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目撃例のあった場所へと向かう前に、一度自警団の様子を見ておきたくなった俺は、阿求の先導の元、自警団の詰所へと向かった。
そして詰所に入った瞬間、目の前に拡がった光景に胸の奥がざわついた。
いつもなら威勢のいい声が響いているはずの場所が、今は呻き声と湿った息遣いで満ちている。
畳の上には屈強な大人たちが次々と寝かされ、腕や足に布を巻かれ、血の滲む包帯も目立った。
これが――人里を護るために鍛えられた連中の姿なのか。
俺は言葉を失った。
「……創英か」
上体を起こすこともできない男が、苦笑いを浮かべて俺を見た。
額には汗が滲み、呼吸は浅い。
「悪いな、こんなザマで……」
「何が、あったんですか」
声が硬くなる。無意識に拳を握りしめていた。
「妖怪だ」
返ってきた答えは、あまりに短い。だが、続く言葉が耳を疑わせた。
「だが、ただの妖怪じゃねえ。……目が、光ってやがった。獣みてえに、ギラギラとな」
別の団員も口を開いた。
「奴ら、何かを握ってたんだ。石のような……いや、ただの石じゃねえ。あれを持った途端、動きが変わったんだ。力も速さも、普通の妖怪の域を超えていた」
「正気、じゃなかったよな」
「呼びかけても、全然届かなかった。まるで狂ったみてえに、ただ暴れて……」
俺は黙って耳を傾けた。
妖怪が里を襲うなど、本来ならあり得ない。里の決まりを破ることは、彼らにとっても禁忌のはずだ。なのに、目を光らせ、石を握り、正気を失って暴れる……。
阿求が隣で顔を曇らせる気配が伝わってきた。
慧音の言葉が頭をよぎる――「里を守るのは皆の責任だ」。
その通りだ。だが今、この惨状を前にして、俺はただ拳を握ることしかできない。
……否。今の俺にしか出来ないことが、きっとある筈だ。
「状況は分かりました。後は……俺に任せて下さい」
それだけを告げて、俺と阿求は詰所を後にした。
阿求によれば、目撃が集中しているのは里の北側――畑と森が接するあたりだという。
夕暮れが迫る時刻、影は長く伸び、空気はひやりと湿りを帯びていた。
人の気配はなく、虫の羽音すら耳に障るほどに響いていた。
「創英さん……」
横を歩く阿求が、不安を押し隠すように声をかけてくる。
「どうか、ご武運を」
短い言葉に、余計な感情が込められていた。
「大丈夫だ。すぐに戻る」
それだけ言い残し、俺は足を速めた。
◆
森の手前、畑のあぜ道。
そこに、それは“いた”。
浮遊する影。
人の形をしているが、歪んでいる。
皮膚は煤のように黒ずみ、目は異様に光り、手には石のような何かを固く握りしめていた。
妖怪――だが、普通ではない。
こいつが、里の自警団達を……。
俺が一歩踏み出した瞬間、そいつがこちらに振り向いた。
ぎらつく瞳に射抜かれた刹那、背筋を氷の指でなぞられたような悪寒が走る。
理性も思考も、その眼には存在しない――ただただ、欲望と狂気だけが燃え盛っていた。
「……なるほど、話の通りだな」
腰の風花に手を添えるが、すぐに下ろす。
刀を抜くまでもない。ここで必要なのは見極めと捕縛だ。
妖怪が甲高い声を上げ、地を蹴った。
鋭い爪が目の前に迫る。俺はそれを紙一重で躱し、空いた脇腹へ掌底を叩き込んだ。
鈍い衝撃。吹き飛んだ妖怪は地面を転がるが、すぐに立ち上がり、さらに猛然と突進してくる。
「シッ……!」
拳と拳が交錯する。爪が頬を掠め、血の匂いが広がった。
まともに力任せでやり合えば、里の自警団では分が悪いのも納得だ。
だが――
「俺を相手にするには、少し足りねぇぞ……!!」
掌に霊力を込める。
白い光が迸り、妖怪の腕を弾き飛ばす。続けざまに足払いをかけ、叩き伏せようとしたその瞬間――
妖怪の体がふわりと浮いた。
地面を蹴ったのではない。まるで空気そのものに逆らうように、上昇していく。
「……なに?」
奴は俺を嘲るように見下ろしながら、さらに高く、空へと舞い上がってゆく。
妖怪は畑の上空、高さにして十数丈。地を蹴るでもなく、まるで水に浮かぶ木の葉のように、空にただ漂っていた。
俺は思わず舌打ちした。
妖怪退治の心得に「逃がさぬこと」という鉄則がある。
逃げられれば、次にどこで誰が襲われるか分からないからだ。
だが――。
「……どうする」
足が地面に縫い付けられたようだった。
拳を握っても、爪を立てても、空に届くはずがない。
奴はこちらをじろじろと見下ろしながら、手にした石を握りしめ、不気味な笑みを浮かべている。
挑発か、それともただの衝動か。どちらにせよ、逃がすわけにはいかない。
だが、生憎俺には飛ぶ術がない。
脳裏に浮かぶのは、阿求の言葉。
『無事に帰ってきて下さい。そして、お話を聞かせて下さいね』
……その約束が、こんな所で果たせなくなるのか?
