やさぐれ天使と俺の、厄災をうちはらう正義の話(旧タイトル:でこぼこバディ) 作:朝食付き
──日常は崩壊する。
オフィスでパソコンに向かう一人のOLがふと空腹を覚える。昼食を取ったばかりなのにおかしいなと腹をさする。
遅めの昼ご飯を掻き込むサラリーマン。ろくに噛まないからいつも食べ過ぎてしまう。それでも満腹感が感じられないことに疑問を覚えながらもおかわりをする。
ダイエット中だと言っていつも小さな菓子パンしか食べない女子高生。いいかげん慣れたはずの空腹感がいつもより大きい。たまにはハメを外してもいいよねと、もう一つパンを買いに行く。
懐から飴を取り出す老婆。コンビニでホットスナックを買う学生。小学生はお腹を水で満たすように水道に並ぶ。それぞれが小腹を満たそうと、何かしらのものを口に入れていく。しかし空腹が収まることはない。
次第に気がついていく。これはおかしい。どれだけ腹を空かせていようが、食べたら食べただけ腹が膨れるのが道理だ。たとえ一欠片の砂糖ですら、一時を紛らわせることができるのだから。だというのに、飴玉に菓子パン、水もコーヒーも山盛りの白米でさえ空腹を満たすことができない。
食べても食べても底なしの欲求が体を苛む。目の眩むような空腹感。それはすでに空腹というよりは飢えと呼ぶべきだ。本能が叫ぶ。このままでは飢えて死んでしまうと。もっと食べなければならない。この飢えを満たせと全身が訴えかけている。
確かに食事をとっている。食べ物の食感、香り、見た目にも食べていることははっきりしている。それでも満腹につながることはない。いや、それどころか食べれば食べるほど空腹が加速する。腹がすいたという一言すら思い浮かべられない。
手元の食べ物はすぐに食べ尽くしてしまう。それでも飢えは続き、だんだんと体から力が抜けていく。食べなければ動けない。当然の理が、理不尽な欲求に屈する。すでに立ち上がる力すら奪われ、ただうずくまっていく。
そんな彼らを取り巻くように、白い靄が浮かんでいる。苦しむ人から“何か“を盗み取り、白い靄は蠢く。
パンドラモンはそれを見下ろしている。黒い靄──ゾンビタトゥーに包まれ真っ黒になったデジモンを従え、ビルからビルへと飛び移っていく。苦しみに喘ぐ人々を嬉しげ眺め、あざ笑いながら。
***
この世界はパンドラモンにとっては理想的な餌場だ。例えるなら非常に心地のいい三つ星レストラン。たかが成長期程度のデジモンであっても、少し暴れさせるだけで負の感情がいくらでも手に入る。デジタルワールドで得られたそれなど薄い出涸らしにしか思えないほど、リアルワールドの人間が齎す感情というのは芳醇だ。恐怖一つとっても怯え、不安、逃避、願望。複雑な思考が絡み合ったそれは全てがごちそうだ。いつまでも飽きることのないメインディッシュ。
ただ、この快適な環境にも邪魔者がいた。あの忌々しい天使だ。
耳障りな笑い声で不快な光を撒き散らす天使。パンドラモンにとっての悪魔。パンドラモンが苦労して調整したゾンビタトゥーを破壊し、人の負の感情を散らしていく。最近では奴が現れるだけで絶望が薄れていく。そもそもとしてパンドラモンの力は天使の持つ力と相性が悪い。数で押そうが力押しだろうが、パンドラモンの攻撃をスルリと交わし、こちらの勢力を的確に削っていく。鬱陶しいことこの上ない邪魔者だった。
しかしそれも終わった話だ。あの小娘と虎の子の究極体を使った甲斐はあった。溜め込んだ力の大部分を放出することになったが、天使の力の源である生意気な人間を世界から追放することができた。理解に苦しむことに、わざわざ人間に力を預けていたらしい。おかげでひ弱な人間一人いないだけで、見事に役立たずの鶏がらに成り下がっている。無様すぎて自然笑みがこぼれる。
思えばあの人間もパンドラモンからすれば不愉快の塊である。どうもパンドラモンの考えを読んでいたふしがある。いかにも単細胞で頭の足りていない天使が曲がりなりにも戦えたのはあの人間の入れ知恵なのだろう。
ケレスモンを操っていたゾンビタトゥーのコア、そこに叩き込まれた蹴りはパンドラモンにまで衝撃が届くほどの力が込められていた。ケレスモンの墜落で街が破壊される直前の、追い詰められていたはずの状況。だと言うのに、パンドラモンへ伝わってきた力を構成していた感情は、純粋な光そのものだった。頭の固い天使などよりよほど恐ろしいもの。一切の疑いなく自分の去就を委ねられるほどの信頼。未来を思い描く希望。パンドラモンが求める"負"とは正反対の感情。あの瞬間に感じた言葉にできない畏れは、パンドラモンにとって許容できないものだ。
だからあっという間に味方のはずのホーリーエンジェモンのゲートに吸い込まれていった時にはらしくもなく快哉を上げたものだ。力も知恵もないまさに鳥頭だけがこの世界に残るとは、なかなか愉快な話である。
もし、人間がパンドラモンの脅威となりうるのなら、人間を動けなくしてやればいい。新たな災いは、人を苦しめ、思考を制限し、負を捧げるだけの贄とする。この白い靄がいくらでもパンドラモンを強くする。唯一の懸念を除去できた以上、パンドラモンの行手を阻むものなどない。もはや天使などものの数ではない。たとえあの天使連が押し寄せてこようとも、パンドラモンに負けはない。
