やさぐれ天使と俺の、厄災をうちはらう正義の話(旧タイトル:でこぼこバディ)   作:朝食付き

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2.出会い

 

 そもそも草太とホーリーエンジェモンはなぜ、このように一緒に歩くことになったのか。

 このお互いにとってストレスの溜まる共同生活を説明するためには、しばし時間を巻き戻す必要がある。

 

 その日は、草太が夢を諦めた日、希望のなくなった日だった。そして、騒がしい毎日の始まりだった。

 

***

 

 その日草太はいつになく浮かれていた。

 中学の時に膝を痛めてから、長い間草太の膝を包んでいたサポーターを外していいと許可が出たからだ。前日の診察では医者からのゴーサインに何度もいいのかと確認をして看護師に笑われるほどであった。ドキドキしながら、遮るものが1枚なくなりすぅすぅする膝をさする。たった一枚のサポーターであっても、あるとないとでは大違いだ。膝に触れる学生服に心地よさを覚えながら登校した。

 高揚する気持ちを抑えながらも、その時を待つ。午後イチの授業は体育だ。しかも今の時期はサッカーだ。それがたまらなく楽しみで、それを悟られるのも恥ずかしく感じていつもより仏頂面でいた。待ちに待った体育に向けて体操服に着替えると、剥き出しの膝が見える。よく話すクラスメイトも、初めてサポーターを付けていない草太に納得顔だ。だからそんなに機嫌良かったんだなと、嬉しさが隠しきれていなかったらしい。昔は冷静な司令塔でポーカーフェイスだと言われたこともあるというのに!

 

 高校のグラウンドに明るい日差しが降り注ぐ。

 地方の高校らしく、校庭はサッカーと野球と陸上競技が同時にできるほど広い。そんなだだっ広い中を、同じ色の体操服に身を包んだ男子生徒たちが塊になって一つのボールを追い回している。ポジションも戦略もあったものではない。ギリギリゴールキーパーだけがポジションを守っているといえる。いつもはもう少し秩序だっているのだが、体育の教師が急用で席を外した先からこれである。

 

 草太は暴動染みた集団にまじりたくはなかったので、校庭の隅で少しだけボールを蹴ることにした。

 持ってきたボールを地面につく。ボール入れから少しでも綺麗で空気の入っているボールを持ってきた。何年も使われているものばかりなので傷だらけだが、今の草太には輝いて見えた。

 あまり人が来ない校庭の隅なので、ところどころ雑草が生えてきている。男子の野太い叫び声も遠く、校舎からの影でこの辺りだけ少しだけ暗く見えた。

 

 昔練習の前に行っていたウォーミングアップから始める。身体中を温めるように伸ばしていく。そしてそっとボールに触れる。足の裏を使ってグニグニと、足首の運動を兼ねてボールを回す。丸いボールをさらに丸くするように、コロコロとその場から動かず、足とボールだけを動かす。ひとしきりこねくり回して満足したら、次に壁に向かってのパス練習。蹴るのは久しぶりだからか、狙いが逸れて思ったよりも離れたところにボールが跳ね返っていく。地面の凸凹や雑草に遮られてコースが変わる。その度に追いかけて足元に戻す。ぎこちなかったボールさばきはみるみるこなれていく。

 たわいないボール遊びで、ただ遊ぶのならば十分な程に足はよく動いた。

 どれもが草太にとって馴染んだ感覚であり、すでに懐かしさすら感じられる感覚だった。足に吸い付くようだったボールはすぐに離れていく。ボールの軌道全てを見通せたはずの予測能力は、ボールを受け止めるのにも苦労する始末。

 寝ても覚めてもサッカーのことばかりを考えていた。なのに、あれほど明瞭に感じられたすべてが、どれもこれも致命的にずれて感じられる。

 日陰の中、対して走り回ってもいないのに汗が出てくる。少しずつ、芯から冷えていくような気がしている。

 

