整える。
「……これからどうする?」
俺の問いかけに、フィルヴィスは少しだけ間を置いた。
やがて、疲れの滲んだ表情で口を開く。
「こんなことがあった以上、引き上げるしかないだろう」
「だな、帰るとするか」
俺は魔石を懐にしまい、踵を返す。
だが、数歩進んだところで背後から声がかかる。
「待て」
「あん?」
振り返ると、フィルヴィスは変わらずその場に座り込んでいた。
「何してんだ、早く行くぞ」
「…………」
俺が促すと、わずかに顔をしかめた。
何となく違和感を覚え、視線を下に向ける。
――不自然に曲がった足首。
腫れ上がり、わずかに血が滲んでいる。
(あぁ、
戦闘の中で流していた記憶が、今さらになって鮮明に蘇る。
というか、それなら早く言えよ。
俺は大きくため息をつき、膝を折ってしゃがみ込む。
「立てるか?」
「できるものならそうしてる」
「だよな」
俺は眉間を押さえ、軽くため息をつく。
(さて、どうするか)
俺が背負うのが一番楽なんだろうが、こいつはエルフだ。
接触を嫌うこいつが素直に受け入れるとは思えない。
そんなことをすりゃ、どうなるかは容易に想像がつく。
まぁこいつなら、「そんなことされるくらいなら、這って帰る」とか言い出しそうだな。
そんな風に考えを巡らせていると、唐突にフィルヴィスが口を開く。
「……背負え」
「は?」
その言葉に驚き、思わず変な声が出た。
聞き間違いかと思い、フィルヴィスの顔を見やる。
「……いいのか?」
「緊急事態だ、私もそれくらい我慢できる」
言葉とは裏腹に、わずかに視線が揺れる。
――なるほど、嫌なのは嫌なんだな。
俺は少し呆れながら、背を向ける。
「……後で文句言うなよ」
フィルヴィスは黙ったまま、俺の背に体を預ける。
その瞬間、わずかに肩が強張るのを感じた。
「緊張しすぎだろ」
「黙れ」
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薄暗いダンジョンの中、伏黒甚爾はゆっくりと歩を進めていた。
もし
モンスターが現れようものなら、振り払うように一撃で仕留めることもできるだろう。
しかし彼は、なるべく接敵を避けながら進んでいた。
それは余計な戦闘を避けるためという理由もある。
だがそれ以上に、彼は背中に感じる微かな重みを意識していた。
誰かを背負うという行為は、彼にとってあまり馴染みのないものだ。
今まで、誰かに寄りかかられることも、誰かを支えることも、ほとんどなかったのだから。
だが、かすかな記憶を辿れば――
おそらく、彼女から息子を手渡され、背負った時以来だろう。
遠く、霞がかった記憶。
突然押し付けられた、小さな温もり。
柔らかく、頼りなく、ほんの少し力を入れただけで壊れてしまいそうな――
けれど、確かに自分にしがみついていた感触。
忘れたはずの記憶が、一瞬だけ脳裏の片隅をよぎる。
だが、それを深く掘り下げることはしなかった。
無駄な感傷を振り払うように鼻を鳴らし、何も気にする様子もなく彼はただ淡々と歩を進めた。
一方、フィルヴィス・シャリアの心境はただならぬものではなかった。
(な、なぜこんなことに……!)
