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紅霧に閉ざされた幻想郷の空を抜け、俺たちは湖のほとりを目指して飛んでいた。
視界はおぞましいほどに曇り、ただでさえ重い空気が、水気を孕んでさらにまとわりつく。胸の奥に吸い込むたび、肺が冷たく湿り気を帯びていくようだ。
「……近いわね」
先頭を行く霊夢が、眉根を寄せながら呟く。
魔理沙は箒を器用に旋回させ、笑うように吐き出した。
「お、湖が見えてきたな。ってことは――出てくるぜ、また」
言葉通り、霧の奥から影がにじみ出てくる。
羽音、ざわめき、甲高い笑い声。妖精たちだ。前の群れよりも数が多い。濃い紅霧の中、光を帯びた氷の結晶を抱えて舞い上がり、こちらを睨みつけていた。
直後、無数の光弾がばら撒かれる。
白と青の冷気を孕んだ光が空を覆い、弾幕となって迫ってきた。
「っ……!」
俺は慌てて護符を取り出そうとして、ふと息を呑んだ。
(……違う。これは、“ごっこ”だ)
脳裏に浮かぶのは、稗田邸の縁側で聞いた紫の言葉だった。
――“美しさと思念に優るものは無し”。
異変の戦いは力任せではなく、美しさと思想のぶつかり合いであると。
ならば、俺もやってみせるべきだ。
真似事でもいい。派手に、華やかに。
俺は息を詰め、霊力を練り上げる。
威力を込めず、ただ「撒く」ことに意識を傾けた。
「うおおおおっ!」
掌から放った光弾が、次々と四方に飛び散る。
力は抑えている。だから一発ごとの鋭さはない。けれど、その数だけはこれまでにないほど多く――まるで火花の雨のように、夜空に花を咲かせた。
「おお……!」
思わず自分でも声が漏れた。これが――“弾幕”か。
しかし。
派手にばら撒いたはずの光は、妖精たちを一撃で貫くには足りなかった。かすっただけで怯みはするが、すぐに体勢を立て直して反撃に移ってくる。
「ちっ……!」
額に汗が滲む。威力を抑えた代償だ。
「創英! 後ろ!」
魔理沙の声に振り返ると、青白い弾が迫っていた。
咄嗟に護符を投げ、爆ぜる光でそれを弾き払う。だが、霊力の消耗が速い。
「はぁ……はぁ……! くそ、簡単じゃねぇ……!」
俺の呟きに、霊夢の冷静な声が被さった。
「数で押しても、仕留められなければ意味はないわ。――でも、その心意気は悪くない」
霊夢はひらりと舞い、札を的確に投じて妖精を次々に撃墜する。
魔理沙はその後を追い、星の閃光で広範囲を一気に焼き払った。
「見ろよ、こうやってバランスを取るんだ!」
「うるせぇ……!」
悔しい気持ちで歯を食いしばる。
撒き散らすだけでは戦えない。けれど、ここから学べるはずだ。
妖精たちをどうにか退け、ひととき静寂が戻った。
霧はさらに濃く、湖の気配が近づいている。胸の鼓動が速くなっていた。
そのときだった。
「……た、助けて……!」
か細い声が霧を割った。
姿を現したのは――大きな妖精の子だった。
この子には見覚えがある。確かこの子は、以前に人間の里に遊びに来ていた大妖精……名は分からないが、皆から「大ちゃん」とか呼ばれていたのを思い出す。
普段は穏やかで優しい顔をするはずの彼女だが、今は半泣きで飛んでいる。
「ど、どうした?」
俺が呼びかけると、彼女は必死に首を振り、涙声で叫んだ。
「チルノちゃんを……チルノちゃんを止めてくださいっ!」
その声は、ただ事ではない切迫を帯びていた。
普段の彼女を知る霊夢も魔理沙も、一瞬だけ表情を曇らせる。
「チルノ……だと?」
魔理沙が眉をひそめると、大妖精は縋るように両手を胸の前で組んだ。
「わ、分からないんです……。急に目が紅く光って、正気を失ったみたいに……! 湖の上で、無差別に氷をばらまいて……このままじゃ、危ないんです!」
