幻想回帰節   作:北宮 涼

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11の節:変な家、その6

◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

◆ side:時崎創英 ◆

 

 ――耳を裂く、得体の知れない咆哮。

 

 それはまるで、大地の底から押し上げられたかのような怨嗟と、空気を食い破る狂気が混ざり合ったような声だった。

 もはや音というよりも衝撃にすらに近く、容赦なく鼓膜を叩き、肺を震わせ、心臓を掴むような圧迫感を伴っていた。

 人間の里に暮らす者たちはその声を聞いた瞬間、理屈ではなく本能で「逃げねばならない」と理解し、一斉に家屋へ逃げ込んだ。

 戸が閉まり、灯火が消え、里全体が息を潜める。

 

 だが――。

 

「……ぁ……」

「お……おおきい……」

 

 目の前に居る阿求と子供たちは、その声の主を直に見てしまった。

 巨大な影が闇を割って立ち上がる。かつて「変な家」と呼ばれていたそれは、もはや「家」の形をしていなかった。

 屋根は背骨のように軋み、壁は肉腫のように膨れ、窓は口腔のように開閉を繰り返す。

 そこからは、これまでに喰らってきた者たちの断末魔が、濁った吐息となって漏れ出ていた。

 

 名状し難い「生きた家」。

 数多の犠牲の上に成り立つその巨体は、ただそこに立っているだけで地を覆うほどの威圧感を放っていた。

 

「全員、そこを動くな」

 

 震える阿求と子供たちの前に、一歩進み出た俺は低く告げた。

 足が竦みそうなのは俺も同じだ。だが、この場で背を見せて逃げれば、次の瞬間に喰われる。

 それだけは絶対に許せなかった。

 

(こいつが……この化け物が、俺にとっての最初の強敵ってやつか)

 

 息を整え、懐の符を掴む。

 修行で叩き込まれた退魔の技が脳裏をよぎる。だが、こんな相手に通じる保証は無い。

 それでも――背後に庇うべき者が居る以上、戦う以外に他はない。

 

「来いよ、化け物……!」

 

 吼え声が返答のように轟く。

 次の瞬間、家の壁面が牙の群れのように変じ、こちらへ殺到した。

 

 

「はぁッ!」

 

 符を切り裂き、結界を張る。

 だが襲い来る質量はあまりに重い。結界は大きく軋み、一瞬で爆ぜる。

 その刹那を辛うじて見切りながら、吹き飛ばされる寸前に地を蹴って受け流す。

 土煙が上がり、視界が曇った。

 

 背後の子供が小さく悲鳴を上げる。

 振り向けない――今振り向けば、次の攻撃で全員呑まれてしまう。

 

「……っ!」

 

 立て続けに符を繰る。炎弾、雷撃、退魔の光――。

 だが、壁の肉腫がそれらを飲み込み、吸収するかのように形を変えていく。

 焼け焦げる匂いすらしない。ただ、闇に還元されるように消えていく。

 

(効かねぇ……!?)

 

 焦りが胸を掴む。

 こちらの攻撃がほぼ通じない一方で、あちらの一撃は直撃すれば命を落としかねない。

 しかも俺には――背後の守るべき者たちがいる。

 

 守りながら攻める、その制約が重すぎた。

 

 

 戦闘が始まり、体感で10分程経っただろうか。

 次第に被弾が増えはじめ、肩を掠められ、血が滲む。足を打ち据えられて膝が軋んだ。

 幾度となく吹き飛ばされては、立ち上がる度に、肉体だけでなく精神も削られていった。

 

 ――そして、それは唐突に始まった。

 

『創英……どうして置いていったの?』

 

 耳元で、懐かしい声がした。

 見ればそこに立っていたのは、妹・絢香の影だった。

 潰れかけた顔、鮮血に濡れた衣、助けを求めて伸ばされた手――屋内で散々苦しめられた幻覚が、ここに来て畳み掛けてきた。

 

「やめろッ……!」

 

 思わず足が止まる。その一瞬の隙を、怪物は逃さない。

 壁の触手が鞭のようにしなり、俺を叩き飛ばした。

 

「がっ……ぁあッ!」

 

 地面に叩きつけられて、バウンドを幾らか繰り返しながら転がる。

 口内に鉄の味が広がり、息が詰まり……もはや、立ち上がることすら出来なかった。

 

