あの日、世界が揺れた。
夏の日差しが潰え、窓の外の植物の香りが鼻腔をくすぐる季節。燃え上がるものの一つもなく、何の楽しみのない毎日。机に突っ伏していれば勝手に過ぎていく時間。
そんなどうでもいい一日の夕方ごろ。チャイムの放送が俺の名前を呼ぶ。
『一年三組の相馬湊人、至急職員室に来るように』
嫌な放送を聞いた、と大きなため息を吐く。ガラガラの教室でそれを冷やかす人間がいないのが救いだ。
「呼ばれちゃってますよ湊人さん」
……こいつを除いては。
「うるさい、分かってるんだよそんなこと」
『それと、町田達樹。お前も』
「……お前宛の方が当たり強そうだけど?」
「ま、常習犯だしな。今日もどうせろくな呼び出しじゃないし、さっさと済ませようぜ」
全校放送で堂々と指名されたにも関わらず、ケラケラと笑いながら達樹(たつき)は後ろ頭に手を組む。何を言われても反省するつもりはないだろうその態度には、むしろ一種の好感すら覚えてしまいそうだ。
こんな一風変わった達樹だからこそ、俺は変に気を使わなくていいのだと思わされる。正直人間付き合いは好きじゃないし、他の人間も好きじゃない。どこか別の方向に向いているきらきらとした瞳が、たちまち胸を締め付けるような感覚を覚えさせるからだ。
「……行くか」
呼び出されたものの、俺のほうも何をしたか身に覚えがない。まずはそれに納得する必要があると、大人しく腹を決めることにした。達樹に一度視線を送り、立ち上がる。
二人並んで歩く廊下は窓が開いているためか少し肌寒い風が吹き抜けていた。北の方で
はないとはいえ、冬はちゃんと寒い。もうじきあの凍てつく季節がやって来るだろう。頭が痛くなりそうな、どこか嫌な季節が。
「……失礼しまーす」
立てつけの悪い職員室のドアをスライドさせると、奥の方からちょいちょいと手招きする人物が見えた。担任の尾形だ。
「こっちこっち」
その様子に真っ先に反応したのは達樹だった。周りにいる他の教員に聞こえないように、俺に耳打ちをする。
「怒ってそうな雰囲気……じゃないよな」
「分からん。お前と違って呼び出し常習犯じゃないし、普段の尾形先生の様子なんて知らん」
「だったらその様子を知ってる俺を信じてみてくださいや」
「何ぼそぼそ話してるんだ。さっさと来い」
入り口の方でボーっと突っ立っている俺と達樹にしびれを切らしてか、尾形先生は少し苛立たしそうに催促する。それに促されるままに、俺と達樹は尾形先生のいる応接室の方へと歩いた。デスクで……じゃないとなると、話は長くなるのかもしれない。それはいささか面倒なことになりそうだ。
しかしここまで来て逃げ出すことは出来ない。観念した俺は尾形先生の反対側の椅子の手前で立ち止まった。
「おう、座れや」
「失礼します」
「失礼しまー」
「……お前は座るな、達樹」
常習犯への当たりは厳しい。慣れた口調で達樹に起立を促す。流れに任せて都合よく座ろうとしていた達樹は小さく舌打ちをして、壁際にもたれかかる。
場が膠着して数秒。尾形先生は書類をトントンと机に打ち付けて、俺の目をじっくりと見た。ゆっくりと口が動き、言葉が生み出される。
「……さて、確認だけど相馬。今日呼び出された理由、分かるか?」
「いえ、特には。……犯罪とかしてないですし、学校の備品だって壊した覚えないですよ?」
「なるほど。やっぱり身に覚えはないか」
何かに納得した素振りを見せながら、尾形先生は二、三度頷く。……もったいぶるくらいなら、さっさと話してほしいものだ。
言葉にせずともそれは向こうに伝わっていたようで、尾形先生は小さく咳払いをして本題をばっさりと切り出した。
「お前の授業態度に関してだ、相馬」
「授業態度?」
「お前、授業中よく寝てるそうじゃないか。それも公民、歴史、地学基礎で集中して。担当の先生、みんな嘆いてたぞ? 特に不真面目を働いてるわけじゃないお前が、パタリと寝ることが多いって」
「はあ……」
確かに、気が付けば授業が終わっている、なんてことが時々ある。……俺、眠ってたのか。全然気が付かなかった。
それほどまでに、急に意識が飛ぶことが多い。先ほど尾形先生が挙げた科目では尚更。
「なあ、何か嫌なことでもあるのか?」
「いや、別に……。実際授業のことはつまらなく思ってますけど、それだったら他の授業でも寝ているはずです」
「おい、あっさり言ってくれるな。嘆く先生が増えるだろ」
「ああでも、先生の国語は嫌いじゃないですよ。達樹にちょっかいかけるところとか」
達樹の悪い癖が伝染してか、俺も少し冷ややかな笑いを浮かべながら尾形先生に語り掛ける。ため息一つと同時に、尾形先生は頭に手を当てた。
「後ろの奴の悪い癖が移ってきたな、お前も」
「こんなのと一緒にしないでくださいよ」
「うわ、ひっでー言われよう」
その声音に心から傷ついている素振りは見えなかった。どうせこの言葉もひらりと交わしていくのだろう、こいつは。
脱線を続ける話に終止符を打つべく、尾形先生は手をパンと鳴らし、強引に話を最初のものに引き戻す。