嗚咽を飲み込むように叫ぶ彼女の瞳には、恐怖と焦燥が混ざっていた。
霊夢は短く息を吐き、視線を創英に投げる。
「……異変の影響、かもしれないわね」
俺は頷いた。
確証はない。だが、あの紅霧のただ中で妖精が自我を乱すなど、偶然にしては出来すぎている。
「案内して」
霊夢の声に、大妖精は「はいっ」と即座に返し、涙を拭って前に出る。
俺たちはその後を追い、さらに濃い紅霧の奥へと進んでいった。
風は冷たく、頬を刺す。肌に触れる空気は、まるで氷点下に沈んだかのようだった。
そして――霧がふっと切れ、視界が開ける。
そこに広がっていたのは、凍りついた湖の水面だった。
紅霧に照らされて白銀に輝き、氷の結晶が宙を漂っている。
まるで世界そのものが凍結したかのような異様な光景。
その中心に、彼女はいた。
「……チルノ」
魔理沙が呟く。
青い髪に、小さな背。氷の羽を背負い、幼い顔立ちの妖精――湖の主、氷精チルノ。
だがその瞳は、紅い輝きに塗り潰されていた。
「ひ、ひゃはは……あははははっ!」
無邪気な笑い声。しかしそこに理性の影はない。
手を振るたび、氷の刃が無作為に放たれ、湖面を削り取っていく。
砕けた氷片が紅霧に反射し、血のような赤を散らす光景は――あまりにも禍々しい。
「これは……」
思わず息を呑んだ。正気の沙汰じゃない。
「止まれッ!」
霊夢が声を張り上げる。しかしチルノは反応を示さず、むしろ俺たちに気づいた瞬間、その紅い瞳をぎらりと光らせた。
「きたぁ……! もっと遊んでやるぅっ!」
彼女の小さな手が振り下ろされ、無数の氷弾が四方八方へ弾け飛ぶ。
咄嗟に避ける霊夢と魔理沙。俺も霊力の翼を全開にしてかわす。
だが、その姿に俺の胸は強く揺さぶられていた。
(……このまま二人に任せたら、いつも通り異変は解決するだろう。でも――)
目の前で暴走する妖精を、ただ見ているだけでいいのか。
紫の言葉が頭をよぎる。
――幻想郷は遊び場ではなく、理に従って均衡を保つ場所だ。
ここで一歩を踏み出さなければ、俺の存在に意味はない。
「……霊夢、魔理沙」
俺は声を張った。
「ここは……俺にやらせてくれ!」
二人が同時に振り返る。霊夢の眉がわずかに動く。
「……あんたに?」
「無茶言うなよ。あいつは“ただのチルノ”じゃない。今のはヤバいぜ」
「分かってる。でも……俺だって戦うためにここにいるんだ!」
胸の奥から言葉が溢れた。
「危なくなれば、すぐ交代する。だから――挑ませてくれ!」
沈黙のあと、霊夢と魔理沙は短く視線を交わした。
そして、霊夢がふっと息を吐く。
「……分かった。くれぐれも無茶はしないように」
「しょうがないな。やられても助けてやるからな!」
二人の承諾に、胸が熱くなる。
俺は大きく息を吸い、チルノへと向き直った。
「……来いよ、氷精!」
紅い瞳のチルノが、妖しく笑う。
そして、凍てつく気配と共に――初めての弾幕ごっこの幕が上がった。
◆
氷精の小さな体が宙を舞う。
紅い瞳の輝きと共に、彼女は声高に叫んだ。
「雹符――《ヘイルストーム》!」
瞬間、視界が白と青の粒で埋め尽くされる。
無数の氷塊が乱舞し、まるで天地が逆巻く吹雪のようだ。
一発一発の威力は軽い。しかし、その数と広がりは圧倒的だった。
「ぐっ……!」
霊力の翼を広げ、左右へ身を翻しながら、俺は氷弾の隙間を縫うように飛ぶ。
頭上をかすめるたび、氷塊の冷気が肌を切り裂くようだった。
背後で「やるじゃん!」と魔理沙の声が飛ぶ。だが余裕などない。
(紫の言葉を思い出せ。大事なのは“見栄え”じゃない、“理”を守ることだ……!)
