◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「館への侵入者ですね。ここから先は、通すわけにはいきません」
言葉の終わりと同時に、彼女の足元から風が立ち上がる。
まるで地を蹴る前に大地が先に震えるかのような、異様な気の波。
次の瞬間、視界が一瞬白く弾け――俺の頬を何かが掠めた。
(……っ!?)
頬に熱い線が走る。指で触れると、血が滲んでいた。
いつ放たれたのか分からなかった。それだけで、“只者ではない”と俺は悟る。
ラッシュが構えを取る。
腰を落とし、右の掌を前に、左の拳を胸元に引く。
風格はまるで武人のそれであり、流麗で、無駄が見当たらない。
この館には一体どれ程の武闘家が居るんだ――そんな思考が過ぎったその瞬間、館の空気が一変した。
重かった空気が、一気に軽くなる。いや――“奪われた”のだ。
「――参ります」
――これは警告ではない。宣告だ。
彼女が風を集め、廊下全体の気流を掌握したのだと理解した時には、既に行動は終わっていた。
身体を捻り、その場から退く。直後、空気が爆ぜた。
同時に、彼女の手刀から放たれた風の刃が一直線に迫ってきた。
「ちぃっ!」
間一髪でかわす。背後の壁が切り裂かれ、破片が飛び散る。
視界の端で風が流線を描くき――残像が残るほどの速さで、ラッシュが間合いを詰めてきた。
拳が唸る。
風を纏った拳撃は弾幕と同時に襲いかかる。
拳が通るたびに空気が破裂し、散弾のように霊弾が飛び散る。
その全てが風の流れに乗って、正確に俺を狙ってくる。
(……なるほど、“風で誘導してる”ってわけか!)
霊力で翼を編み、身体を浮かせて回避しながら弾幕を展開して応戦する。
蹴った床板が風圧で割れ、破片が上昇気流に巻き上げられる。
それを弾幕の一部として利用しながらラッシュへ放つ。
対するラッシュは目の前で空を舞い、その尽くを回避してみせた。
その身のこなしは、まるで風に乗る鳥のように、軽く、速い。
「我が主に仇なす者には――ここで、止まってもらいます!」
風がうねる。
拳が、足が、空を裂く。
紅い廊下の中で、彼女の霊力が光となって舞う。
その軌跡は美しく、だが確実に害意を孕んでいた。
(強い……けど、落ち着け。美鈴の時と同じだ。風の流れを見ろ!)
俺は風花を抜き、霊力を巡らせた。
刀身が共鳴するように唸り、気流がざわめく。
風と風がぶつかり合い、紅魔館の廊下が鳴動する。
互いの力が交わるその一瞬に、火花が散った。
風花の刃が、彼女の拳と交差する。
鋼の音はない。ただ、空気が裂ける音だけが響く。
それはまさしく――弾幕格闘の幕開けだった。
◆
風が鳴る。空気を斬る音が耳を劈く度、怖気が走る。
だが俺の身体は、もうそれ以上竦むことはなかった。
美鈴の拳を相手にした時の、あの呼吸と間合いが、俺の全身に刻まれていたからだ。
(焦るな……風を見ろ。風の流れを読むんだ)
ラッシュの拳が空を穿つ。
風圧が弾け、無数の霊弾が螺旋を描いて放たれる。
それは乱射ではない。緻密な構築。
まるで風そのものが彼女の意思で形を変えているかのようだ。
――けれど、その“流れ”が俺には見え始めていた。
踏み込みと同時に身体を沈め、風の隙間を抜ける。
風弾の一つを風花の腹で弾き、旋回しながら背後を取る。
霊力を纏わせた刀身が風を裂き、ラッシュの背へ迫った。
だが、彼女は振り返らずとも察知していた。
その身体がまるで紙のように滑らかに横へ流れ、すれ違いざまに掌打が飛んでくる。
風の拳。空気が圧縮され、目には見えぬ衝撃波が襲う。
俺は掌打の軌道を読み、最小限の体捌きで躱す。
風圧が耳の横をかすめ、背後の壁を粉砕する音が響いた。
確かに一撃一撃は鋭い。けれど――決定打にはならない。
ラッシュの目が揺れる。
焦りと戸惑い。その奥に、わずかな動揺が見えた。
「何故……当たらない?」
「“風”ってのは、流れだ。流れは読めれば、掴めるもんだ」
俺の言葉に、ラッシュの眉が僅かに動く。
その表情は、どこか人間らしい驚きを帯びていた。
(やっぱり……こいつ、今までに見てきた妖精とは違うな)
風を操るだけじゃない。思考も速い。判断も冷静だ。
だが――美鈴のような“直感と勢い”が今ひとつ足りていない。
ラッシュの弾幕が広がる。
風弾が、円を描くように複数層で形成され、次々と発射される。
渦巻くような“風の檻”――抜けるのは至難の技。
けれど、俺にはもう見えていた。
風が生まれ、流れ、そして消える“間”。
それこそが――呼吸の隙だ。
風花を振る。
刃が霊力を纏い、緑の残光を引く。
その一閃は風と交わり、弾幕の層を切り裂いていく。
同時に踏み込み、ラッシュの懐へと潜り込んだ。
「なっ……!」
ラッシュの反応が僅かに遅れる。
拳を構えた瞬間には、すでに風花の切っ先が目前にあった。
彼女は後方に飛び退き、風を爆ぜさせて距離を取る。
風圧による慣性を利用しながら、互いに間合いを取り直す。
その一瞬、俺の胸の中に確かな“優勢”の実感が芽生えた。
(やれる……今は、俺が押してる!)