彼女はエルフである。
それも生粋で、絵に描いたようなエルフだ。
誇り高く、孤独を厭わず、己の生き方を貫く存在。
いや、そもそも彼女は誰かに身を預けることなどほとんどなかった。
それは生まれながらの気質でもあり、あの日を境にそれはより顕著なものとなった。
触れることも、触れられることも、どこか遠いものとして生きてきた。
だが、今。
彼女は、彼の背中に身を預けている。
広く、しっかりとした男の背中。
状況が状況だったとはいえ、自らの意思でそれを受け入れた。
本来であれば、拒絶しなければならないはずの感触。
しかし、思っていたほどの嫌悪感はそこになかった。
彼女にとって、伏黒甚爾との出会いは決して良いものとは言えない。
いや、むしろ最悪だったと断言できる。
強引で、無神経で、エルフの気質とは相いれないような男。
それなのに――
不思議と彼のことは嫌いではなかった。
彼といると、少しだけ肩の力が抜けるような気がしていた。
それがなぜなのか、彼女自身もわからなかった。
その時、不意に彼から言われた言葉が蘇る。
『たぶん、お前が……俺に似てたからだ』
低く、揺るぎない声音。
彼は確かにそう言った。
だが、彼女はそう思わなかった。
彼は強く、自由に生きているように見えたからだ。
だから似ているはずがない。
彼女は、そんなふうには生きることはできない。
どれほど時が経とうとも――
フィルヴィス・シャリアの時間は、あの日から止まっているのだから。
だが――
『お前は優しい奴だよ。フィルヴィス』
再び、彼の言葉が脳裏に突き刺さる。
(違う……私は……)
彼女の声にならない否定が、喉の奥で震えた。
血に塗れた記憶。
断末魔の声。
散らばる仲間の死体。
誰かを守ることも、誰かを救うこともできなかった。
あの時の光景を、何度夢に見ただろうか。
何度、悪夢から目覚めては、独り静かに息を殺しただろうか。
何度、心の奥底でこの命を呪っただろうか。
それが彼女につけられたあだ名。
不吉な存在。
呪われたエルフ。
何度も、何度も、そう呼ばれてきた。
陰で囁かれる声、恐怖と蔑みの入り混じった視線。
だが彼女は、そう呼ばれることを否定するつもりはなかった。
仲間を死なせ、自分だけが生き残った。
その事実がある限り、それを否定する資格はないと、そう思っているから。
それが罰ならば、甘んじて受け入れるべきだと。
それが罪ならば、背負い続けるべきだと。
この名も、この宿命も、贖罪として引き受ける。
それが、フィルヴィス・シャリアなのだから。
だからあの時、彼女は
また仲間を失うことを。
また目の前で誰かが死ぬことを。
死ぬのは、自分だけでいい
彼女はそう思った。
だから彼女は一人で戦おうとした。
傷つこうとも、血を流そうとも、構わなかった。
どうせ生きる理由など、とうに失っているのだから。
――――だが、彼はそうさせなかった。
彼女はゆっくりと額に指を当てる。
そこには、まだ微かな痛みが残っていた。
ずっと、彼女は孤独の中にいた。
誰かと関わることを恐れ、誰かに近づかれることを拒み続けた。
なのに、彼はそんな彼女の世界に土足で入り込んだ。
そこから立ち去ろうとしなかった。
その理由も、彼の意図も、彼女にはわからない。
彼女は知らず知らずのうちに、もう一度額に触れる。
確かに痛かった。
けれど、その痛みはどこか温かかった。
消えてほしくないと、そう思うほどに。
(私は、どうして……)
彼女は自らの思考に困惑していた。
痛みとは、いつも冷たく、苦しいものだった。
自分が生きていることを思い知らせる、忌むべき感覚だった。
それでも、彼の指先が残したこの痛みは、どこか違うように感じていた。
それは彼女の心の奥深くに、静かに残り続けている。
冷え切った心を溶かすように、じんわりと染み込んでいく。
静寂の中で、ただ足音だけが響く。
暗闇に沈むダンジョンの空気は、ひどく静かで、ひどく冷たい。
その静寂を破るように、彼がふいに口を開いた。
「…………殺しだ」
「何?」
唐突な言葉に、彼女は思わず眉をひそめた。
「さっき聞いたろ?俺が
そして、まるで何でもないことのように続ける。
「金さえ貰えりゃ、どんな依頼だって受けた。善人だろうが悪人だろうが、関係なく殺した」
その告白は、あまりにあっけない。
だが、とても重かった。
「まっ、もう引退したし、二度とやるつもりもねぇ」
驚きはしたが、疑問には思わなかった。
彼にも人に言えぬ何かがあるのだろうと、彼女も思っていたからだ。
