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◆ side:時崎創英 ◆
――耳を裂く、得体の知れない咆哮。
それはまるで、大地の底から押し上げられたかのような怨嗟と、空気を食い破る狂気が混ざり合ったような声だった。
もはや音というよりも衝撃にすらに近く、容赦なく鼓膜を叩き、肺を震わせ、心臓を掴むような圧迫感を伴っていた。
人間の里に暮らす者たちはその声を聞いた瞬間、理屈ではなく本能で「逃げねばならない」と理解し、一斉に家屋へ逃げ込んだ。
戸が閉まり、灯火が消え、里全体が息を潜める。
だが――。
「……ぁ……」
「お……おおきい……」
目の前に居る阿求と子供たちは、その声の主を直に見てしまった。
巨大な影が闇を割って立ち上がる。かつて「変な家」と呼ばれていたそれは、もはや「家」の形をしていなかった。
屋根は背骨のように軋み、壁は肉腫のように膨れ、窓は口腔のように開閉を繰り返す。
そこからは、これまでに喰らってきた者たちの断末魔が、濁った吐息となって漏れ出ていた。
名状し難い「生きた家」。
数多の犠牲の上に成り立つその巨体は、ただそこに立っているだけで地を覆うほどの威圧感を放っていた。
「全員、そこを動くな」
震える阿求と子供たちの前に、一歩進み出た俺は低く告げた。
足が竦みそうなのは俺も同じだ。だが、この場で背を見せて逃げれば、次の瞬間に喰われる。
それだけは絶対に許せなかった。
(こいつが……この化け物が、俺にとっての最初の強敵ってやつか)
息を整え、懐の符を掴む。
修行で叩き込まれた退魔の技が脳裏をよぎる。だが、こんな相手に通じる保証は無い。
それでも――背後に庇うべき者が居る以上、戦う以外に他はない。
「来いよ、化け物……!」
吼え声が返答のように轟く。
次の瞬間、家の壁面が牙の群れのように変じ、こちらへ殺到した。
◆
「はぁッ!」
符を切り裂き、結界を張る。
だが襲い来る質量はあまりに重い。結界は大きく軋み、一瞬で爆ぜる。
その刹那を辛うじて見切りながら、吹き飛ばされる寸前に地を蹴って受け流す。
土煙が上がり、視界が曇った。
背後の子供が小さく悲鳴を上げる。
振り向けない――今振り向けば、次の攻撃で全員呑まれてしまう。
「……っ!」
立て続けに符を繰る。炎弾、雷撃、退魔の光――。
だが、壁の肉腫がそれらを飲み込み、吸収するかのように形を変えていく。
焼け焦げる匂いすらしない。ただ、闇に還元されるように消えていく。
(効かねぇ……!?)
焦りが胸を掴む。
こちらの攻撃がほぼ通じない一方で、あちらの一撃は直撃すれば命を落としかねない。
しかも俺には――背後の守るべき者たちがいる。
守りながら攻める、その制約が重すぎた。
◆
戦闘が始まり、体感で10分程経っただろうか。
次第に被弾が増えはじめ、肩を掠められ、血が滲む。足を打ち据えられて膝が軋んだ。
幾度となく吹き飛ばされては、立ち上がる度に、肉体だけでなく精神も削られていった。
――そして、それは唐突に始まった。
『創英……どうして置いていったの?』
耳元で、懐かしい声がした。
見ればそこに立っていたのは、妹・絢香の影だった。
潰れかけた顔、鮮血に濡れた衣、助けを求めて伸ばされた手――屋内で散々苦しめられた幻覚が、ここに来て畳み掛けてきた。
「やめろッ……!」
思わず足が止まる。その一瞬の隙を、怪物は逃さない。
壁の触手が鞭のようにしなり、俺を叩き飛ばした。
「がっ……ぁあッ!」
地面に叩きつけられて、バウンドを幾らか繰り返しながら転がる。
口内に鉄の味が広がり、息が詰まり……もはや、立ち上がることすら出来なかった。
「私達は無駄死にだった……ッ!」
「お前には兄として期待していたのにッ!」
「なにも出来ないにぃになんて――死ねばいい」
幻覚は消えない。
何度目を閉じても、絢香の呻き声が、母の叫びが、父の怒号が響き渡る。
