記憶が巡る。
百年を超える、長い長い旅路の記憶。
出会いと別れの日々。
『なんだよ、じゃあ用が済んだらすぐ行っちまうのか』
『俺達のチームは簡単には足抜け出来ないぜ』
『アナタって、もう何年もここに住んでいる感じよね』
立ち寄った街で出会い、言葉を交わし合い、別れを惜しんでくれる人々。
『名前は?』
砂漠を渡り歩く
街から街へ。
人から人へ。
出会いは新たな記憶を紡ぎ、別れは忘れえぬ記憶として刻まれる。
『ヴァッシュ……?』
『変わった響きねえ』
『ヴァッシュ……』
『やあ、ヴァッシュ』
『お久しぶりね、ヴァッシュ』
出会うのは善き人々ばかりではない。
『ヴァッシュ・ザ・スタンピード!』
『お前の首に掛けられた賞金は俺達の物だ!』
『くたばりやがれ!』
『お前が死ねば、少なくとも俺達は幸せになれるぜ!』
銃を向けられ、蔑まれ、罵られることもあった。
銃で人に撃たれた時のことを覚えている。
銃で人を撃った時のことも覚えている。
『撃ち殺してやる!』
『撃たないでくれ!』
『人質を助けたきゃ銃を捨てな!』
『どうしてそいつを撃ったんだ!?』
選択を迫られる日々。
後悔の続く毎日。
誰かに撃たれることも、誰かを撃つことも、同じくらいの痛みを伴った。
『――なあ、本当の所訊いていいか?』
積み重ねていく記憶の果てで、その男は言った。
『百年近くその中で生きてきて、お前一度も人間に対して憎しみを持ったことがなかったのか?』
ナイブズが、ずっと目を逸らしてきた闇に触れた。
『見た時は絶句したぜ。その身体中の傷』
『何度、裏切られた?』
……やめろ。
『何度、傷つけられた?』
『何度、嘘をつかれた?』
『何度、屈辱を受けた?』
やめろ。
『人間扱いされなかったことは!?』
『大切なものを奪われたことは!?』
『いわれなく疑われたことは!?』
やめろ!
『笑われながら踏みにじられたことは!!?』
やめろ……ッ!!
『現実を凝視しろ。お前は矛盾だらけだ』
優しい出会いも、無慈悲な別れも、等しく記憶として心に刻まれていく。
その記憶が時として背を押す力となり、時として重荷となる。
全部抱えて。
何一つ捨てられなくて。
だけど。
それでも。
進まなきゃ。
覚束ない足取りで進み続けて、辿り着いた場所は――。
『綺麗事と瘦せ我慢の生き方が、お前の心を蝕んでいるんじゃないか?』
そして、決定的な引き金が引かれた。
ロスト・ジュライ。
これまでの長い人生で幾度となく引いた引き金の中でも、最悪の結果を生み出してしまった出来事。
全てが消えた。
消えて尚、記憶には残る。
ただ一人。
悲劇を引き起こした張本人として生き延び、その罪を忘れることを許されないまま。
忘れられない。
忘れるわけにはいかない。
足を止めることは許されない。
長い時の中、多くの人々の間を歩く。
喜びの涙と悲しみの涙。
歩く。
幾千万の銃弾の中、傷跡は増えて。
まだ歩く。
背負った記憶は増え続けて。
その旅路の最中で流離人は、ふと思う。
――楽にしてくれ、と。
◆
ヴァッシュの歩んできた長い旅路の記憶。
その堰が外れ、ホシノの中に流れ込んでくる。
忘れようとしていた名前。
封じようとしていた過ち。
とりかえしのつかないこと。
それでも尚、想う。
――前に……進まなくちゃ。
ホシノの眼から、涙が止め処なく溢れていた。
過去と現在の姿が重なる。
記憶の中と、今目の前でも、彼の生き方は変わらない。
傷ついて苦しみ続けるヴァッシュを、ホシノは歯を食いしばって見つめていた。
ずっと、そうしてきた。
そうやって、生きてきた。
欲しくもなかった力を右腕に宿らせ、その力で罪を背負い、捨てることも忘れることも出来ない。
昨日のことを忘れることが出来ればいいのに。
でも、無理だ。
彼は、この後悔を自分ではどうすることも出来ない。
だったら。
いっそ、私の手で……。
――君はやっぱり、人を殺せるような人間じゃない。
私に、人殺しの覚悟がないとでも言うんですか?
