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紅霧に覆われた幻想郷の空は、昼だというのに夜のような暗さだった。
赤黒い帳が一面を覆い、視界はどこまでも霞んでいる。太陽は影を潜め、遠くの山や森の輪郭さえ不確かに見える。
その中を、俺たちは進んでいた。
先頭を飛ぶのは博麗霊夢。その背はまっすぐで、わずかな迷いも見せない。続いて魔理沙が箒を操り、楽しげな笑みを浮かべながら霧を裂いて進む。
そして最後尾にいる俺は、どうにか二人の飛翔に食らいつくように、霊力の翼を広げていた。羽ばたきではなく、霊気の揺らぎを必死に操っての滞空。まだ安定とは程遠く、油断すればすぐに墜ちそうになる。
「……来るわよ」
霊夢の声が短く鋭く響く。
その言葉と同時に、紅霧の中から黒い影が浮かび上がった。妖精たちだ。翅を揺らし、目を赤く輝かせ、口元にはいたずらめいた笑みを浮かべている。
数える間もなく、十や二十はいる。霧の奥から、まだまだ増えているようだった。
「私らを歓迎してるみたいだな」
魔理沙が口笛を吹き、箒の先をくいと上げる。
「でも悪いけど、こっちも遊びに来たんじゃないんだぜ」
その瞬間、霊夢がふわりと御札を放った。ひらひらと舞う紙片が紅い光を帯び、迫る妖精たちの放った光弾を次々と焼き切っていく。
爆ぜる音と共に、一体が霧に溶けるように散った。
「ちっ、やるわね!」
妖精の一人が叫ぶと同時に、残りの群れが一斉に弾幕を展開する。光の粒が雨のように降り注ぎ、夜空の花火のように紅霧の中で炸裂した。
「っとと……!」
俺は慌てて護符を取り出し、迫る弾幕へ投げ放った。霊気を込めた一枚は、ぎりぎりで光弾を打ち払い、ついでに妖精一体の翅をかすめる。
敵は悲鳴を上げて落ちていったが、手の中はもう汗でぐっしょりだ。
「はぁ、はぁ……。まだ入口なんだよな、これで……」
荒い息を漏らす俺に、魔理沙がちらりと振り返り、ニヤリと口角を上げた。
「弱音吐くなって。撃ち漏らしはわたしらがまとめて片付けてやる」
「……任せる!」
その言葉通り、魔理沙は箒を傾けて突進し、星の光を纏った弾を次々と放つ。青白い光が尾を引き、妖精の群れを貫いては爆ぜる。
霊夢は反対に、表情ひとつ変えずに淡々とお札を撒き、的確に弱点を突いていく。二人の動きは全く違うのに、不思議と噛み合っていて、隙という隙を与えない。
俺はその背中を必死に追いかけながら、目の端で弾幕の応酬を見ていた。
妖精たちは次々に倒れていくが、なおも霧の中から湧き出るように現れる。その数、その粘り強さに、背筋を冷たいものが走る。
「……これで“入口”だっていうんだからな」
思わず口にすると、霊夢が振り返りもせずに応じた。
「そう。だから気を抜かないで」
やがて妖精の群れは散り、空はひととき静けさを取り戻した。
けれど、霧の濃さはなおも増しているように感じられる。呼吸するたび、胸の奥に重いものが沈むような感覚があった。
そして――そのさらに先。
暗闇の中に、ひときわ異様な“気配”が潜んでいるのを、俺は確かに感じ取っていた。
◆
妖精たちの群れを抜けた俺たちは、ひときわ濃い霧のただ中へと差しかかっていた。
さっきまでよりもさらに、視界が狭まる。霧というより――これは闇だ。
紅い靄が、まるで夜の闇に血を混ぜたかのように広がり、肌にまとわりつく。
「……出てきたわね」
霊夢が足を止め、周囲に鋭い視線を巡らせる。
その直後、すうっと冷たい風が流れた。闇の帳が裂け、そこから現れたのは――小柄な少女だった。
黒いリボンを結び、薄笑いを浮かべている。
闇に包まれたその姿は、昼間の妖精たちとは明らかに格が違う。
「わぁ、おもしろい匂いがするね」
少女は楽しそうに目を細め、霧の中からふわりと浮かび上がった。
「こんな所に人間が三人も。しかも、ひとりはちょっと変な匂い……。あはっ、遊んでいい?」