それは記憶を抉り出し、傷を裂き広げるように俺を責め立てた。
(くそっ……ダメだ……)
背後から子供の泣き声が聞こえる。
阿求の押し殺した声も耳に届く。
守らなきゃいけないのに、足が動かない。
退魔師として、戦う者として、最もやってはならない「迷い」に、俺は囚われていた。
きっと……次の一撃が致命になる。
避けなければならない。守らねばならないのに――立ち上がれない。
肺は潰れたみたいに呼吸を拒み、肋骨の奥に鈍い痛みが響く。
腕は鉛のように重たくて、指一本すら思うように動かせない。
大地に横たわったまま、俺はただ……迫り来る影を見上げていた。
(ダメだ……もう、少しも動けねぇ……)
耳にはまだ、妹や両親の幻影の声がこびりついている。
「なにもできなかった兄」だと罵られ、心の奥底をえぐられ続けた。
目の前の怪物――この「生きた家」は、それを意図的にぶつけてくる。俺の一番弱い場所を、容赦なく。
その嘲りがあまりに真実味を帯びているせいで、否定すらできなかった。
俺は弱い。未熟で、誰かを守る力もなくて……。
だから今も、こうして地面に這いつくばっている。
……だが、その時だった。
「創英さん――!」
張り裂けそうな叫び声が、戦場の空気を震わせた。
振り返らずとも分かる。稗田阿求の声だった。
泣きそうなほどに掠れ、それでも祈るように俺の名を呼ぶ声。
見れば、子供たちを必死に庇いながら震えている小柄な姿があった。
阿求は逃げなかった。いや、逃げられなかったのかもしれない。
けれど――その目は確かに、俺を見ていた。
恐怖に押し潰されそうになりながらも、それでも「立ち上がってくれ」と訴えかけていた。
(……阿求……)
胸が、強く掴まれた気がした。
次の瞬間、怪物が動いた。
阿求の声に反応したのだろう。背後の壁面がうねり、長大な槍のような突起を形成する。
その先端は、阿求たちを真っ直ぐに狙っていた。
「――っ!」
阿求は気づいた。けれど避けられない。
彼女が子供を庇って前に出てしまったからだ。
祈りの声を発したがために、狙われてしまったのだ。
俺の視界に、阿求の蒼ざめた横顔が映った。
絶望に目を見開き、それでも子供だけは背に庇うように立ち尽くす。
その姿が――。
(……っ! ふ……っざけんなァ……!)
脳裏に過ぎる。
修行の日々。師範代に叩き込まれた「退魔の道は、己のためにあるのではない。誰かを守るためにある」という言葉。
人里で交わした、子供たちの笑顔。
阿求と交わした、長い夜の対話。
そして、妹が……絢香が、最後に俺へ伸ばした手。
すべてが混ざり合って、胸の奥底を灼いてゆく。
(また……繰り返すつもりか……ッ! 必ずッ! 守るとッ!! 誓ったばかりだろうがッ!!!)
止まっていた身体に、熱が戻る。
握り締めた拳が震えながらも、土を掴む。
血で濡れた膝に力を込めて、軋む全身を無理矢理引き起こす。
「――あぁぁあああああああああああッ!!!」
咆哮と共に、俺は立ち上がった。
阿求めがけて振り下ろされる家の槍。
時間が歪むほどにゆっくりと見える中で、それでも俺の脚は勝手に動いていた。
呼吸は荒い。視界も揺れる。
けれど、ただ一つ――「間に合う」という確信だけが、俺にはあった。
両者の間に飛び出す。痛みを無視して、脚を引きずりながらも。
「そこから動くなッ!」
叫びと共に、咄嗟に展開した護符を両手にかざして迫る槍を受け止めた。
――轟音。空気を裂く衝撃。
地面が砕け、俺の腕が悲鳴を上げる。
「う、ぉぉぉぉッ!」
それでも――俺は押し返してみせた。
退魔師として培った全霊を込めて。ただひとつの誓いを守るために。
「創英さん……!」
背後で、阿求の声が震えていた。
子供のすすり泣きも同時に耳に入った。
その声が、不思議と俺の背を支える。
守るべきものが、確かにここにある。
それが俺を此処に立たせていた。
(これだ……これこそが、俺の戦う理由だッ!)