 一度足元にボールを止める。足の裏で触れるボールの感覚を確かめようと、ボールだけを見て足を動かしていく。踵から指先、母指球に土踏まず。ボールに触れる位置を変えていく。なのに、触れているボールの位置がイメージから、ずれる。

 一歩下がってから、ボールを壁に向かって蹴る。校舎の壁に付いている染み。そこに向かって何度もボールを蹴る。一球一球がサイコロを振ったみたいにランダムにブレる。頭の中にあるイメージに、身体が一致しない。

 なにより、ボールを蹴るたびに痛みの恐怖が臓腑をざわめかせた。クラブでの練習試合で起きた接触で、草太は人生で初めて骨身を貫く痛みを感じた。もう治ったはずの傷。消えたはずの痛み。それが再び草太を痛めつける。なんてことのない一蹴りが、ボールを蹴るほどに、痛みを想起させていく。

 痛みはないと分かっていても、もう大丈夫だと考えていても、恐怖が身体を硬くする。人間の体は心を無視して動かすことなどできないのだ。

 もう治っていると強く言い聞かせる。痛みがないのに膝を庇うのをやめられない。それを糺そうとするせいで、さらにバランスが崩れていく。

 

 ボールの蹴り初めにあった表情など、とうになく。ただ追い詰められた表情だけが浮かんでいる。

 

 リフティングが得意だった。今はろくに続けることもできない。

 ワンタッチでのパスに自信があった。今はゆっくり動くボールですらコントロールできない。

 コーナーキックもフリーキックも、いつだって自分が蹴ってきた。セットプレイなら草太の独壇場だった。今ではみっともない姿を晒している。

 

 理性はだんだんと理解をし始めている。感情は理解を拒む。

 

 ボールを止めて、それから空いているゴールに向けて蹴り込む。理想のフォームから何もかも外れた、落ちぶれたシュート。痛みを恐れて縮こまる身体に力強さなどかけらもない。

 ボールは緩やかな弧を描き、二度三度と弾んでからゴールに転がっていった。

 

 その時に草太は思ってしまった。どんなにリハビリが辛くとも、思い浮かべることすら拒絶していたはずの考えを。

──もう、あの頃の感覚は戻らない。もう、戻れないのだと。

 

 授業の終わりの鐘が聞こえてきた。その後のことは草太はあまり覚えていない。

 

***

 

 学校が終わって、後は家に帰るだけ。でも草太には家に帰る気力がなかった。

 部屋にはサッカーボールがおいてある。ユニフォームに、トロフィー。もう戻らないものだ。せめてこの気持ちの置き所が見つかるまでは帰りたくなかった。

 

 だからだろう、いつもは通らない路地に気まぐれに入った。

 それまで何も耳に入らないくらいぼうっとしていたのに、初めての道だからか妙に気になる音を聞いてしまったからだ。

 何かがぶつかるような低い音が一つと、誰かの悲鳴を。

悲鳴など聞く機会などあるものではない。だから危機感もなく、訝しげに曲がり角を覗いた。

 そしてそこに怪人──牛の頭を持つ巨漢──に襲われる人を見た。

 

 草太が覗いた路地からは、その巨漢、ミノタルモンの背中が見えた。

 当然草太には気が付いていない。だから草太には君子危うきになんとやら、さっさと逃げることも出来た。

 たとえ着ぐるみであったとしても牛の頭をかぶっているような人間は何を考えているかわからないし、着ぐるみに見えない存在感に危機感を感じているのも事実だった。

 

 だが、草太はつい、襲われている人の顔を見てしまった。

 

 どこにでもいそうなサラリーマン。中年の男性で、少し髪が薄い。剃り忘れたのか、それとも伸びるのが早いのか、うっすらとひげが伸びていてだらしなさを感じる。仕事終わりなのだろう、ネクタイは緩められている。

 普通にすれ違ったならば目を留めることすらない、どこまでも普通のサラリーマン。

 存在さえ頭に残らずに過ぎ去っていく、全くかかわりのない人間。

 