かつての俺なら、何かが見えるまでただがむしゃらに突っ込んでいた。
だが今は違う。風の流れを読み、呼吸の間を感じ、心で捌く。
俺には、戦いが“見えて”いた。
ラッシュは口元を固く結び、再び構えを取る。
その背に吹く風が荒れ狂い、金の髪が舞う。
彼女の視線は鋭く、だがどこか焦燥が混じっていた。
「……貴方、何者ですか?」
「時崎創英。退魔師をやっている。この紅い霧を止めに来た人間だ」
「……なら、やはり――ここで倒さねば」
ラッシュの霊力が膨れ上がる。風が唸り、廊下の蝋燭が全て吹き消された。
闇の中で、彼女の瞳だけが翡翠のように輝く。
その目が、確かに俺を捉えている。
(……何か変だな)
攻撃は正確。けれど――先程よりも、どこか不安定だ。
風の流れが時折、妙に乱れる。
まるで彼女の感情がそのまま気流に乗って揺らいでいるようだった。
(攻めあぐねて焦ってるのか? にしても……いや、違うな。これは……まるで何かを隠してるような……)
戦場に、妙な違和感が漂い始めていた。
◆
風の唸りが、少しずつ変わってきた。
先程までは滑らかで統制されていた気流が、どこか“揺れて”いる。
俺は刃を振るう手を止め、深く息を吐いた。
(……妙だな。さっきまでの方が攻撃が鋭かった)
ラッシュの動き自体は依然として速い。
風を足場にして高速で飛翔し、回転しながら掌底を繰り出す。
けれど――その軌道の中に「ためらい」のようなものがあった。
「……どうした? 本気で来ないのか?」
思わず口をついて出たその言葉に、ラッシュが一瞬だけ目を見開く。
その瞳の奥で、翠色の光がわずかに震えた。
「黙りなさい!」
俺の発言を侮りと受け取ったのか、怒号とともに風が爆ぜた。
空気が唸りを上げ、無数の風刃が雨のように降り注ぐ。
咄嗟に風花を構え、身体を回転させて弾幕を弾く。
霊力の軌跡が円を描き、数発の風弾が切り裂かれて霧散した。
(強い。けど……焦ってるな)
確信が生まれた。攻撃のテンポが確実に乱れている。
先程まで緩急を付けて重ねてきていた弾幕の層が、今では厚くなったり薄くなったりと、統一されていないせいであちこちに隙が生じている。
それは技量の問題じゃない。精神の乱れが風に“映っている”のだ。
俺は一歩退き、構えを下ろした。
ただ、相手を“観る”ために。
ラッシュの眉が吊り上がる。
風の流れが荒れ狂い、金色の髪が乱れた。
「なぜ、反撃しないのですか! 私を……侮っているのですか!」
「違う。ただ――お前の風に、さっきから躊躇いを感じるんだ」
「……何を、言って……」
「技ってのは、心を映す鏡のようなものだ。お前の繰り出す風は強烈ではあるが、最初とは違って今は雑念にまみれている。それが、アンタの技を曇らせている」
ラッシュの瞳が大きく見開かれる。
ほんの一瞬、彼女の霊力が揺らぎ、弾幕がかすかに崩れる。
その隙に、俺は見た。
彼女の胸の内で、確かに“迷い”が渦巻いている。
敵を倒すための戦い――それだけではない、もっと複雑な何かがある。
(……守ってる。恐らく、この館の主とは別の何かを、いや――誰かを)
その瞬間、風が一際強く吹き荒れた。
ラッシュの声が風を裂く。
「この先へは……フランドール・スカーレット様の元へは、絶対に行かせないッ!!」
弾幕が爆ぜ、紅の廊下が一瞬で風嵐に包まれる。
(フランドール・スカーレット……? レミリア・スカーレットではない?)