「私達は無駄死にだった……ッ!」

「お前には兄として期待していたのにッ!」

「なにも出来ないにぃになんて――死ねばいい」

 

 幻覚は消えない。

 何度目を閉じても、絢香の呻き声が、母の叫びが、父の怒号が響き渡る。

 それは記憶を抉り出し、傷を裂き広げるように俺を責め立てた。

 

(くそっ……ダメだ……)

 

 背後から子供の泣き声が聞こえる。

 阿求の押し殺した声も耳に届く。

 

 守らなきゃいけないのに、足が動かない。

 退魔師として、戦う者として、最もやってはならない「迷い」に、俺は囚われていた。

 

 きっと……次の一撃が致命になる。

 避けなければならない。守らねばならないのに――立ち上がれない。

 肺は潰れたみたいに呼吸を拒み、肋骨の奥に鈍い痛みが響く。

 腕は鉛のように重たくて、指一本すら思うように動かせない。

 大地に横たわったまま、俺はただ……迫り来る影を見上げていた。

 

(ダメだ……もう、少しも動けねぇ……)

 

 耳にはまだ、妹や両親の幻影の声がこびりついている。

 「なにもできなかった兄」だと罵られ、心の奥底をえぐられ続けた。

 目の前の怪物――この「生きた家」は、それを意図的にぶつけてくる。俺の一番弱い場所を、容赦なく。

 

 その嘲りがあまりに真実味を帯びているせいで、否定すらできなかった。

 俺は弱い。未熟で、誰かを守る力もなくて……。

 だから今も、こうして地面に這いつくばっている。

 

 ……だが、その時だった。

 

「創英さん――!」

 

 張り裂けそうな叫び声が、戦場の空気を震わせた。

 振り返らずとも分かる。稗田阿求の声だった。

 泣きそうなほどに掠れ、それでも祈るように俺の名を呼ぶ声。

 

 見れば、子供たちを必死に庇いながら震えている小柄な姿があった。

 阿求は逃げなかった。いや、逃げられなかったのかもしれない。

 けれど――その目は確かに、俺を見ていた。

 

 恐怖に押し潰されそうになりながらも、それでも「立ち上がってくれ」と訴えかけていた。

 

(……阿求……)

 

 胸が、強く掴まれた気がした。

 

 次の瞬間、怪物が動いた。

 阿求の声に反応したのだろう。背後の壁面がうねり、長大な槍のような突起を形成する。

 その先端は、阿求たちを真っ直ぐに狙っていた。

 

「――っ!」

 

 阿求は気づいた。けれど避けられない。

 彼女が子供を庇って前に出てしまったからだ。

 祈りの声を発したがために、狙われてしまったのだ。

 

 俺の視界に、阿求の蒼ざめた横顔が映った。

 絶望に目を見開き、それでも子供だけは背に庇うように立ち尽くす。

 

 その姿が――。

 

(……っ! ふ……っざけんなァ……!)

 

 脳裏に過ぎる。

 修行の日々。師範代に叩き込まれた「退魔の道は、己のためにあるのではない。誰かを守るためにある」という言葉。

 人里で交わした、子供たちの笑顔。

 阿求と交わした、長い夜の対話。

 そして、妹が……絢香が、最後に俺へ伸ばした手。

 

 すべてが混ざり合って、胸の奥底を灼いてゆく。

 

(また……繰り返すつもりか……ッ! 必ずッ! 守るとッ!! 誓ったばかりだろうがッ!!!)

 

 止まっていた身体に、熱が戻る。

 握り締めた拳が震えながらも、土を掴む。

 血で濡れた膝に力を込めて、軋む全身を無理矢理引き起こす。

 

「――あぁぁあああああああああああッ!!!」

 

 咆哮と共に、俺は立ち上がった。

 

 阿求めがけて振り下ろされる家の槍。

 時間が歪むほどにゆっくりと見える中で、それでも俺の脚は勝手に動いていた。

 

 呼吸は荒い。視界も揺れる。

 けれど、ただ一つ――「間に合う」という確信だけが、俺にはあった。

 

 両者の間に飛び出す。痛みを無視して、脚を引きずりながらも。

 

「そこから動くなッ!」

 

 叫びと共に、咄嗟に展開した護符を両手にかざして迫る槍を受け止めた。

 

 ――轟音。空気を裂く衝撃。

 地面が砕け、俺の腕が悲鳴を上げる。

 

「う、ぉぉぉぉッ!」

 

 それでも――俺は押し返してみせた。

 退魔師として培った全霊を込めて。ただひとつの誓いを守るために。

 

「創英さん……!」

 

 背後で、阿求の声が震えていた。

 子供のすすり泣きも同時に耳に入った。

 その声が、不思議と俺の背を支える。

 

 守るべきものが、確かにここにある。

 それが俺を此処に立たせていた。

 

(これだ……これこそが、俺の戦う理由だッ!)