この世界はずいぶんと広くて、負の感情が尽きることがない。パンドラモンは生まれて初めて満足という感情を覚えていた。一つとして同じものはない、人間の心の動き。それが生み出し続ける甘露を延々とすすり続けることが出来る、まさに天国だ。
ああ、人とはなんと愛おしいことか!パンドラモンの欲望と笑みが途絶えることはない。
***
生み出した災いとは、”飢餓”。生きるものが逃れえぬ欲求を溢れさせる。白い靄をわずかでも吸い込めば、本能を暴走させ、空腹が体を満たす。代わりに人に与えられるのは生命。どれだけ食べ続けようと、どれだけ絶食しようと、白い靄が命を繋ぐ。ここはパンドラモンのための食卓。この世界の苦しみはパンドラモンへ供するための食材だ。白い靄はさながら料理人でありウェイターである。その営みを途切れさせるわけにはいかない。苦しみに喘ぐ人々は、永遠に贄となり続けるのだ。
***
街を白い靄が蹂躙していく。
無論黙ってみているホーリーエンジェモンとテイルモンではない。ホーリーエンジェモンが窓から一気に飛翔する。テイルモンは一瞬迷ってから、尻尾の先についたホーリーリングを外す。状況が分からない中離れたくはないが、ホーリーエンジェモンを野放しにすることもできない。代わりに自身の力を蓄えているリングを枕元に置いておくこととした。小さくとも守りとして十分に機能するだろう。最後にノートの切れ端に大人しく待っているようにとメモ書きを残す。そして草太の部屋を飛び出して行った。
先行して白い靄に接触したホーリーエンジェモンは、この靄に違和感を覚える。これまでの黒い靄と異なり、そこにあるのに上手く認識ができない。見下す先には苦しむ人々。この白い靄が、人の近くに集まっている。まるで白い繭に包まれたようにその姿を覆い隠す。
明らかな異常。これまで黒い靄が人そのものを狙うことはなかった。しかしこの白い靄は人に集っている。何かがこれまでと違っている。それでも靄は靄である。パンドラモンが作り出した悪意の結晶である以上、ホーリーエンジェモンの力が効かない道理はない。4対8枚の翼が大きく風をはらみ、柔らかな光を乗せて街へと吹き抜けていく。
だが、風に揺らぎもせず、依然として白い靄はその場に漂い続ける。揺らげど薄れず、人から離れることもない。
想定外の現象に戸惑うホーリーエンジェモンに、遅れてやってきたテイルモンが声をかけてくる。
「ホーリーエンジェモン、あなたは下がっていてください。」
「ぬかせ、この程度吹き散らしてくれる。」
「それより街の人を避難させてください!まずは少しでも被害を抑えなければなりません!その間に私がこの靄を調べます。いいですね?」
「……ちっ、いいだろう。言い出したのならやって見せろ。人の避難は屋内ならどこでもいいな?さっさと済ませてパンドラモンの捜索にかかるぞ。」
いうや否や路上にうずくまる人々を抱き抱えて近くの民家や店、少しでも横になれそうな場所へと避難を開始していく。その間にも白い靄は、駅周辺から徐々に広がり続けていくのだった。
***
その日のうちにテイルモンの調査は完了した。
苦しむ人たちからのヒアリング──苦しみへの耐性には個人差があるらしい──まだ話す事のできる人によれば、突然に空腹が始まり、何を食べても満たされることがないのだという。靄は街の人にはみえておらず、ひだる神の祟りであると怯える人さえいた。
重度の飢餓感は大人に子供、男女問わずに生じており、信じがたいことに犬猫にそこらの鳥にネズミでさえ無縁ではなかった。
この白い靄が効かないのは、デジモンだけ。実際どれだけ白い靄の中で活動しようとホーリーエンジェモンどころかテイルモンでさえ欠片も影響を受けることはなかった。
これまで黒い靄は物理的な影響はともかく、ゾンビタトゥーの効果が人に対して効果を齎すことじゃなかった。だがこの白い靄はその逆である。まさにリアルワールドに特化した災いである。
靄は依然として街の中心から徐々に広がりつつあり、現状ホーリーエンジェモンたちはこの被害の拡大を防ぐ方法を見出せていない。パンドラモンさえ討てば拡大は止まるだろうが、この飢餓を解消する方法がない。
かつてデジタルワールドでパンドラモンが猛威を振るった時には、ゾンビタトゥーも黒い靄も天使型デジモンのもつ聖なる力があれば除去できた。しかしこの白い靄はそれが通用しない。パンドラモンを仮に封印、もしくはデリートできたとしてもこの飢餓が消える保証がないのだ。
さらにタチの悪いことに、この靄は空腹が齎す苦しみを吸い取り、代わりにわずかな生命力を人に注いでいる。生きていくために最低限の保証がされているのだ。まるで点滴かのごとく。死に至ることはなく、延々と苦しみだけが続く生き地獄。また、飢餓の状態が酷い人間については、食べている感覚すらないままに食事を続けている。どれだけ腹がふくれていようと、飢えの苦しみが手を止めさせない。たとえ腹が破れようと食べるのをやめられないのだ。どれだけ苦しませることになろうと、食べ続けることだけはやめさせなければならない。
報告を聞いてホーリーエンジェモンが慌てて店に避難させた人々を再度別の場所へと避難させていくこととなった。