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◆ side:博麗霊夢 ◆
……空気が、重い。
霧のせいだけじゃない。紅魔館の中は、まるで誰かの呼吸を吸い込んで動いてるみたいに、空間そのものが生きている気配をしていた。
外観から見ればただの古びた洋館。
だけど中に入って数歩進んだだけで、廊下の長さも天井の高さも、さっき見た外観と一致しない。
扉の位置もおかしい。さっき右にあったはずの通路が、いつの間にか左に移っている。
(空間が歪んでる? いや、これは……)
博麗神社の結界でも似たような感覚を味わうことはある。
けれどこの館の歪み方は、もっと精密で、意図的だ。
まるで、誰かが“秩序そのもの”を作り替えてるみたいに。
(誰かが空間を操っている。つまり、この中には“管理者”がいるってわけね)
私の靴の音が床に吸い込まれるように響く。
霧のせいで空気が湿っていて、肌に冷たさが張り付く。
紅い絨毯に、銀色の燭台。
廊下の先には、規則正しく並ぶ扉たち――けれどどれも同じ模様で、罠のようにも見える。
壁に掛けられた肖像画はどれも紅い瞳の人物ばかり。
その視線が、通り過ぎるたびにわずかにこちらを追う。
燭台の炎は形だけで熱を感じない。生者の温度を拒むような冷たい明かりに、豪奢なのにどこまでも死の匂いがする。
――整いすぎている。
無駄のない配置も、計算された陰影も、まるで“人間の居場所”を最初から否定しているみたいだった。
(こんな館に長くいたら、気が滅入りそうね)
魔理沙とは別れて行動している。あっちは多分、好き勝手に騒ぎながら探索してる頃だろう。
……まぁ、あの子がいれば、何かあっても派手に騒いでくれる。音がした方に行けばいいだけの話だ。
(それにしても……静かね)
音がない。
風も、足音も、何も。
まるで館全体が息を潜めて、私を観察しているような……そんな気配。
壁際の鏡に自分の姿が映る。
その隣には立てかけられた古い時計があり――その針は止まったままで、今は一ミリも動かない。
そんな様子に、誰かが「時の流れ」さえ飾りにしているように思えて、背筋が薄ら寒くなった。
「……悪趣味ね」
そう呟いたのは、飾り立てられた“静止した美”に、どうしようもない違和感を覚えたからだった。
この館は生きていない。けれど、死んでもいない。
時間と空間の狭間で、ただ“飾られている”――そんな感覚が胸に引っかかった。
そうして、思わず独り言が漏れたその瞬間だった。
背後で空気が動いた。
風も音もなかった。
ただ、いつの間にか“いた”。
それが、次の瞬間には私の目の前に現れる。
結われた銀の髪が微かに揺れていた。
青と白のメイド服。整った仕草。無表情な瞳。
そして手には――銀色に光るナイフ。
「お客様、でしょうか?」
声は静かで、氷のように冷たかった。
気配を殺していたはずなのに、どうやって背後を取られたのかすら分からない。
いやそれ以前に、どうしてここまで接近されるまで気付けなかったのか。
得体の知れないモノを感じた私は、一歩下がりながら視線で相手を探る。
この女、動きが人間の範疇じゃない。
魔力の揺らぎも、妖気もない。
まるで“存在そのもの”が削ぎ落とされたみたいに、輪郭が曖昧だ。
「博麗の巫女……ですね」
「そういうあんたは?」
「紅魔館のメイド長――十六夜咲夜と申します」
その言い方には、礼儀も、敵意も、同じ分量で混ざっていた。
彼女は軽く一礼すると、微笑のようなものを浮かべて言った。
「この館の時間は、お嬢様のためだけに流れます。外から来た者は、ここで立ち止まってもらいますわ」
「時間……ね」
妙に引っかかる単語だ。
さっきから感じていた違和感――それは空間の歪みじゃなく、“時間”そのものの流れ方が違っているせいかもしれない。
だから外観と内部が一致しなかったのか。
私は溜息をつき、袖からお札を一枚抜き取った。
それを見た咲夜が一歩前に踏み出す。
その一歩が落ちた瞬間――空気が歪んだ。
床が軋んだのではない。
“世界”が、軋んだ。