 

 槍の先端が光に弾け、砕け散った。

 俺は地を蹴り、再び怪物と向き合う。

 

 かすかに笑みさえ浮かんでいた。

 限界は近い。身体はボロボロだ。

 けれど、心までは折れていなかった。

 

 ――退魔師、時崎創英。

 この瞬間。俺は本当に「誰かを守るために戦う者」として此処に立っていた。

 

「……来いよ、化け物」

 

 掠れた声で挑発すると、怪物は咆哮した。

 屋根だったはずの背骨が逆立ち、無数の腕のような壁がこちらを薙ぎ払う。

 大地がめくれ上がり、石畳が宙を舞う。

 

 正面から受け止めれば、一瞬で肉片になるだろう。

 俺は後退する足を叱咤し、符を切り裂いた。

 

 炎の渦。雷の奔流。

 修行で叩き込まれた全ての術を惜しみなく叩き込む。

 だが怪物は怨嗟の壁で受け止め、溶かし、呑み込む。

 

 ――あまりに巨大すぎる。

 これまでの技では、ほんの表層を削ぐことすらできなかった。

 

(クソ……やっぱり届かねぇ。一体どうすれば……)

 

 必死に思い出す。そして、ひとつの記憶を引きずりあげた。

 宗家の修行で一度だけ耳にした話。

 “飛剣・翔霊波”――。

 時崎一族に伝わる秘奥義。術者の霊力を極限まで練り上げ、刃と化して飛翔させる技。

 

 一族に代々伝わる話の中でしか聞いたことのない、象徴たる技。

 未熟な俺には扱えるはずがないと、封じられていた術。

 

 だが今、胸の奥でそれが呼応していた。

 阿求や子供たちを守りたいという、単純で揺るぎない思いが。

 

(……やれるかどうかじゃねぇ。やるしかねぇんだ)

 

 風花を納刀し、腰を低く落とす。

 流れる血が柄を濡らし、鞘を伝って地へ滴った。

 それでも構わず、全ての霊力を一刀に集中させる。

 全身の霊力が逆流するように噴き上がり……空気が、揺らいだ。

 

 荒れ狂う怨嗟の嵐に抗うように、俺は低く呟き始める。

 

「オン・カヤラ・ヴァスティ・アリヤ・ハナヴィラ・シャディヤ・バンダ――」

 

 声が震え、喉が裂けそうになる。

 だが次の瞬間、その震えは大地を這う重低音となって空へ広がった。

 

「サティヤ・クシャナ・リティ・シャンディ・レカ――」

 

 翠緑の稲妻が奔り、無数の紋様が空間に描かれていく。

 粉塵が逆巻き、星のように光の粒が舞う。

 

「アリナ・クサン・ヴィタ・グラナ・ヴィタ・ミティア・アリヤ・ソワカ――ッ!」

 

 噴き出す霊力の奔流に周囲の空間が爆ぜ始める中、その中心で俺の身体は浮かび上がり、背中から羽のような光条が広がった。

 

「飛剣――翔霊波ァァァァァァァァァッ!!!」

 

 叫ぶと同時に、天地が裂ける閃光が走った。

 翠の奔流は鳥の如くのごとく高く嘶き、夜空を駆ける。

 光刃は幾重にも重なりながら、巨大な奔雷の翼となって怪物を叩き裂いた。

 

 轟音。衝撃。

 屋根は切り裂かれ、壁は粉砕され、基礎すらも根こそぎ砕かれていく。

 緑の波が怪物を内側から浸食し、黒き瘴気を一条の光に変えて焼き尽くす。

 

 それでも光は止まらない。

 まるで数千数万の魂を送り出すかのように……無数の光条が、天へ昇っていく。

 

「■■■■■■■■■■■■――ッ!」

 

 怨霊の断末魔が夜空に響き渡る。

 それは嘆きと解放が混ざり合ったような、恐ろしくも哀しい絶叫だった。

 漆黒の夜に咲いた翠緑の花火――その光景は一瞬だけ、戦場を神域へと変えていた。

 