その叫びには、敵意よりも恐怖に近い響きがあり――その声の奥に潜む切実さが、俺の胸をざわつかせた。
主を守るため、だけじゃない。
まるで“彼女自身が何かを恐れている”ような、そんな響きだった。
(何かがある……こいつ、ただの従者じゃない)
俺は風花を握り直し、弾幕を避けながら心に決める。
(なら、少しでも引き出してやる。焦らせて、喋らせよう)
ここからは力押しではない。
相手の精神を見極める、静かな“探り合い”だ。
――紅魔館の空気が、再び緊迫の色を帯びてゆく。
◆
叫びと同時に、空気が震えた。
ラッシュの全身から吹き出す風が、渦を巻いて俺を包み込む。
その風は鋭く、荒れている。
まるで彼女自身の心がそのまま外へ溢れ出しているようだった。
俺は腕で顔を庇いながら、低く呟く。
「フランドール・スカーレット……? それが、お前の守るべき者の名前か?」
名を呼んだ瞬間、ラッシュの瞳がわずかに揺れた。
図星――その反応が、言葉より雄弁に答えを示していた。
(……なるほどな)
幻想郷中を覆うこの紅い霧。その中心たる存在。
レミリア・スカーレット。美鈴が口にしていた館の主の名前。
だが今目の前にいる妖精メイドが口にした名前は――フランドール・スカーレット。
西洋風味な名前から察するに、スカーレットはファミリーネームであり、フランドールはレミリアの肉親にあたるのだろう。
目の前のラッシュの必死さが、その仮説に重みを与えていく。
あの焦燥と恐怖。あれは、ただの忠誠心ではない。
何かを“庇っている”者のそれだ。それはつまり……
「アンタ……主を守りたいってだけではなさそうだな」
「……何のことですか」
「いや、違うな。守りたいというよりは……“誰かを隠したい”ように見える」
その言葉に、ラッシュの瞳が揺れた。
小さな反応――だが、それで充分だった。
真っ直ぐな視線がぶつかり合う。
空気が再び張り詰め、風が静かに鳴いた。
「黙りなさい……あなたには、関係のないことです!」
風が再び荒れる。
だが、その力はどこか“脆い”。
抑えきれない焦りが、風の制御を決定的に乱していた。
(やはり何かある。単にフランドールを守る以外の何かが――)
俺は一歩、踏み出した。
攻めるでもなく、ただ“見る”ために。
彼女の言葉の裏にある真実を、暴くために。
「俺はただ、霧を止めに来ただけだ。だが……お前の様子を見る限り、これは単なる“異変”ではないな」
「黙れッ!」
叫びと共に、風弾が一斉に放たれる。
暴風が吹き荒れ、瓦礫が舞う。
俺は最小限の動きでそれを避け、真正面からラッシュを見据えた。
――そして気づく。
その目には、怒りも憎しみもない。
あるのはただ、“恐怖”。
(守る為だけじゃない。怯えてるんだ。フランドールって奴のために)
何故だ。
何をそんなにも恐れている?
なぜそこまで、必死に隠そうとする?
疑問が胸を締めつける。
だが、今はまだ聞けない。
きっと彼女は、まだ答える準備ができていない。
(……もう少し、様子を見よう)
俺は風花を納め、呼吸を整える。
攻撃の手を止め、あえて“耐える”方を選んだ。
(強引に攻めても意味はない。なら――疲弊させて、言葉を引き出す)
再び風が吹き、戦いの流れが変わる。
今度は“耐久戦”だ。
剣ではなく、言葉を交わすための時間稼ぎ。
――この戦いの先に、何が待つのか。
その答えを掴むために、俺は再び霊力を巡らせた。