「ルーミア……」
霊夢の声には、警戒の色が濃く滲んでいた。
ルーミア――闇を操る妖怪。
彼女が現れた瞬間、空気が変わった。
視界は一層閉ざされ、俺たちを包む空間そのものがじわじわと暗く沈んでいく。
(……これが、能力ってやつか)
俺は息を呑み、両手を握りしめた。
ただでさえ見通しの悪い紅霧が、さらに重苦しい闇で塗りつぶされる。飛翔すら危うく感じるほどの圧迫感だ。
「遊ぶつもりはないわ。さっさと大人しくしてもらうわよ」
霊夢が冷たく言い放つと、ルーミアはきょとんと首を傾げ、次の瞬間には無邪気な笑みを浮かべた。
「やーだ。だって遊びたいんだもん」
直後、闇が爆ぜるように弾幕が広がった。
黒と赤の光弾が雨のように降り注ぎ、視界のほとんどを覆い尽くす。
「くっ!」
俺は慌てて霊力の翼を広げ、必死に回避に専念する。反撃する余裕なんてない。ただ、流れ弾に当たらぬよう、二人の外側へ逃げるので精一杯だった。
けれど――。
「ふん、所詮は小物ね」
霊夢は冷静そのものだった。軽やかに身を翻し、狭い隙間を縫うように飛び抜ける。そして的確にお札を投じ、闇の壁に穴を開けていく。
一方、魔理沙は笑い声を上げていた。
「ははっ、面白いじゃないか! その闇、ぜんぶ吹き飛ばしてやるぜ!」
箒を傾け、星の粒をまき散らす。彼女の放つ光弾は暗闇の中でもきらめきを失わず、夜空に瞬く星座のように広がった。
光と闇が交錯する。
ルーミアの張り巡らせた闇を、霊夢と魔理沙の弾幕が少しずつ切り裂いていく。
俺はその戦いを、外側から食い入るように見つめていた。
(……すげぇ。これが、本物の弾幕ごっこってやつか……!)
眩い光と爆ぜる音。揺らぐ闇と、舞うお札。
圧倒されるほどの光景に、胸の鼓動が早まる。自分では到底できない芸当だ。
そんな夜空を彩る弾幕を見上げながら、俺は胸の奥にざわめきを覚えていた。
それは恐怖とも違い、けれど単なる高揚でもない――言葉にできない不思議な感覚だった。
(……弾幕ごっこ、か)
思考がその言葉をなぞったとき、ふと過去の記憶がよみがえる。
◆
稗田邸の縁側。
夏の夕暮れ、庭を渡る風が竹の簾を揺らし、涼やかな風鈴の音が響いていた。
縁側に腰を下ろすのは俺と紫さん。奥の部屋では阿求が黙々と筆を走らせている。
「幻想郷の決闘はね、『スペルカードルール』によって成り立っているの」
紫さんは扇子で頬を仰ぎながら、何気ない調子でそう切り出した。
「……ルール? 戦いに?」
「ええ。殺し合いを“遊び”に変えるためのルールよ」
その響きに、俺は思わず眉をひそめる。
「遊び、ですか? 戦いは命を賭けた真剣勝負じゃないんですか?」
紫さんはくすりと笑う。
「真剣よ。本気で戦っているの。ただし、“ルールの範囲内”でね」
彼女は指を折りながら語る。
「一つ、妖怪が異変を起こし易くする。
一つ、人間が異変を解決し易くする。
一つ、完全な実力主義を否定する。
一つ、美しさと思念に優るものは無し。
……この四つの理念に基づいて、異変は“弾幕ごっこ”という形式で争われるの。妖怪は異変を楽しめるし、人間は巫女を中心に解決を試みる。どちらにとっても、血を流すよりはるかに理にかなっているでしょう?」
紫さんの声音は軽やかだったが、その奥に宿る真意は鋭かった。
「……だが、それじゃあ妖怪は好き勝手に異変を起こすんじゃないか?」
俺が口を挟むと、紫さんは扇子を閉じて彼の目を見据えた。
「ええ、だからこそ“条件”があるの。
主人公――ここで言う、異変解決に挑む側を撃退し続ける限り、異変を継続できるわ。これが首謀者にとってのメリットね」
「……なるほど」
「でもね、忘れてはならないわ。そもそも異変なんて、人間の里にとっては迷惑でしかないの。それは他の妖怪にとってもそう。だからいつまでも続けていいわけじゃない。期間限定だからこそ、許されるのよ」
紫さんはゆったりと庭へ視線を投げた。