――チリ、と小さな金属音。
気づけば、目の前に十数本のナイフが浮かんでいた。
動いた気配がなかった。
まるで、時間そのものが抜け落ちたみたいに、何もない空間からナイフが現れた。
「では――お嬢様の代わりに、この私が手ずから歓迎して差し上げますわ、博麗の巫女」
笑みとともに、ナイフが一斉に放たれた。
私は反射的に符を投げ、結界を展開する。
金属と霊力がぶつかり合い、火花が散る。
「……歓迎って言うなら、もう少し穏やかにしてほしいものね!」
声を張りながら、私は確信する。
この女――十六夜咲夜。
空間を操っているだけではない。
“時間”をも支配している。
そして、今この館全体の歪みを生み出しているのも――間違いなく、彼女だ。
◆
「スペルカードルールに則り――五枚で勝負いたします」
その声音はまるで儀式の口上のようで、澄み切っていた。
私もため息をひとつ吐いて、袖から二枚の符を取り出す。
「……二枚で十分よ」
咲夜が目を細める。
瞬間、霧の中にきらめく刃が浮かんだ。
「奇術《幻惑ミスディレクション》!」
宣言と同時に、視界が歪む。
光が割れ、私の周囲に“咲夜”が十人、二十人と現れた。
全員が同じ呼吸、同じ角度でナイフを構えている。
(幻覚? いや、違う……時間差で作られた残像ね)
私は即座に札を展開して陣を形成し、足元に滑らせる。
札による陣が輝くと周囲の霊力の流れが止まり、幻影の一部が霧散する。
残った三人の咲夜が同時に手を振ると、銀の雨が降った。
床を跳ね、壁を掠め、反射したナイフが八方から迫る。
(……くっ、立ち位置を完全に把握されてる)
跳躍、滑空、回転。
札を投げ、弾幕を描き、衝突の一瞬を潜り抜ける。
紙一重のすれ違いの中、ナイフの軌跡が頬を裂いた。
「流石ね。……でも、ここからは本気よ」
咲夜が懐中時計を軽く掲げた。
空気が再び凍る。
「メイド秘技《殺人ドール》!」
世界が閃光に包まれた。
床、壁、天井――あらゆる方向からナイフが飛び交う。
美しい軌跡。だが、その美しさの裏には確かな殺意がある。
私は咄嗟に両手を合わせ、結界の中心を絞り上げた。
「夢符《封魔陣》!」
光が弾け、封魔陣が展開する。
――ガンッ! ガガガガガッ!!
弾幕とナイフが正面衝突。
霊力の壁が波打ち、衝撃が腕を痺れさせた。
「しつこい女ね!」
「お褒めの言葉として受け取ります」
咲夜は微笑む。
しかしその笑みの奥、どこか揺らぎがあった。
「お嬢様のご意志に、私は添うだけ。……けれど、あの方が壊れていくのは見たくない。違う、そうじゃなくて……止めなければ……」
言葉が乱れる。
咲夜の瞳が紅く濁り、光が妖しく脈動している。
(この様子……まさか、創英が言っていた霊石の影響?)
彼女の動きが速くなる。
さっきまでの計算された動作ではない。
“焦り”と“恐怖”が混じった、荒い刃の連続。
「幻幽《ジャック・ザ・ルドビレ》!」
紅い光が廊下を切り裂く。
無数のナイフが曲線を描き、空間そのものが回転しているようだった。
私は床を蹴り、宙を飛び、身体を翻して避けに徹する。
荒れ狂う霊力と風圧が霧を払い、紅の廊下が一瞬だけ露わになる。
そこに、咲夜が立っていた。
その瞳はもう、完全に別の何かを映している。
「……時の流れはお嬢様のもの。誰にも、触れさせない」
「あんた……っ!」
懐中時計が再び光を放つ。
その輝きに、紅い霧が吸い込まれる。
「幻世《ザ・ワールド》!」
咲夜がそう宣言した瞬間――音が消えた。
何も感じない。ただ、視界の端に“結果”だけが刻まれていく。
そして――気が付けば、おびただしい量のナイフが、私の周りを取り囲むようにして浮かんでいた。
「そして――時は、動き出す」
カチリ、と懐中時計を閉じる音が響く。
それが合図となり――ナイフが、殺到した。
壁が裂け、床が抉れ、ナイフが突き立つ。
(……やばい、これ以上は)
私は反射的に符を掴み取る。
集中し、心を一点に絞る。
「霊符《夢想封印》!」
白光。
無数の霊弾が渦を巻き、紅い霧を切り裂く。
爆ぜた光が時間の壁を破り……咲夜の懐中時計に直撃した。
――パリンッ!
