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静かに待つ事、およそ10分程度。
少しばかり緊張した面持ちのまま、事前に伝えられていた時刻を迎えた頃。そいつは、唐突に"現じた"。
兆候の様な物は特になく、急に、空間に一本の線が走ったかと思えば……次の瞬間には、それらが奇妙な音と共にぱっくりと口を開くように割れた。
その空間の中から覗くのは、無数に浮かぶ目、目、目。
兎角不気味な異空間――後に『隙間』という名があると知ったその領域の中から、程なくしてのそりと何かが顔をもたげた。
(女の子…?)
腰ほどまで伸びた長い金髪の毛先を、幾つか束にして赤いリボンで結んでいる。
フリルドレスが映える可愛らしい容姿に、紫色の瞳が艶やかに光を反射する。
……髪色と瞳の色から、最初は時崎の血縁なのかとも思った。
だが、感じられる妖気からその線は無いと直ぐに断じた。
恐らく抑えているのであろうが、それでも伝わってくる気配から強い圧力を感じる辺り、彼女こそが、件の大妖怪である『八雲紫』で間違いは無さそうだ。
「お待ちしておりました、八雲様」
「久しぶりね、創厳。変わりはないかしら」
「お陰様で、この通りやっております。まだまだ長生きしてみせますぞ」
「ふふ。気張るのは良いけれど、程々にしておきなさいな。もう無理はできない歳なのだから」
一族の中でも最高権威を持つジジイが畏まった様子で接するのに対し、気さくな様子で会話を交わす大妖怪。
二人の関係性は、この構図からしてすぐに理解出来た。
そして同時に、その力関係も。
(……多分、この場に居る誰もが、この少女の形をした妖魔には勝てないんだろうな)
二人の和やかな雰囲気とは対照的に、緊張で強ばったままの俺はそんな事を思っていた。
そんな中、ふと大妖怪の目線が俺に向けられる。
瞬きもせず見つめ続ける俺に一瞬だけ訝しむような表情を見せたのもつかの間の事で、緊張しまくった俺の様子を見てすぐに何かに思い至ったのか、その様子は次第に霧散していった。
「貴方が、此度の移住希望者ね」
ニッコリと頬笑みを浮かべながら近づいてきた彼女は、そう口にすると値踏みするかのように俺を見つめてくる。
身長差が殆ど無いせいなのか、少し目線を外した程度では直ぐに目が合ってしまう。
「ふむ……ふむふむ……」
小さな口元に薄紫色の畳まれた扇子をあてがい、俺の周りをぐるりと歩いて回りながら、より深く値踏みするように見つめてくるその様に、俺は何も喋ることが出来ずにただ緊張し続けていた。
「……ふふ。物凄く緊張しているわね。何も取って食おうって訳じゃないのだから、もう少し肩の力を抜きなさいな」
そう言って俺の頬にそっと手で触れてくる。
その瞬間、俺の心の中にナニカが伝わってきた。
これは一体……
「……今、俺に何かしましたか?」
「うん?」
「貴方が俺の頬に触れた時、なにかが……伝わってきたような気がしました」
「……ふむ」
そんな俺の発言に興味を示したのか、彼女は再び俺の頬に手を触れてくる。
今度は、すぐに分かった。
「……これは申し訳ありません。まだ名乗っていませんでしたね」
「あら、本当に伝わったのね」
目をまん丸に見開いて驚いたという様な表情を見せる彼女。
"貴方の名はなんと言うのかしら?"……それが、改めて彼女が触れてきた時に伝わってきた思いだった。
この現象は一体何なのか。今の時点では分かっていなかったが、恐らく八雲紫の何かしらの力なのだろうと、この時の俺はそう考えていた。
「では改めて、自己紹介をさせて頂きます。俺の名前は時崎創英と言います。退魔師として、本山にて修行中の身であります」
「自己紹介ありがとう。私は八雲紫よ。八雲さんでも、紫さんでも、ゆかりんでも……好きな呼び方をして構わないわ。よろしくね、創英くん」
おちゃめな感じで再びニコッと微笑むゆかりん、もとい紫さん。
この時に、俺の中で抱いていた第一印象の「恐ろしい妖魔」から「親しみやすい隣人」へと変化し……
「よっ……よろしくお願いします、紫さん」
「もう、つれないわねぇ」
そっ……と、触れられた掌から伝わった"真面目な人間ね"という感情の起伏がいまいち掴みにくい思いと、朗らかに笑う表情とが乖離している様から「なんだか胡散臭い奴」へと、すぐさま変わっていった。
「……さて。自己紹介はこの辺りにして、そろそろ本題へと入りましょうか」
――バッと開いた扇子の内側に口元が隠れ、目元がそっと真剣なものへと変わる。
ここからの話次第で俺のこの先の処遇が決まるのだと……そう思わされるような雰囲気の変わり様だった。
実際、この時の俺は、直前までのやり取りで少しだけ気が緩んでいたのもあり、あまりの空気の変わりように再び緊張が走ったのを今でも覚えている。
「とは言っても、もう私の中では決まっているのだけれどね」
透き通った、それでいてよく響く芯のある声が室内に木霊した。
誰かが生唾を呑む音さえ聞こえて来そうな、痛い程の静寂が一瞬だけ訪れる。そして。
「彼の者、時崎創英の幻想郷への移住を歓迎します」
その一言と共に、誰ともなく息を吐き出す音と共に張り詰めた空気が弛緩した。
「これで一先ずは安心だのう……良かったな、創英や」
ホッと胸を撫で下ろすジジイを尻目に、この時の俺は何故幻想郷へ入る事を許されたのかを考えていた。
だが、何が彼女のお眼鏡に適ったのかは、この時点の俺にはまだ分からなかった。
そんな俺の考え込む様子を愉快そうに見つめていた紫さんは、そっと扇子を閉じるとぽつりと問い掛けてきた。
「貴方は、今までの人生の中で自身が特別であると感じた事はあるかしら?」
「へ? あ、いや……無いかな……あっ。無い、です」
急な問い掛けにしどろもどろになりながらも答えた俺を見て、満足した様に頷くと、何も言わずに後ろへ振り返った。
直後、空間が再び音を立てて割け、その中に彼女は歩いて入って行く。
そして、全身が完全に中へ入った状態でこちらに振り返ると、彼女は言った。
「誠実で正直。それでいて己を省みる心を持ち、過ちがあれば即座に考え正そうとする。そして、こう言った『異常』の渦中においても、それが己を特別たらしめる要因には感じていない。今私から述べられる点があるとすれば、そんな創英くんのありのままが気に入った……と、まぁ、そう言えるかしらね」
再び扇子を開き、口元を隠しながら、閉じゆく空間の隙間から、尚も彼女の言葉が響いてくる。
「まだ少ししか会話出来ていないのだけれど、それでも貴方は、明らかにこちら側の存在だと、そう言えるわね。今日の所は一旦お暇させてもらうけれど……ふふふ。また後日、迎えに来る時が楽しみね」
その言葉を最後に、ピタリと閉じた空間はただただ無音を湛えるのみとなる。
そんな何も無くなった空間を見つめながら、俺はただ呆然とすることしか出来なかった。
「さて……創英や、直ぐに支度を始めるぞい。明日には出立じゃからな」
ジジイから声を掛けられた事で我に返った俺は、何とか返事を返すと足早にその場を後にする。
一体、どんな魔窟に放り込まれるのだろうか。
この時の俺は、そんな漠然とした不安を抱えていた。