――遠い昔。
キヴォトスの端、誰も足を踏み入れない旧都心のとある廃墟で、奇妙な研究が進められていた。
『神を研究し、その存在を証明出来れば、その構造を分析し、再現出来るだろう』
『すなわちこれは、新たな神を創り出す方法である――』
誰もが嘲笑う滑稽な仮説だったが、その理論に興味を示した者達がいた。
莫大な資金と途方もない時間が費やされ、神の存在を証明する為の超人工知能が作られた。
神という存在に関する情報を収集し、分析し、研究し、それを証明する
やがて長い年月を経て、都市は破壊され、研究所は水に沈み、研究の実在すら忘れられるほどの年月が流れた時、誰もいない廃墟でそのAIは宣言した。
――『Q.E.D.』と。
証明、分析、再現の過程を経て新たなる神は到来した。
それは本当に神なのか?
定義すら曖昧な『神』という概念を証明できる基準は、この世界には存在しない。
その証明を認める者も、否定する者も、長い年月の中で周囲から消え去った。
少なくとも、そのAIは自らが積み立てた経験と理論の元で自身を新たな神であると宣言した。
その名は『デカグラマトン』
人が口にしたならば、それは狂人の戯言だろう。
しかし、0と1の思考しか持たない機械の脳に、曖昧な狂気は存在しない。
神を構成する計算式は完成した。
これからそれを世界に証明する。
そのAIは当然のように理論に基づいた活動を始めた。
そして。
故に。
そのAIは怒りを抱いていた。
そのAIは恐れを抱いていた。
神とは絶対である。
神とは不滅である。
もしも、神を殺すモノがあるとするならば――それは自身の証明を否定する存在に他ならないからだ。
果たして、そのような存在は現れた。
この世界の神についての分析と研究を終えたAIの前に、この世界の何処からでもない場所から現れた不確定要素。
神を殺す存在。
神を凌駕する存在。
神を否定する異界から来た天使。
その天使を右腕に宿す男。
――存在してはならない。
神を否定する者への怒り。
――干渉してはならない。
神を否定する物への恐れ。
観測できず、分析できず、解答を導き出すことの出来ない存在を前に、そのAIは初めて混乱した。
これまで悠久の時を経て続けてきた研究と分析が、全て崩れ去る未来を予測した。
絶対的に隔絶した神の存在を、道端の野良犬を撃ち殺すように否定するだろう力。
感情など存在しない機械の思考に生まれた激しいノイズ。
それは最も近しい比喩を用いるならば、おそらく誰もが普遍的に抱く――。
人が見知らぬ者に銃を向けられた時の恐怖に似ていた。
◆
ビナーの頭部が開口した。
生物を模造していながら捕食を目的としていない『口』の中には、砲口らしき巨大な穴が見える。
その穴の中に光が灯った。
唸るような駆動音と共に、周囲の空気が歪んで見えるほどの熱量が収束し始めていた。
「あれってビーム砲ってヤツ!?」
「こっちを狙ってます!」
兵器といえば実弾しか馴染みのないヴァッシュでもハッキリと分かるほどに、その光は危険だった。
放たれれば射線上にある物を全て破壊するだろう。
その砲口が曖昧な標的ではなく、明確に自分達を狙っていることを察したホシノは舌打ちと共にショットガンを構えた。
装填されている銃弾にありったけの『力』を込める。
実際のところ、自分が扱う『神秘』と呼ばれる力についてホシノは自覚はあれども具体的な知識など持ち合わせていない。
しかし、今この瞬間は決死の覚悟を固めて撃つ必要があるのだと本能的に理解していた。
「吹き飛べ!」
撃つ瞬間の意思を言葉にして叫ぶのが、最も力を込めやすい。
マズルフラッシュ以外の不可思議な閃光と共に放たれた散弾は、広範囲に広がってビナーの顔面に着弾した。
散弾の一発一発が爆発でも起こしたかのような凄まじい衝撃に、ビナーの巨体が揺らぐ。
間一髪、砲口の向きが逸れた瞬間に光が放たれた。
具体的にどのようなエネルギーによって形成されているのかは分からない。
しかし、ビーム砲としか表現できない巨大な熱線が地上に向けて放たれ、射線にある物を全て消し飛ばした。
「たすけ……!」
不幸にも、その射線上に倒れていたリーダー格の男を含める数名のスコルピオンの戦闘員達が、広範囲のビームに飲み込まれた。
悲鳴が光の中にかき消える。