 やがて閃光は収束し、静寂が訪れる。

 砕け散った「変な家」の残骸は塵となり、風にさらわれて消えていく。

 

 残されたのは、ただ月明かりと――祈りのように舞い散る、淡い緑の残光だった。

 

 

 幾ばくか後に、光が収束し静寂が訪れた。

 粉塵が舞う中、俺は剣を振り抜いた姿勢のまま膝を突いた。

 

 全身が痛い。

 視界は揺れ、何度も暗転しそうになる。

 

「……ぅ……ぁ……」

 

 それでも、背後を振り返った。

 阿求と子供たちは――確かに、生きている。

 怯えながらも、無事にそこに立っている。

 

 胸の奥で、重く圧し掛かっていたものが解けていくのを感じた。

 

(……守れた……)

 

 それを確認した途端、張り詰めていた糸がぷつりと切れた。

 

「……よかった……」

 

 安堵の言葉を残して、俺の意識は暗闇に沈んでいった――。

 

 

─────

───

 

 

◆ side:稗田阿求 ◆

 

 ――限界を超えてなお、立ち上がる。

 崩れ落ちそうな膝を叱咤し、両の掌を天へ掲げる。

 怨嗟の奔流に呑まれそうになりながらも、彼は……時崎創英は、低く唱え始めた。

 

「オン・カヤラ・ヴァスティ・アリヤ・ハナヴィラ・シャディヤ・バンダ――」

 

 声はかすれていて、けれど吐き出す度にその震えは周囲の大地へと伝わり、重低音のように里の空気を震わせてゆく。

 

 彼に宿る光は瞬く間に拡がり、宙を刻むように紋様を描き出す。

 翠緑の稲光が幾重にも走り、やがて翼のような光条となって背から迸った。

 

「サティヤ・クシャナ・リティ・シャンディ・レカ――」

 

 周囲の景色が揺らぎ、空間そのものが悲鳴を上げる。

 私は息を呑み、子供たちは目を覆った。

 

「アリナ・クサン・ヴィタ・グラナ・ヴィタ・ミティア・アリヤ・ソワカ――ッ!」

 

 だが指の隙間から覗いたその光景に、幼い瞳は恐怖を忘れ、ただ言葉を失っていた。

 

 ――私達の目には、今まさに神が舞い降りたかのように映っていたのだ。

 

「飛剣――翔霊波ァァァァァァァァァッ!!!」

 

 最後の一節を吐き出すと同時に、天地が裂ける閃光が走った。

 

 翠緑の奔流は高く嘶きながら夜空を貫き、重なり合い、巨大な奔雷の翼となって怪物へ食らいつく。

 轟音が大地を揺さぶり、圧に吹き飛ばされかけた私は子供を抱きしめながら必死に耐える。

 それでも、目を逸らすことは出来なかった。

 それは恐怖などではなく……畏敬と祈りに似た感情が、胸を満たしていたから。

 

 屋根は裂かれ、壁は砕け、基礎は根こそぎ消し飛ぶ。

 翠の光は黒い瘴気を焼き尽くし、怨念の核を内側から引き裂いていった。

 

「■■■■■■■■■■■■――ッ!」

 

 絶叫。

 それは怨霊の断末魔であると同時に、永き呪縛から解き放たれる魂の慟哭でもあった。

 

 光条は無数の魂を導くかのように天へ昇り、漆黒の夜に大輪の花火のような輝きを咲かせる。

 その幻想的な光景に、私の唇は震えながらも、自然と祈りの言葉を紡いでいた。

 

「……浄めたまえ……導きたまえ……」

 

 私の呟きは子供たちのすすり泣きに重なり、奇跡を見守る小さな祭壇のように響いていた。

 

 

 やがて閃光は収束し、残響だけを残して夜が戻る。

 「変な家」は跡形もなく崩れ去り、舞い散る緑の残光が柔らかく私達を包み込む。

 

 風に乗って舞う光の粒は、まるで魂そのものが解き放たれたかのように、ひとつひとつ優しく空へと還っていった。

 

 子供たちはみな震える声で言った――”綺麗だ”と。

 

 私はただ黙って頷き、その光を見上げ続けていた。

 子供たちの目には涙が光っていたが、それは恐怖ではなく、救済を目にした安堵の涙だった。

 

 そしてその中心に――。

 霊力をすべて解き放ち、静かに膝を折る彼の姿があった。

 

