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◆ side:時崎創英 ◆
――息が荒い。喉が焼けるみたいに熱い。
駆け抜ける足音が、やけに大きく耳に響いていた。
俺は今、再び“あの家”の前に立っていた。
いや、立たされていたと言うべきかもしれない。
背後には二人の子供。震える声で「妹を助けてください」と泣き叫んだあの瞳が、頭から離れなかった。
あの日――絢香を守れなかった自分の姿と、どうしても重なってしまう。
「絶対に助ける。だから……ここで待っていろ」
小さく呟き、俺は家の戸を押し開けた。
───
中に入った瞬間、鼻腔をつんざく腐臭が押し寄せる。
湿った木材、腐りかけの畳。あの日と何も変わらない。
胃の奥が再びひっくり返りそうになるのを、歯を食いしばって堪えた。
……だが。
次の瞬間、視界が大きく歪んだ。
「にぃに」
耳元で声がした。
振り向けば、そこにいたのは――もう二度と見ることはないと思っていた、絢香の姿だった。
「……あ、あや……か……?」
言葉が喉の奥で詰まる。
幻覚だと頭では分かっている。だけど、その声も、その仕草も、あまりにも生前の絢香そのままだった。
「にぃに」
そう呼ばれた瞬間、胸の奥で何かが崩れ落ちそうになった。
あの日、血だまりに沈んでいた妹の姿が、鮮明に蘇る。
守れなかった悔恨と、叫び声と、俺の震える手。
「どうして……助けてくれなかったの?」
影の絢香が、真っ直ぐに俺を見つめてくる。
その眼差しには怨嗟も憎悪もない。ただただ、寂しげで、弱々しい光。
だからこそ――心臓を握り潰されるような痛みを覚えた。
「俺は……っ、違う……俺は助けたかったんだ……!」
反射的に叫んでいた。
だが次の瞬間、影は血に濡れた小さな手を広げ、俺に向かって突き出してきた。
「嘘つき」
その一言が、刃のように鋭く胸を抉る。
世界が反転したように足元が崩れ、呼吸すらままならない。気づけば膝をついていた。
――これは家が見せている幻覚だ。
そう理解していても、頭の中で何度も「違う」と繰り返しても、心が追いつかない。
「わたしはあの時、にぃにに助けを求めたのに」
「……っ!」
「なのに、にぃには来てくれなかった」
影の絢香はゆっくりと歩み寄り、俺の目の前で立ち止まる。
その小さな顔が、血で濡れたあの日と重なった。
「にぃになんて、大っ嫌い」
その瞬間、胸の奥で何かが爆ぜた。
ずっと押し込めていた後悔と、罪悪感と、無力感。
心の底に沈めてきた泥が一気に浮かび上がり、俺を飲み込んでいく。
「……ぁ……」
声にならない声が漏れる。
頭の中では「違う」「違う」と響き続ける。
でも、影の言葉は否応なく俺の心を縫い付ける。
「俺は……俺は――」
思わず手を伸ばした。
血に濡れた絢香の幻影を抱き締めたくて。取り戻せない温もりを求めて。
――だが、その瞬間。
影の絢香の顔がぐにゃりと歪み、醜悪な笑みに変わった。
細い腕が異様に伸び、首に絡みついてくる。
「ほら、やっぱり。にぃにはわたしを殺したんだ」
「ぐっ……あ、ああああああああっ!!」
喉を締め付けられながら、俺は必死に抵抗する。
だが影の力は異常なほどに強く、まともに引き剥がすことすらできない。
視界が暗転し、脳裏に過去の惨劇が何度も繰り返し流れ込む。
血の匂い。
叫び声。
妹の途切れ途切れの呼吸。
すべてが俺を責め立てる。
「やめろ……もうやめてくれぇぇぇっ!!」
咆哮と同時に、俺は渾身の力で影を振り払った。
体が床に叩きつけられ、肺の奥まで酸素が流れ込む。
必死に息を整えながら、目の前を睨みつける。
――影の絢香は、まだそこに立っていた。
だが先ほどまでの妹の面影は薄れ、異様に伸びた四肢と虚ろな瞳だけが闇に浮かんでいる。
「……やっぱり、そうか」
震える声で、俺は呟いた。
これは絢香じゃない。ただの幻覚だ。ただの――俺を殺すための罠だ。
心臓がまだ痛む。涙が視界を滲ませる。
それでも、拳を握りしめて立ち上がった。