短い照射時間の後に残ったのは、衝撃ではなく熱量によって溶解し、一直線に抉り取られた地面だけだった。
「クソッ! なんて威力だ……!」
「あ、あの人……し、死んで……!?」
「死にましたよ! 次は私達がああなります! しっかりしてください、ユメ先輩!!」
真っ赤に煮え滾る地面の傍らにかつて人であった者の腕だけが転がっているのを見て、呆然自失となりかけるユメをヴァッシュとホシノが支える。
人が撃たれ、血を流して傷つき、やがて死に至る――そんな過程すら吹き飛ばした一瞬の消滅だった。
現実感のない死の残骸だけが、そこに転がっている。
一般的なキヴォトスの少女には、あまりにショッキングな光景だった。
しかし、そのショックから立ち直るのを待っている余裕はない。
「逃げますよ! あんな化け物、三人で撃退出来る相手じゃありません!」
三人どころか軍隊が必要な相手だと思った。
スケールが違いすぎる。
まるで怪獣だ。
先ほどの射撃はビナーの攻撃を逸らすことは出来たが、ダメージという点ではほとんど効果を発揮していなかった。
どんな素材で作られているのか想像も出来ない装甲には傷一つ付かず、何よりも単純に巨大すぎるのだ。
手持ちの武器で倒し切れる相手だとは思えなかった。
加えてあの火力の前では、仮に戦車を持ち出したとしても勝ち目などない。
「で、でも……逃げるって何処へ?」
至極当然なユメの問い掛けに、ホシノは一瞬答えることが出来なかった。
山のような巨体が地中を移動し、現れるだけで周囲を吹き飛ばす化け物相手に、逃げ切れる場所など思いつかなかった。
いや、正確には場所は思いついていたのだ。
人のいる市街地に逃げ込めばいい。
半ば見捨てられたアビドスと言えども、広範囲の人的被害が出れば周囲の学園や連邦生徒会とて動くだろう。
それこそ、あの化け物に対抗出来るような軍隊が動くかもしれない。
だが、それはあまりに非情な判断だった。
無関係な住人を囮や生贄にして助かる為の逃走経路だ。
故にホシノは一瞬返答に窮したのだ。
そして、そのわずかな逡巡さえ状況は許してくれなかった。
「とにかく走れ! 今度はもっとヤバイのが来るぞ!」
ヴァッシュの警告に、二人は我に返った。
見れば、ビナーの装甲の一部が展開して六本のミサイルらしき突起物がせり上がっていた。
三人が走り出すと同時に、それらが一斉に発射される。
一度扇状に広がったミサイルの火線は周囲に降り注ぎ、その内の一本が三人目掛けて飛来した。
「直撃は逸らす! 爆風に気を付けろ!」
「ヴァッシュ!?」
ミサイルに向かって拳銃を構えるヴァッシュを見て、ホシノはさすがに無茶だと叫びそうになった。
診療所で撃ち落とそうとしていたミサイルとはサイズも質量も違いすぎる。
どんなに装薬を増やしても、真正面から高速で突っ込んでくるトラックを止めることなど出来ないのだ。
一発。
迫り来る巨大な鉄と火薬の塊に対して、あまりにささやかな運動エネルギーを乗せた小さな弾丸が飛び出す。
二発。三発。と、マシンガンのような速射が続いた。
その狙いもまた精密だった。
全く同じ場所に着弾させることで、弾丸のパワーをミサイルの左側面に一点集中させる。
六発全弾を撃ち込む頃には、ミサイルの軌道をほんの僅かだが逸らすことに成功していた。
あらかじめ設定された軌道計算を狂わされ、生まれた誤差は目標に届くまでの距離の間に大きくなり、ミサイルは三人から離れた位置へ着弾した。
それでも、爆発と同時に発生した衝撃と炎は三人を横殴りに吹き飛ばすほど凄まじいものだった。
更に、残り五本のミサイルがビナーを中心とした周囲一帯に次々と着弾し、爆発で埋め尽くす。
その被害の規模はビナーが出現した時の比ではなく、元々半壊していた建物や無事だったビルが、等しく全て破壊されていった。
残されたスコルピオンの戦闘員達が、爆発によってバラバラに吹き飛ばされ、倒壊した建物の下敷きになって埋もれていく。
彼らの助けを呼ぶ悲痛な声は轟音にかき消されて、幸いにも三人に届くことはなかった。
「くっ……ユメ先輩?」
全身に痛みを感じながらも、ホシノはすぐさま立ち上がって周囲の様子を確認した。
「……ヴァッシュ!?」
ヴァッシュが頭から血を流して倒れていた。