 

─────

───

 

 

◆ side:時崎創英 ◆

 

 まぶたの裏に、暖かな光が差し込んでいた。

 夢の中にいるような、心地よい温度。だが次第に、背に感じる布団の感触や、障子越しに射す朝日が現実を形作っていく。

 

「……ここは……」

 

 重いまぶたを開けると、見慣れぬ天井があった。

 木の梁、清潔に整えられた室内、かすかに漂う墨の匂い。

 稗田邸――阿求の屋敷だとすぐに理解した。

 

 体を起こそうとした瞬間、全身を走る鈍痛に顔が歪む。

 腕も脚も鉛のように重い。無理もない、あれほど無茶をしたのだから。

 

「お目覚めですか?」

 

 柔らかな声に振り向くと、襖の向こうに阿求の姿があった。

 安堵の微笑を浮かべ、盆に湯呑みを載せている。

 

「阿求……」

「はい。まずは、お疲れさまでした。里の皆も、子供たちも無事です。あの“家”の姿も、跡形もなく消えていました」

 

 彼女の言葉に、胸の奥から力が抜ける。

 守り切れたのだ。阿求も、あの命も、この里も。

 

「そうか……良かった」

 

 わずかに笑みを漏らすと、阿求は盆を卓に置き、正座をして彼を見つめた。

 

「創英さん。あなたは昨夜、命を削ってまで戦い抜かれました。その姿を、私は決して忘れません」

「大袈裟だよ。俺はただ……守らなきゃいけないって思っただけだ」

「ええ、ですが――」

 

 阿求は言葉を切り、ほんの少し伏し目になる。

 その頬にはまだ、昨夜の涙の痕が残っていた。

 

「……私も、祈りました。あなたが倒れたとき、どうかもう一度立ち上がってと……。それが届いてしまったのかもしれませんね。だから、あなたに余計な負担を背負わせてしまった」

 

 かすかに震える声。

 阿求もまた、自分を責めていたのだと悟る。

 

「……違うさ」

 

 創英は首を振り、苦しい呼吸のまま、静かに告げた。

 

「阿求が祈ってくれたから、立ち上がれたんだ。あの瞬間に思い出せたんだよ。俺を支えてくれた人たちの顔や、学んできたものを……。だから、あれは俺の力じゃなくて、皆で掴んだ力だ」

 

 そう言って、少し照れくさそうに笑う。

 阿求はその言葉に瞳を揺らし、そして静かに頷いた。

 

「……では、これも書き記しておかなくてはなりませんね。“退魔師は縁を力に変える者である”と」

「やめてくれよ、そんな恥ずかしいことを残すのは……」

「ふふ、もう書いてしまいましたから」

 

 場に、柔らかな笑みが戻った。

 

 

 しばらく沈黙があった。

 湯呑みから立ち上る湯気が、ほんのりと二人の間を満たしていた。

 

「創英さん」

「ん?」

「……幻想郷には、まだ知らぬ闇が数多あります。昨夜の“家”のような存在は、ほんの一端に過ぎません」

 

 阿求の声音は、普段よりも少し低く、重かった。

 稗田の当主として、幾多の妖怪譚を記録してきた者だけが持つ確信の響きだった。

 

「あなたが再び命を賭ける場面が訪れるかもしれません。それでも――」

 

 創英は言葉を遮るように、ゆっくりと座り直した。

 まだ痛みはあったが、その瞳には迷いがなかった。

 

「分かってるよ。俺の力がどこまで通じるか分からない。次は勝てないかもしれない。……それでも」

 

 拳を握る。

 

「俺は、結ばれた縁だけは必ず守る。守ってみせる。……それが、俺に出来る唯一の生き方だからな」

 

 阿求は驚いたように目を瞬かせ、それから静かに微笑んだ。

 その笑みはどこか誇らしげで、そして温かかった。

 

「ええ……きっと、それがあなたの力になるのでしょう」

 

―――――

 

 外では、朝の鳥の声が鳴いていた。

 夜を越えた里には、再び人々の営みが戻ろうとしている。

 

 だが、彼らの胸に刻まれた「怪異の夜」の記憶は、決して消えない。

 そして、俺にとってもまた――それは新たな旅路の始まりに過ぎなかった。

 

 いつか再び現れるであろう闇に備え、俺は静かに目を閉じ、心の奥で決意を固める。

 

 ――縁を守る、そのために。

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