 でもその顔は恐怖に歪んでいた。目尻からは涙がこぼれ、鼻水が垂れている。うずくまるように片腕を抑えながらも、目の前の脅威から目をそらすことすらできないほど、恐怖を顔に映している。

 

 それを見て、異形の怪人は石をすり潰すような音をたてて笑っている。腕にはうっすら砂が付いている。近くの壁に大きな陥没。先ほどの音はこの陥没ができたときのものだろう。理屈なしにそれができる力の持ち主であることを感じる。人一人を捻りつぶすことだってたやすいはずだ。

 

 そしてそれがこのサラリーマンに対して向けられている。

 

 怪人はゆっくりとサラリーマンへ近づいていく。ぶらぶらと鈍く光る左腕を揺らしている。

 下卑た笑いが続く。心底嬉しそうに、人を傷つけようとしている。

 

──あのサラリーマンは助からない。

 

 もしあの怪物がただのチンピラ程度だったら割って入ることぐらいはした。警察を呼んでもいいし、サラリーマン一人引きずって逃げることだってできる。

 でもそれは無駄だ。無駄に死者が増えるだけだ。それが分かってしまう。

 ここにいるのは人並みの高校生で、割ってはいれば潰れておしまい。引きずって逃がそうったって少し寿命が延びるだけ。

誰だって自分の命が一番大事だ。だから見捨てることは恥ではないし、ましてや悪になるわけもない。

 

 だから、そうしたのはただの意地で八つ当たりだった。

サラリーマンのくしゃくしゃの泣き顔が、さっきまでの自分のように思えた。このどうにもできない現実を、どうにかしてやりたかった。

 

 路地に転がる石と空き缶を静かに拾い、草太は石を牛頭の後頭部へ投げつけた。投げるのは専門ではないが、見事直撃。

 そして振り返った所に空き缶も投げつける。空き缶は右目付近に当たった後、地面に落ちて音をたてる。

 カランカランと路地に響く空き缶の音。振り返った牛頭の目が草太へと焦点を結ぶ。

 どうも牛頭は機嫌を悪くしたらしい。重低音の唸り声。完全にこちらをターゲットにしたようだ。

 

 視界の隅ではおじさんが呆気にとられて草太を見ている。まだ状況を理解していない顔。でも、もしかしたら助かるかもという希望、そして代わりに殺されるだろう草太への罪悪感が見えた。

 

 自分でもバカなことをしたという気持ちがあるからこそ、奮い立たせるように軽口をたたく。

 

「悪いけど、むしゃくしゃしてるんだ。ちょっと付き合ってくれよ。」

 

 牛頭であっても言葉は通じるらしい。たわいない挑発ではあったが、目の色が変わった。この生意気な人間をつぶしてやる。そういう顔をしている。

 

 振り返って全力で走る。膝が痛むかもしれない。また歩けなくなるかもしれない。草太は別にそれでもかまわなかった。ボールを蹴れないのならば、どちらであっても大差ない。むしゃくしゃしている、というよりは完全に自棄になっていた。

 

 路地を走って逃げる。後ろからはドスドスと響く足音。見なくても分かる、怒りの追撃だ。

 幸いにもあまり足は速くないようで、追いつかれる気配はない。左腕だけが金属でおおわれているのだ、まともにバランスを取って走れるわけがない。その読みが当たった形だ。

しかし、どこまで逃げればいいかはわからない。

 あの怪物を誰が止められるのか。お巡りさんには悪いが、拳銃程度で止められるイメージがわかない。

 自衛隊でも読んでもらうべきか。ただ少なくとも、少なくともあのサラリーマンがこの場を離れるまでは走らなければならない。

 

