学校を出ても、俺を待つ存在はどこにもいない。
寮生である俺は、本来学校と寮を行き来するだけの存在にすぎない。……が、一人ですごすごと寮に帰ったところでやることなどないし、ただ空虚な時間が訪れるだけだ。
それよりは、どこか時間の経過を忘れられるようなところでぼんやりと時間を潰す方が好きだった。だから俺はいつもと変わらない歩幅で慣れ親しんだ場所へ向かう。
学校から一キロくらい離れたところを流れる川、その河川敷の、誰の目にも止まらない場所で俺はゆっくりと寝転がる。目の前には、風に靡かれて動き続ける雲があるだけだ。
「……くそっ、やっぱり苛々する」
本来なら無心になれるはずのこの場所ですら、どうしてもさっきの尾形先生の言葉が気になって仕方がなかった。……俺は、なんで寝てるんだ?
「よっ、おまたせ」
「うわっ⁉」
その時、視界にぬっと顔面が現れた。驚き、体が飛び跳ねる。ゴン、と鈍い音を立てて俺の頭は覗き込んできた頭とぶつかった。二人とも悶絶し、額の方を抑える。
「いってー……。何すんだよ湊人」
「それはこっちのセリフだバカ。あーくそ、いてえな」
大きなため息を吐いて、また身体を芝生にぶつける。そんな俺の隣に達樹は腰を下ろした。膝を抱えて座り、流れの早い川の水を眺める。
「待ってくれなかったのかよ、悲しいぞ」
「バカ言え、待ったよ。ニ十分くらい。けどもっとかかるだろうなって思って、帰った」
「帰った、ねぇ。それだったら寮にいるはずなんだけど?」
「……」
達樹は俺が寮に帰りたがらないことを知っている。……高校に入ってから一番同じ時間を過ごしているわけだから、当然と言えば当然なんだけど。
「まあいいよ、俺の知る場所にいてくれたんだし」
「別に待ってたわけじゃない」
「はいはい分かってますよ」
いくら冷たくあしらっても、こいつは効いてる素振りの一つも見せない。またいつものようにヘラヘラと笑って、その場をやり過ごす。しばらく黙り込んだ後、達樹は俺の聞き馴染まない言葉をぽつりとつぶやいた。
「……ナルコレプシー」
「は?」
「湊人が急に眠るそれ、ひょっとしたらナルコレプシーじゃないのか?」
「……なんだよ、お前まで病人扱いかよ」
露骨に不機嫌になる俺を前にして、達樹(たつき)はいつもの軽薄な笑みを控えて真っすぐ答えた。
「ああ、そうだよ」
「なっ……」
こいつが遠慮しない人間であることくらいは知っていた。けれど、俺の気分を害することを分かってもなおそう答えた達樹(たつき)に、俺は閉口せざるを得なかった。
達樹はなおも色のない表情のまま、さっきの言葉の続きを語りだした。
「一応、前々から気になっていてな、ちょいと調べたんだよ」
「……で、そのナルコなんちゃらってのは一体なんなんだ?」
「湊人を襲ってる症状そのまんまだよ。ストレスやらなんやらが起因して、突発的に急な睡魔に襲われること」
「……ちゃんと寝てるはずなんだよ、夜間は」
少なくとも十一時には眠りについているはずだし、驚くほど早い起床というのも身に覚えがない。それでもまだ寝足りないというのだろうか。
「通常の睡眠量とはまた別問題らしい。さっきも言ったけど社会ストレスとか、病気の兆候とか、そういったものが原因になることが多いらしい」
「……自覚はねえよ」
「だろうな。見てわかる」
淡々と語り続ける達樹(たつき)に、そんなの迷信だと当たりたくもなった。だけどそうできないのはきっと、俺が達樹(たつき)の言葉なら信じられると思っているからなのだろう。
……なら、ナルコレプシーだったとして。
「……もし仮にストレスが原因だとしたら、それはなんなんだろうな?」
「俺が主に、おそらく、十年前の……」
その時、頭に電撃が走ったような気がした。何かの神経を遮断されたような感覚。目がちかちかとして、頭が痛くなる。
そしてそれは、睡魔へと変貌する。
瞼が重たい。達樹の口が動いているが、何を言っているのかが全く聞こえない。次第に意識も朦朧として、ついには瞼を閉じてしまう。
……。
…………。
「……ん」
「ああ、起きたか」
もう一度瞼を開くと、頭上の空は星明かりに変わっていた。そこで過度な時間の経過を知る。……どうやら、眠ってしまっていたみたいだ。
「えっと……達樹、何を話してたんだっけ?」
「ナルコレプシーについて」
「ナルコレプシー……って、なんだよ」
聞いたことある言葉の気がする。けれど、それがどういうものだったか、その説明を思い出せない。眠る前の記憶が凍り付いて、どこかで引っかかっている。大体、俺はなんで眠っていたんだ?
それの答え合わせをするように、達樹は説明を始めた。
「ストレスとか病気やらで急な睡魔が襲う症状。それは夜の睡眠量は関係なしにな。……おっと、病人扱いするのかとか聞くなよ?」
「……分かったよ、多分そうなんだろうな。ちょっと思い出したよ」
何の話を聞いていたのかはっきりと思い出せはしない。霞みがかった記憶の霧が晴れることはないが、一つだけ言えることがあるとしたら、今の俺の症状は達樹が説明しているもので間違いないという事だ。
……でも、だからってどうしろって言うんだ?