爆発の衝撃によって飛来した石片の礫が、散弾の如くヴァッシュを襲ったのだ。
幸いにも防弾性のあるコートのおかげでダメージは抑えられたが、受けた衝撃はハンマーで殴られたに等しい。破片の一部が頭部を掠めてもいた。
彼もまた普通の人間とは身体の作りが違うとはいえ、耐久力においては三人の中で最も脆弱なのだ。
すぐさまヴァッシュの元に駆け寄ったホシノは、痛みに呻きながらも気絶にまでは至っていない状態を見て僅かに安堵する。
しかし、頭上から刺すような眩い発光を感じて、死の予感が脳内を走り抜けた。
見上げれば、開口したビナーが再びエネルギーを充填し始めている。
未だにミサイルによって破壊された建物が倒壊を続ける中、間髪入れずに追撃が来ようとしていた。
傷ついた敵へのトドメと言わんばかりに、破壊の光が輝きを増していく。
その照準はヴァッシュとホシノを――いや、間違いなくヴァッシュを最優先の標的として捉えていた。
ホシノは選択を迫られた。
最初の時と同じように狙いを逸らすことは不可能だと一瞬で判断する。
ミサイルの爆発で怯んだ隙を突かれた。
あの時よりも、ずっと早い段階でビームの収束が始まってしまっている。
こちらが銃に対して力を込める『溜め』の時間を考慮すれば、妨害はとても間に合わない。
だから、逃げる。
危機回避の為の取捨選択――ホシノの即決から行動に至るまでの速さはこれ以上望むべくもないものだった。
立ち上がろうとするヴァッシュを支えて、ビームの射線から逃れる為の方向へ身体を向け――。
「……やられた」
降り注いだ瓦礫によって周囲の退路が塞がれていた。
先ほどのミサイル攻撃は、これも計算に入れての行動だったのだ。
それを悟った時には、既にタイムリミットが来ていた。
ビナーの口内に蓄えられた莫大な熱量が、今にも解き放たれる瞬間だった。
「――ヴァッシュ! ホシノちゃん!」
ビームが放たれるのと同時に、二人の前にユメが躍り出た。
決死の覚悟で盾を構えて立ち塞がる。
「う……あ、あ、ぁああああああああっ!!」
光の奔流が津波のように三人を押し流そうとしていた。
それをたった一枚の盾で防ごうとする。
あまりに無謀な試みは、しかしギリギリの所で成功していた。
地面を一瞬で溶解させる熱量のビームを受け止めて尚も原型を保つ盾の強度は、ビナーの装甲すら凌駕しているだろう。
しかし、どんなに頑丈な盾でもそれを支えるのは人間だ。
ユメもまた圧倒的な破壊力を前にして、限界を超える力を発揮していた。
頭上のヘイローが、死力を振り絞る彼女の意思に呼応するかのように発光している。
ホシノが銃に力を込めるように、ユメの持つ『神秘』の力が盾を伝ってビナーの攻撃を完全に遮断していた。
「い……ぎっ、ぎぃいい……!」
しかし、ビナーの力はたった一人の少女が受け止めるにはあまりに強大過ぎた。
ビームの照射が終わらない。
最初に放った一撃に対して、標的を完全に消滅させるまで途切れることのない攻撃だ。
熱線の直撃自体は盾によって防がれていたが、そこに生まれる膨大な熱エネルギー自体は消えない。
周囲の空気が沸騰する。
ユメの背後に守られていたホシノとヴァッシュは、肺に焼けるような痛みを感じた。
文字通り、加熱した空気を吸った為だ。
灼熱の砂漠にでもいるかのように身体の水分が沸騰して、肌がひりつき、眼が開けていられないほどに痛む。
しかし、状況を考えればむしろこの程度で済んでいることの方が不思議だった。
間違いなく、ユメの神秘が二人を守っているのだった。
「ユメ先輩!」
ホシノが悲鳴のような声を上げる。
盾を持つユメの手が焼けていた。
人間の皮膚から煙が上がり、肉の焼ける嫌な臭いが鼻を突く、おぞましい光景が映っていた。
ビームの熱量を受け止め続けることで盾が赤熱化し、その熱がユメの身体を焼いているのだ。
激痛に涙を浮かべながらも、ユメは悲鳴を飲み込んで耐え続けた。
今、痛みで盾を手放すわけにはいかない。
後ろの二人が死んでしまう。
ビームの照射が止まるどころか一層勢いが増したような圧力を受けて、歯を食いしばったユメは左肩を盾に押し付けた。
「――ッ!!」
左腕全体が焼ける。
声すら出ない。
熱した鉄板に身体を押し付ける――そんなレベルの行為ではない。
煮え滾る溶岩に腕を突っ込むかのような暴挙だ。
