やさぐれ天使と俺の、厄災をうちはらう正義の話(旧タイトル:でこぼこバディ) 作:朝食付き
影が深くなる夕暮れ、雑居ビルの屋上に人影が一つ。その人影が空に手をかざして大きく円を描く。人ではあるが、人間の動きではない。人の持つ揺らぎがまるでない見られない、機械のような動きで腕が振るわれる。
腕の動きに呼応するように空に光の線が浮かぶ。円の内側は黒く腐り落ちるかのようにボロボロと崩れていく。まるで空に落とし穴が開いたかのよう。次々と空に穴が生み出される。
そしてその落とし穴からは、巨大な毒虫が顕現する。
片手に乗せられた小箱が嬉し気に震える。
現れた毒虫──フライモンが次々と開く穴から現れる。フライモンを呼び出した穴はあっという間に塞がれていく。
そして片手の小箱──パンドラモンが、わずかに開く。フライモンの一群に向けて、爪の先ほどの針が射出される。針はフライモンたちの身体に吸い込まれ、刺さった場所に薄っすらと黒い染みを作り出した。
ケラケラとパンドラモンは笑う。傍らの人影、少女はまるでマネキンのように身じろぎもしない。ただ首元から黒いタトゥーが覗いている。
そしてパンドラモンが笑い止むと、パンドラモンの開いた隙間から靄が溢れ出して二人を包んでいく。靄が薄れたあとに残るのは、デジタルワールドから呼び出され、災いを植え付けられたフライモンの一群だけだった。
***
突如空に開いた穴。気がついた人から、違和感が共有されていく。そして現れた巨大な毒虫をあっけにとられながら見上げている。いくつもの影が地上に影を落とす。
人は今が続くことを無自覚に信じている。でも現実はそうではない。まだ、彼らは気が付いていない。デジモンという存在が暴れだしたときの脅威を。その身の内に自分たちがいることに。
フライモンに打ち込まれた黒い染み”ゾンビタトゥー”は暴力性を増幅させる。それは誰に向けられるものか。当然より弱い者へ。つまり、誰もが死の境にいるということを。
フライモンが羽ばたき始める。一匹がすぐに二匹に。三匹四匹とその場のフライモン全てから、歪んだ不協和音が撒き散らされる。
ここに至って危機感を覚え始めたのではもう遅い。
”フライモン!成熟期の昆虫型デジモン!必殺技はしっぽの毒針を飛ばすデッドリースティング!”
耳障りな高周波をたてながら高速で飛び回るフライモンの群れ。時折ビルや電線にぶつかりながらも、あたりを把握するように、少しずつ飛び回る範囲を広げていく。
行動範囲が広がるにつれて動きが大胆に変わっていく。紫の羽がだんだんとぶれるように速さを増していく。ハウリングノイズが響き渡り、フライモンから離れようとした人間たちが耳を抑えてうずくまる。
強烈なノイズに平衡感覚を失い立ち上がることができない。明確な脅威があるというのに、逃げることすら出来ない。恐怖におびえる声すら聞き苦しいノイズにつぶされている。
そして連続的に、断続的に羽ばたきでノイズを撒き散らかす。雑音、無音、雑音が繰り返し響く。次第にハウリングノイズが広がっていく。そしてノイズが大きくなるほどに黒い染み─ゾンビタトゥーがフライモンの体を覆っていき、次第に黒い靄として拡散されていく。
***
うずくまる人を靄が包む。呼吸に合わせて体内に入り込んでいく。震える人々にはそれに気づく余裕すらない。
一面に深まる靄は濃度を増していき、夜に沈んだよりも深く、黒く染められていく。
耳がおかしくなるほどの不協和音に真っ黒な視界。動くことすらままならず、恐怖は膨れ上がっていく。
なぜこの場に居合わせてしまったのかという嘆き。その人の負の感情が靄にしみこんでいく。
怖いならば、誰かに押し付けてしまえばいい。恐怖を塗りつぶす狂気を誘うささやき。震えているから恐ろしいのだ。力を振るえば怖くなどなくなる。敵はどこにでもいるぞ。さあその拳を柔らかい肉に叩きつけろ。
靄を通してパンドラモンはささやく。
靄から受け取る負の感情を受け、パンドラモンは静かに笑う。
そんな狂気を振りまく街へ、ただ一人飛び込もうとする少年がいた。
***
フライモンに見つかれば命の保証はない。靄に包まれてもアウト。
だから物陰を選んで静かに、そして速やかに。眼差しは強く、何かを探すようにあたりを確認している。
突然部屋に飛び込んできたテイルモンから状況を聞いて飛び出してきたのが先程のこと。自分が何故こうして街へと来たのか。その理由さえ後回しだ。
何のために危険を冒しているのか。
─あのくだらない正義かぶれのために動く必要はない。
自分が行ったところで変わるものがあるのか。
─たかが高校生に変えられる現実なんてない。
別の契約者を見つければ何とかするだろう。
─あの大天使は、別に自分を必要としているわけではない。
少年の頭を渦巻く疑問疑念臆病風。
そもそも自分と奴は盛大に喧嘩別れをしたばかりだ。お互いの一番弱い部分を鋭い言葉で傷つけあい、怒りのままに絶縁宣言を叩きつけあった。
ホーリーエンジェモンは人間ではないし、この世界を守るいわれもない。
だから奴がこの事態に動いている保証だってないのだ。さっさと見限ってデジタルワールドとやらに帰っているかもしれない。
それかパンドラモンを見つけることを優先している可能性だってある。動いているときが一番見つけやすいのなんて誰だってわかることだ。
──それでも奴が悪意を見逃すことはない。草太はそう確信している。
確かに奴の正義は独善的で、その横暴さが誰かを笑顔にするとは思えない。
──でも、救われる人がいる。事実救われたのだ、自分は。
死の一歩手前、ただただおびえるだけだった自分を、やつは確かに助けてくれた。
その後だってそうだ。どんなに独善的に見えたとしても、ルールこそが人を守るものだってことを奴は信じているのだ。だから些細なルール違反も見逃さない。その先に守るべきものを見ているからだ。
デジモンが暴れだした時、たとえどんな危険なデジモンであろうと、どんな恐ろしい攻撃が来ると分かっていても、やつは人の前に立つ。
どんなに口ではふざけたことを言っていても、チンピラじみた挙動で罵声を喚いていたとしても、ホーリーエンジェモンがその後ろに攻撃を許したことはない。自らを盾とすることすら厭わない姿がそこにあった。そうして悪意の盾となり、邪悪を打ち払う剣であることを自負する。今やあの天使が現れるだけで安心する人すらいる。クソみたいな高笑いを待ち望む人がいる。中身を知る草太からすれば、それはガワだけ見る人の話だ。そしてまぎれもなく救いを求め、確かに報われた人の声だ。
だから草太は信じる。
阿呆な理屈で振るわれる力だとしても、恐怖に震える人が救われるのならば、それを正義と呼んだっていいはずだ。
誰からも疎まれる自己満足だったとしても、人を痛みから解放できる力なら、それが正義だっていいはずだ。
痛みは容易く人の心を折る。折られた心が死を呼ぶことだってある。ならば折られる前に助けるしかないのだ。
そう思ったからこそホーリーエンジェモンとの契約を受けた。
どんなに嫌な奴であっても、それが分かるから自分は走るのだ。