――そんなくだらない覚悟があるなら、むしろ捨てるべきだ。
かつて交わしたヴァッシュの言葉が蘇る。
彼に二度、銃を向けた。
一度目は、どうしようもない過ちだった。
彼を疑い、恐れ、無知のまま引き金を引いた。
それをきっかけに、全てが悪い方向へ転がっていった。
二度目は、引き金を引くことが出来なかった。
今は、あれでよかったと思っている。
だけど、結局あの時自分は一度目の過ちを恐れて何も決断しなかっただけだ。
いずれも、自分以外の誰かが――ヴァッシュが全てを解決してくれた。
何も選ばず、夢みたいな解法を待つしかなかったバカな子供が、ヴァッシュという大人に助けてもらっただけ。
だけど――三度目は、もう誰も助けてはくれない。
そのヴァッシュ自身が一番苦しんでいるのだから。
選ばなければならない。
決断しなければならない。
何に向けて、その銃の引き金を引くのか。
これで、きっと彼は楽になれる。
ヴァッシュを撃ちたくなんかない。
だけど。
これまでも、これからも続く地獄のような日々の中で生きて苦しめなんて。
絶対に、言えない――。
「――違う!」
ホシノは声に出して叫んだ。
血を吐くような叫びに、ヴァッシュとユメが目を見開いた。
記憶と現実の境目が曖昧になっていた意識を引き戻す。
抱いた決意が、涙で曇っていた視界を切り開いた。
「その記憶に苦しみしかなかったなんて、絶対に言わせない!」
今まさに暴発寸前のエネルギーを迸らせる右腕を中心に、ホシノ達三人の周囲を無数の白い羽根が舞っていた。
その羽根が、三人の心を繋いでいる。
ヴァッシュの記憶。
ユメの願い。
そして、ホシノの決意。
三人が互いを想い合う故に、互いを苦しめ合う意思と感情の交差。
その中でひと際声高く、ホシノの心が叫んでいた。
「ヴァッシュが歩んできた道を、こんな所では終わらせない!」
ホシノはヴァッシュの頭に向けていた銃口を下げた。
その手は、もう震えてはいない。
彼の命で全てを終わらせる道は選ばない。
『――それで?』
ホシノの選択に対して、誰かが冷ややかに問い掛ける。
それは自分の胸の内から聞こえる声。
その声の主はナイブズの姿をしているようにも、自分と同じ姿をしているようにも見えた。
『またヴァッシュにいつもの生き方を続けさせるのか?』
自分と同じ姿をした幻影が言った。
『そいつは本当に正しいか?』
ナイブズの姿をした幻影が言った。
『彼を地獄に引き戻す選択をしてはいないか?』
初めて出会った時と同じ、乾いて疲れ果てたヴァッシュの姿をした幻影が言った。
「分からない……分からないよ! そんなこと分かるもんか!!」
苦悩と苦渋に歪んだホシノの顔を、止まることのない涙が濡らしていた。
「でも……これだけは言える」
耳を塞ぎ、眼を固く閉ざしたくなるような残酷な選択肢。
選んだ道が、望んだ未来に繋がっている保証なんてない。
一度選べば、結末を無かったことになんて出来ない。
しかし、ホシノは眼を開いて、現実を直視した。
自分の決断を迷わせる幾つもの幻を通して、今、目の前で苦しむヴァッシュの姿を真っすぐに見据えた。
「私がヴァッシュやユメ先輩と過ごしたアビドスの日々は――優しかったんだ」
ホシノは、握り締めた銃を再び持ち上げた。
その銃口が向ける先はヴァッシュではない。
ヴァッシュの右腕だった。
そこから生み出される莫大なエネルギーと、内に秘められた『門』に向けて、照準を定める。
「誰が何と言おうとも、何度だって言い続けてみせる」
引き金に指を掛ける。
「私達の行く先は、私達が決めるんだ。この手の中にある切符は、白紙のままなんだから」
抱いた決意に呼応するように、頭上のヘイローが輝きを増していく。
「終わりになんてさせない。このタフで優しい日々は、まだまだ続いていく!」
弾丸にありったけの思念を込める。
これまで積み上げてきた過ちと後悔、その苦しみの果てに残った純粋な願いと共に。
「私と、ヴァッシュと、ユメ先輩が過ごす日々……私達の青春の日々は!!」