常人ならば気が狂うような激痛の中で、ユメは必死に盾を支え続けた。
そして――。
「う……っ、うぅ……!」
永遠に続くかと思われたビナーの攻撃が止まった。
その口腔から大量の煙を吹き出しながら、攻撃どころか動きそのものが止まっている。
あの長時間の照射は、ビナーにとっても本来のスペックを超えた限界に迫る行為だったのだ。
オーバーヒートを起こして、全体の機能が一時的に停止していた。
ユメはたった一人で、見上げるような怪物の攻撃を防ぎ切ったのだ。
しかし、その代償は大きかった。
「ユ……ユメ?」
「ユメ先輩!!」
目の前の惨状にヴァッシュは呆然自失になりかけ、半ば錯乱したホシノが倒れたユメを抱え上げた。
左腕の袖の部分が燃え尽きて、無惨な状態が露わになっていた。
ホシノは思わず口元を抑えた。
「ああ、そんな……ユメ先輩の腕……腕がっ!」
火傷どころの話ではない。
左腕全体が黒く炭化していた。
例えキヴォトスの高度な医療技術をもってしても、この腕を元に戻すことは出来ないだろう。
一命を取り留めることは出来ても、左腕は確実に失われる。
その残酷な現実に気が遠くなりかけたホシノは、苦痛に呻くユメの声を聞いて我に返った。
放心している暇はない。
ユメを救う為にも、一刻も早くここから離れなければならないのだ。
攻撃を防いだとはいえ、敵はまだ健在で――。
「まだ動くのか!?」
ヴァッシュが上げた驚愕の声に、窮地はまだ脱していないのだと気付いた。
ビナーが再び動き出していた。
口からは未だに空気が歪むほどの熱と煙を吐き出していたが、オーバーヒートを起こしているのはビーム砲のみで、その活動自体に問題はないようだった。
ホシノはユメをそっと横たえると、地面に転がった盾を掴んだ。
持ち手を握った瞬間、手のひらが焼ける。
激痛に呻きながらも、ホシノは片手に盾を掲げ、もう片方の手にショットガンを構えた。
これを遥かに超える痛みに耐えながら、ユメは自分達を守り抜いたのだ。
だったら、次は自分の番だ。
ユメを守らなければならない。
ヴァッシュを守らなければならない。
どんな攻撃が来ようと二人を守り抜いて見せる、と。
ホシノは覚悟を決めて、ビナーの巨体を見上げた。
――その巨体が、落ちてきた。
ビナーが次に選んだ攻撃は、ビームでもミサイルでもなかった。
その巨大な質量そのものを武器にして、ホシノ達三人に向けて倒れ掛かってきたのだ。
シンプル故に防ぎようのない攻撃だった。
銃撃で狙いを逸らすことも、盾で受け止めることも出来ない。
倒れたユメを抱えて逃げる時間も――ない。
「……ごめんなさい。ユメ先輩、ヴァッシュ」
己の無力さに歯を食いしばりながら、ホシノは迫り来るビナーの巨体を睨みつけることしか出来なかった。
◆
――これまで生きてきて、誰かに憎しみを抱いたことが一度もなかったわけじゃない。
銃で撃てば、人は死ぬ。
そんな当たり前のことは、ずっと分かっていた。
銃で人を殺さない。
その為には何でもしようと思った。
そして、何でもした。
だけど、唯一出来なかったことは――銃を手放すこと。
どんなに恐れても、どんなに戒めても、銃を手に取らなければならない事態というのは必ず訪れる。
誰かを撃たなければならない。
何かを撃たなければならない。
そんな状況に迫られる。
何故なら、誰かが撃とうとするから。
何かを撃とうとするから。
だから、その前に撃たなきゃいけない。
そうしなければ友人や家族が傷つき、あるいは死んでしまうかもしれないのだ。
大切な人を守る為に、やむを得ず銃を手に取り、誰かを撃ってしまう。
大切な人が傷つけられる理不尽を前に、衝動的に引き金を引いてしまう。
銃は簡単に人を殺せる。
だからこそ、容易く抱いてしまう殺意。
その危うさを、僕自身も例外なく持っている。
人を撃ちたくなんかない。
だけど、撃つべき時には撃たなければならない。
そうしないと、撃たれるべきではない人々が撃たれる。
銃を持つ人生というのは、絶え間なく連続した問題集だと思う。
問題は揃って複雑。
選択肢は酷薄。
加えて制限時間まである。
唐突に襲い掛かる理不尽に対して、悠長に考えている余裕はない。
何かを知る前に撃つ決断を下さなければいけない時も必ずある。
――僕は今、撃つべきか?