槍の先端が光に弾け、砕け散った。
俺は地を蹴り、再び怪物と向き合う。
かすかに笑みさえ浮かんでいた。
限界は近い。身体はボロボロだ。
けれど、心までは折れていなかった。
――退魔師、時崎創英。
この瞬間。俺は本当に「誰かを守るために戦う者」として此処に立っていた。
「……来いよ、化け物」
掠れた声で挑発すると、怪物は咆哮した。
屋根だったはずの背骨が逆立ち、無数の腕のような壁がこちらを薙ぎ払う。
大地がめくれ上がり、石畳が宙を舞う。
正面から受け止めれば、一瞬で肉片になるだろう。
俺は後退する足を叱咤し、符を切り裂いた。
炎の渦。雷の奔流。
修行で叩き込まれた全ての術を惜しみなく叩き込む。
だが怪物は怨嗟の壁で受け止め、溶かし、呑み込む。
――あまりに巨大すぎる。
これまでの技では、ほんの表層を削ぐことすらできなかった。
(クソ……やっぱり届かねぇ。一体どうすれば……)
必死に思い出す。そして、ひとつの記憶を引きずりあげた。
宗家の修行で一度だけ耳にした話。
“飛剣・翔霊波”――。
時崎一族に伝わる秘奥義。術者の霊力を極限まで練り上げ、刃と化して飛翔させる技。
一族に代々伝わる話の中でしか聞いたことのない、象徴たる技。
未熟な俺には扱えるはずがないと、封じられていた術。
だが今、胸の奥でそれが呼応していた。
阿求や子供たちを守りたいという、単純で揺るぎない思いが。
(……やれるかどうかじゃねぇ。やるしかねぇんだ)
風花を納刀し、腰を低く落とす。
流れる血が柄を濡らし、鞘を伝って地へ滴った。
それでも構わず、全ての霊力を一刀に集中させる。
全身の霊力が逆流するように噴き上がり……空気が、揺らいだ。
荒れ狂う怨嗟の嵐に抗うように、俺は低く呟き始める。
「オン・カヤラ・ヴァスティ・アリヤ・ハナヴィラ・シャディヤ・バンダ――」
声が震え、喉が裂けそうになる。
だが次の瞬間、その震えは大地を這う重低音となって空へ広がった。
「サティヤ・クシャナ・リティ・シャンディ・レカ――」
翠緑の稲妻が奔り、無数の紋様が空間に描かれていく。
粉塵が逆巻き、星のように光の粒が舞う。
「アリナ・クサン・ヴィタ・グラナ・ヴィタ・ミティア・アリヤ・ソワカ――ッ!」
噴き出す霊力の奔流に周囲の空間が爆ぜ始める中、その中心で俺の身体は浮かび上がり、背中から羽のような光条が広がった。
「飛剣――翔霊波ァァァァァァァァァッ!!!」
叫ぶと同時に、天地が裂ける閃光が走った。
翠の奔流は鳥の如くのごとく高く嘶き、夜空を駆ける。
光刃は幾重にも重なりながら、巨大な奔雷の翼となって怪物を叩き裂いた。
轟音。衝撃。
屋根は切り裂かれ、壁は粉砕され、基礎すらも根こそぎ砕かれていく。
緑の波が怪物を内側から浸食し、黒き瘴気を一条の光に変えて焼き尽くす。
それでも光は止まらない。
まるで数千数万の魂を送り出すかのように……無数の光条が、天へ昇っていく。
「■■■■■■■■■■■■――ッ!」
怨霊の断末魔が夜空に響き渡る。
それは嘆きと解放が混ざり合ったような、恐ろしくも哀しい絶叫だった。
漆黒の夜に咲いた翠緑の花火――その光景は一瞬だけ、戦場を神域へと変えていた。
やがて閃光は収束し、静寂が訪れる。
砕け散った「変な家」の残骸は塵となり、風にさらわれて消えていく。
残されたのは、ただ月明かりと――祈りのように舞い散る、淡い緑の残光だった。
◆
幾ばくか後に、光が収束し静寂が訪れた。
粉塵が舞う中、俺は剣を振り抜いた姿勢のまま膝を突いた。
全身が痛い。
視界は揺れ、何度も暗転しそうになる。
