幻想回帰節   作:北宮 涼

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◆ 紅い霧の異変編:2003年 8月初旬
18の節:紅い霧の異変、その1


◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 ――それは、ある日唐突に始まった。

 

 2003年の8月初旬。

 正気を失った妖怪が里を襲ってから、俺は飛翔術を自分のものとするべく、暇を見つけては修練を重ねていた。

 修練を始めてからまだ日は浅いが、それでも俺は空を駆ける感覚を徐々に掴み始めていた。

 

 大空へと舞い上がり、里を眼下に収める。

 地面を蹴るようにして飛び上がるたび、背に展開した霊力の翼が風をはらみ、宙を押し上げてくれる。

 長く飛び続けるにはまだ足りないが、滞空し、辺りを見渡すくらいならば苦もなく出来るようになった。

 

 その日も、ひとりで練習を繰り返していた。

 ――だが。

 

「……なんだ、ありゃ」

 

 遠方。幻想郷の地平の先に、ぼんやりと広がる紅い靄が見えた。

 最初は夕暮れの名残かと思った。

 けれど、違う。これは空を焼く陽光じゃない。濃密に溜まった“霧”だ。

 不気味な紅の帳は、ゆっくりと幻想郷を覆いはじめている。

 

 思わず息を呑んだ。

 まだすぐにこちらへ達することはないだろう。けれど、あの霧が里にまで降りてくれば……人も、作物も、すべてに影響を及ぼすのは間違いないという直感があった。

 

 俺はすぐに飛翔をやめ、地へと降り立つ。

 そして、阿求の元を訪ねた。

 

 

 阿求の執務室に通されると、すぐに状況を伝えた。

 紅い霧が幻想郷の一角を覆いはじめていること。

 やがてそれが広がり、人間の里にも影響が及ぶであろうこと。

 

「……創英さんの見立ては、確かですね?」

「恐らくな。里にすぐ来る程の規模には見えなかったが、時間を置けば、いずれ必ずここまで届くだろう」

 

 阿求は筆を置き、眉をひそめる。

 その後ろでは、すでに呼び出された里の首脳陣が集まっていた。

 自警団の長や、商人の代表、古くから里を守ってきた有力者たちに混じり、慧音先生の姿も見える。

 ......見た覚えのない白髪の少女も居たが、今は気に留めている場合ではないと思考を戻す。

 

 俺は正直、外から来た余所者にすぎない。

 だが、これまでの実績や評判のおかげで、俺の言葉は信じられるに値する、と見なされているらしい。皆、真剣な面持ちで頷き合った。

 

「……ならば、今のうちに備えを固めましょう」

 

 阿求の一声で、会議は緊急態勢を敷く方向へとまとまっていった。

 

 

 ――それから数日後。

 俺にとって初めての経験となった異変は、存外静かに幕を開けた。

 

「……本当に来やがったな」

 

 数日前に観測していた紅い霧はジワジワと範囲を広げ、ついには里までをも呑み込んだ。

 太陽の光は濁り、昼間だというのに、辺りは夜のように薄暗い。

 

 事前に警戒していたおかげで人々に直接の被害は出ていない。けれど農作物は育ちにくくなり、日常の生活にも支障が出はじめている。

 見回り先の子供たちもまた、不安を隠しきれないようだった。

 

「ねえ創英兄ちゃん、なんでお日様が隠れちゃったの?」

「ほんとに夜になっちゃったの?」

 

 無邪気な問いに、俺は一瞬言葉を失った。

 ――本当のことは言えない。だが、曖昧に誤魔化すのも違う気がする。

 

「……大丈夫だ。お日様は隠れただけだ。いずれ戻ってくるさ」

 

 子供たちはまだ不安そうにしていたが、それでも俺の言葉に少し安心したように見えた。

 けれど、心の奥では俺も同じだ。この紅霧は――ただ事じゃない。

 

 そして、いずれは“誰か”が動くべき時が来るのだろう。

 

 