その答えはすぐに思いつくものではなかった。というより思いついているのなら、今更こんなことにはなっていないはずだ。
俺が一人で悶々としているのをよそに、達樹は何か口ごもっていた。何かを言いかけようとしては、とどまっている。
「……何か言いたいことがあるなら、言えよ」
「いや、言わない。言ってしまったらお前、また眠るかもしれないし」
「なんだと? 俺がなんでこうなっているのか、分かってるみたいな言い方しやがって」
ムッとなり言い返すが、それよりも強い語気と姿勢で達樹(たつき)は答えた。
「分かったんだよ、今実際目の前で眠られたんだからな」
「……」
「ただ、もしこれが正解なら、これはお前自身がそれを理解しないと乗り越えられないんだよ。俺や周りの人間が言っても、またさっきみたいになるだけだし」
「なんだよ、よく分からねえこと言いやがって」
達樹が何かをしようとしているのは分かる。けれどその意図も実態も理解できない俺が、目の前に打ち出された問題を見て見ぬふりなどできるはずがない。
けれど達樹の意志は固いようで、それ以上この話を広げるつもりはないみたいだった。俺も諦めて、一旦全てを忘れようと試みる。
……でも、そう言えば。
「なあ、達樹。俺が見る夢の話、したことあったか?」
「夢? 聞いたことないね。何かあるのか?」
「いや……それが」
声が聞こえる。誰かに毎日語り掛けられているような気分だ。それはどこか懐かしい声色で、俺の名前を呼んでいる。毎晩、毎晩。
男の時もあれば、女の時もある。時には小さな子供も来る。顔は見えないが、声は確かだ。
そんな脈絡もない、不思議な夢の話を達樹にぶつけてみる。達樹は顎に手を当ててしばらく考え込む素振りを見せていたが、やがて諦めたのか両手を横に投げ出した。
「ダメだ、色々考えてみたけど分かんねえや」
「別にあれこれ考えてくれって言ったわけじゃない。ただ、そんな変な夢を見るって話をしたかったんだよ。毎晩毎晩、こんなのばっかりでさ」
「別にそれで眠りが阻害されているってわけじゃないんだろ?」
「まあ……」
「なら、いいんじゃねえか?」
ごもっともだ。おかしな夢を見るだけであって、気分を害されるわけではない。……それどころか、懐かしさすら覚えそうなその声は、どこか俺の心に安心を与えてくれている。
「……ま、そうだよな」
大きく息を吸い込んで、俺は言葉と一緒にそれを吐きだした。ここから先は言葉にはしないけど、あの夢ばかりが続いてくれたら、そう思ってもいる。
話に一区切りがついたところで、グーっと達樹が背を伸ばす。
「んじゃま、そろそろ帰ろうぜ。そうは言ってももう七時半だ。辺りも真っ暗だしな」
「悪いな、急に寝てしまって。というか、どうやって時間潰してたんだ?」
「ふふん、見とけよ」
俺が尋ねると、達樹(たつき)は少し上機嫌になって川の水面付近まで歩み寄った。そこから手ごろな平べったい石を捕まえて、横手で鋭く投げぬく。
それは幾回かのバウンドを経て、確実に向こう岸へとたどり着いた。その、「あり得そうであり得ない」光景に俺は目を疑う。
「……ここの川、対岸まで四十メートルは平気であるんだけど?」
「だから練習してたってわけ。やっぱこう、くだらない技能を習得するのは楽しいな」
それをくだらないと認めた上で行うあたり、達樹(たつき)は本当に狂人以外の何者でもないだろう。……だとすると、今日職員室に呼び出しされた理由もろくなものではないはずだ。
訝しんで、それを問う。
「なあ達樹、大体お前はなんで今日呼び出し喰らってたんだ?」
「ああ、あれだよ。先週テストだったじゃん? んで明日からテスト返しじゃん? 先に点数を教えられたんだけど、全科目五十五点狙いがバレたみたいでさ」
「お前、あれ本気だったのかよ……」
テスト週間を迎える少し前、達樹から全科目五十五点宣言なるものを聞いていた。もちろん、そんなもの簡単に狙えるものではないと高を括っていたわけだけど……。驚嘆とも、たんなる嘆きとも取れるため息が一つ零れる。
「ま、いい線いってたよ。国語が五十二、数学が五十五、英語が六十で地学基礎が」
「もういい、どうせそのうち見ることになるんだし、それくらいにしとけよ」
やはりこいつは馬鹿を通り越して狂人だ。認めざるを得ないだろう。……でも、なんだろうな。やっぱり狂ってるからこそ、俺と波長が合うのだろうとそう思える。
いつしか、自分が何かおかしなものを持っていて、それで睡眠障害が起こっていることを素直に理解できるようになっていた。それについて怒る気持ちも、今はない。
どうやら今の俺には、先を生きる人間よりも、親族よりも、こいつの言葉がなによりも突き刺さるみたいだ。……なんて、簡単に言うと調子に乗るから言葉にはしないけれど。
「さ、今度こそ帰ろうぜ。寮の門限ももう近いだろうし」
学校の方を指さして、達樹は俺の返事を待たずに先を歩き出す。言葉にしなくても俺が着いてくるものだと思っているのだろう。
俺はその思惑に乗って、ゆっくりと歩を進めだした。行きよりも、足取りは少しだけ軽い。