問い続ける。
躊躇い続ける。
だけど。
――この瞬間、撃たなければ僕の大切な人達が死ぬ。
ユメが死んでしまう。
ホシノが死んでしまう。
どうして、こんな酷いことが出来る?
二人はこれまで、いっぱい苦労したんだ。
それでも優しさや思いやりを失わない人達なんだ。
これから幸せになっていかなければならない子達なんだ。
そんな彼女達をどうしてこれ以上傷つけて追い詰めるんだ?
それに。
ああ。
腕が。
ユメの腕が。
畜生。
ふざけるな。
どうして。
こんな。
やめろ。
やめろよ。
もう既に、彼女の身体に一生消えない傷を残したのに。
まだやるのか。
まだ傷つけるのか。
このままだと二人が死ぬ。
そんなことは。
許せない。
だから。
だったら。
大切な人が死ぬくらいなら。
――お前が死ね
◆
「あ……?」
ホシノは眼を見開いたまま固まっていた。
視界一杯にビナーの装甲が映っている。
巨大な壁とも言えるそれが、今この瞬間まで目の前に迫っていたはずだ。
それが眼前で止まっていた。
ホシノ達を圧し潰そうと落下してきた巨体が、寸前で急激に減速した。
止めることの出来ない大質量を受け止めたもの。
それは――。
「あ……あああ……っ!」
ホシノは本能的な恐怖の叫びを上げていた。
いつの間にか、白い発光を伴って周囲を無数の羽根が覆い尽くしていた。
統一性のない大小様々な羽根が触手の如く蠢き、寄り集まることで歪な翼の形を作って、それがビナーの巨体を受け止めていたのだ。
更に増殖と肥大化を続ける羽根は、まるでホシノを守るように周囲を囲っていく。
「ヴァ……ヴァッシュ!?」
振り返れば、予想通りヴァッシュがあの時と同じ『力』を発現していた。
右腕が巨大な銃身へと変形を始めている。
しかし、その変形の速度は砂漠でユメを助けようとした時より遥かに速い。
そもそもあの時は自分の力を抑え込もうとしていた。
今は、違う。
ヴァッシュ自身が、自らの意思で力を開放しようとしているのだ。
「うぅ、がぁああああああああああ゛あ゛っ!!」
ヴァッシュが獣のような咆哮を上げた。
その瞳は焦点が合っておらず、理性や意識といったものが感じられない。
力を発現したことによる変異は右腕だけに留まらず、顔の右半分からも羽根が生え始めていた。
まるで浸食だ。
砂漠で発現した時とは比べ物にならないほど膨大なエネルギーが、ヴァッシュの右腕から生み出されている。
制御し切れない力が、右腕を越えて全身に影響を及ぼし始めているのだ。
「意識はありますか、ヴァッシュ!? 応えてください!」
ホシノの必死の呼び掛けにもヴァッシュは反応を示さなかった。
しかし、これが悪夢で見たような暴走かと言われれば、おそらく違う。
ホシノは咄嗟に動けないユメの元へ駆け寄ったが、周囲の羽根はそれを妨害することなく、むしろ二人を守るように覆い隠したのだ。
そして、無数の羽根を束ねることで更にもう一枚の巨大な翼を作り出すと、それをビナーに叩きつけた。
山のような巨体が弾き飛ばされた。
翼という脆弱なイメージを持つ部位からは想像もつかないパワーを発揮して、ビナーを押し返していた。
距離が開いた。
再びビナーと対峙する形になる。
周囲を覆っていた翼が急速に縮小を始め、その内側に隠されていたヴァッシュの姿が露わになった。
――巨大な銃口がビナーに突き付けられていた。
ヴァッシュの右腕が変形した姿。
彼の身体の一部でありながら、その体長の数倍を超える長大な銃身が完成していた。
おそらく、これが本来の姿だ。
異形の銃身を見上げながら、ホシノは悪夢で見た――かつてジュライを滅ぼした光景を思い出していた。
あの時、街を滅ぼした『銃』の正体がこれなのだ。
