幻想回帰節   作:北宮 涼

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17の節:不穏、後編

◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 目撃例のあった場所へと向かう前に、一度自警団の様子を見ておきたくなった俺は、阿求の先導の元、自警団の詰所へと向かった。

 そして詰所に入った瞬間、目の前に拡がった光景に胸の奥がざわついた。

 

 いつもなら威勢のいい声が響いているはずの場所が、今は呻き声と湿った息遣いで満ちている。

 畳の上には屈強な大人たちが次々と寝かされ、腕や足に布を巻かれ、血の滲む包帯も目立った。

 

 これが――人里を護るために鍛えられた連中の姿なのか。

 俺は言葉を失った。

 

「……創英か」

 

 上体を起こすこともできない男が、苦笑いを浮かべて俺を見た。

 額には汗が滲み、呼吸は浅い。

 

「悪いな、こんなザマで……」

「何が、あったんですか」

 

 声が硬くなる。無意識に拳を握りしめていた。

 

「妖怪だ」

 

 返ってきた答えは、あまりに短い。だが、続く言葉が耳を疑わせた。

 

「だが、ただの妖怪じゃねえ。……目が、光ってやがった。獣みてえに、ギラギラとな」

 

 別の団員も口を開いた。

 

「奴ら、何かを握ってたんだ。石のような……いや、ただの石じゃねえ。あれを持った途端、動きが変わったんだ。力も速さも、普通の妖怪の域を超えていた」

「正気、じゃなかったよな」

「呼びかけても、全然届かなかった。まるで狂ったみてえに、ただ暴れて……」

 

 俺は黙って耳を傾けた。

 妖怪が里を襲うなど、本来ならあり得ない。里の決まりを破ることは、彼らにとっても禁忌のはずだ。なのに、目を光らせ、石を握り、正気を失って暴れる……。

 

 阿求が隣で顔を曇らせる気配が伝わってきた。

 慧音の言葉が頭をよぎる――「里を守るのは皆の責任だ」。

 その通りだ。だが今、この惨状を前にして、俺はただ拳を握ることしかできない。

 

 ……否。今の俺にしか出来ないことが、きっとある筈だ。

 

「状況は分かりました。後は……俺に任せて下さい」

 

 それだけを告げて、俺と阿求は詰所を後にした。

 

 阿求によれば、目撃が集中しているのは里の北側――畑と森が接するあたりだという。

 夕暮れが迫る時刻、影は長く伸び、空気はひやりと湿りを帯びていた。

 人の気配はなく、虫の羽音すら耳に障るほどに響いていた。

 

「創英さん……」

 

 横を歩く阿求が、不安を押し隠すように声をかけてくる。

 

「どうか、ご武運を」

 

 短い言葉に、余計な感情が込められていた。

 

「大丈夫だ。すぐに戻る」

 

 それだけ言い残し、俺は足を速めた。

 

 

 森の手前、畑のあぜ道。

 そこに、それは“いた”。

 

 浮遊する影。

 人の形をしているが、歪んでいる。

 皮膚は煤のように黒ずみ、目は異様に光り、手には石のような何かを固く握りしめていた。

 

 妖怪――だが、普通ではない。

 こいつが、里の自警団達を……。

 

 俺が一歩踏み出した瞬間、そいつがこちらに振り向いた。

 ぎらつく瞳に射抜かれた刹那、背筋を氷の指でなぞられたような悪寒が走る。

 理性も思考も、その眼には存在しない――ただただ、欲望と狂気だけが燃え盛っていた。

 

「……なるほど、話の通りだな」

 

 腰の風花に手を添えるが、すぐに下ろす。

 刀を抜くまでもない。ここで必要なのは見極めと捕縛だ。

 

 妖怪が甲高い声を上げ、地を蹴った。

 鋭い爪が目の前に迫る。俺はそれを紙一重で躱し、空いた脇腹へ掌底を叩き込んだ。

 鈍い衝撃。吹き飛んだ妖怪は地面を転がるが、すぐに立ち上がり、さらに猛然と突進してくる。

 

「シッ……!」

 

 拳と拳が交錯する。爪が頬を掠め、血の匂いが広がった。

 まともに力任せでやり合えば、里の自警団では分が悪いのも納得だ。

 だが――

 

「俺を相手にするには、少し足りねぇぞ……!!」

 

 掌に霊力を込める。

 白い光が迸り、妖怪の腕を弾き飛ばす。続けざまに足払いをかけ、叩き伏せようとしたその瞬間――

 

 妖怪の体がふわりと浮いた。

 地面を蹴ったのではない。まるで空気そのものに逆らうように、上昇していく。

 

「……なに?」

 

 奴は俺を嘲るように見下ろしながら、さらに高く、空へと舞い上がってゆく。

 妖怪は畑の上空、高さにして十数丈。地を蹴るでもなく、まるで水に浮かぶ木の葉のように、空にただ漂っていた。

 

 俺は思わず舌打ちした。

 妖怪退治の心得に「逃がさぬこと」という鉄則がある。

 逃げられれば、次にどこで誰が襲われるか分からないからだ。

 だが――。

 

「……どうする」

 

 足が地面に縫い付けられたようだった。

 拳を握っても、爪を立てても、空に届くはずがない。

 奴はこちらをじろじろと見下ろしながら、手にした石を握りしめ、不気味な笑みを浮かべている。

 

 挑発か、それともただの衝動か。どちらにせよ、逃がすわけにはいかない。

 だが、生憎俺には飛ぶ術がない。

 

 脳裏に浮かぶのは、阿求の言葉。

 

『無事に帰ってきて下さい。そして、お話を聞かせて下さいね』

 

 ……その約束が、こんな所で果たせなくなるのか?

