紅魔館の妖精メイドの中でも、とびきり強い娘です。
◆◇◆◇◆◇◆◇
美鈴の拳が紅を裂く。
空気が爆ぜ、視界の端が歪むほどの衝撃波を生じさせる。
放たれる弾幕は花びらのように優雅で、だが同時に鋼鉄の雨のように重く鋭かった。
そうして美鈴の拳が風を割るたびに、紅い気弾が生まれ、それが蛇のように軌道を描いて迫ってくる。
(くっ……! 速ぇ……!)
身体を傾け、背を反らし、足先で踏み切る。
ほんの数寸の差で拳を避けるたび、衣が裂け、頬をかすめる風が皮膚を切った。
避けているつもりでも、避けきれていない。薄皮一枚を掠めるたび、神経が悲鳴を上げた。
美鈴の動きには一切の淀みがない。
あれは、もはや武術の域を超えた“舞”だった。
拳と弾幕が連動して、流れるように攻守を切り替える。目に見えているのに、追いつけない。
(まずい……このままじゃ、押し切られる……!)
自然と息が荒くなる。動き続けていて酸素が足りないせいか、肩が重く感じられる。
霊力の流れが乱れていくのを自覚するたびに、焦燥が喉を焼くように広がっていく。
回避のたびに視界がぶれ、もう一発でもまともに食らえば終わりだと、俺は直感した。
「どうした? さっきの勢いはどこへ行ったのかしら?」
美鈴が微笑む。その声には嘲りも挑発もない。ただ、純粋な武人としての興奮が滲んでいた。
俺は奥歯を噛み締め、己の鼓動を聞いた。
(焦るな……焦るな時崎創英……まだ負けと決まった訳じゃないんだ)
幾度目かの回避のあと、足場を蹴って一度距離を取る。
息を整え、相手を見据える。
紅い気を纏うその姿は、まるで炎を宿した守護神のようだった。
(こいつ……ほんとに門番なのか? まるで怪物じゃないか)
余りの強さと圧力に怖気付きそうになる。だがそれでも、退く気はなかった。
この一戦で何かを掴まなければならない。
紫にも、霊夢にも、魔理沙にも……阿求や慧音先生や村の子供たちにも、胸を張れる自分でなければならない。
拳が再び風を切る。
その瞬間、俺は全神経を戦場に注ぎ込んだ。
◆
息を吐くたび、喉が焼ける。
肺の奥が熱く、腕は重い。足の筋肉が悲鳴を上げる。それでも――まだ倒れるわけにはいかない。
(くそっ……何も見えてこねぇ。でも、何かがきっとあるはずだ)
乱れた息を整えて、再び美鈴に向き合う。目を細め、視界のすべてを研ぎ澄ませた。
風の流れ、霊力のうねり、足の踏み込み――その全てを意識の奥で反芻する。
美鈴が踏み込む。
その瞬間、空気が裂ける音と共に、紅の拳が閃く。
弾幕がその拳を守るように、花弁のように散り、広がり、そして――一瞬だけ、弾幕が薄くなった。
(今のは……!?)
一拍ほどのごく僅かな時間。
それは刹那と呼ぶに相応しいが、わずかに、だが確かに、攻撃の瞬間だけ――弾幕の密度が落ちている。
拳を繰り出すために、美鈴は一瞬だけ気弾の制御を手放す。その瞬間に“風の穴”が生まれていた。
自然と吊り上がる唇を抑え、己の掌を見つめる。
紅い弾幕の中、淡い風の流れがわずかに生まれていたのだ。
それは空気の乱れ。攻撃と同時に起こる“無風の間隙”だ。
ただし、気づいたからといって容易く狙えるものではない。
攻撃の瞬間を読み、距離を詰め、霊力を爆発させなければ届かないのだ。
それでも――俺の目は、確かな希望を捉えていた。
美鈴の拳が再び煌めく。
俺は避けながら、頭の中でそのリズムを刻み続けた。
一歩、二歩、三歩――打撃の呼吸、霊力の波動、弾幕の拡散と収束。
(……やっぱりだ。攻撃の“瞬間”だけ、流れが乱れてる。そこに、隙が生じている……!)
唇が僅かに震え、笑みに変わった。
額の汗が滴り、足元の石畳に落ちて弾ける。
(いいじゃないか……見えてきたぞ、勝ち筋ってやつが!)