奥歯を噛みしめ、目を細める。どうにかして手を伸ばす方法は――あるはずだ。必ず、ある。
胸の内で焦燥が渦を巻く。
拳を振るうにも、刃を振るうにも、届かないのでは意味がない。
――そんな歯噛みする俺の耳に、ふいに幻聴のように声が蘇った。
『空を飛ぶ? 簡単よ。霊力を流して、身体ごと浮かせばいいの』
気だるげに答えていた博麗霊夢の声。
その横で魔理沙が鼻で笑い、肩をすくめる。
『言うは易し、だぜ。まあ、実際やってみりゃ案外なんとかなるもんさ。私もそうだったしな』
あの時は聞き流した。
幻想郷の奴らは空を飛ぶのが当たり前だ。俺に出来るはずがないと決めつけ、深く考えもしなかった。
だが今は――。
地べたで足掻いている暇なんざない。
逃げる妖怪を放置すれば、また誰かが傷つくだろう。
……なら、やるしかねぇだろ。
俺はゆっくりと目を閉じ、呼吸を整えた。
胸の奥から霊力を引き上げ、全身に巡らせる。
腕へ、脚へ、指先へ……そして背へ。
鳥の羽ばたき。
虫の羽音。
風を切る翼の軌跡。
心の中でイメージを重ねていく。
俺の背には、今ここに、空を掴むための翼があると――そう夢想する。
「……っ!」
次の瞬間、背筋が熱くなった。
ぱん、と何かが弾けるような感覚。
視界の端に、淡い翡翠色の光がちらついた。
振り返るまでもなかった。
背から伸びているのが手に取るように分かる――二枚の、半透明な翼が。
「マジかよ……!」
驚愕と興奮が入り混じった声が漏れる。
だが感慨に浸っている暇はない。
地を強く蹴った。
身体が浮く。
風を受け、翼がばさりと広がる。
そして――そのまま墜ちる。筈だった。
そう思った瞬間、翼がふわりと空気を掴む感覚を覚える。
果たして俺は、落下せずに宙に留まることに成功していた。
「……やれる……!」
握った拳が震える。
たとえ今は飛ぶとまではいかなくても、この程度の滞空が出来れば――あの妖怪を捕まえることは不可能じゃない。
風を切る音が耳元で唸り、滞空に成功した俺は逃げ惑う妖怪を視界に捉えた。
「もう逃がさねぇぞ!」
身体をひねり、翼に霊力を流し込む。
ぎこちないが、それでも意志に応じて前へ滑るように進めるのを感じた。
大空を自由に舞う霊夢や魔理沙には程遠い。だがそれでも、追うことは出来る。
妖怪がこちらを振り返り、甲高い唸り声を上げる。
次の瞬間、爪が閃き、俺の頭上へと振り下ろされた。
「甘いんだよ!」
反射的に翼を広げ、横へ滑るように回避。
その勢いを利用して妖怪の懐に潜り込む。
右手に霊力を込め、瞬時に護符を展開した。
幾重もの光の鎖が宙を走り、妖怪の四肢へと絡みつく。
「ぐぅぅああああ!」
咆哮を上げて暴れ狂う妖怪。
だが鎖は緩まない。さらに左手で追加の護符を放ち、二重に縛り上げる。
「――目標確保だ」
短く吐き捨て、息をつく。
体は汗で濡れ、翼も既に軋んでいるような感覚があった。長くは持たない。
だが……今はそれで十分だ。
捕らえた妖怪をそのまま地上へ引きずり落とす。
捕縛した妖怪は、このまま自警団へと引き渡すこととしよう。
俺はふらりと地に降り立ち、翼を解いた。
霊力の光が霧散し、背中が急に軽くなる。
「はぁ……なんとか、終わったか」
息を荒げながらも、妖怪が完全に抑え込まれるのを確認して安堵する。
まだこの一件の全容は見えない。
だが……少なくとも、里を襲う脅威を一つは潰せただろう。
◆
縄と符でがんじがらめにされた妖怪は、まだ低い唸り声を上げていたが、もはや牙を剥く力もないのか、それ以上暴れるようなことはなかった。
引き渡し先の自警団の面々が交代で押さえつけ、収監の準備に取り掛かっている。
――これにて一件落着、と見て良いだろう。
「助かった……お前が居なけりゃ、何れは死人が出てたかもしれん」
血の滲む額を押さえながら、団長格の男が俺に深く頭を下げた。
「いや……今回はただ、運が良かっただけですよ」
肩で息をしながらも、努めて平静を装う。