そして、三度目の引き金は引かれた。
「止まれぇぇぇーーーッ!!」
裂帛の気合いと共に銃口から光を纏った弾丸が飛び出し、開かれた『門』に当たった瞬間――三人の周囲の全てが消滅した。
◆
意識が浮上する感覚と共に、ホシノは目を覚ました。
重い瞼を開きながら最初に抱いたのは、先ほどまで見ていたものが夢だったのではないかという疑念だった。
少し前まで毎日のように見ていた悪夢にうなされていたのではないか、と。
いつの間にか意識を失って倒れていた身体を起こして、周囲を見渡す。
不思議な空間が広がっていた。
つい先ほどまで自分が陥っていた状況とは、周囲の様子がまるで異なっている。
ビナーによって破壊された瓦礫、舞い上がる砂塵、頭上の太陽さえ、ここには存在しない。
夜の闇のように黒いのに、何処までも見通せる。
けれど何処まで見据えても地平線すら見えない、本当に何もない空間だ。
現実の世界とは何かが違っていた。
空気にすら違和感を感じる。
眼に見えないエネルギーが周囲を漂い、帯電した空気がピリピリと肌を刺すような感覚だった。
――世界が滅んでしまったのだろうか?
ホシノは夢うつつに、そんなことを考えていた。
しかし、自分と同じように地面に倒れているユメの姿を見つけて、急速に現実感を取り戻した。
すぐさま駆け寄って、身体を抱き起こす。
「ユメ先輩」
「……ホシノちゃん」
ユメはすぐに意識を取り戻した。
その左腕は無惨な有様のままで、先ほどまで直面していた光景が決して悪夢や幻の類ではない、無慈悲なまでの現実であったのだと実感させてくる。
同時に、あの膨大なエネルギーの暴走の果てにもアビドスは消滅しておらず、自分達二人が確かに生き残った事実を教えてくれた。
「ヴァッシュは……?」
ユメの問い掛けに、ホシノはハッとなって顔を上げた。
ヴァッシュが居た場所――自分が銃口を向けた先に視線を走らせる。
果たして、そこにヴァッシュは立っていた。
何故、目を覚ましてすぐに彼の存在を視界に入れなかったのだろう。
すぐ傍にいたのに、気付けなかった。
彼の気配――この世界における存在感のようなものが酷く薄れているように感じた。
何故そのように感じるのか。
その理由が、目の当たりにした姿によって理解出来た。
「――二人とも。無事でよかった」
意識を取り戻したホシノとユメの姿を見つめて、ヴァッシュは微笑んだ。
「でも……」
安堵の中に、僅かな寂しさの混じる笑みだった。
「行かなくちゃ、ならなくなったみたいだ」
ホシノとユメは、その言葉の意味を理解出来なかった。
理解したくはなかった。
それでも――目の前で起こっている現象が、嫌でもその言葉の意味を伝えようとしてくるのだ。
ヴァッシュの右腕が、いつの間にか空中に発生した得体の知れない黒い穴の中に飲み込まれていた。
その穴の先が、何処に繋がっているのかは分からない。
肘まで飲み込まれた腕は、その姿を完全に消失している。
そして、ヴァッシュの身体が消えるという恐ろしい現象は右腕だけに留まらず、少しずつ広がっているようにも見えた。
「え? あ、はは……何処へ? 何、言ってるの……ヴァッシュ?」
ユメは、ヴァッシュの言葉を出来の悪い冗談のように笑い飛ばそうとした。
しかし、その声は左腕の激痛とは関係なく震えていた。
「こっちへ来てよ。何か、さ……右腕が変な穴に嵌っちゃってるよ。それ、きっと危ない穴だから。だから、こっちへ……早くっ」
最後の言葉は懇願するように絞り出していた。
ユメには目の前でヴァッシュの身に何が起こっているのか、全く理解出来ない。
しかし、本能的に酷く嫌な予感を感じていた。
ヴァッシュが本当にここではない何処かへ行ってしまうような予感を。
目の前から永遠に消えてしまうような錯覚を。
それらが全て自分の勘違いなのだと必死に思い込もうとしていた。
一方でホシノは、目の前の現象が何を意味するのか、おおよそを察してしまっていた。
だからこそ、青褪めた表情で一言も発することが出来なかった。