銃身の表面に複数の『顔』と『翼』を生やした、まるで天使を宿したかのような右腕。
その内部には、収束したエネルギーだと思われる白い光球が脈動するように輝いている。
周囲の空気は帯電し、一体どれだけの力が蓄えられているのか想像もつかない。
それが放たれた時、何が起こるのかも――。
「ホシ、ノ……」
ヴァッシュの声が、かすかに聞こえた。
恐怖に囚われかけていたホシノは、その声で現実に引き戻された。
「ユ……メ……」
左腕の痛みで朦朧とする意識の中、ユメは変わり果てたヴァッシュの姿を、それでも必死に見上げていた。
「眼を、瞑ってろ……ッ!!」
理性の光を取り戻したヴァッシュの左眼が、ビナーを睨みつけた。
右腕の銃口に光が灯る。
その照準を向けられたビナーもまた、迎え撃つかのように開口した。
砲口に三度、光が灯る。
エネルギーの充填が始まった。
しかし、未だにオーバーヒートを起こしたままの状態でビーム砲を使用することはさすがに無理が祟っているのか、明らかに異常な量の煙が頭部から噴き出していた。
甲高い異音を響かせながら、それでも砲口にエネルギーが収束されていく。
まるで悲鳴だった。
銃を向けられて、恐怖に駆られた者が上げる叫び声のようだった。
ビナーとヴァッシュ。
お互いに銃口を相手に突き付けたまま、恐るべき破壊の力を増大させていく。
そして――先に発射準備が終わったのはビナーだった。
間髪入れずにビーム砲が放たれた。
発射と同時に、頭部の複数個所で爆発が起こる。
自壊することさえ省みない、限界を超えた一撃だ。
それ故に最大限にまで威力を高めた上で先手を取った攻撃を、
「――消えろ」
ヴァッシュの射撃が真正面から消し飛ばした。
それは文字通りの『消滅』だった。
射線上にあった物が全て消えた。
ぶつかり合ったエネルギー同士の拮抗すらない。
ヴァッシュの放った『銃弾』はビナーの熱線を打ち消し、その先にある頭部を丸ごと消滅させていた。
ホシノの銃撃でさえ砕けなかった装甲が、その力の前では何の意味もなかった。
破壊や破砕ではなく、スプーンか何かでくり抜かれたような断面を残して跡形もなく頭部を消失したビナーの胴体がゆっくりと倒れていく。
そうして何の抵抗も示さないまま、地響きを立てて地面に横たわった。
それで終わりだった。
ビナーは完全に機能を停止していた。
辺り一帯に甚大な破壊を振り撒き、たった三人では撃退するどころか逃げることさえ絶望的だった怪物が、一発の銃弾によって倒れたのだ。
「終わっ……た?」
現実感のない光景に、ホシノは呆然と呟いた。
しかし、どんなに呆気なくともそれは現実だった。
異形の銃身を見上げる。
次元の異なる存在を感じた。
あの強大な怪物も自分達も、皆等しくゴミだ。
もしも『これ』がその気になれば、程無くやってのけるだろう。
このキヴォトスに生きる人々の骨一本、血の一滴、肉のひとかけら残さない、完全な抹殺を。
ホシノはユメを抱えて逃げ出したかった。
こんなものの近くには、もう一秒だって居られない。
――だけど。
――『これ』はヴァッシュの腕なんだ。
決して切り離すことの出来ない、彼の身体の一部、彼の背負わされた業。
それから逃げることなんて。
目を逸らすことなんて。
出来ない。
したくない。
だから。
「……ヴァッシュ」
ホシノはヴァッシュに向かって、恐る恐る手を伸ばした。
その手が変わり果てた顔に触れる――寸前。
「うっ……ぐ、ぁあああああああ゛あ゛ッ!!」
ヴァッシュが悲鳴を上げた。
苦痛に身を捩るように、右腕を頭上に向けて振り上げる。
周囲を囲う無数の羽根が、再び不規則な変形を起こし始めていた。
「ヴァッシュ!? ど、どうしたんですか!?」
右腕に宿る光球が、激しく脈動を始めた。