俺は左手を振り上げ、霊符を展開。光弾を連射し、氷の壁を削っていく。
だが相手は妖精――小さな身体で縦横無尽に飛び回り、俺の弾幕を掻い潜ってはまた氷をばらまく。
「はははっ! もっと避けてみなよ!」
無邪気な声。だがそこに宿る紅の光は、底知れぬ狂気を孕んでいた。
◆
第一波を凌ぎきった刹那、チルノはさらに霊力を膨らませる。
「凍符――《パーフェクトフリーズ》!」
湖面から一気に冷気が噴き上がり、空間そのものが凍りつく。
次の瞬間、無数の氷弾が“静止”した。
「なっ……!」
飛翔の最中で硬直する感覚。空気が凍り、動きが奪われる。
氷弾は宙に留まり、まるで檻のように俺を取り囲む。
「動けない……!?」
体を必死に捻るが、動作が遅れる。
氷弾が一斉に解き放たれ、襲いかかる。
間一髪、俺は霊力を爆発させ、狭い隙間をこじ開けるようにして脱出した。
「はっ……あっぶねぇ!」
額に冷や汗。もし反応が一瞬でも遅ければ、氷の檻に貫かれていただろう。
霊夢の声が響く。
「踏ん張んなさい! 妖精相手に遅れを取ったら笑われるわよ!」
言葉に奮い立たされるように、俺は再び光弾を放つ。
チルノはケラケラと笑いながら、また氷を振りまく。
◆
やがて空気がさらに張り詰める。
チルノの背から、鋭利な氷結晶が放射状に広がった。
「雪符――《ダイアモンドブリザード》ッ!」
吹雪が暴風のように渦巻く。
それはもはや“弾幕”ではなく、“世界そのものが氷雪に覆われる”光景だった。
無数の雪弾が視界を埋め尽くし、上下左右の区別すらなくなる。
「くそっ……!」
必死に避けるが、四方から押し寄せる白銀の壁に追い詰められていく。
霊力の翼は限界に近く、肩で荒く息をつく。
「もうおしまいだぁっ!」
チルノが笑い、氷嵐を叩きつける。
俺は咄嗟に霊符を掲げたが――雪弾の奔流は止まらない。
光も音も飲み込まれ、世界が凍り付こうとする。
(……ダメだ、このままじゃ……!)
絶体絶命のその時――頭の奥で、紫との対話が蘇る。
――「スペルカードは、力を誇示するためのものじゃない。理を示すための“名”よ」
(そうだ……俺にも、試作のカードが一枚……!)
ポケットに差し込んでいた護符を握る。
ここで使わなければ、意味がない。
「……頼むぞ!」
声を張り上げる。
「飛剣――《翔霊波》!」
次の瞬間、孔雀緑の光が俺の手元から奔り出た。
鋭く、一直線に。
吹雪を裂き、氷弾を飲み込み、紅霧さえも押し退けるかのような光波。
チルノの放った《ダイアモンドブリザード》の嵐が、緑の閃光に呑まれていく。
天地を震わせるほどの一閃が、湖上を支配する。
残響と共に、光が静かに収まった。
紅い瞳のチルノは――その場で力なく崩れ落ちていた。
◆
静寂が戻る。
氷の破片がぱらぱらと降り注ぎ、凍てついた空気の中に残響だけが尾を引いていた。
「チルノちゃんっ!」
真っ先に駆け寄ったのは大妖精だった。彼女は膝をつき、ぐったりとした小さな体を抱き上げる。
チルノの紅い瞳はすでに消え、ただ深い眠りに落ちたかのように安らかな顔をしていた。
「よかった……よかったぁ……!」
大妖精は涙を滲ませながらも、ほっと息をつく。その声には、張り詰めていたものが解けていく温かさがあった。
その光景を見届けた霊夢は、ふうっと肩の力を抜く。
「……やるじゃない。初めてにしては上出来ね」
魔理沙も隣で腕を組み、にかっと笑う。
「ほんとになー。後ろから見てるだけかと思ったら、意外とやるじゃん。あれは驚いたぜ、創英」
俺は息を荒げたまま、手に残る符の感触を確かめた。
手の震えはまだ止まらない。だが胸の奥には確かな実感があった。
(……これが、弾幕ごっこ……。ただの遊びじゃない。理を示す戦いだ。そして俺は……その一端に、確かに触れたんだ)
紫との会話が頭をよぎる。
“理を示すための名”――スペルカード。
その意味を初めて理解した気がした。
「でもさぁ」
魔理沙が肩を叩く。
「あんまり調子には乗るなよ? さっきのは一か八かの大博打だ。もうちょっと“避ける”練習もしなきゃな」
霊夢も冷ややかに付け加える。
「そうね。幾ら遊びとは言えども、これは本気の”遊び”よ。当たり所が悪ければ本当に死んでしまう事だってある。肝に銘じておきなさい」
「……ああ、分かったよ」
俺は苦笑しながらも深く頷いた。
大妖精はチルノを抱きしめ、涙ぐみながらこちらに頭を下げる。
「ありがとうございます……! チルノちゃんを、止めてくれて……!」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
彼女を救ったのは俺じゃない。霊夢や魔理沙の支えがあったからだ。
だがそれでも――今の戦いは、確かに俺自身のものだった。
(次も、俺はきっと戦う。この紅霧の異変に潜む“影”を見届けるために――)
霊夢が前を見据える。
「さ、休んでる暇はないわ。次は湖の奥……。この霧の根源を叩きに行くわよ」
その声に、俺は静かに頷いた。