 そう考える草太だったが、ミノタルモンからするとお楽しみの時間を邪魔した挙句、不愉快な思いをさせてきたひ弱な人間である。

 この手で八つ裂きにする。足を潰し、腕をちぎる。泣き叫ぶ声を聞くのが待ち遠しい。

 どうせ疲れてすぐに動けなくなる。だからこの追いかけっこも愉快なものだ。

 そう考えるミノタルモンの首元には黒い刺青のような染みが急激に広がりつつあった。

 

 逃げても逃げても引き離せない。草太も当然気が付いていた。あの怪人はこちらが疲れて動けなくなるのを待っている。まだ体力は残っているし、幸いにも他の人が巻き込まれるような状況にはなっていない。だからどうにか逃げられる間に対策を考えるしかない。

 

 そう考える草太であったが、逃走劇の終わりは突然である。命がかかった追いかけっこはたやすく人の体力と集中力を削り取る。どちらもなければ注意力だって散漫になる。つまり、街路樹の根っこに突き上げられた道路に躓き、草太は転倒した。

 

 ごろごろと勢いそのままに転がり、それでも必死に体を起こす。

 ここぞとばかりに距離を詰めてきたミノタルモンは、三日月のように目を細めて口を歪める。

 見せびらかすように鋼の左手を揺らす。

 ゆっくりと近づいてくる。なんと嬉しそうな表情であることか。

 絶対的な強者が弱者を嬲る。幼子が虫の足をちぎるように、この怪物は自分を痛め付け、そして殺す。

 

 これは楽に死ねないな。荒い息遣いのままそう思う。

 

 草太まであと一歩の位置でミノタルモンは足を止める。あえてゆっくりと鋼の左腕を掲げる。

 水の中に顔を突っ込んだようにごぼごぼとした聞き取りにくい声が発せられる。

 

「オマエ、グシャグシャ!!」

 

 その左腕が振り下ろされる寸前、白の影がミノタルモンを横から吹き飛ばしていった。

 哀れ吹き飛ばされたミノタルモンは民家の生け垣に突っ込んでいく。

 

 死の象徴と化した、暴力の塊。それが空のダンボールのように容易く吹き飛ばされていった。驚くべき状況ではあるが、さっさと逃げ出すべき状況にほかならず、せめて怪人の状態を確認することが必要だとはわかっていた。だが、怪人のことなど忘れたかのように、突如現れた”それ”から草太は目を離せなかった。

 

 地上から1m程度の高さに、空気を踏み固めるように立っている。

 神々しいほどの光を放つ白い翼。体を取り巻く金の帯がたなびく。しなやかでありながら力強さを感じさせる厚みのある肉体と、目元から頭を覆う仮面。

 

 ちょうどミノタルモンがいた場所にふわりと降り立つ姿は紛れもなく天使そのものだった。

 

 その天使が口を開く。

 

「所詮は畜生だな。おい、草に塗れてさぞ満足だろう?うまいか草は?」

 

 耳を疑う罵声が出る。透き通るような声、というので間違いはない。所作も美しく、上品ささえ感じさせる。だが、その口からは出る言葉のことごとくが、よくてチンピラだった。

 ミノタルモンは角を引っ掛けたのか、なかなか生け垣から出てこられない。吹き飛ばされ、一方的に浴びせられる罵声への怒りで頭が回っていないようにも見える。

 

 唖然とする草太へ天使が向き直る。目元はその仮面で見えないが、草太をじっと観察していることが分かった。

 

「………いいだろう。私は、貴様を選択しよう。」

 

 草太には訳が分からなかった。命の危機に天使の出現。挙句自分を選ぶという。

 

「おい、こいつに決めたぞ。テイルモン、出てきて証人になれ。」

 

 何をと問いただす前に、猫のようなねずみのような不可思議な生き物がてててと寄ってくる。

 そして見た目にそぐわない森厳な声で天使を嗜める。

 

「あなたが決めるだけでは契約はなりませんよ、ホーリーエンジェモン。大事なのはお互いの合意です。説明したでしょう?」

 

そして草太へ向き直り、ペコリと一礼してから話し出す。

 

「突然のことにさぞ驚かれているとは思いますが、まずは簡単に説明をさせてください。」

 

 この猫もどきによれば、草太は何らかの理由でこの天使(ホーリーエンジェモンというらしい)と契約することを求められている…?