身体が動かない。
今すぐにでもヴァッシュに駆け寄って、彼を無理矢理にでも穴から遠ざけないといけないのに。
それが無駄だ、と。
頭の何処かで理解してしまっている。
「……ありがとう」
ヴァッシュは噛み締めるように呟いた。
それは一体何に対する感謝なのか。
自分を心配するユメの言葉だけではない。
もっと多くのものに対して、別れの際に捧げる感謝のようだった。
「でも、もうそんなに時間はないみたいだ」
そう告げるヴァッシュに対して咄嗟に何かを言いかけたユメは、言葉と共に息を呑んだ。
ヴァッシュの右腕が、肩まで消え始めていた。
もはや錯覚ではなく、得体の知れない穴は徐々に大きくなり、それがヴァッシュという存在を丸ごと飲み込もうとしている。
「僕もどういう原理でこんなことが起こったのかは分かってないんだけどね。でも、何となく確信出来るんだ」
ヴァッシュは、その穴を一瞥して言った。
自分の身体が消えていく様を目にしながらも、苦痛や恐怖などは感じていないようだった。
「この穴――いや、穴というより『門』かな。こいつは、僕が元いた世界に繋がっている」
そう断言するヴァッシュの言葉を聞いて、ホシノの顔が歪んだ。
右腕の暴走を止める為に引き金を引いた時の決意と覚悟は、もはや見る影もない。
自分の決死の行動――それが招いた結果を目の当たりにして、後悔と絶望に苛まれている。
また、上手くいかなかった。
間違った引き金を引いてしまった。
また――!
「ホシノ、いつか君に言っただろ。僕の力とこの世界にまつわる神秘の力が掛け合わさったことで、異なる世界を渡れたのかもしれないって」
「わ……私……っ」
「僕が暴走させてしまった力と、君が決死の覚悟で引き出した力が、上手く嚙み合って世界を越える『門』を開いたんだと思う。大丈夫。もう暴走の危険はないよ」
「こんなことになるなんて思わなかったんです! 私、こんなこと望んで……!」
「ホシノ」
動揺に震えるホシノを落ち着かせるように、ヴァッシュは穏やかに呼び掛けた。
「大丈夫。分かってる」
周囲にあった白い羽根は、いつの間にか全て消滅していた。
三人の心は既に繋がっておらず、お互いの真意を知る方法は言葉以外にない。
しかし、ヴァッシュの言葉にホシノを責めるような意図は欠片もなく、またそれは間違いなく本心だった。
ヴァッシュは自分の命を奪わず暴走を止めてくれたホシノの決断と行動に、心の底から感謝していた。
「あの時、君が僕やユメの心を知ったように、僕にも君の葛藤と決意が伝わったんだ」
「……」
「ありがとう。そして、改めて謝るよ。君には、本当に残酷なことを頼んでしまった。もし、あの時僕を撃っていたら、君に取り返しのつかない十字架を背負わせてしまうところだった」
「……そんなこと……そんな、私のことなんてどうでもいいんです」
「どうでもよくなんかないさ。僕は、また過ちを犯すところだった。君の決断がその過ちを僕の力と一緒に止めてくれたんだ。本当にありがとう。こんな当たり前の感謝の言葉くらいしか、僕には残せない」
「どうでもいいんですよ! 私のことなんて、本当にどうだっていい! 私は……こんな結末の為に引き金を引いたんじゃない!!」
ホシノは苦しげに自身の胸を鷲掴みにして、叫んだ。
「わ、私は……っ! 私はまた、あの学校に三人で集まりたかったんです! 約束したじゃないですか、三人で最後まで話し合おうって! これからのこと、まだ何も決まってない……ッ!」
ホシノの慟哭混じりの訴えに対して、ヴァッシュは悲しげに笑い返すことしか出来なかった。
それ以外のどういう表情を浮かべればいいのか分からなかった。
どうしようもなく苦しい時に見せられる顔なんて、空っぽの痩せ我慢した笑顔しか知らなかった。
「……そうだね。僕も、もう少し君達と一緒に暮らせると思ってたよ。別れの準備なんて、全然何も出来てない」
こんなに唐突に別れの時が来るなんて、ヴァッシュも全く予想していなかったのだ。