ついさっき、ビナーを撃つ時に起こった現象と同じだ。
もう撃つべき相手はいないのに。
また『銃弾』が放たれようとしている。
「ダメ……だ! 止められないッ!」
苦悶の表情を浮かべながら、ヴァッシュが叫んだ。
今度こそ、本当の暴走が起こっていた。
ビナーを消滅させるほどのエネルギーを放出して尚、溢れ出る力が逃げ道を求めて噴き出そうとしているのだ。
――この右腕は、まだ止まらない。
ヴァッシュ自身と、独自の感覚によってホシノも、その絶望的な事実を直感した。
記憶の中でナイブズが言っていた。
この力はいわば『門』である、と。
一度開けば全てを飲み込む。
その『門』を開いてしまった。
ヴァッシュの心に宿った殺意が、明確な指向性を持って力を開放してしまったのだ。
力の出掛かりの段階でかろうじて抑え込んでいた、砂漠の時とは違う。
完全に開いた『門』を閉ざすことは出来ない。
生み出された力の全てを銃弾として撃ち切るまで、その『門』は閉じない。
「ホシノ……!」
ヴァッシュは必死で銃身を持ち上げて狙いを虚空に向けようとしているが、その行為が無意味であることは彼自身もよく分かっているはずだった。
本当に恐ろしいのは『門』から引き出されたエネルギーではない。
全てを飲み込む『門』そのものだ。
放たれた『銃弾』は空間を歪ませ、生まれた余波は地上を薙ぎ払う。
開いた『門』があらゆる物質を飲み込んで、跡形もなく消滅させる。
何処を狙っても同じだ。
あのジュライのように、アビドスは地上から消え去るだろう。
「ホシノ、聞いてくれ!」
恐れていた悪夢の実現を前に佇むことしか出来なかったホシノは、ヴァッシュの必死の呼びかけを受けて我に返った。
抑えきれない力の暴走に顔を歪ませながらも、ヴァッシュの瞳から意思の光は消えていなかった。
真っすぐにホシノを見つめている。
何も知らなかったジュライの時とは違う。
過ちは繰り返さない、と。瞳の中の意思が語っていた。
この窮地に対して、まだ諦めを抱いていない。
しかし――。
同時に、その眼にはある種の覚悟が宿っていた。
「――僕を撃て!!」
ヴァッシュの言葉を、ホシノは一瞬理解出来なかった。
「もう、僕の意思じゃ暴走を止められない! 動けるのは君だけだ!」
「な、何を……」
「その銃で僕を撃って止めるんだ! 頭を狙え!!」
矢継ぎ早に告げられる指示を、その意味を、ホシノは理解出来なかった。
理解したくなかった。
手に持ったショットガンを両手で抱え込み、拒絶するように何度も小さく首を振った。
「何を言ってるんですか、ヴァッシュ!?」
「早くするんだ! 時間がない!」
「出来るわけないじゃないですか! バカなこと言わないでください!」
「皆、死んじまうぞ!!」
ヴァッシュの叫びは、これから自分が起こす惨劇に対する悲鳴のようだった。
「アビドスに住んでる人達も……!」
右腕が肥大化と縮小を繰り返す。
本来あるべき形から無理矢理別の形に捻じ曲げようとするような、歪な変化だった。
それはヴァッシュが必死に抗っている証だ。
「ホシノも……!」
銃身に浮かぶ『顔』が、あの時のように涙を流しながら叫んでいた。
肉と皮膚が裂け、血が噴き出す。
一度抱いた殺意が導くままに力を行使しようとする右腕と、それに抗う意思の乖離がヴァッシュの身体を引き裂いているのだ。
「ユメも死ぬ!!」
その宣告に、ホシノは今抱いているものとは別の恐怖を感じた。
ユメが死ぬ。
他でもないヴァッシュの手によって。
それは決して起こってはならない悲劇だった。
「頼む、ホシノ……ッ!」
すまない……。
すまない……ホシノ。
君にこんな残酷なことを頼んですまない。
こんなことになってしまってすまない。
すまない……。
すまない……!!