 困惑する草太だが、お構いなしに話が続く。

 

「いま、この街は危険にさらされています。あのミノタルモンのように、凶暴化させられたデジモンたちがこの街に送り込まれようとしています。その危険性は分かりますね?」

 

 つい1分前には頭をかち割られるところだった以上、疑いはない。頷く草太にテイルモンは続ける。

 

「結構。ではどうするのか。その答えが私たち、いえ、彼──ホーリーエンジェモンです。この世界に送り込まれたデジモンたちを元のデジタルワールドへ送還すること。それが私たちの使命です。そしてそれを成すのがホーリーエンジェモンとなります。私はその補助ですね。送り込まれたデジモンたちは、何者かによって強制的に凶暴化されています。あのミノタルモンの首元に、黒い刺青のような染みが見えますか?あれこそがデジモンを凶暴化させている原因です。そしてこの凶暴化させる染み──ゾンビタトゥーと呼んでいますが、周囲にも感染する悪質なものです。ですから、速やかにあのタトゥーを浄化することが重要となるわけですね。」

 

 ここまではよろしいか?目で問われる。草太としても危険な状況は理解しており、今現在としても続いていることもわかっている。

 

「私たちがあなたにお願いしたい契約というのは、このホーリーエンジェモンの力を開放するための権限を持ってもらいたいということになります。見ての通りデジモンというのはこの世界の存在と比べて、極めて異質な力を持っています。特にホーリーエンジェモンはその中でも上位の存在──完全体ですから、この世界に与える影響というものがどれだけのものになるのかが分かりません。少しでも影響を抑えるために、戦闘時以外にはできる限り力を押さえておきたいわけです。そしてもう一つ。この騒動には人間の関与が疑われているのです。ですから、この世界、リアルワールド側の協力が必要になると私たちは考えています。それゆえに、この力の開放をする役目を、ホーリーエンジェモンが選んだ、あなたにお願いしたいのです。引き受けていただけないでしょうか?」

 

 疑問はある。なぜ自分なのか。世界への影響とは何なのか。騒動の原因が人間だったとして、自分に何ができるというのか。草太の頭の中を疑問符が回る。

 しかし落ち着いて考える時間は誰からも与えられない。ミノタルモンがもがく音がどんどん大きくなっている。飛び出てくるまでの猶予はほとんどない。

 

 テイルモンの説明は我関せずとばかりによそを向いていたホーリーエンジェモンが、突然草太へと向き直り手を出してくる。

 

「デバイスを出せ。」

「ホーリーエンジェモン、今はスマホと言うのですよ?」

「…スマホを出せ。そいつを介して私と貴様との間にパスを繋ぐ。

私が必要と判断したときには、スマホに制限解除の申請が行く。貴様はそれを承認すればいい。そこの牛頭でも分かる簡単な話だ。」

 

 牛頭と呼ばれたミノタルモンだが、無理やりに頭を植木から引き抜こうと暴れ続けている。手入れの行き届いていないがゆえに如何なく絡みついていた生垣だが、ミノタルモンのパワーに次第に引きちぎられ続けている。あれが再び暴れだしたら、草太どころかこの天使と猫であっても無事である保証はない。

 

 鳩尾に手のひらを当てる。静かに深く、息を全て吐き出す。細く鋭く息を吸う。

 いやがおうにも決断しなければならない。いつだって大事な決断は突然に発生するし、ゆっくり待ってくれる余裕があるわけでない。

 あのサラリーマンの顔が浮かぶ。誰だって死にたくはない。

 チラリと膝をみる。どれだけ自暴自棄になっていたとしても、死んでしまいたいわけではないのだ。

 