「俺を試すつもりか……だったら、乗ってやるよ」
足を踏みしめ、影と対峙する。
胸の奥に渦巻く後悔を押し殺し、俺はただ前を睨んだ。
その先に、まだ救える命があるのだから。
─────
───
─
◆ side:稗田阿求 ◆
――人里から少し外れた場所に、奇妙なざわめきが広がっていた。
私、稗田阿求は、記録用の紙束を膝に載せたまま、静かに耳を澄ませる。
「……今の、何の音?」
夕刻の里は普段なら子供たちの声で賑やかだが、今日はやけに静まり返っている。
耳を澄ますと、風が吹くような低い唸りが一定の間隔で聞こえ、しかもそれは里の外――例の、変な家の方角から届いていた。
創英さんと別れてからの違和感は、ずっと胸に残っていた。
気丈に振舞っていたが、どこか無理をしているように見えたし、何よりも――あの家。
こうして目の当たりにすると、外来の建築でありながら、どうにも得体の知れない空気を纏っているように感じられた。
私は筆を握りしめ、己の動悸を抑えながら思考を巡らせる。
書物を通して、妖怪の仕業や怪異の発生例は数多く知っている。
しかし実際に体感するのは初めてに等しい。
知識はあっても、肌で感じる不気味さは理屈では説明できないほどに重苦しく、私の肩を押し潰していく。
やがて、胸の奥に嫌な予感が広がった。
――あの家の中にいる彼が、確実に“何か”に囚われている。
そんな予感めいた思いが、心の中で渦巻いてゆく。
「……私に、できることは……」
稗田家の娘として、幻想郷を記す者として、怪異を前にして手をこまねいているだけではいけない。
そう思いながらも、足は敷居の先に踏み出せない。
私は、自分が「無力な人間」であることを痛感する。
退魔師でもなければ、武を修めたわけでもない。ただ筆を執り、見聞を記すことしかできない。
だが――だからこそ。
「せめて……この目に、焼き付ける」
決意を込めて、私は筆を走らせる。
震える手で、今まさに起きている怪異の気配を、一字一句逃すまいと紙に刻みつける。
それは私にとっての戦いであり、祈りでもあった。
「創英さん……どうか、生きて戻ってきてください」
胸の奥でそう願いながら、私は闇の向こうに広がる「変な家」を凝視し続けた。
─
───
─────
◆ side:時崎創英 ◆
――膝が笑っていた。
幻影の絢香に言葉を浴びせられ、胸の奥がえぐり取られるような痛みの前に、屈しそうになっている自分がいる。
呼吸は乱れ、手の震えが止まらない。
――どうして……助けてくれなかったの?
頭の奥で、あの声が繰り返し響く。
目を閉じれば、血に濡れた妹の姿が鮮明によみがえる。
罪悪感に塗れた心は、ただ只管に自分の心を引き裂いてゆく。
あの時、俺には絢香を守りたい心は確かにあった。だが、それ以上に、恐怖で身体が固まり、動けなくなっていた。
お笑い草だ。そんな俺よりも、絢香の方が先に動き……俺を庇ったのだから。
何が守るだ。守られた側の人間風情が、烏滸がましいにも程がある。
「絢香……俺は……」
そのときだった。
「……ひっく……ひぐっ……」
小さなすすり泣きが、闇の向こうから聞こえてきた。
顔を上げると、廊下の角を小さな影が駆け抜けるのが見えた。
「――子供……!?」
声が勝手に漏れた。
頭にこびりついた幻影の声がかき消される。
折れかけていた心臓に、強引に血が流れ込むのを感じた。
「待て! 俺は敵じゃない、助けに来たんだ!」
廊下を蹴って駆け出す。
閉じかける襖を片腕で押しのけ、軋む床板を踏み抜きながら進むと――そこに、小さな背中があった。
柱の陰に縮こまり、泥だらけの膝を抱えて震える少女。
まだ七つか八つほどだろう。怯えた瞳が、こちらを見上げていた。
「……っ……」
言葉を探す。
脳裏では、絢香が泣きながら袖を掴んでいた日の光景が重なった。
絶対に失ってはいけない。心の中で抱いた決意が、強く胸を拍動させる。
「大丈夫だ」
膝をつき、できる限り柔らかい声で告げる。
驚くほど掠れていたが、それでも言葉を絞り出した。
