幻想回帰節   作:北宮 涼

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20の節:紅い霧の異変、その3

◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 紅霧に閉ざされた幻想郷の空を抜け、俺たちは湖のほとりを目指して飛んでいた。

 視界はおぞましいほどに曇り、ただでさえ重い空気が、水気を孕んでさらにまとわりつく。胸の奥に吸い込むたび、肺が冷たく湿り気を帯びていくようだ。

 

「……近いわね」

 

 先頭を行く霊夢が、眉根を寄せながら呟く。

 魔理沙は箒を器用に旋回させ、笑うように吐き出した。

 

「お、湖が見えてきたな。ってことは――出てくるぜ、また」

 

 言葉通り、霧の奥から影がにじみ出てくる。

 羽音、ざわめき、甲高い笑い声。妖精たちだ。前の群れよりも数が多い。濃い紅霧の中、光を帯びた氷の結晶を抱えて舞い上がり、こちらを睨みつけていた。

 

 直後、無数の光弾がばら撒かれる。

 白と青の冷気を孕んだ光が空を覆い、弾幕となって迫ってきた。

 

「っ……!」

 

 俺は慌てて護符を取り出そうとして、ふと息を呑んだ。

 

(……違う。これは、“ごっこ”だ)

 

 脳裏に浮かぶのは、稗田邸の縁側で聞いた紫の言葉だった。

 ――“美しさと思念に優るものは無し”。

 異変の戦いは力任せではなく、美しさと思想のぶつかり合いであると。

 

 ならば、俺もやってみせるべきだ。

 真似事でもいい。派手に、華やかに。

 

 俺は息を詰め、霊力を練り上げる。

 威力を込めず、ただ「撒く」ことに意識を傾けた。

 

「うおおおおっ!」

 

 掌から放った光弾が、次々と四方に飛び散る。

 力は抑えている。だから一発ごとの鋭さはない。けれど、その数だけはこれまでにないほど多く――まるで火花の雨のように、夜空に花を咲かせた。

 

「おお……!」

 

 思わず自分でも声が漏れた。これが――“弾幕”か。

 

 しかし。

 派手にばら撒いたはずの光は、妖精たちを一撃で貫くには足りなかった。かすっただけで怯みはするが、すぐに体勢を立て直して反撃に移ってくる。

 

「ちっ……!」

 

 額に汗が滲む。威力を抑えた代償だ。

 

「創英! 後ろ!」

 

 魔理沙の声に振り返ると、青白い弾が迫っていた。

 咄嗟に護符を投げ、爆ぜる光でそれを弾き払う。だが、霊力の消耗が速い。

 

「はぁ……はぁ……! くそ、簡単じゃねぇ……!」

 

 俺の呟きに、霊夢の冷静な声が被さった。

 

「数で押しても、仕留められなければ意味はないわ。――でも、その心意気は悪くない」

 

 霊夢はひらりと舞い、札を的確に投じて妖精を次々に撃墜する。

 魔理沙はその後を追い、星の閃光で広範囲を一気に焼き払った。

 

「見ろよ、こうやってバランスを取るんだ!」

「うるせぇ……!」

 

 悔しい気持ちで歯を食いしばる。

 撒き散らすだけでは戦えない。けれど、ここから学べるはずだ。

 

 妖精たちをどうにか退け、ひととき静寂が戻った。

 霧はさらに濃く、湖の気配が近づいている。胸の鼓動が速くなっていた。

 

 そのときだった。

 

「……た、助けて……!」

 

 か細い声が霧を割った。

 姿を現したのは――大きな妖精の子だった。

 この子には見覚えがある。確かこの子は、以前に人間の里に遊びに来ていた大妖精……名は分からないが、皆から「大ちゃん」とか呼ばれていたのを思い出す。

 普段は穏やかで優しい顔をするはずの彼女だが、今は半泣きで飛んでいる。

 

「ど、どうした?」

 

 俺が呼びかけると、彼女は必死に首を振り、涙声で叫んだ。

 

「チルノちゃんを……チルノちゃんを止めてくださいっ!」

 

 その声は、ただ事ではない切迫を帯びていた。

 普段の彼女を知る霊夢も魔理沙も、一瞬だけ表情を曇らせる。

 

「チルノ……だと?」

 

 魔理沙が眉をひそめると、大妖精は縋るように両手を胸の前で組んだ。

 

「わ、分からないんです……。急に目が紅く光って、正気を失ったみたいに……! 湖の上で、無差別に氷をばらまいて……このままじゃ、危ないんです!」

 

 嗚咽を飲み込むように叫ぶ彼女の瞳には、恐怖と焦燥が混ざっていた。

 霊夢は短く息を吐き、視線を創英に投げる。

 

「……異変の影響、かもしれないわね」

 

 俺は頷いた。

 確証はない。だが、あの紅霧のただ中で妖精が自我を乱すなど、偶然にしては出来すぎている。

 

「案内して」

 

 霊夢の声に、大妖精は「はいっ」と即座に返し、涙を拭って前に出る。

 