目の前の美鈴は、ただ静かに拳を構えていた。
その姿は、まるで泰山の如く。揺るがぬ気迫が空気を圧する。
だが俺の心には、もはや恐怖ではなく――確かな“希望”が宿っていた。
しかし……それでも、その希望は儚く揺れる灯火の様な小さなものだった。
息が苦しい。肺の奥で空気が焼けるようだった。
動き続けなければ、即座に潰される。だが――動けば動くほど、限界へと近づいてゆく。
俺はひたすらに、拳と弾幕の嵐を避け続けた。
右からの掌底、左からの蹴撃。紅い弾幕がそれに合わせて軌道を描き、まるで華のように咲き誇る。
その一枚一枚が、花弁ではなく“殺意”の象徴の様にすら思えた。
(近ぇ……! くそっ、やっぱり防戦一方じゃ埒が明かねぇ!)
すれすれでかわすたび、頬や腕をかすめる弾幕の熱が肌を焼く。
薄皮一枚。あと数ミリ踏み込みを誤れば、致命傷だ。
それでも退かない。
退けば終わる。
退けば、“何も掴めない”。
(あのタイミング……奴が踏み込む瞬間の、弾幕が薄くなるタイミング……そこしか突破口はない!)
自分に言い聞かせながら、何度もパターンを確認する。
リズムは掴んだ。問題は、いつ仕掛けるか――それだけだ。
気を抜けば、即座に叩き伏せられる。
それでも、頭の奥では冷静な思考が渦巻いていた。
脈拍の音、呼吸の間隔、霊力の波。全てが自分の内側に同調していく。
(焦るな……今じゃねぇ。もう少し、もう少しだけ引きつけるんだ……)
美鈴の姿が揺らぐ。
高速で間合いを詰めてくるたびに、赤と青の弾幕が入り乱れる。
だが、俺の視線は一点に集中していた。
――拳を繰り出す直前、あの“静止の瞬間”を待つために。
その刹那を逃さないために、俺は被弾覚悟で動きを止めなかった。
肩口に弾が掠める。熱と痛みが走る。だが、気にも留めない。
「はぁっ……はぁっ……! まだ……だ……!」
霊力を溜める。胸の内で渦を巻くように、風が蠢いた。
流れるような空気の流れ――その中に、俺は確信を見出す。
(来る……今度こそ、“あの瞬間”だ!)
美鈴の霊力が一段と膨れ上がる。
紅の光が濃くなり、次の一撃にすべてを懸ける気配が走る。
俺は拳を握りしめた。
呼吸を整え、視界を狭め、ただ一点に集中する。
鼓動が一瞬、静止する。
(ここだ――!)
美鈴が踏み込んだ瞬間、風が止まった。
その一撃は、まるで世界ごと沈黙させるかのような速度と重さを帯びていた。
鮮紅の拳が閃光のように伸び、空気が悲鳴を上げる。
「っ――!」
紙一重……否、避けきれなかった……ッ!!
肩口をかすめた衝撃が肉を裂き、熱い痛みが走る。
だが、俺は決して目だけは逸らさなかった。
視界の隅――攻撃の直後、美鈴の弾幕が一瞬だけ薄らぐ。
(……今だッ!!)
脊椎が軋み、霊力が弾けた。
胸の奥に溜めていた気配が一気に解き放たれる。
手の中の白紙のスペルカードが震え、眩い光を帯びて色づいていく。
――これは俺自身の“理”だ。
戦いの中で見出した、美しさと気迫の調和。
その理を今、この場で刻み込むッ!!
「スペルカード――鎌鼬《斬滅風刃》ッ!」
風が唸りを上げる。俺の周囲に、無数の花弁の形をした弾幕が舞い上がった。
それらは次の瞬間、鋭利な刃へと変わり、空気そのものを切り裂いてゆく。
“第一波”――斬撃の奔流。
真空を生むほどの強烈な風圧が前方へ弾け、紅い弾幕を一掃する。
だが、美鈴はその嵐の中で笑った。
「良いスペルだけど、読みやすいッ!!」
その言葉通り、彼女は身を低くして風と花の刃をかわす。
足元を滑るように動き、拳を振り上げようとする――だが。
「まだ……終わっちゃいねぇ!」
叫ぶと同時に、周囲の空気が“戻る”。
弾き出された空気が一気に圧縮され、引き戻しの奔流を生む。
真空状態から元に戻ろうとする力――それが、“第二波”だ。
「――ッ!?」
バランスを崩し、動きが鈍る。
凄まじい風圧を不安定な姿勢のまま背後から受けた美鈴は、その瞬間――逆圧によって、一瞬だけ身動きが取れなくなったのだ。
その隙を逃さず、風と花の刃が収束し、光の集中線となって一点に奔る。
――キィィィィィィィンッ!!!