だが、
「……なぜだ、さっきははぐらかしただろう」
「…………さぁな」
伏黒甚爾は、どこか投げやりにそう答えた。
彼が自身の過去を話したのは、これで二度目。
彼は話すつもりなど毛頭なかった。
過去を語ったところで、何が変わるわけでもない。
それでも、
もしかしたら、それが彼女の何かを変えるかもしれない、と。
それは、まるで自分の意志ではないかのように、ふと脳裏をよぎった考えだった。
これは、明らかに
だがその違和感に、彼は気づいていない。
でもそれは、確かに存在していた。
曖昧で、不確かで、形を成さないまま、静かに彼の中で燻り続けている――――
「誰かのために」という気持ち。
彼は自他共に認める、ろくでなしである。
だがもし。
もし、それが彼の中に残っているのだとしたら。
それは一体、何なのか。
どこから来たものなのか。
どうして、伏黒甚爾はフィルヴィス・シャリアを見捨てられなかったのか。
それは――
幸せになってね――
耳の奥に残る、微かな声。
消えない言葉。
忘れられない言葉。
『そう、君は優しい子だ』
彼がこの地で生きることを決めた理由。
彼が許された言葉。
彼を変えた言葉だ。
彼は自分を許していない。
許されるとも思っていない。
どれだけ時間が経とうと、どれだけ遠くへ来ようと、過去は消えない。
刻まれた記憶も、染みついた血も、決して浄化されることはない。
それでも、彼はやり直すと決めた。
その道に意味があるのかは分からない。
贖罪になるのかどうかも分からない。
ただ、足を止めることだけはしなかった。
それは彼女のために。
それは主神のために。
こんな自分を、かつて愛してくれた彼女のために。
こんな自分を拾ってくれたバカな神のために。
彼が背負う罪を知りながら、それでも彼を許した彼女なら。
あの誰よりもお人好しの神様なら。
もし、彼女が今も生きていたなら。
もし、ヘスティアがここにいたなら。
きっと、そうすると信じているから。
(殺し……か)
彼女は、彼の言葉を頭の中で反芻していた。
かつて人を殺していたこと――それを彼自身がどう捉えているのか、彼女にはわからなかった。
「……後悔……してるのか?」
「…………」
沈黙。
彼はすぐには答えなかった。
やがて、ゆっくりと息を吐き、ぼそりと呟いた。
「…………あいにく、そんな殊勝なタマじゃねぇよ」
それは、淡々とした言葉だった。
彼にも思うことはあるのだろう。
過去に何も感じていないわけではない。
それでも――
そこに迷いはなかった。
「………………お前は、強いな」
自分とはあまりにも違う。
だからこそ羨ましかった。
それは、自分にはできなかったことだから。
その想いは気づかぬうちに言葉へと変わる。
「私にも……できるだろうか?」
それは意識するよりも先に零れた。
か細く、どこかに消えてしまいそうな小さな声だった。
「何がだよ」
「…………お前のように……生きることが」
「知らん」
あまりにも素っ気ない返事だった。
思わず顔を上げ、彼の背中を睨むように見つめる。
「ただ……」
彼の足が一瞬止まる。
「俺にできてんなら……誰にでもできんだろ」
その言葉に思わずあっけにとられる。
あまりにも単純だ。
それなのに――なぜか、胸の奥に深く響いた。
「くっ……くくく……」
気づけば、笑みがこぼれていた。
まるで、長い間張り詰めていた何かがふっと緩んだかのように。
彼女がこうして笑みを浮かべるのは、
こんなふうに笑うこと自体、彼女はいつ振りかわからない。
それでも、込み上げるものがそこにあった。
「……そうだな」
彼女は小さく息を吐き、静かに呟く。
「貴様にできてるなら……私にもできそうだ」
答えはまだ出ていない。
何かが変わったわけでもない。
それでも今は――
「……おい、もう少しゆっくり歩け。傷に響く」
その言葉に、彼は少しだけ振り返る。
「……お前、結構図々しい奴だな」
呆れたように言いながらも、その歩調は自然と緩やかなものに変わっていく。
それを感じながら、彼女はふっと笑みを浮かべた。
彼は英雄ではない。
英雄になどなれはしない。
それでも――
彼は確かに、一人の女の子を救ったのだ。
その時、二人を見つめている存在があった。
闇に溶けるような、淡い残響。
音もなく、形もなく、ただそこに在ると告げるように漂う。
そして――
彼女は、静かに微笑んでいた。
柔らかく、穏やかに。
まるで、彼の歩みをそっと見守るように。