 

 奥歯を噛みしめ、目を細める。どうにかして手を伸ばす方法は――あるはずだ。必ず、ある。

 

 胸の内で焦燥が渦を巻く。

 拳を振るうにも、刃を振るうにも、届かないのでは意味がない。

 

 ――そんな歯噛みする俺の耳に、ふいに幻聴のように声が蘇った。

 

『空を飛ぶ? 簡単よ。霊力を流して、身体ごと浮かせばいいの』

 

 気だるげに答えていた博麗霊夢の声。

 その横で魔理沙が鼻で笑い、肩をすくめる。

 

『言うは易し、だぜ。まあ、実際やってみりゃ案外なんとかなるもんさ。私もそうだったしな』

 

 あの時は聞き流した。

 幻想郷の奴らは空を飛ぶのが当たり前だ。俺に出来るはずがないと決めつけ、深く考えもしなかった。

 

 だが今は――。

 

 地べたで足掻いている暇なんざない。

 逃げる妖怪を放置すれば、また誰かが傷つくだろう。

 

 ……なら、やるしかねぇだろ。

 

 俺はゆっくりと目を閉じ、呼吸を整えた。

 胸の奥から霊力を引き上げ、全身に巡らせる。

 腕へ、脚へ、指先へ……そして背へ。

 

 鳥の羽ばたき。

 虫の羽音。

 風を切る翼の軌跡。

 

 心の中でイメージを重ねていく。

 俺の背には、今ここに、空を掴むための翼があると――そう夢想する。

 

「……っ!」

 

 次の瞬間、背筋が熱くなった。

 ぱん、と何かが弾けるような感覚。

 視界の端に、淡い翡翠色の光がちらついた。

 

 振り返るまでもなかった。

 背から伸びているのが手に取るように分かる――二枚の、半透明な翼が。

 

「マジかよ……!」

 

 驚愕と興奮が入り混じった声が漏れる。

 だが感慨に浸っている暇はない。

 

 地を強く蹴った。

 身体が浮く。

 風を受け、翼がばさりと広がる。

 そして――そのまま墜ちる。筈だった。

 

 そう思った瞬間、翼がふわりと空気を掴む感覚を覚える。

 果たして俺は、落下せずに宙に留まることに成功していた。

 

「……やれる……!」

 

 握った拳が震える。

 たとえ今は飛ぶとまではいかなくても、この程度の滞空が出来れば――あの妖怪を捕まえることは不可能じゃない。

 

 風を切る音が耳元で唸り、滞空に成功した俺は逃げ惑う妖怪を視界に捉えた。

 

「もう逃がさねぇぞ!」

 

 身体をひねり、翼に霊力を流し込む。

 ぎこちないが、それでも意志に応じて前へ滑るように進めるのを感じた。

 大空を自由に舞う霊夢や魔理沙には程遠い。だがそれでも、追うことは出来る。

 

 妖怪がこちらを振り返り、甲高い唸り声を上げる。

 次の瞬間、爪が閃き、俺の頭上へと振り下ろされた。

 

「甘いんだよ!」

 

 反射的に翼を広げ、横へ滑るように回避。

 その勢いを利用して妖怪の懐に潜り込む。

 

 右手に霊力を込め、瞬時に護符を展開した。

 幾重もの光の鎖が宙を走り、妖怪の四肢へと絡みつく。

 

「ぐぅぅああああ!」

 

 咆哮を上げて暴れ狂う妖怪。

 だが鎖は緩まない。さらに左手で追加の護符を放ち、二重に縛り上げる。

 

「――目標確保だ」

 

 短く吐き捨て、息をつく。

 体は汗で濡れ、翼も既に軋んでいるような感覚があった。長くは持たない。

 だが……今はそれで十分だ。

 

 捕らえた妖怪をそのまま地上へ引きずり落とす。

 捕縛した妖怪は、このまま自警団へと引き渡すこととしよう。

 

 俺はふらりと地に降り立ち、翼を解いた。

 霊力の光が霧散し、背中が急に軽くなる。

 

「はぁ……なんとか、終わったか」

 

 息を荒げながらも、妖怪が完全に抑え込まれるのを確認して安堵する。

 まだこの一件の全容は見えない。

 だが……少なくとも、里を襲う脅威を一つは潰せただろう。

 

 