 俺たちはその後を追い、さらに濃い紅霧の奥へと進んでいった。

 風は冷たく、頬を刺す。肌に触れる空気は、まるで氷点下に沈んだかのようだった。

 

 そして――霧がふっと切れ、視界が開ける。

 

 そこに広がっていたのは、凍りついた湖の水面だった。

 紅霧に照らされて白銀に輝き、氷の結晶が宙を漂っている。

 まるで世界そのものが凍結したかのような異様な光景。

 

 その中心に、彼女はいた。

 

「……チルノ」

 

 魔理沙が呟く。

 

 青い髪に、小さな背。氷の羽を背負い、幼い顔立ちの妖精――湖の主、氷精チルノ。

 だがその瞳は、紅い輝きに塗り潰されていた。

 

「ひ、ひゃはは……あははははっ!」

 

 無邪気な笑い声。しかしそこに理性の影はない。

 手を振るたび、氷の刃が無作為に放たれ、湖面を削り取っていく。

 砕けた氷片が紅霧に反射し、血のような赤を散らす光景は――あまりにも禍々しい。

 

「これは……」

 

 思わず息を呑んだ。正気の沙汰じゃない。

 

「止まれッ!」

 

 霊夢が声を張り上げる。しかしチルノは反応を示さず、むしろ俺たちに気づいた瞬間、その紅い瞳をぎらりと光らせた。

 

「きたぁ……! もっと遊んでやるぅっ!」

 

 彼女の小さな手が振り下ろされ、無数の氷弾が四方八方へ弾け飛ぶ。

 咄嗟に避ける霊夢と魔理沙。俺も霊力の翼を全開にしてかわす。

 だが、その姿に俺の胸は強く揺さぶられていた。

 

(……このまま二人に任せたら、いつも通り異変は解決するだろう。でも――)

 

 目の前で暴走する妖精を、ただ見ているだけでいいのか。

 紫の言葉が頭をよぎる。

 ――幻想郷は遊び場ではなく、理に従って均衡を保つ場所だ。

 

 ここで一歩を踏み出さなければ、俺の存在に意味はない。

 

「……霊夢、魔理沙」

 

 俺は声を張った。

 

「ここは……俺にやらせてくれ!」

 

 二人が同時に振り返る。霊夢の眉がわずかに動く。

 

「……あんたに?」

「無茶言うなよ。あいつは“ただのチルノ”じゃない。今のはヤバいぜ」

「分かってる。でも……俺だって戦うためにここにいるんだ!」

 

 胸の奥から言葉が溢れた。

 

「危なくなれば、すぐ交代する。だから――挑ませてくれ!」

 

 沈黙のあと、霊夢と魔理沙は短く視線を交わした。

 そして、霊夢がふっと息を吐く。

 

「……分かった。くれぐれも無茶はしないように」

「しょうがないな。やられても助けてやるからな!」

 

 二人の承諾に、胸が熱くなる。

 俺は大きく息を吸い、チルノへと向き直った。

 

「……来いよ、氷精!」

 

 紅い瞳のチルノが、妖しく笑う。

 そして、凍てつく気配と共に――初めての弾幕ごっこの幕が上がった。

 

 

 氷精の小さな体が宙を舞う。

 紅い瞳の輝きと共に、彼女は声高に叫んだ。

 

「雹符――《ヘイルストーム》!」

 

 瞬間、視界が白と青の粒で埋め尽くされる。

 無数の氷塊が乱舞し、まるで天地が逆巻く吹雪のようだ。

 一発一発の威力は軽い。しかし、その数と広がりは圧倒的だった。

 

「ぐっ……!」

 

 霊力の翼を広げ、左右へ身を翻しながら、俺は氷弾の隙間を縫うように飛ぶ。

 頭上をかすめるたび、氷塊の冷気が肌を切り裂くようだった。

 背後で「やるじゃん!」と魔理沙の声が飛ぶ。だが余裕などない。

 

(紫の言葉を思い出せ。大事なのは“見栄え”じゃない、“理”を守ることだ……!)

 

 俺は左手を振り上げ、霊符を展開。光弾を連射し、氷の壁を削っていく。

 だが相手は妖精――小さな身体で縦横無尽に飛び回り、俺の弾幕を掻い潜ってはまた氷をばらまく。

 

「はははっ! もっと避けてみなよ!」

 

 無邪気な声。だがそこに宿る紅の光は、底知れぬ狂気を孕んでいた。

 

 

 第一波を凌ぎきった刹那、チルノはさらに霊力を膨らませる。

 

「凍符――《パーフェクトフリーズ》!」

 

 湖面から一気に冷気が噴き上がり、空間そのものが凍りつく。

 次の瞬間、無数の氷弾が“静止”した。

 

「なっ……!」

 

 飛翔の最中で硬直する感覚。空気が凍り、動きが奪われる。

 氷弾は宙に留まり、まるで檻のように俺を取り囲む。

 

「動けない……!?」

 

 体を必死に捻るが、動作が遅れる。

 