「とにかく、だ。相馬、これからは出来るだけ気を付けてくれよ。先生たちは大目に見てくれてはいるが、ここから先は注意や警告にもなり得るからな。内申点にも繋がる」
「はあ、気を付けます……。けど、なんだろう、自分の意志じゃないっていうか、急にパタリと意識が途切れるっていうか」
「そうなのか? ひどくなるようなら病院にも行った方がいいぞ?」
「……」
何気ない尾形先生の一言。俺を気遣ってくれているはずのそれが、なぜか今は少し癪に思えた。……病人扱いされるの、やめて欲しいんだよ。
少し肩が浮き始めていた俺の身体を、後ろから達樹が抑える。俺という人間が、一度感情が暴走してしまうと留めが効かなくなる人間だと分かっているのだろう。俺の肩に触れている柔らかさで、俺はどうにか冷静を取り戻した。
「出来るだけ、やってみます」
話は終わったはずだ。今はこの場をさっさと去りたい。
俺は適当に話を区切って立ち上がった。もう語ることはなかったのだろう、尾形先生はそれを止めなかった。
「失礼します」
「んじゃ俺も」
「達樹。お前、覚悟出来てるんだな?」
「あっ、やべ。……つーわけで湊人、先出ててくれ。すぐ終わるから」
「……ホントにすぐ終わると思ってるなら、大したもんだよ」
そう吐き捨てて、俺は一足先に職員室を後にした。出ていくときに浴びる周囲の視線でまた気分が悪くなる。この鬱屈とした感情を晴らすには、一刻も早くこの場所を後にする必要があった。一度深く深呼吸をして、目を伏せ、開く。
しかし運命というものは残酷と呼ぶべきか、よく見知った存在が職員室の前をうろついていた。あろうことかそれは俺に目を合わせてくる。
「あ、お疲れ様。湊人」
「……お疲れさん。お前は何しにきたんだよ、名取」
「私はこれ。陸上部の松島先生に用事があるから」
名取はひらひらと一枚の紙を俺に見せつけてくる。次の大会の申込用紙みたいだ。紙の発行日は今日。……ホントにストイックなやつだ。
そんな奴だから、当然クラスでも人気者として崇められている。天真爛漫さ、それでいて全てにひたむきで、人当たりもいいとなると……そりゃ勝手に人は寄りつくだろう。
俺とは住む世界が違う。それなのに、あの日この街の河川敷でばったりと出会ってしまったことが、全ての歯車を狂わせてしまった。
それからというもの、こいつが無理やり自分の世界に引き込んでくることもあって、俺は名取から逃げられないでいた。せめてクラスさえ違えば、と思うが、それは俺が関与出来た話ではない。諦めよう。
「それで? 湊人はなんで職員室に呼びされてたの?」
純真無垢な瞳と質問が真正面から飛んでくる。俺はぶっきらぼうにそれを打ち返す。
「授業態度が悪いんだとさ」
「あー……。確かに湊人、ちょこちょこ寝てるもんね」
「意図的にやってるつもりはないんだよ。ただ、勝手に意識が消えるって言うか……」
「ふーん? じゃあ少なくとも、湊人は『こんな授業寝てやる!』なんて思ってないわけだ」
先ほどの尾形先生とは違い、名取は俺がどう思っているかをズバリと当ててきた。同じ学生目線だから分かるのか、はたまたコイツが賢いのか。……いずれにせよ、当たりだ。
「けど尾形先生から病人扱いだよ。ほんと、やってられない」
「うーん……。でも確かに原因不明となるとねぇ。じゃあさ、病気じゃないとして、何か心当たりとかはあったりするの?」
「……ねえよ、そんなもん」
思い当たる節もない。俺はただ不可抗力にやられているだけだ。それでいいだろうに。
だんだんと不機嫌になっていく俺を見て何かを感じ取ったのだろう、名取は小さく「あ、ごめん」とだけ呟いて顔を上げた。それから強引に話を切り替える。
「とりあえず、何かあったら言ってね。最大限のサポートはするから」
「いいよ、そんなもん。俺なんかに構ってないで自分の勉強しないと、成績落ちるぞ?」
「俺なんか、って……。湊人どしたの? 今日いつになくテンション低いよね」
「ほっとけ」
眉をひそめて心配そうに俺を覗き込んでくる名取を邪険にあしらう。
何が嫌だったのか、だんだんと忘れていく。ただ、いつの間にか不機嫌になっていた。原因がはっきりとしないんじゃ、解消も難しいだろう。
場が次第に凍り付こうとしているその時、職員室の引き戸が開いた。達樹かと思ったが違う。顔をのぞかせてきたのは女性。おそらく松島先生だ。
「美海、いるならさっさと書類出してちょうだい」
「あ、松島先生。お疲れ様です。……じゃ、湊人。またね」
小さく手を振って、連れられるように名取は職員室へと飲まれていく。そうしてようやく落ち着いた台風に、俺はもう一度大きな息を吐いた。それから壁にもたれかかって、目を瞑って時を過ごす。窓から差し込んでくるオレンジ色の光線は、目を閉じていても存在感をあらわにしている。
十分、二十分……。
「……帰るか」
分かってはいたが、呼び出し常連の達樹がそうやすやすと解放されるはずもない。やれやれと心の奥のほうで呟いて、俺は職員室を後にした。