 紅霧が幻想郷を覆ってから早数日。8月12日の火曜日。

 里の状況は芳しくなく、農作物は陽の光を奪われて育ちが悪くなり、灯りをともす時間が増え、人々の暮らしは少しずつ圧迫されている。

 里の面々は表向き落ち着きを装っているが、不安は確実に広がっていた。

 

 そんな中、自警団の詰所へ呼ばれた俺と阿求は応接間へと足を踏み入れる。そこには、慧音先生の姿もあった。

 

 彼女は教師として子供たちを守るだけでなく、里の防衛や統治にも関わっている人物だ。

 彼女がいるということは、それだけ事態が深刻だということ。

 

「創英、来てくれて助かる」

 

 先生は開口一番、険しい顔でそう言った。

 

「状況は把握しているだろうが、このままでは里の生活に大きな影響が出る。畑は日に日に弱っていき、蓄えにも限界がある。放置すれば……最悪、冬を越せないかもしれない」

 

 先生の声は淡々としていたが、事態の重さは痛いほど伝わってきた。

 阿求も頷く。

 

「これは明らかに“異変”です。自然現象では説明がつかない。……そして、異変である以上、私たち人間だけでは解決できないでしょう」

 

 ふたりの視線が、俺に注がれる。

 

「……俺に、異変の調査をしろと?」

 

 問い返すと、阿求は即答した。

 

「はい。もちろん、解決そのものはあなたの役割ではないでしょう。ですが、あなたは外から来て、これまで数々の異常事態を見抜き、解決の手助けをしてきた。その目で、確かめてきて欲しいのです」

 

 確かに、異変を本当に解決できる存在は限られている。

 俺の頭に、ひとりの少女の姿が浮かんだ。

 

「……博麗神社か」

 

 阿求は静かに頷く。

 

「ええ。博麗の巫女に、この事を伝えるべきです。彼女なら、必ず異変を収めてくれるはず」

 

 先生が腕を組んで口を開く。

 

「だが危険だぞ、創英。巫女の元へ行くまでに、紅霧の影響を受けた妖怪が現れぬとも限らん。お前自身が戦わねばならない場面もあるかもしれない。それでも行くのか?」

 

 俺は一瞬黙り、深く息をついた。

 飛翔術は未熟だ。まだ完璧とは言い難い。弾幕だって形になっているとは言えない。

 それでも――。

 

「……行くさ」

 

 ふたりの視線が強まるのを感じながら、俺は言葉を続けた。

 

「異変を解決するのは博麗霊夢に任せればいい。けど、この霧から漂ってくる“気配”に……あの霊石と同じものを感じるんだ。これはきっと偶然じゃない。俺には、俺の役割がある筈だ」

 

 阿求が目を見開き、先生は驚き半分、呆れ半分といった顔をする。

 

「……お前というやつは。本当に律儀だな」

「ですが、それでこそ創英さんですね」

 

 ふたりの反応に、俺は苦笑した。

 恐怖はある。けれど、それ以上に胸の奥に燃えるものがある。

 

「行ってくるよ――博麗神社へ」

 

 こうして俺は、人間の里の代表として、そして一人の“外来人”として――異変の地へ向かう決意を固めた。

 

 

 飛翔術を駆使して空を翔ける。

 不慣れとはいえと、長時間の飛行でも脚をつかないで居られる時間はかなり伸びた。

 その代わりに、飛翔速度はまだ出せないままだが。

 

 そうして博麗神社に着いた訳だが、境内はひっそりとしていた。

 ただ、鳥居をくぐった途端、胸にまとわりつくような妖気を感じた。

 紅霧は里に比べれば薄いが、それでも誤差レベルだ。

 ここからでも空を覆う赤がはっきりと見える以上、幻想郷はこの霧に覆い尽くされてしまったと見て間違いは無いのだろう。

 

 境内を進むと、縁側に腰を下ろしているひとりの少女が見えた。

 赤と白の巫女装束に身を包み、目を閉じている。

 

「……霊夢」

 