鼓膜を劈く程に、鋭く風が咆哮する。
紅と蒼の残滓を巻き込みながら、閃光が美鈴を包み込んだ。
轟音――そして、静寂。
舞い散る花弁の中で、美鈴は膝をついていた。
その表情に敗北の悔しさはなく、むしろ晴れやかな微笑みが浮かんでいた。
「……やるじゃない。見事な“気”の扱いね」
霊力の残滓が風となって周囲を流れ、先ほどまでの殺気を洗い流していく。
俺は息を切らせながらも、ゆっくりと風花を下ろした。
「……ありがとう。アンタの拳から、沢山のことを学ばせて貰った。戦いってのは――こうして“噛み合う”もんなんだな」
美鈴は軽く笑い、頭の後ろで手を組む。
「ふふっ。まさか、ここまでやるとはね……。どうやら門番失格かな」
「いや……アンタは強かった。勝てたのは、運もあったと思う」
そう言うと、美鈴は首を振り、少し寂しげに呟いた。
「通っていいよ。アナタは、この先へ進む資格がある」
地に膝をついたままの美鈴は、微笑を浮かべ、肩で小さく息を整えている。
激しい戦いの痕跡が彼女の頬に刻まれていて痛々しいが、それ以上にその眼差しは凛としていて、どこか清々しい。
戦いの余熱が消えていく中で、俺は無意識に深く息を吐いていた。
「悪いな。門番としては、俺なんか通すわけにいかないんだろうけど……」
「いいのよ。門は破られてないし、負けは私の責任だもの」
美鈴は、まるで晴れ渡る空でも見上げるように笑って言った。
「それに――あの二人を通した時点で、もう私の役目は終わってたのかもしれないね」
あの二人。
霊夢と魔理沙のことだ。
やはり、美鈴はすべてを分かった上で俺たちを迎え撃っていたらしい。
俺は無言で頷いたあと、ゆっくりと風花を鞘に納めた。
風が吹き抜け、紅い霧の中で、門の装飾が静かに鳴る。
「……一つ聞かせてくれ」
「ん?」
「アンタ、あの二人をあえて通したんじゃないのか?」
問いに、美鈴はほんの一瞬だけ目を伏せた。
だが、すぐにいつもの柔らかな笑顔を取り戻す。
「門番ってのはね、ただ守るだけの役じゃないんだよ」
彼女はそう言いながら、立ち上がる。
その姿は、戦いの傷を感じさせないほど凛としていた。
「通すべき人間と、止めるべき人間を見極めるのも、門番の仕事さ」
その言葉に、俺は苦笑するしかなかった。
「さぁ、もう行きな。紅魔館の中は――そう簡単には進ませてくれないと思うけどね」
そう言って軽く手を挙げた彼女は、霧の向こうに佇む紅い館を見つめた。
その瞳の奥に、どこか誇らしげな光が宿っていた。
「……忠告ありがとう。気を引き締めていくよ」
短く言葉を残し、俺は館の門をくぐった。
◆
中は薄暗く、外とは比べものにならないほど冷たい。
石造りの廊下は長く、どこまでも続いているように見えた。
(紅魔館……まるで霧の巣窟だな)
空気が重い。
歩くたび、靴底の音がやけに大きく響く。
――黒幕は、もっと奥にいる。
霊夢がそう言っていたのを思い出す。
俺は風花に手を添えながら、階段を降りようと足を向けた。
だが、その途中で――風が逆流した。
まるで見えない“気流”が通路の奥から吹き抜ける。
空気が震え、蝋燭の炎が揺らぐ。
(……風、だと? 館の中なのに?)
肌が粟立つ。
ただの自然現象ではない。
霊力を帯びた、確かな“風の気配”。
次の瞬間、不気味な程に静まり返っていた階下から、一筋の翠光が閃く。
そして――”それ”は現れた。
金髪に映える薄緑の瞳を持った整った顔立ちに、背に透明な翅を揺らめかせた一人の少女。
可愛らしいメイド服とはまるで対象的なその気配は、他の妖精とは明らかに異なっている。
冷ややかで、研ぎ澄まされていて――まるで、風そのもののように思えた。
「……俺の名は時崎創英。この霧を止めに来た者の一人だ。アンタは?」
俺が問うと、少女は一歩前に出て、深く一礼した。
その動作には、品と規律が宿っている。
「――ラッシュ・ホルン。紅魔館の妖精メイドが一人です」
名乗りながらも、彼女の目は鋭い。
俺を測るように、静かに、しかし確実に“敵を見る目”で見据えていた。
「館への侵入者ですね。ここから先は、通すわけにはいきません」
声は冷たい。
けれど、その背後に揺れる風は、何かを訴えかけるように震えていた。
(……なるほど。前回は氷の妖精だったが、今回は風の妖精か)
俺は風花の柄に手を添え、静かに身構える。
再び、紅魔館に新たな戦いの風が吹き荒れようとしていた。