「怖かったろう? もう大丈夫だ。俺が外まで連れて行くからな」
少女は怯えたまま小さく首を振った。
その肩の震えに胸が締め付けられる。
俺はゆっくりと手を差し伸べた。
「さぁ行こう。俺は――君の兄さんに頼まれて来たんだ。君を助けて、必ず帰すために」
しばしの沈黙。
そして少女は、堰を切ったように泣きながら俺の胸に飛び込んできた。
「……よし」
その小さな体を抱き上げる。
痩せ細った腕が必死に俺の首へ縋りつく。
その温もりが、胸の奥の冷え切った空洞を少しだけ満たしていく。
「絶対に離さない。今度こそ――守り抜いてみせる」
ぎゅっと腕に力を込め、俺は立ち上がった。
───
少女を抱き上げた瞬間に、あの冷たく乾いた味――土と鉄と埃の混じった臭いが、鼻の奥に戻ってきた。
小さな体が震え、俺の首にしがみつく指先の細さが、腹の奥の何かを揺さぶり、心の疵を刺激する。
あの夜の感触。あの日の重み。その全てが今、ここにある。
だがもう迷わない。それに、ここまで来たのならもう後戻りだって出来ない。
あの時の俺とは違うんだ。違っていなきゃならないんだ。
俺は震える声を、出来るだけ平静に装って絞り出した。
「これから外へ脱出する。俺が必ず守ってやるから、しっかり掴まってるんだぞ」
子供の小さな嗚咽が、胸の内をぎゅうっと締める。
守るって決めたんだ。今度は……絶対に放さない。
そうして足元を確かめながら歩き出すと、屋敷の空気が変わった。
床板の継ぎ目から細い黒い蔓のようなモヤがよじれ出し、瞬時に廊下を埋め始める。
侵入した時から感じていた木の匂いは消え、代わりに澱んだドブのような匂いが広がる。
――奴らが来た。
いや、家そのものが抵抗をし始めたんだ。
それを悟った俺は最短ルートを探し始めた。
記憶が差し示す方角へと身体を向けるが、同時に視界が歪む。
壁が微かに脈動して、襖の隙間から白い小さな顔が覗く。
目は虚ろで、俺を見つめている。耳元で低く囁く声が聞こえてきた。
『にぃに……にぃに、帰らないで……』
幻影じゃない。だがあの声の質は、確実に絢香のものではない。
誰かの記憶を剥ぎ取って並べた偽りだと、腹の底が理解する。
それでも……嘘だって分かっていても、熱は伝わる。胸をえぐる。
その痛みに耐えながら、まずは退路を確保するべく動いた。
両手はふさがっている――片手に子供、もう片手では呪符をつまめない。
だが腰の呪詛巻物はすぐ掴める位置にある。
咄嗟に腰を屈め、巻物を引き抜く。指先で紐をほどき、口で短く唱える。
「オン・バンダ・カン――」
巻物を振ると、薄い光の鎖がほう、と空間に走った。
鉄の鎖の音が小さく鳴り、ひとつの角材が浮かび上がって、家の中を走る黒い蔓を絡め取る。
絡められた蔓はぎしぎしと音を立て、固まるように動きを止めた。
効果は一瞬だ。故に家は即座に反撃をしてくる。
畳の縁が裂け、そこから大量の小さな手首が白い皮膚を伸ばして、俺たちに掴みかかる。
子供の頭を引っ張ろうとするその爪先に、俺は機械的に呪符を抜き取った。
「オン・シャンディ・カン!」
呪符を前方に弾く。小さな紙片はホーミングの如く手首へ飛び、よく切れる刀のように白い肌を裂いた。
木の軋みが断続的に響く。呪符は床に突き刺さり、その周辺に薄い光の輪が描かれた。
小さな防壁だ。子供の体をその輪で半ば包み込むようにして、ひとまずの安息を作る。
しかし家はしぶとい。壁が波打ち、襖が内側へ押し潰されるように歪む。
廊下がねじれる瞬間、天井からは長い木の板が音を立てて落ちてきた――直撃すれば一発で脳天が砕ける所だ。
俺は反射的に体をひねり、抱えた子をひと押しして床へ滑り込ませる。
片手で押さえ、片手で風花の柄をつかむ。柄は冷たく、手に馴染む重みが俺に勇気をくれた。
――あの時の俺は、抗う事すら叶わなかった。
だが今の俺の身体は、戦うために出来ている。
あの夜の熱、あの血の匂いに何時までも呑まれるな。
教わったこと、肌で覚えた所作を携えて……挑むべき時は、今なんだ!