 思わず名を呼ぶと、博麗霊夢がゆるりと顔を上げた。

 

「あら、創英じゃない。珍しいわね、里の人間であるあんたがここまで来るなんて」

「紅霧の件でな。相談があって来たんだ」

 

 霊夢はわざとらしく大きなあくびをひとつ。

 しかし、その瞳の奥は鋭かった。異変を前にした時の彼女は、どこか張り詰めた気配を纏う。

 

「分かっているわ。……あの霧、どう見ても普通じゃない。放っておいたら、やがては幻想郷の外にまで影響を及ぼすでしょうね」

「やっぱりか」

 

 霊夢は立ち上がり、袖をひらりと翻す。

 

「異変なら、私の出番。博麗の巫女が片を付けるしかないでしょう」

 

 その瞬間、鳥居の向こうから元気な声が響いた。

 

「おーい、霊夢ぅー!」

 

 振り返ると、箒に乗った黒衣の魔法使い――霧雨魔理沙がこちらへ飛んでくる。空を切り裂いて着地すると、にやりと笑いながら帽子を押さえた。

 

「これから出かける所なんだろ。こんだけ派手な異変、見逃すわけないぜ。紅い霧だなんて、ロマンたっぷりだろ?」

 

 「物好きね……」と霊夢が小さくため息をつく。

 魔理沙は俺に気付くと、少し驚いたように眉を上げた。

 

「ん? お前も来てたのか、創英。……まさか異変解決に参加する気か?」

 

 冗談めかした口調に、俺は苦笑いを返した。

 

「いや、俺の役目は調査と報告だよ。異変を解決するのはお前たち二人だろう」

「へぇ、分かってるじゃないか」

 

 魔理沙は口ではそう言いながら、どこか嬉しそうだった。霊夢と並び立つその姿は、心強さを感じさせる。

 

 俺はふたりの横顔を見ながら、胸の内でひとつの確信を得ていた。

 ――異変そのものは、この二人が解決してくれる。

 けれど、それで終わりではない。

 この紅霧には、里を襲った者の“気配”が混じっている。あの霊石と同じ、不穏なざわめきが。

 

(異変の裏側には……きっと俺の役目がある)

 

 そう思いながら、俺は二人の背中を追うことを決める。

 霊夢と魔理沙が出立の準備を整える横で、俺は静かに手袋を締めた。

 里の代表者としての務めは果たした。異変そのものの解決は二人に任せよう。

 だがあの紅霧に混じる“別の気配”が、裏で暗躍しているのなら……俺には俺の役目があるだろう。

 

「まさか、着いてくるつもり?」

 

 霊夢が振り返り、鋭い視線を寄越してくる。

 

「異変解決は私たちがやる。だからあんたは里に残って――」

「行くよ、俺も」

 

 その言葉を遮るように、俺は言った。

 

「異変そのものはお前たちに任せるさ。でも、この霧には感じた覚えのある“気配”が混じっている。それを、放っておくわけにはいかない」

 

 魔理沙が横で「へえ」と興味深そうに目を細める。

 

「創英も物好きだな。弾幕はまだ下手なんだろ? 危ないぜ?」

「分かってる。でも、今回は“表”を解決する戦いじゃない。裏に潜むものを探すだけだ」

 

 霊夢はしばし黙って俺を見つめ、それからため息混じりに肩をすくめた。

 

「勝手にしなさい。ただし、足手まといにならないこと」

「了解」

 

 俺は口元に笑みを浮かべた。

 

 ――霊夢と魔理沙が紅霧の核に向かう間、俺はその影に潜む気配を追う。

 その先に、必ず“何か”があるはずだ。

 

 空を舞う二人の後ろ姿を見上げ、深く息を吸い込む。

 まだ俺は完全に飛べない。けれど、滞空の術は身に付けた。

 それを駆使して、二人のすぐ後を追う。

 

 薄紅の霧を掻き分けて、俺は二人とともに異変の渦中へ向かって飛び立った。

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