遠くで子供たちの遊ぶ声が聞こえる。
その声を聞きながら、彼女は淡々と続けた。
「首謀者側にとっては充分に破格な条件よ。腕次第で何度でも楽しめるのだから。けれど、本気の異変となれば話は別。……里中の神も魔も人も妖も、総掛かりで首謀者を袋叩きにするでしょうね」
「っ……」
俺は息を呑む。
遊びに変えたはずのルールだが、履き違えれば、時に首謀者側の勢力を滅ぼしかねない制裁に繋がる――その冷徹さが見えた気がした。
紫さんは、そんな俺の心を読み取ったかのように、ふっと微笑んだ。
「幻想郷はね、単なる楽園じゃないの。理を守らなければ、あっという間に牙を剥く世界よ」
◆
回想から意識を戻した創英は、再び夜空に視線を向ける。
霊夢と魔理沙が織りなす弾幕は、確かに美しかった。
まるで舞い、まるで祈るように――互いを撃ち合いながら、その姿を示している。
(……ルールの下で戦えば、異変は必ず収束する。そう決まっている。だが――)
胸の奥に、不穏な気配がざわめいていた。
紅霧に混じる“あの霊石”と同じ気配。
それは、紫が語った「理の範囲」を逸脱する何かではないか。
(もしルールを裏切る存在が現れるのなら……俺の役目は、きっとそこにある)
拳を握りしめる。
幻想郷を護るのは博麗の巫女だ。だが、巫女が見落とす“影”を追うのは、外から来た自分の務めかもしれない――。
「きゃっ……!」
ルーミアは小さな悲鳴を上げ、力なく後方へ吹き飛ばされる。光が闇を切り裂いたのだ。
霊夢の札が弧を描き、魔理沙の星弾が炸裂する。交錯する閃光がひときわ強く輝いた瞬間、ルーミアの纏っていた闇は霧散し、空間が一気に明るさを取り戻した。
だが致命傷には程遠い。弾幕ごっこのルールに則って“退場”を余儀なくされたというだけだった。
彼女はふわふわと体勢を立て直し、口を尖らせてこちらを振り返る。
「むぅ……つまんない。もうちょっと遊びたかったのに」
そう言いながらも、その目はどこか楽しげだった。
まるで本当に「遊び」をしただけのような軽さだ。
「遊びのつもりなら、これ以上はお断りね」
霊夢はきっぱりと告げる。淡々としているが、どこか安心した響きがあった。
魔理沙は大きく息を吐き、額の汗を拭う。
「はーっ、久々に手応えあったなぁ。……なあ霊夢、あいつほんとに道中の雑魚でいいのか? 普通に強いぜ」
「幻想郷の妖怪は、みんな何かしらの力を持ってる。油断したら危ないわよ」
霊夢は冷ややかに言い、懐から新しい札を取り出していた。
俺は少し遅れて二人の元へ降り立つ。
全身に冷や汗をかいていた。弾幕の嵐をかいくぐるだけで必死だったのだ。
「……やっぱり、すごいな」
思わず漏れた言葉に、魔理沙がにやりと笑う。
「おいおい、他人事みたいに言うなよ。創英もいずれは弾幕のひとつやふたつ、撃ち返せるようにならなきゃな」
「……耳が痛いな」
苦笑で返しながら、俺は視線をルーミアの飛び去っていった方向へ向けた。
闇は晴れた。だが、胸のざわめきは消えない。
彼女が放っていた闇の中に、ほんの僅かだが、あの霊石と似た気配を感じたのだ。
強大なものではない。ただ、確かに混じっていた。
(やっぱり……この異変の裏には、何かあるな)
背筋に冷たいものが走る。
表向きは、霊夢と魔理沙がこうして異変を解決に導く。
だがその裏で、確かに「何か」が蠢いている――。
「おーい、何ぼさっとしてるんだ創英」
魔理沙に声を掛けられ、はっと我に返った。
「……いや、何でもない」
「ふーん? あやしいなぁ」
魔理沙がにやにやと覗き込むが、霊夢はもう次の進路へと視線を向けていた。
「立ち止まってる暇はないわ。霧の濃さは、まだまだこれから。ここで足を止めたら、もっと厄介なのが出てくる」
「だな。よし、行こうぜ!」
魔理沙が明るく声を張り上げる。
俺も頷き、再び霊力の翼を展開した。
胸の奥に渦巻くざわめきを抱えたまま――次なる道へと飛び立つ。