「……ぅ……ぁ……」
それでも、背後を振り返った。
阿求と子供たちは――確かに、生きている。
怯えながらも、無事にそこに立っている。
胸の奥で、重く圧し掛かっていたものが解けていくのを感じた。
(……守れた……)
それを確認した途端、張り詰めていた糸がぷつりと切れた。
「……よかった……」
安堵の言葉を残して、俺の意識は暗闇に沈んでいった――。
─────
───
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◆ side:稗田阿求 ◆
――限界を超えてなお、立ち上がる。
崩れ落ちそうな膝を叱咤し、両の掌を天へ掲げる。
怨嗟の奔流に呑まれそうになりながらも、彼は……時崎創英は、低く唱え始めた。
「オン・カヤラ・ヴァスティ・アリヤ・ハナヴィラ・シャディヤ・バンダ――」
声はかすれていて、けれど吐き出す度にその震えは周囲の大地へと伝わり、重低音のように里の空気を震わせてゆく。
彼に宿る光は瞬く間に拡がり、宙を刻むように紋様を描き出す。
翠緑の稲光が幾重にも走り、やがて翼のような光条となって背から迸った。
「サティヤ・クシャナ・リティ・シャンディ・レカ――」
周囲の景色が揺らぎ、空間そのものが悲鳴を上げる。
私は息を呑み、子供たちは目を覆った。
「アリナ・クサン・ヴィタ・グラナ・ヴィタ・ミティア・アリヤ・ソワカ――ッ!」
だが指の隙間から覗いたその光景に、幼い瞳は恐怖を忘れ、ただ言葉を失っていた。
――私達の目には、今まさに神が舞い降りたかのように映っていたのだ。
「飛剣――翔霊波ァァァァァァァァァッ!!!」
最後の一節を吐き出すと同時に、天地が裂ける閃光が走った。
翠緑の奔流は高く嘶きながら夜空を貫き、重なり合い、巨大な奔雷の翼となって怪物へ食らいつく。
轟音が大地を揺さぶり、圧に吹き飛ばされかけた私は子供を抱きしめながら必死に耐える。
それでも、目を逸らすことは出来なかった。
それは恐怖などではなく……畏敬と祈りに似た感情が、胸を満たしていたから。
屋根は裂かれ、壁は砕け、基礎は根こそぎ消し飛ぶ。
翠の光は黒い瘴気を焼き尽くし、怨念の核を内側から引き裂いていった。
「■■■■■■■■■■■■――ッ!」
絶叫。
それは怨霊の断末魔であると同時に、永き呪縛から解き放たれる魂の慟哭でもあった。
光条は無数の魂を導くかのように天へ昇り、漆黒の夜に大輪の花火のような輝きを咲かせる。
その幻想的な光景に、私の唇は震えながらも、自然と祈りの言葉を紡いでいた。
「……浄めたまえ……導きたまえ……」
私の呟きは子供たちのすすり泣きに重なり、奇跡を見守る小さな祭壇のように響いていた。
◆
やがて閃光は収束し、残響だけを残して夜が戻る。
「変な家」は跡形もなく崩れ去り、舞い散る緑の残光が柔らかく私達を包み込む。
風に乗って舞う光の粒は、まるで魂そのものが解き放たれたかのように、ひとつひとつ優しく空へと還っていった。
子供たちはみな震える声で言った――”綺麗だ”と。
私はただ黙って頷き、その光を見上げ続けていた。
子供たちの目には涙が光っていたが、それは恐怖ではなく、救済を目にした安堵の涙だった。
そしてその中心に――。
霊力をすべて解き放ち、静かに膝を折る彼の姿があった。
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◆ side:時崎創英 ◆
まぶたの裏に、暖かな光が差し込んでいた。
夢の中にいるような、心地よい温度。だが次第に、背に感じる布団の感触や、障子越しに射す朝日が現実を形作っていく。