 ポケットからスマホを取り出す。手が震えないように力を込めて、スマホをホーリーエンジェモンへ向ける。

 ホーリーエンジェモンがスマホの画面に一度指を触れる。するとスマホが震える。画面を見れば、通知が表示されている。

 

”通知:管理者登録の実行について”

 

 なんとなく、草太にはこれが自分の運命を決める決断なのだろうという自覚があった。

 

 何事もなく平穏に暮らしていく自分。わけのわからない戦いに巻き込まれていく自分。今、その分水嶺に立っている。

 だが、もしも本当にこれが運命の分かれ道であったとしても。草太が本当に欲しかった選択肢はすでにない。

 だから草太は迷わなかった。

 

 通知を開き、管理者登録を実施する。名前の入力欄に手書きで名前を書く。決定ボタンをタップすれば、味気もなくシンプルな表示で完了のダイアログが表示された。

 

「長峰草太か。」

 

 名乗ってはいない。だからこの通知が文字通り自分の名前も知らせたのだろう。

 わけのわからない状況は続いている。だが、目の前のこの天使が自分の命綱であることはわかっている。

 ぐっと腹に力を込める。

 

「お前はホーリーエンジェモン、だな。」

 

 ブルブルと通知が連続する。

”新しい通知:管理者として登録されました”

”新しい通知 ホーリーエンジェモンとのパスが生成されました”

 

「いいだろう、貴様が私の契約者【パートナー】だ。

申請を飛ばしたぞ?まずは力の開放を承認しろ。」

 

 画面には早くも新しい申請が届いている。

”新しい通知:[最優先]戦闘申請、力の解放申請が届いています。承認しますか?”

 

 顔を上げる。ミノタルモンがようやく生け垣から頭を抜いて、より興奮している。すでに言葉もめちゃくちゃで口角から泡が吹き出ている。正気ではない。凶暴化させられている。その言葉が真に迫る。

 ホーリーエンジェモンがチラと草太を見た。

 

”yes”、”no”

 スマホにはそっけなく2つの単語が並んでいる。お前が決めろと、決めるのはお前だと、そう突きつけてくる。

 

“yes“を押す。

 

 画面には通知アプリの画面だけが映っている。問題なく承認されたのかを確認すべく草太は顔を上げる。

 草太の目前では、ホーリーエンジェモンが8枚の翼を広げている。翼の一枚一枚が力ある神秘の光を宿している。輝きは辺りを照らし、飛び立つホーリーエンジェモンに残光を残す。ただの一息でビルなど飛び越えるほどの中天へ、心地よい羽ばたきの音を響かせる。空にあるその姿は紛う事なき大天使の存在感!

 だが神聖なる姿と裏腹に、響き渡る高慢さを隠さない高笑い。

 

「やはり空はいい!リアルワールドというのもなかなか乙なものだな! だが、お前はいらないな、ミノタルモン。大人しくするなら優しく首を切ってやるが、どうだ?」

 

 出てくる言葉にも神聖さは欠片もない。しいて言えば蛮族か。出会って間もない草太ですら薄っすら感じるほど、この大天使は異端児である。

 当然ミノタルモンが大人しくするはずもない。ホーリーエンジェモンに向かって威嚇を繰り返す。

 

「ははは、もう言葉も忘れたか!惨めなものだな!」

 

 微塵も慈悲を感じさせない言葉を放つと、ホーリーエンジェモンは瞬時にミノタルモンヘ接近し、輝く拳を叩きつけた。一撃二撃と重い音が響く。ミノタルモンも負けてはいない。痛みを感じていないかのように即時反撃を繰り出す。しかしホーリーエンジェモンの翼は伊達ではない。ミノタルモンの鉄塊の如き左腕を紙一重で躱し、風を巻き起こしながらも軽やかに身を翻す。ふわりとしていながらも素早く動く翼は変幻自在に風を打っている。しなやかな翼は、ミノタルモンの一撃を防ぐことさえしてのける。