 氷弾が一斉に解き放たれ、襲いかかる。

 間一髪、俺は霊力を爆発させ、狭い隙間をこじ開けるようにして脱出した。

 

「はっ……あっぶねぇ!」

 

 額に冷や汗。もし反応が一瞬でも遅ければ、氷の檻に貫かれていただろう。

 霊夢の声が響く。

 

「踏ん張んなさい! 妖精相手に遅れを取ったら笑われるわよ!」

 

 言葉に奮い立たされるように、俺は再び光弾を放つ。

 チルノはケラケラと笑いながら、また氷を振りまく。

 

 

 やがて空気がさらに張り詰める。

 チルノの背から、鋭利な氷結晶が放射状に広がった。

 

「雪符――《ダイアモンドブリザード》ッ!」

 

 吹雪が暴風のように渦巻く。

 それはもはや“弾幕”ではなく、“世界そのものが氷雪に覆われる”光景だった。

 無数の雪弾が視界を埋め尽くし、上下左右の区別すらなくなる。

 

「くそっ……!」

 

 必死に避けるが、四方から押し寄せる白銀の壁に追い詰められていく。

 霊力の翼は限界に近く、肩で荒く息をつく。

 

「もうおしまいだぁっ!」

 

 チルノが笑い、氷嵐を叩きつける。

 俺は咄嗟に霊符を掲げたが――雪弾の奔流は止まらない。

 光も音も飲み込まれ、世界が凍り付こうとする。

 

(……ダメだ、このままじゃ……!)

 

 絶体絶命のその時――頭の奥で、紫との対話が蘇る。

 

 ――「スペルカードは、力を誇示するためのものじゃない。理を示すための“名”よ」

 

(そうだ……俺にも、試作のカードが一枚……!)

 

 ポケットに差し込んでいた護符を握る。

 ここで使わなければ、意味がない。

 

「……頼むぞ!」

 

 声を張り上げる。

 

「飛剣――《翔霊波》!」

 

 次の瞬間、孔雀緑の光が俺の手元から奔り出た。

 鋭く、一直線に。

 吹雪を裂き、氷弾を飲み込み、紅霧さえも押し退けるかのような光波。

 

 チルノの放った《ダイアモンドブリザード》の嵐が、緑の閃光に呑まれていく。

 天地を震わせるほどの一閃が、湖上を支配する。

 

 残響と共に、光が静かに収まった。

 

 紅い瞳のチルノは――その場で力なく崩れ落ちていた。

 

 

 静寂が戻る。

 氷の破片がぱらぱらと降り注ぎ、凍てついた空気の中に残響だけが尾を引いていた。

 

「チルノちゃんっ!」

 

 真っ先に駆け寄ったのは大妖精だった。彼女は膝をつき、ぐったりとした小さな体を抱き上げる。

 チルノの紅い瞳はすでに消え、ただ深い眠りに落ちたかのように安らかな顔をしていた。

 

「よかった……よかったぁ……!」

 

 大妖精は涙を滲ませながらも、ほっと息をつく。その声には、張り詰めていたものが解けていく温かさがあった。

 

 その光景を見届けた霊夢は、ふうっと肩の力を抜く。

 

「……やるじゃない。初めてにしては上出来ね」

 

 魔理沙も隣で腕を組み、にかっと笑う。

 

「ほんとになー。後ろから見てるだけかと思ったら、意外とやるじゃん。あれは驚いたぜ、創英」

 

 俺は息を荒げたまま、手に残る符の感触を確かめた。

 手の震えはまだ止まらない。だが胸の奥には確かな実感があった。

 

(……これが、弾幕ごっこ……。ただの遊びじゃない。理を示す戦いだ。そして俺は……その一端に、確かに触れたんだ)

 

 紫との会話が頭をよぎる。

 “理を示すための名”――スペルカード。

 その意味を初めて理解した気がした。

 

「でもさぁ」

 

 魔理沙が肩を叩く。

 

「あんまり調子には乗るなよ? さっきのは一か八かの大博打だ。もうちょっと“避ける”練習もしなきゃな」

 

 霊夢も冷ややかに付け加える。

 

「そうね。幾ら遊びとは言えども、これは本気の”遊び”よ。当たり所が悪ければ本当に死んでしまう事だってある。肝に銘じておきなさい」

「……ああ、分かったよ」

 

 俺は苦笑しながらも深く頷いた。

 

 大妖精はチルノを抱きしめ、涙ぐみながらこちらに頭を下げる。

 

「ありがとうございます……! チルノちゃんを、止めてくれて……!」

 

 その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。

 彼女を救ったのは俺じゃない。霊夢や魔理沙の支えがあったからだ。

 だがそれでも――今の戦いは、確かに俺自身のものだった。

 

(次も、俺はきっと戦う。この紅霧の異変に潜む“影”を見届けるために――)

 

 霊夢が前を見据える。

 

「さ、休んでる暇はないわ。次は湖の奥……。この霧の根源を叩きに行くわよ」

 

 その声に、俺は静かに頷いた。

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