「……ここは……」
重いまぶたを開けると、見慣れぬ天井があった。
木の梁、清潔に整えられた室内、かすかに漂う墨の匂い。
稗田邸――阿求の屋敷だとすぐに理解した。
体を起こそうとした瞬間、全身を走る鈍痛に顔が歪む。
腕も脚も鉛のように重い。無理もない、あれほど無茶をしたのだから。
「お目覚めですか?」
柔らかな声に振り向くと、襖の向こうに阿求の姿があった。
安堵の微笑を浮かべ、盆に湯呑みを載せている。
「阿求……」
「はい。まずは、お疲れさまでした。里の皆も、子供たちも無事です。あの“家”の姿も、跡形もなく消えていました」
彼女の言葉に、胸の奥から力が抜ける。
守り切れたのだ。阿求も、あの命も、この里も。
「そうか……良かった」
わずかに笑みを漏らすと、阿求は盆を卓に置き、正座をして彼を見つめた。
「創英さん。あなたは昨夜、命を削ってまで戦い抜かれました。その姿を、私は決して忘れません」
「大袈裟だよ。俺はただ……守らなきゃいけないって思っただけだ」
「ええ、ですが――」
阿求は言葉を切り、ほんの少し伏し目になる。
その頬にはまだ、昨夜の涙の痕が残っていた。
「……私も、祈りました。あなたが倒れたとき、どうかもう一度立ち上がってと……。それが届いてしまったのかもしれませんね。だから、あなたに余計な負担を背負わせてしまった」
かすかに震える声。
阿求もまた、自分を責めていたのだと悟る。
「……違うさ」
創英は首を振り、苦しい呼吸のまま、静かに告げた。
「阿求が祈ってくれたから、立ち上がれたんだ。あの瞬間に思い出せたんだよ。俺を支えてくれた人たちの顔や、学んできたものを……。だから、あれは俺の力じゃなくて、皆で掴んだ力だ」
そう言って、少し照れくさそうに笑う。
阿求はその言葉に瞳を揺らし、そして静かに頷いた。
「……では、これも書き記しておかなくてはなりませんね。“退魔師は縁を力に変える者である”と」
「やめてくれよ、そんな恥ずかしいことを残すのは……」
「ふふ、もう書いてしまいましたから」
場に、柔らかな笑みが戻った。
◆
しばらく沈黙があった。
湯呑みから立ち上る湯気が、ほんのりと二人の間を満たしていた。
「創英さん」
「ん?」
「……幻想郷には、まだ知らぬ闇が数多あります。昨夜の“家”のような存在は、ほんの一端に過ぎません」
阿求の声音は、普段よりも少し低く、重かった。
稗田の当主として、幾多の妖怪譚を記録してきた者だけが持つ確信の響きだった。
「あなたが再び命を賭ける場面が訪れるかもしれません。それでも――」
創英は言葉を遮るように、ゆっくりと座り直した。
まだ痛みはあったが、その瞳には迷いがなかった。
「分かってるよ。俺の力がどこまで通じるか分からない。次は勝てないかもしれない。……それでも」
拳を握る。
「俺は、結ばれた縁だけは必ず守る。守ってみせる。……それが、俺に出来る唯一の生き方だからな」
阿求は驚いたように目を瞬かせ、それから静かに微笑んだ。
その笑みはどこか誇らしげで、そして温かかった。
「ええ……きっと、それがあなたの力になるのでしょう」
―――――
外では、朝の鳥の声が鳴いていた。
夜を越えた里には、再び人々の営みが戻ろうとしている。
だが、彼らの胸に刻まれた「怪異の夜」の記憶は、決して消えない。
そして、俺にとってもまた――それは新たな旅路の始まりに過ぎなかった。
いつか再び現れるであろう闇に備え、俺は静かに目を閉じ、心の奥で決意を固める。
――縁を守る、そのために。