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◆ side:??? ◆
深淵のような黒。
そこは太陽の光など一度も差し込んだことのない、地底の聖域だった。湿った空気が肌を撫で、石の壁には永遠に乾かぬ苔が這う。
中央には巨大な祭壇。そこに灯された燭台の炎だけが、かろうじて闇を切り裂いている。
その祭壇を囲むように、十数人のフードを被った影が跪いていた。ひとりが一歩前に出て、低い声で口を開く。
「……ご報告いたします。霊石の散布、滞りなく完了いたしました」
その言葉に、場の空気がぴくりと揺れる。
「魔法の森の奥、濃い霧に閉ざされた霧の湖、そして迷いの竹林――いずれも人や妖怪の通い場。
負の感情を増幅させるには格好の場にございます。
さらに、人間の里に隣接する祠や森にも小規模ながら仕込んでおきました」
暗闇の奥。
燭火に照らされ、仮面がかすかに光る。座する女の眼差しは、報告者を射抜くように静かに注がれていた。
「……そうか」
女の声音は冷ややかだった。
感情を込めないその一言だけで、跪く者たちは畏怖に背を震わせる。
「ならば下がれ。お前たちの役目は終わった」
合図と共に、フードの集団は音もなく退く。
残されたのは、仮面の女と、揺れる炎だけ。
やがて、その口元がわずかに吊り上がる。
燭火に照らされ、不気味な笑みが闇に溶けて広がった。
「さて……どう動く? 時崎創英」
その囁きは低く、だが確かな力を帯びて広間に木霊した。
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◆ side:時崎創英 ◆
寺子屋は今日もやかましい。
慧音先生の授業が終わるや否や、三十人近い子供たちが一斉に立ち上がり、教室の中を駆け回る。
板の間に響く足音と笑い声で、建物全体が揺れている気さえした。
「せんせー! 見て見て! 字がこんなに上手に書けた!」
「俺のほうがうまいもん! ほらっ!」
「ちょっと、筆投げないの! 墨が飛ぶだろ!」
俺は教壇の隅で腕を組み、ため息をついた。
慧音先生から「授業が終わった後は子供たちを見ていてくれ」と頼まれてはいるが……これは修行以上に骨が折れる。
「おーい! 人の話は一人ずつ! 筆は投げ物じゃない!」
「えー!」
「やだー!」
聞きやしない。
退魔師として命がけで妖怪と対峙するほうがまだ楽なんじゃないか……とさえ、本気で思った。
とはいえ、子供たちの顔を見れば、文句も引っ込む。
笑顔に満ちた表情は、こちらまで和ませる力を持っている。
命の危険に晒されるよりはずっとマシだ。
そんな中――
「そーえーさん! そーえーさん!」
小さな声で呼ばれ、視線を向けると、三人の姿が目に入った。
琥太朗、真也、真美。
以前“変な家”から助け出した、あの兄妹たちだ。
「なんだお前ら、どうかしたか?」
「これ、見て! 俺、竹とんぼ作ったんだ!」
「わたしは折り紙! ちゃんと鶴になってるでしょ!」
誇らしげに差し出される工作に、俺は思わず笑みを漏らした。
琥太朗の竹とんぼは少し歪んでいて、飛ばすと斜めに墜落する。真美の折り鶴は首が二本ある。
けれど、それでも一生懸命に作ったことがよく伝わってくる。
「……ほう。なかなかの出来じゃないか」
「でしょ!」
「へへっ」
素直に褒めると、二人は満足げに胸を張る。
だが、その横で真也は黙って俺を見ていた。何か言いたそうで、けれど言葉にできずにいる。
「どうした、真也」
「……俺、もっと強くなりたい」
小さな声。けれど真剣な響きだった。
不意を突かれて、俺は少し目を細める。
「強く?」
「うん。この前の創英さんみたいな、妹を守れる兄になりたいんだ。だから、創英さんみたいに強くなれる方法を……」
言いかけて、真也は口を噤んだ。
恥ずかしそうに俯くその頭を、俺は軽く小突いた。
「強くなるのはいいことだ。だが焦るな」
「……え?」