「でも、もう無理みたいだね。神様が元の世界に戻って、早く罰を受けろって急かしてるらしい」
自分が罪人であることは理解している。
いずれ元の世界に戻り、過去の清算をする決心もしていた。
だが、自分の都合で決めた猶予をぬくぬくと過ごそうなど甘い考えだったのだろう。
運命の犬が血と硝煙の匂いを嗅ぎつけ、逃げた罪人を捕まえにやって来た。
ヴァッシュは、そんな自虐的な考えを抱きながら呟いていた。
「そんなの関係ないよ!」
しかし、ユメはそんなヴァッシュの諦めを許せなかった。
痛みで意識が朦朧としながらも、ヴァッシュ自身を縛り付ける元いた世界の因果に対して怒りを滾らせながら叫ぶ。
「この世界に残って、わたし達と一緒に暮らそうよ! もっと色々な所へ行こうよ! 何処へだって自由に行っていいんだよ! ヴァッシュだけが行き先が決まってるなんて、そんなおかしなことあるワケない!」
重傷の身で、息を切らせながら、それでもユメは必死に訴えた。
それは普段の彼女らしからぬ、自分の望みを優先した言葉だった。
ヴァッシュの抱える後悔や自責の念、その元となる罪を実際に犯したことは知っている。
罰を受けずに安穏と生きることを良しとしない考え方は、ユメ自身も理解出来ることだ。
もしも同じ立場だったら、自分も彼と同じように贖罪の道を選んだだろう。
しかし、今はそれを棚上げして欲しかった。
神様に『ヴァッシュだけは例外にして欲しい』と、自分勝手な願いを祈っていた。
理屈なんてない。
それはきっと誰もが抱く人としてのエゴ。
「前の世界のことなんて忘れて! わたし達と一緒にいて!!」
梔子ユメという人間が生まれて初めて抱いた、一生に一度のわがままだった。
「お願いだよ、ヴァッシュ……!」
なりふり構わないユメの懇願に、ヴァッシュの固まったような笑顔が初めて歪んだ。
苦悩と葛藤が表に現れ、今にも泣き出しそうな表情が露わになる。
普段の彼女らしくない言葉だからこそ伝わる強い想いが、固めたはずの決心を揺るがせる。
しかし、それも一瞬のことだった。
堅く眼を瞑り、喉元まで湧き上がって来た言葉と衝動を飲み込むと、ヴァッシュは小さく笑みを浮かべた。
それは先ほどと同じような虚勢と強がりで支えた笑みだったが、本心からの喜びも間違いなく含んだ笑顔だった。
「ありがとう」
ヴァッシュはもう一度、ゆっくりと噛み締めるように二人への感謝を口にした。
「本当に……ありがとう。例え元の世界に戻っても、この世界で君達と過ごした優しい日々を、決して
涙で揺れるユメとホシノの瞳を、優しく見つめながら言った。
「僕は今日この日までのことを、
その言葉を言い終えた時、変化が起こった。
それまで緩やかだったヴァッシュの身体の消失が、一気に加速したのだ。
右腕だけを飲み込んでいた異世界の『門』が急激に大きくなり、ヴァッシュの全身を飲み込めるほどのサイズになる。
それはヴァッシュが抵抗を止めたからだった。
ギリギリまで迷い、葛藤し、元の世界に戻る為の『門』の力に抗っていた彼の心が決まった瞬間だった。
「ま、待ってください! ヴァッシュ!」
「ホシノ――」
ホシノは最後まで手を伸ばそうとした。
「いや! 行かないで、ヴァッシュ……!」
「ユメ――」
ユメは最後まで願っていた。
「二人とも――」
――さようなら。
その言葉は、最後まで言えなかった。
時間はあった。
あと一言、最後に言葉を二人に残せる猶予はあった。
しかし、口を開きかけたヴァッシュは躊躇ってしまった。
かつてホシノに言った、世界を越えて再会出来る可能性の話がどれだけ無責任だったのか、この期に及んで思い知ってしまった。
この世界にまた来れる保証なんてないのに、『必ず戻る』とか『待っていてくれ』なんて薄っぺらな約束はしたくない。
だけど、二人との完全な別れを意味する言葉を口にすることも出来なかった。
どうしても消せない未練があった。
そうして躊躇う内に、時間が来てしまった。
世界を渡る『門』の中に、ヴァッシュが消えていく。