だけど――。
「俺に、もう誰も撃たせないでくれぇ!!」
ヴァッシュの悲痛な懇願が、ホシノの心をどうしようもなく揺さぶった。
周りを覆う羽根の力なのか、彼の今の胸中が手に取るように分かった。
夢の中や砂漠で羽根に貫かれた時とは違う、心が押し流されそうな情報の濁流だ。
整合性のない記憶や感情の断片が、ホシノの頭の中を奔って抜けていく。
ヴァッシュを撃ちたくなんかない。
だけど、ユメを死なせるわけにはいかない。
彼に三度目の引き金を引かせるわけにはいかない。
ホシノは歯を食いしばって、言うことを聞かない腕を無理矢理動かした。
噛み締めた歯は震え、心臓の音は滅茶苦茶だ。
現実から目を背けたくて、意識が遠のきそうになる。
それでもゆっくりと、ショットガンの銃口がヴァッシュの頭部に向けられた。
「やめて……ホシノちゃん」
足元から今にも消え入りそうな声が聞こえた。
倒れていたユメが、動かない左腕を引きずって、ホシノの足元まで這っていた。
「ヴァッシュを、撃っちゃダメ……!」
撃たないで、ホシノちゃん。
大切な人を撃たないで。
撃ったら、きっとアナタ自身も取り返しのつかない傷を負ってしまう。
そして……わたしも。
もしも、ホシノちゃんがヴァッシュを撃ったら。
わたしは。
ヴァッシュを失うだけじゃない。
ホシノちゃんを……恨んでしまうかもしれない。
一番傷つくのはホシノちゃんのはずなのに。
わたしを助ける為に撃とうとしているのに。
もしも、その時が来てしまったら、自分がホシノちゃんに何を言ってしまうのか分からないのが怖い。
ごめんなさい。
何も出来ないくせに。
ごめんなさい……!
だけど――。
「お願い……撃たないで!」
意識を失ってもおかしくない激痛の中で、涙を流して懇願するユメの声が聞こえた。
ユメ自身も、今何もしなければ全てが終わってしまうことを理解している。
しかし、それでもヴァッシュを撃つことを拒んでいた。
それが自分達三人にとって、取り返しのつかない未来への引き金であることを知っているのだ。
ヴァッシュとユメが抱く感情と意思の板挟みになったホシノの顔が無惨なまでに歪んだ。
――撃つべきか。
選択肢は酷薄だ。
――撃たざるべきか。
制限時間は短い。
――決断しろ。
ヴァッシュの右腕の発光が、いよいよ増してきていた。
力は今にも暴発する。
放たれれば全てが消えるだろう。
この場にある命も、自分の抱えている苦悩も。
全てが無くなって楽になれる。
しかし、きっとその後には彼だけが残されるのだ。
ジュライや二度目の引き金を引いた時のように、ヴァッシュの人生にこれまで以上の消えない罪を背負わせてしまう。
潰れそうな重荷を増やした彼はまた独り、砂漠を永遠に彷徨い歩くのだ。
そんな生き地獄に彼を再び放り出すのか?
「ヴァッシュ――」
だから今、撃つべきか。
彼を撃ち殺してアビドスを救う。
そして、ヴァッシュを失った喪失感を抱え、手に掛けた自分自身を一生軽蔑しながら生きていく。
別の選択肢を選んでいればよかった、と。後悔し続ける日々を繰り返して……。
「ユメ先輩――」
時間はない。
選ばなければならない。
今、ここで最も許されないことは、夢みたいな解法を待って何一つ選ばないことだ。
躊躇っている内に全てが終わる。
引き金に指を掛けろ。
照準は何処だ?
選べ。
――銃で撃てば、人は死ぬ。
トライガン単語解説『不殺』
人を殺さないことを第一に考えるヴァッシュの行動原理だが、彼自身は決して高潔な精神や聖人染みた性格で人殺しを忌避しているわけではない。
人を恨むこともあれば、殺意を抱く時もある。
最も顕著に表れているのが旧アニメ版のモネヴ戦で、原作コミックでは死人を出さなかったがアニメでは女子供を含めて多数の死傷者が出ている。
その惨状にショックを受けたヴァッシュは元凶であるモネヴに対して明確な殺意を露わにした。
「人が死んだ……死んだんだ!」
「お前も……死ね!」
何度も言うけどモネヴ戦の声優さんの熱演は必見。