背から解いた霊力の翼は既に消えており、ただ重い疲労だけが残っていた。
ふと夜空を仰ぐ。
つい先ほどまでそこにいた妖怪の残滓が、霞のように散って消えていく。
思えば――まさか自分が空を飛ぶまね事をすることになるとは。
……だが。
「きっと次は、こうは行かないだろうな」
低く呟き、拳を握る。
先程のはほとんど勘と勢いでどうにかなったに過ぎない。
もし敵がもっと速ければ、もしもう少し強ければ。
自分は取り逃がしていたに違いない。
――ならば。
次の機会に備え、もっと自在に飛べるようにならなければならないだろう。
霊夢や魔理沙のように、空を駆け、縦横無尽に敵を追えるように。
「磨いてやるさ。必ずな」
ぽつりと零すと、張り詰めていた胸の奥がふっと軽くなる。
何にせよ、当面の脅威は去ったのだ。
だが、また似たことが起こらない保証はどこにもない。
だからこそ――次はもっと上手くやってみせよう。
そう心に誓い、俺は阿求の待つ屋敷へと足を向けた。
───
稗田邸に戻ると、玄関先で待っていた阿求がぱっと顔を上げた。
「……! ご無事でしたか、創英さん!」
普段は冷静な彼女が、ほんの一瞬だけ安堵に顔を綻ばせる。
「この通り、かすり傷ひとつない」
軽く笑って返すと、阿求は胸を撫で下ろし、すぐに学者の顔に戻った。
応接間に通されるや否や、彼女は筆記用具を手に取り、まっすぐに俺を見据える。
「では、順を追ってお願いします。出発はいつ頃で、遭遇した妖怪はどのような様子でしたか?」
俺は静かに語り始めた。
正気を失ったような妖怪の目。
不気味に煌めいていた石の破片。
そして、最後には空に逃げられた相手を追うため――一か八かで飛翔の真似事をしたこと。
「―――空を、飛んだ……?」
阿求の手が止まった。次の瞬間、瞳を見開き、机に身を乗り出してくる。
「創英さん、あなた、空を飛べるようになったんですか!? 人間で自在に飛行できる例は、私の記録にも数えるほどしかないのです! これは……これは大発見です!」
顔を近づけて興奮気味にまくし立てる阿求に、俺は思わず苦笑した。
「待て待て、落ち着け。あれは“飛べた”ってほどのもんじゃない。ただ、落ちずに済んだだけだ。霊力で翼を形にしたら、どうにか滞空できただけだよ」
阿求は「なるほど……なるほど……!」と何度も頷きながら、猛烈な勢いで筆を走らせる。
やれやれ、相変わらず熱心だ。
だが彼女はふと筆を止め、真剣な眼差しで俺を見つめた。
「では……弾幕は? 霊夢さんや魔理沙さんのように、弾幕を撃つことはできましたか?」
俺は首を横に振った。
「いや、さすがにそれは無理だな。撃てないこともないだろうが、恐らくただの霊弾を一発出すだけで精一杯だ。派手に撃ち合うなんて、夢のまた夢さ」
「……そうですか。ですが、飛翔ができるという事実だけでも大きな一歩です。あなたのような人間が記録に残るのは、幻想郷の歴史にとっても重要なことなのです」
阿求の瞳には、使命感と好奇心が混じり合った光が宿っていた。
俺は少しだけ視線を伏せ、ぽつりと呟く。
「……なら、目標を決めるとしよう。まずは、自在に空を跳べるようになること。そして……弾幕を展開できるようになることだ」
自分で口にして、改めて胸の奥に小さな炎が灯る。
この幻想郷で“戦う”というなら、それくらいできなければならない。
阿求はしばし黙って俺を見つめ、やがてふっと微笑んだ。
「……ええ。ならば必ず、また私に語ってくださいね。飛べるようになったことも、弾幕を撃てるようになったことも。どんな小さな一歩でも、創英さんの歩みは記録する価値があります」
そしてほんの一瞬、柔らかい声音で言葉を添えた。
「だから――今後も無事に帰ってきてください。私に続きを聞かせるために」
真剣なその瞳に、胸が少しだけ熱くなる。
俺は笑って返した。
「大丈夫だ。心配するな」
そう告げた声は、自分でも意外なほど軽やかだった。