 そして繰り返し何度も、その拳をミノタルモンへ加えていく。

 ミノタルモンがホーリーエンジェモンに向き直るより速く、それでいて的確に弱みをつく。明らかに格が違う。見る間に弱っていくミノタルモンだが、それでもその凶暴性は衰える様を見せない。

 

「テイルモン、あいつの体、黒い染みがだんだん小さくなってないか…?」

「よく気が付きましたね。あれがデジモンを強制的に凶暴化させる悪意の塊、ゾンビタトゥーです。私たち天使型デジモンには、悪を浄化するための聖なる力が備わっています。あのように聖なる力を注ぎ込むことで、タトゥーの力を弱めているんです。…本当はミノタルモンはおとなしいデジモンです。あんな風に暴れたりはしません。なのに、自分の意志すら捻じ曲げられて、無理やり凶暴化されているんです。だから、少しでも早く解放するために、ああして聖なる力を注ぎ込んでいるんです。」

 

 一方的に拳を振り上げるその姿は子供が壊れないおもちゃを見つけたときのそれに近い。

 

「…暴力に酔ってるようにしか見えないけど。」

 

 ぷいと顔を背け知らんぷり。

 この猫もどきは見た目よりやり手だ。

 

 そんなことを話していると、草太のスマホに新たな通知が届く。

 

”エクスキャリバーの使用申請が届いています。承認しますか?”

 

 気が付けばホーリーエンジェモンはミノタルモンから距離を取って、草太を見ている。さっさと承認しろということだろう。

 浄化が必要なのは間違いないし、戦いの素人が口を出す話でもない。

 だから草太はそのまま承認をタップした。

 

 ニヤリと嬉しげに口を歪めるホーリーエンジェモン。その右腕に静謐な青い光が集まっていく。暖かさよりも、冷たさを感じさせる光。その光は右腕の手甲を介して青白い剣を成す。確かめるように素振りを二度三度と振るう。

 

 ふわりと浮き上がり、そして力強い踏み込みと共に剣が振るわれ、ミノタルモンを縦に両断した。

 

 確かにその剣──聖剣エクスキャリバー──はミノタルモンの正中線を通り抜けていた。しかし、その体は両断される代わりに、大量の黒い靄を吹き出した。悪だけを断つのが聖剣たる由来でもある。

 しかしゾンビタトゥーに込められた悪意が黒い靄として噴出し広がっていく。そして靄はそれ自体に意思があるようにうねうねと動き始める。崩れ落ちるミノタルモンを尻目に、新たな戦いが始まった。

 靄は鞭のような形状となり、辺り一帯を打ち据える。さすがのホーリーエンジェモンも薄気味悪い靄相手には距離を取っている。

 

「おい草太! 聞こえているな! いまからヘブンズゲートを開く。承認したらすぐに何かに掴まれ! 無様に吸い込まれたとしても私は知らんぞ!」

 

 ホーリーエンジェモンの怒鳴り声と新たな通知。

“新しい通知:ヘブンズゲートの使用申請が届いています。承認しますか“

 

 靄が打ち据える範囲がだんだん広がっている。明らかな危機が増大していることに内心恐怖を覚える。

 草太には何が何やらわからない。だが、あの高慢な天使に守られた事実があり、悪意を撒き散らす相手を打ち据えようとしている。そしてそれの力の鍵を自分が握っている。

 それが分かるから、yesを押す。

 テイルモンが慌てながら草太の裾を引く。こちらと促されるままに近くの電信柱の影に身を隠す。テイルモンは図々しくも草太の腹に抱きついている。

 

「あいつ、何する気なんだ? こんなに慌てないといけないことか?」

「ええ、慌てるべきタイミングですよ。あなたが承認し、あの子が使おうとしているのは、ヘブンズゲートという門です。本来はどことも知れない亜空間へ何もかも飛ばしてしまう技です。」