「オン・ベイシラマンダヤ・ソワカ!」
毘沙門の真言を短く絞り出すと、息の中から力が集まる。
刀に手をかけて振りかぶると、刃先から一条の孔雀緑の残光が走った。
渾身ではない。けれども、確かな手応えを感じる。
「オン・カヤラ・ソワカ!」
短縮詠唱と共に風花を横に振ると、空気が裂けるような音とともに、薄い緑の裂け目がひらりと現れた。
裂け目は持続しない――けれど、そこをくぐれば一点だけ、外の匂いが漏れた。
外。この言葉の意味が、胸を一瞬だけ明るくする。
進め。走れ。
足を滑らせ、襖の隙間をすり抜けながら、長く伸びた家具を風花で薙ぐ。
刃が触れると、家具は音を立てて崩れ、新たな黒い触手を吐き出す。
巻物の鎖を再度掲げ、次の真言を紡いだ。
「オン・バンダ・サティヤ・クシャナ・リティ・ソワカ!」
長めに詠唱すると、鎖の光は螺旋を描いて伸び、空中の家具を次々に捉えた。
巨大な座布団が宙に浮いて回転しながら落ちてくるのを一網打尽にして固定する。だが完全に封じるには至らない。
相手は屋敷そのものだ。恐らくは何処かに核があり、それを守るために全身が動いているのだろう。
壁の顔が、俺らを嘲るように笑い出す。
『にぃに……わたしのにぃに……』
絢香に似た声。しかしてそれは唯のまやかしだ。けれども、そのなだれは鋭く、俺の思考の隙を突いてくる。
震える手で抱いた子供が「にぃに」と小さく囁いた。
その声は短く、俺と同じ様にして震えていたが、精気を感じられる力強さが俺の心を繋ぎ止めてくれていた。
「……心配すんな」
ぶっきらぼうながらもそう告げる。
その時、阿求の祈りが風に乗って聞こえたような気がした。
俺は確信めいた感覚に導かれ、深く息を吸い込む。
護りの真言を一節、短く心の中で唱えた。
(オン・アロリキャ・ソワカ)
観音の真言。声には出せなかったが、内側で回転するように唱えると、子供の周囲を包む呪符の輪が穏やかに膨らんだ。
光が柔らかく、真綿のように震えて、泣き声が少しだけ小さくなる。
子供の吐息が、ようやく落ち着いた。
次にやるべきは「道を切り開く」こと。
今までの経験で察しがついたが、風花は空間を裂く刃だ。
さっきの裂け目を応用することで、妨害を跳ね除けながら外へ抜けられるはず。
「オン・カヤラ・ヴァスティ……」
刀を両手で構え、歯を噛む。
体の奥底から、教わった旋法を辿った。
「アリヤ・ハナヴィラ……ソワカ!」
右足で床を蹴り、左肩を先行させて――一気に振り抜く。
言葉が体を震わせ、刀身が緑い光の帯を引いた。
刃先が空気を裂くと、そこに一筋の穴が開く。穴は生地を切り裂くように、家の「膜」を破った。
向こう側、外の空気がぶわりと押し寄せるのが指先に伝わる。
だがその瞬間、屋敷は最後の悪あがきを始めた。
床が波打ち、足元の木材が膨らみ、床板の継ぎ目から顔が何十もせり上がる。
顔は歪み、口からは黒い糸のようなものが噴き出して、開いた裂け目をふさごうとする。
――ここで止まるわけにはいかない。
俺は全力で走った。廊下を抜ける瞬間、古い屏風が一本、岩のように飛んできた。
それを掌で弾き返し、床に貼り付けられた呪符群へ手を伸ばす。
指先で二枚をつまみ、子供を抱えた腕で投げ放つ。
「オン・シャンディ・カン!」
呪符が爆ぜ、屏風は光の矢に打ち砕かれる。だが追撃まだ終わらない。
屋根の端から無数の黒い脚が伸び、外へ這い出そうともがく。
それらは顔を持ち、俺を睨んだ。
――来るな……来るな、来るな、来るな!
俺は子供を胸に抱いて最後の力を振り絞る。
目の前の小さな門扉を、風花で斬り裂いた。
外の光は薄く、でも確かに向こう側にあった。
「創英さんっ!!」
家の前に居た阿求は、悲鳴混じりに俺の名前を叫んだ。
その声に応え、駆ける足が敷居を越えたその瞬間、背後から何かおぞましい気配が立ち上るのを感じた。
背中を這うような低い唸り。
屋根が鳴動し、敷地全体が一度大きく吸い込まれたように凹む。
振り返れば、家の一部が裂け、黒い塊がゆっくりと立ち上がり始めている様子が目に入った。
その表面に、先ほどまで見た畳の下の顔たちが無数に張り付いている光景も同時に。
「■■■■■■■ーーーーーーーーッ!!!!!」
家は歯を剥き、裂けた喉の奥から長い悲鳴を絞り出した。
砕けたような高音と低音が混じり合い、空が引き裂かれるようなうめきとなって里じゅうに響かせて。
――何か大きなものが、今、外へ這い出そうとしていた。
「――阿求、そこから動くなよ。まだ終わってない」
言葉は空へ放り投げるように吐いた。
阿求の返事と共に筆の走る音が遠くに聞こえる気がして、俺はそれだけを頼りに、自分を立て直す。
ひとまずは守った。だが、まだ終わりじゃない。この家はまだ喰らおうとしている。
「……この子を頼んだぞ、阿求」
――本当の戦いは、これから始まる。