一つの存在が、ある世界から別の世界へ移動するという計り知れない現象。
その特異点で光とも闇ともつかないものが瞬き、発生した力の余波がホシノとユメの意識を刈り取った。
――次に二人が目を覚ました時には、周囲は元の世界に戻っていた。
――そして、ヴァッシュの姿はもう何処にも見当たらなかった。
◆
ヴァッシュが眼を開けると、見慣れた空が広がっていた。
見慣れた――それがほんの少し前まで当たり前のように視界の端に映っていた透き通るような青い空なのか、懐かしい
でも、これはおそらく後者だ。
空には雲一つ無く、二つの世界を比べられる要素なんて見える範囲には何もないのに、何故かそう確信出来てしまった。
かつて渡り歩いた砂漠の惑星の空なのだと、全身の感覚で感じる。
乾き果てた空気の中に、嗅ぎ慣れた血と硝煙の匂いが混ざっているような気がした。
「……戻って来たのか」
砂の上に手足を投げ出して、仰向けに倒れていたヴァッシュはぼんやりと呟いた。
しばらくの間、そうして寝転がったまま立ち上がることが出来なかった。
負傷していたり、体力が落ちていて立てなかったわけではない。
ただ、立つ気力が湧いてこなかった。
照り付ける太陽がジリジリと皮膚を焼き、身体から水分を奪っていく感覚に苛まれているのに、何かをしようという意欲が湧いてこない。
半ば呆然としたまま、ヴァッシュはじっと空を見上げていた。
視線だけを動かして辺りを見渡せば、何処までも代わり映えのしない砂漠の風景が広がっている。
これまでの人生で飽きるほど見た風景を眺めている内に、ふと頭に浮かんだ。
――あれは本当に現実だったのか?
そうして思い返せば、記憶にあるアビドスで過ごした日々がまるで夢のように現実感を失っていく。
ヴァッシュは自分自身の思いつきに愕然とした。
自分が倒れている場所は、砂漠の惑星にある何処かだ。
身に着けている物は、履き慣れたブーツと着慣れた赤いコート。
左腕の義手は失われ、右腕は破れた衣服の布が付着していて力を発動した形跡がある。
自分の身の回りにある物は、全てアビドスに転移する前からあった物ばかりだ。
あの異世界で過ごした日々を証明する物は一つもない。
――ひょっとして、自分は夢を見ていたんじゃないか?
――あの時、ナイブズによって力を暴走させられ、その結果砂漠の何処かに吹き飛ばされて。
――気を失って、束の間の夢を見ていた。
――そして、今。
――ただ単に、夢から覚めた。
そんな推測が頭の中を勝手に過り、ヴァッシュは現実から逃避するように目元を右手で覆った。
これ以上考えたくなかった。
アビドスで過ごしたあの日々が夢だったなんて、そんなバカげた思いつきはさっさと頭の中から消したかった。
そんなはずはない。
ユメとホシノと共にアビドス復興の為に奔走した日々は確かに存在していて、そんなかけがえのない世界から元の世界に戻ってきただけなのだ。
そう、自分に何度も言い聞かせた。
「立ち上がらなきゃ……」
とにかく、自分が今すべきことは立ち上がって、前に進むことだ。
頭上に浮かぶ太陽が容赦なく地上を焼いている。
身一つで砂漠に放り出されて、こうして倒れたまま時間を無為に過ごせば、飢えと渇きが体力を奪っていずれ本当に動けなくなる。
行動しなければ、待っているのは確実な死だ。
そんな当たり前のことは分かっている。
ここは自分が本来いた世界。
何年も渡り歩いた世界なのだ。
立ち上がって、早くこの場から離れよう。
何処か、適当な街を探して辿り着かないといけない。
立ち上がって、進んで、丘を一つ二つ越えれば、案外簡単に――ほら。
あの時みたいに。
砂漠を乗り越えた先に見えてくるはず。
見慣れたアビドスの街並みと校舎が、きっと――。
「……クッソォ」
目元を手で覆ったまま、ヴァッシュは弱弱しい悪態を漏らした。
それ以上、何も出来なかった。
手足を動かす気力すら湧いてこなかった。
「罰にしたってキツイぜ、神様……」
今更のように溢れてきた涙が、太陽に焼かれて乾いた頬に沁みた。
次回、最終話です。