「待て、じゃああのミノタルモンはどうなる! 操られてるんだろう?! あいつもまとめてそんな亜空間に飛ばしていいのかよ!」

「草太さん、落ち着いてください。本来ならと私は言いましたよ。」

「…なら今はどこに飛ばされることになってる?」

「今あの子が開くゲートは、デジタルワールドの中に私たち天使連が作り出した空間へと送られることになります。空間全域に最高位の聖なる力が充満された空間です。そこでミノタルモンとゾンビタトゥーを完全に浄化していくことになります。」

「要は病院送りみたいなもの?」

「というよりは、隔離施設ですね。靄を完全に浄化して、それから病院送りという流れになります。」

「なら別にこんな慌てて避難する必要ないんじゃないか?」

「では、わかりやすく例えで言いますね。送られる先は深海で、靄を潰した後にゆっくり浅瀬に引き上げます。これで慌てる理由がわかりますね?」

「わかった。しっかり掴まってろ。」

 

 胡乱な話をしている間にホーリーエンジェモンの準備は終わっていた。右腕をかざし、エクスキャリバー内に存在するホーリーリングに力を込める。何もない空間へ輝く光と共に円型の門が現れる。

 静かに開かれるヘブンズゲートだったが、その反応は劇的だった。

 まるでブラックホールが現れたかのように何もかも吸い込む勢いがある。

 門の向きは草太達とは反対向きに開かれているにも関わらず、電柱にしがみつかなければ引きずれらるだろうと感じる、強大な引力があった。当然門の正面にいる靄とミノタルモンはひとたまりもない。抗うことすらできず静かに吸い込まれていく。

 

 そして静かに門が閉じられる。あれほどの引力ではあったが、引き込まれたのは靄とミノタルモンだけ。落ち葉一つ動かすことなく、それだけが消えていた。

 

 これで終わりかと一息つく草太だったが、ホーリーエンジェモンはまだいうべきことがあるらしい。

 

「パンドラモン!そしてその協力者よ!どうせ聞こえているのだろう? この私がお前達を天国に導いてやる!必ず見つけ出して二度と出られないよう叩き込んでやる!感謝しろ!! せいぜい残り短い現世を怯えて過ごすのだな!」

 

 最後に高笑いを放つと、静かに門は消えていった。

 そしてそれが戦いの終わりだった。

 

***

 

 実際のところ、それからが大変だった。なにせこのチンピラめいた大天使の面倒を見る羽目になったからだ。

 

「よし、お前の家に案内しろ。」

「は? なんで? 助けてくれたのには礼を言うけど、うちに来る意味が分からん!」

 

 一気に険悪になる空気に慌ててテイルモンが間に入る。

 

「草太さん、あなたとホーリーエンジェモンのパスはあまり遠くだと届かないんです。それに契約者となったあなたを敵が狙う可能性もあります。ですから、なるべく普段から近くで過ごしてもらうと言うことでお願いします。」

「ふざけんな!聞いてないぞ!」

 

***

 

 結局草太が折れる形で共同生活が始まったのだった。

 尊大な口調で部屋の狭さや料理にダメ出ししてくるホーリーエンジェモン。掃除もできないダメ天使に無理やりでも教え込む草太。お互いがお互いに対して一切の気遣いをしないこと。自然と発生したこのルールだけが、この奇妙な共同生活を支えていた。

 

「お前居候になるんだからもっと家主に気を遣えよ。ていうか整頓くらい覚えろ。」

「貴様ごときになぜ私がへりくだらねばならん?むしろ天使を家に招けた幸運に感謝すべきだな。」

「は?食って寝るしかできない極潰しが偉そうな口きくじゃないか。」

「は?あおびょうたんが口だけは一丁前か?」

 

 影から二人を見守るテイルモン。ペットはなぁという草太の一言に激怒したのはともかく、普通の会話が一切成り立たない二人には不安が先立っているのだった。

 

「あの子たちに任せて大丈夫かしら…。」

 

 

 

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