天与呪縛がダンジョンに潜るのは間違っているだろうか 作:ウッウ
死――その感覚は、思ったよりもあっけなかった。
身体が重力に逆らえなくなり、意識が深い暗闇へと沈んでいく感覚。
全身の力が抜け、すべてが遠ざかっていく。受けた傷の痛みさえ、今ではもう感じない。
――これで終わりか。
俺は、どこか安堵していた。生きる理由も、守るものも、もう何もなかった。
息子――恵の未来だけは託したが、それも俺が手を下すことはない。
これでいい、そう思った。
だが、その時だ。
暗闇の中、身体が浮かび上がるような奇妙な感覚に包まれる。静寂のはずが、どこか遠くでざわめきが聞こえるような気がした。
脳に直接響くその振動に、意識を奪われそうになる。
幸せになってね――
頭の奥で誰かが囁いた。
声は暖かく、どこか懐かしい。
ただ、その言葉には妙な力があった。俺の意識の奥深くを掴み、引き上げようとしているような。
(お前は…誰だ?)
それが誰のものなのか、なんと俺に言ったのかは分からない。
だが、目覚めなくてはならないという本能的な直感だけが、俺を突き動かしていた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
意識が戻ると、まず最初に感じたのは冷たい石の感触だった。
目を開けると、視界に飛び込んできたのは薄暗い天井。湿った空気が鼻腔を満たし、遠くでかすかな水滴の音が響いている。
「……どこだ、ここは」
呟いた声がやけに乾いて聞こえる。
俺は死んだはずだ。
五条悟――あの化け物と闘い、全身が弾け飛ぶような感覚を今でもはっきりと覚えている。
それなのに、この身体の感触はどうだ?
息を吸い込めば肺が確かに膨らみ、手を握れば血液が流れる感覚さえある。
この現実感――死後の世界にしては、あまりにも生々しい。
(幻覚……あるいはその類の術式…………いや、それはないな)
頭に浮かんだ考えを、俺の肉体が否定する。
そして、俺はあることに気づく。
俺は服を掴み、胸元を露わにする。
「……傷が無い?」
そこにあるべき深い傷――五条悟の攻撃で負った致命傷が、跡形もなく消えていた。皮膚はきれいに再生し、痛みどころか傷跡さえない。
それどころか、これまでの戦いでついた無数の古傷までもがすっかり消えている。
「……冗談だろ」
冷や汗が背中を伝う。
こんなことがあり得るのか?これまでの経験や知識では説明できない。
(反転術式――――いや、呪力のざわめきは身体からは感じねぇ。それに、俺は死んだはずだ……いくら反転術式でも死者を蘇らすなんてことができるわけが…)
俺は持ち物を確認するために腰を探るが、そこには何もない。
普段使っていた呪具はおろか、それをしまう為に飼っていた呪霊の姿も見えない。
周囲を見渡すと、石畳の床と苔むした壁、そしてどこまでも続く暗い通路が目に入った。通路の奥からは、ひやりとした空気が漂ってくる。
「洞窟の中……か?」
その時、前方から足音が聞こえてくる。
それは一定のリズムを保ちながら、徐々に近づいてくる。
だが、
全身の神経が警戒を強める。
暗闇の中、赤い光がちらついた。
最初は点のように小さかったその光が徐々に大きくなり、やがて通路の奥からその正体が現れる。
「……なんだ、こいつ」
通路の奥から姿を現したのは、全身を黒い毛で覆われた二足歩行している狼だった。
血走った赤い瞳が俺を捕え、その瞳には明確な敵意が宿っている。
体躯は小柄だが、牙は鋭く、獲物を喰らうためだけに進化したような形状をしていた。
「呪霊……じゃねぇな」
俺は低く呟いた。
そいつからは呪霊特有の呪力は感じなかった。
だが、目の前の獣――狼と呼ぶには異様すぎるその存在を、ただの獣と判断することはできない。
赤い瞳がわずかに細められる。
それは獲物を狙う捕食者特有の動きだ。
『グルルルルルル』
低いうなり声をあげる怪物を前に、俺は自然と構えを取る。
呪具がない状況での戦闘は久しぶりだが、問題はない。
『ガァッ!』
次の瞬間、獣が低い唸り声を上げ、地を蹴った。
俺との間合いを詰め、鋭い爪を振り下ろしてくる。
「遅せぇ」
俺は体を軽くひねり、爪をかわす。
風圧が頬をかすめる感覚が体に伝わる。
それと同時に、俺はその巨体の懐へと滑り込んだ。
拳を握りしめ、そのまま獣の側頭部を打ち抜く。
『グギャァッ!?』
骨が砕ける感触とともに、獣の肉体は吹き飛ばされ、壁に叩きつけられる。
獣が地面に崩れ落ちる音が通路に響き渡った。
「あっけねぇな」
警戒は解かず、俺はゆっくりと近づく。
倒れ伏した獣の赤い瞳は、すでに光を失っている。そのまま注意深く観察していると、不意に獣の身体が揺らぎ始めた。
「……なんだ?」
次の瞬間、倒れた獣が一瞬で塵となって消えた。
黒い毛も、鋭い牙も、まるで砂のように空中へ溶け込んでいく。塵となった残骸がふわりと舞い上がり、あっという間に消失した。
そして、そこには手のひらサイズの輝いた石が残されていた。
俺はそれを拾い上げる。
冷たく滑らかな感触が手に伝わる。
光を透かして観察するが、それから呪力は感じられない。
だが、これがただの石ではないと俺の感が告げていた。
「……何がどうなってんだ?」
俺は石を掌で転がしながら、目を細めた。
石をポケットにしまいながら、周囲を見渡す。
倒れた獣以外に気配はない。だが、通路の奥から冷たい風が吹き込んでくる。その風には、僅かに血の匂いが混じっていた。
「……まずは、ここから出るとするか」
俺はゆっくりと息を吐き、歩き出した。