 縄と符でがんじがらめにされた妖怪は、まだ低い唸り声を上げていたが、もはや牙を剥く力もないのか、それ以上暴れるようなことはなかった。

 引き渡し先の自警団の面々が交代で押さえつけ、収監の準備に取り掛かっている。

 ――これにて一件落着、と見て良いだろう。

 

「助かった……お前が居なけりゃ、何れは死人が出てたかもしれん」

 

 血の滲む額を押さえながら、団長格の男が俺に深く頭を下げた。

 

「いや……今回はただ、運が良かっただけですよ」

 

 肩で息をしながらも、努めて平静を装う。

 背から解いた霊力の翼は既に消えており、ただ重い疲労だけが残っていた。

 

 ふと夜空を仰ぐ。

 つい先ほどまでそこにいた妖怪の残滓が、霞のように散って消えていく。

 思えば――まさか自分が空を飛ぶまね事をすることになるとは。

 ……だが。

 

「きっと次は、こうは行かないだろうな」

 

 低く呟き、拳を握る。

 先程のはほとんど勘と勢いでどうにかなったに過ぎない。

 もし敵がもっと速ければ、もしもう少し強ければ。

 自分は取り逃がしていたに違いない。

 

 ――ならば。

 

 次の機会に備え、もっと自在に飛べるようにならなければならないだろう。

 霊夢や魔理沙のように、空を駆け、縦横無尽に敵を追えるように。

 

「磨いてやるさ。必ずな」

 

 ぽつりと零すと、張り詰めていた胸の奥がふっと軽くなる。

 何にせよ、当面の脅威は去ったのだ。

 だが、また似たことが起こらない保証はどこにもない。

 

 だからこそ――次はもっと上手くやってみせよう。

 

 そう心に誓い、俺は阿求の待つ屋敷へと足を向けた。

 

───

 

 稗田邸に戻ると、玄関先で待っていた阿求がぱっと顔を上げた。

 

「……! ご無事でしたか、創英さん!」

 

 普段は冷静な彼女が、ほんの一瞬だけ安堵に顔を綻ばせる。

 

「この通り、かすり傷ひとつない」

 

 軽く笑って返すと、阿求は胸を撫で下ろし、すぐに学者の顔に戻った。

 応接間に通されるや否や、彼女は筆記用具を手に取り、まっすぐに俺を見据える。

 

「では、順を追ってお願いします。出発はいつ頃で、遭遇した妖怪はどのような様子でしたか?」

 

 俺は静かに語り始めた。

 正気を失ったような妖怪の目。

 不気味に煌めいていた石の破片。

 そして、最後には空に逃げられた相手を追うため――一か八かで飛翔の真似事をしたこと。

 

「―――空を、飛んだ……?」

 

 阿求の手が止まった。次の瞬間、瞳を見開き、机に身を乗り出してくる。

 

「創英さん、あなた、空を飛べるようになったんですか!? 人間で自在に飛行できる例は、私の記録にも数えるほどしかないのです! これは……これは大発見です!」

 

 顔を近づけて興奮気味にまくし立てる阿求に、俺は思わず苦笑した。

 

「待て待て、落ち着け。あれは“飛べた”ってほどのもんじゃない。ただ、落ちずに済んだだけだ。霊力で翼を形にしたら、どうにか滞空できただけだよ」

 

 阿求は「なるほど……なるほど……!」と何度も頷きながら、猛烈な勢いで筆を走らせる。

やれやれ、相変わらず熱心だ。

 

 だが彼女はふと筆を止め、真剣な眼差しで俺を見つめた。

 

「では……弾幕は? 霊夢さんや魔理沙さんのように、弾幕を撃つことはできましたか?」

 

 俺は首を横に振った。

 

「いや、さすがにそれは無理だな。撃てないこともないだろうが、恐らくただの霊弾を一発出すだけで精一杯だ。派手に撃ち合うなんて、夢のまた夢さ」

「……そうですか。ですが、飛翔ができるという事実だけでも大きな一歩です。あなたのような人間が記録に残るのは、幻想郷の歴史にとっても重要なことなのです」

 

 阿求の瞳には、使命感と好奇心が混じり合った光が宿っていた。

 俺は少しだけ視線を伏せ、ぽつりと呟く。

 

「……なら、目標を決めるとしよう。まずは、自在に空を跳べるようになること。そして……弾幕を展開できるようになることだ」

 

 自分で口にして、改めて胸の奥に小さな炎が灯る。

 この幻想郷で“戦う”というなら、それくらいできなければならない。

 

 阿求はしばし黙って俺を見つめ、やがてふっと微笑んだ。

 

「……ええ。ならば必ず、また私に語ってくださいね。飛べるようになったことも、弾幕を撃てるようになったことも。どんな小さな一歩でも、創英さんの歩みは記録する価値があります」

 

 そしてほんの一瞬、柔らかい声音で言葉を添えた。

 

「だから――今後も無事に帰ってきてください。私に続きを聞かせるために」

 

 真剣なその瞳に、胸が少しだけ熱くなる。

 俺は笑って返した。

 

「大丈夫だ。心配するな」

 

 そう告げた声は、自分でも意外なほど軽やかだった。

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