「強さってのは、一朝一夕じゃ身につかないんだ。毎日少しずつ積み重ねていくもんだ。字を書くのも、竹とんぼを飛ばすのも、同じことだ」
短いようでいて、とても濃密な期間をすごした経験があるからこそ、俺はそう考える。
人には人のペースというものがあるし、そうである以上は焦って何かをしたってしょうがないんだ。
家族を失い、宗家に引き取られてからの半年間――退魔師としての力を身につけるために、俺は宗家でめちゃめちゃに扱かれた。
妥協もなく、緩急もなく……スパルタすらも真っ青になって逃げ出すようなあの日々は、普通の人基準で考えたならあまりにもやり過ぎだと言えるだろう。
例えて言うなら……そう。限界まで膨らみ切ったゴム風船に、更に何かを詰め込もうとするようなものだ。
我ながら良くパンクしなかったものだ。多分、そこら辺はジジイがギリギリを攻めた塩梅で調整していたからなのだろうが。
そんな俺の過去は露知らずな真也は目を瞬き、それからゆっくりと頷いた。
その瞳の奥に、憧れと決意が入り混じった光があるのを見て、俺は少しだけ心が暖かくなった。
そんな時間を過ごしていた時だった。
廊下を駆ける足音が近づいてきて、教室の戸が勢いよく開かれる。
「創英さん!」
息を切らせて駆け込んできたのは、阿求だった。
子供たちが一斉に振り返り、ざわめく。
その顔色を見た瞬間、俺は胸の奥がざわりと騒ぎ出すのを感じた。
ただならぬことが起きている――本能が告げていた。
◆
応接間に通されたのは、ほんの数分後のことだった。
さっきまで子供たちと竹とんぼや折り紙で笑っていた空気が嘘みたいに、部屋の中は重苦しい静けさに包まれている。
畳に正座した俺の前で、阿求はまだ肩で息をしていた。
慧音先生も同席していて、腕を組んだまま黙り込んでいる。
子供たちを臨時で預け、部屋の外に下がらせたのだろう。
「……阿求」
俺が声を掛けると、どうにかして息を整えた彼女は真剣な瞳でこちらを見つめ返してきた。
「里の周辺で、不審な妖怪の目撃が相次いでいます。どの報告も共通していて……“瞳が妖しく光り、人を襲いかかってきた”と」
ぞわりと背筋に冷たいものが走る。
数日前、琥太朗たちが遭遇した妖怪の姿が脳裏をよぎった。
あの、狂気と渇望に塗り潰されたような……正気を失った瞳を。
「……やっぱりか」
思わず漏れた呟きに、慧音が顔を上げた。
「創英……お前は思い当たる節があるのか?」
俺は頷いた。
「この前、子供たちを襲った妖怪も、目が異様に光っていました。普通の奴じゃなかった……今思えば、同じ“何か”に操られていた可能性が高いとさえ思います。きっと、これは作為的に引き起こされた何か……事件であるだろうと、俺は思います」
慧音が眉を寄せ、阿求が静かに息を吸う。
「創英さん。既に負傷者が続出しています。自警団の方々は奮戦しましたが、屈強な大人たちですら怪我を負わされるほどでした」
それを聞き、頭の奥が熱くなる。
これはただの妖怪退治なんかじゃない。人間の里そのものが狙われている。
放っておけば、次に傷つくのは――子供たちだ。
拳を握りしめる俺を見て、阿求はほんの一瞬ためらった後、真っ直ぐに言った。
「創英さん。この後は、目撃例のあった場所へ向かわれるのですよね?」
「ああ」
「……信じています。でも、それでも言わせてください」
阿求の声は少し震えていた。
「無事に帰ってきてください。そして、また話を聞かせてくださいね」
真剣な眼差しが俺を射抜く。
俺は小さく笑ってみせた。
「大丈夫だ。心配するな」
それ以上言う必要はなかった。
立ち上がり、襖を開ける。
横目に見た慧音先生は、ただ無言で頷いていた。
余計な言葉はいらない――そう伝わるだけで十分だった。
深く息を吸い込み、一息に外へ踏み出す。
橙に染まり始めた夕暮れの空気が、頬を鋭く撫でた。
「……待ってろよ」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
俺の手の届く内は、誰一人として危険に晒させはしない。