金属の破片が飛び散り、弾幕が途切れた。
咲夜が息を呑み、片膝をつく。
懐中時計の表面に、ひびが入っていた。
「……私……は……お嬢様の時間を……」
手を伸ばす咲夜の腕が震える。
瞳の紅い光が弱まり、代わりに涙が零れた。
「違うの……止めたかっただけなの……あの方が壊れていくのを……」
私はそっと札を下ろした。
(大した忠義ね。この子、本気で“守りたかった”だけなんだ)
床に膝をついた咲夜の姿は、もはや戦う者ではなかった。
霊石の輝きがふっと消え、静寂が戻る。
霧の合間より差し込む紅の月が、ゆっくりと廊下を染めていた。
崩れた時計が床に散らばり、針が止まったままの時を刻んでいる。
咲夜はその破片を見下ろし、ひとつ、息を吐いた。
「……私、間違えたのかもしれませんね」
その声はかすれていて、どこか遠くを見ているようだった。
――もう大丈夫か。そう思い構えを解こうとした次の瞬間、咲夜の瞳に再び紅の光が宿る。
「でも……お嬢様のためなら――まだ、戦えます」
霊石の輝きが、再び怪しく脈動を始めた。
懐中時計の壊れた針を握り締め、彼女はふらつく足で立ち上がる。
瞳の輝きがいっそう強く拍動した次の瞬間――彼女は、咆哮にも似た声色で最後の『宣言』をした。
「奇術――《エターナルミーク》!!」
廊下が白光に包まれる。
空気が震え、霧が弾ける。
彼女の宣言により、次の瞬間、世界が“弾丸の雨”に塗り変わった。
数えることすら不可能。方向も軌道も、すべてが無秩序。
そんな白みを帯びた青い閃光が、壁を削り、床を穿ち、天井を砕く。
その弾幕には一片の美しさもなかった。
それはさしずめ狂気の暴風――崩壊の奔流。
後が無いものの最後の抵抗、とでも言おうか。
咲夜の姿はもう見えない。
ただ、霧の紅と光の青、そして弾丸による破砕音だけが、世界を埋め尽くしていた。
私は封魔陣の名を叫びかけて、拳を握りしめた。
もう使えない。ルール上、スペルは撃ち尽くしている。
なら、避け切るしかない。
青い閃光を裂くように、身を翻す。
足元をかすめる弾丸。袖を裂く風圧。
一歩間違えば即被弾。壁や床を砕くこの威力を見る限り、まともに受ければタダでは済まないだろう。
私は歯を食いしばり、身体を低く構える。
流れを読む。空気の乱れ、霧の濃淡、反射光。
視界の端に映る“空白”を縫って跳ぶ。ただひたすらに跳び続ける。
チラと、視線を彼女へ向ける。
我を忘れたかのように繰り出される咲夜の弾幕は、依然として止まる気配を見せない。
それ故か、彼女の口から漏れる言葉も、もう意味を成していなかった。
「お嬢様……お嬢様……止めなきゃ……でも……お守りしなきゃ……!」
青い光がすべてを掻き消していく。咲夜自身の言葉も、想いも。
その忠義心は霊石に歪められ、ねじ曲がった使命だけが今、彼女の身体を突き動かしている。
その様子に舌打ちをしながら、私はただただ跳び続けた。
耐える。
避ける。
ただひたすらに、時間の流れを信じて。
そして――閃光が、ふっと消えた。
あれだけ鳴り響いていた破砕音が消え、砕け崩れた内壁から吹き込んだ外の風が通り抜け、宙に舞った埃や粉塵を押し流す。
咲夜の姿が、その向こうに見えた。
肩で息をしながら、彼女は崩れるように膝をついた。
懐中時計の針が完全に砕け、床に散った。
スペルカードルール。
弾幕を打ち切った――タイムアップによるスペルブレイク。
私は弾幕の余韻の中で、静かに息を整えた。
「……終わりよ。あんたの負け」
咲夜は俯いたまま、微かに笑った。
「そう……ですか。なら、潔く負けを認めます」
拍動していた瞳の光が、今度こそ完全に消えた。
瞳の色が淡く戻り、透き通った青い色が顕になると、頬に一筋の涙が伝う。
「博麗の巫女。どうか……どうか、お嬢様を、救ってください……」
その言葉とともに、彼女は静かに倒れ込んだ。
私はしばらく立ち尽くしたまま、何も言えなかった。
「……はぁ。面倒な事この上ないわね」
ようやく開いた口から、そんな悪態が漏れ出てくる。
そして、廊下の奥――紅霧の源へと視線を向けた。
(……次は、あんたの番よ。レミリア・スカーレット)
足音を響かせ、館の奥へと進む。
紅い月光が、まるで私を招き入れるかのように、暗い廊下を照らしていた。