幻想回帰節   作:北宮 涼

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32の節:紅い霧の異変、後日譚

◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

◆ side:フランドール・スカーレット ◆

 

 目を開けると、天井の木目が静かに横たわっていた。

 ここは地下じゃない。地上の部屋。私のために用意された、新しい場所。

 

 窓には深い庇が据えられていて、朝の光は直接は差し込まない。

 カーテン越しにほどけるのは、柔らかい明るさだけ――それは、夜の名残を壊さない、淡い光。

 壁紙は薄い生成り色で、床板は少し古い色合い。そこに私の寝台と、小さな机。

 窓際には白いレースのクロスを掛けた丸テーブルと椅子が二脚。

 どこか、人の匂いがする。 “暮らすための部屋”の匂いだ。

 

 掛布を外すと、空気が肌に触れた。

 地下の湿り気はない。空気が軽い。

 吸い込むと胸の奥にゆっくり沈んでいく感じが、心地よかった。

 

 ――私は、そっとカーテンを少しだけ開けた。

 庇が影を落とし、窓辺だけが朝の色に薄く満たされる。

 直射の刃は一本も入らない。それは吸血鬼のための工夫なのだろう。

 だけれど同時に、外と私を、無理せず繋ぐための橋の様な……そんなふうにも思えた。

 

 身支度をして扉を開ける。

 廊下の空気が、鼻先をくすぐった。

 磨かれたワックスの香りと、花瓶のラベンダーの匂いが混ざっている。

 歩き出すと、すれ違う妖精メイドが、自然に頭を下げた。

 

「おはようございます、妹様」

「……うん。おはよう」

 

 挨拶が返る。

 たったそれだけで、心の内側がふっと軽くなる。

 以前の私なら、足を止めていたかもしれない。目を合わすのが怖くて、背を向けたかもしれない。

 でも、今日は大丈夫。

 歩幅を崩さず、廊下のカーペットを踏みしめた。

 

「あっ! 妹様だ! おはようございますっ!」

「ごきげんよう、妹様」

「お目覚めになられたのですね、妹様。おはようございます」

 

 行く先々で声を掛けられる。挨拶は、ここでは往来の合図らしい。

 故にこそ、私は往来を歩けていると実感できた。

 紅魔館の“中”を、ちゃんと歩けているんだと。

 

 そうして暫くした後、目的地のひとつであるパチュリーの図書館にたどり着いた。

 図書館の扉を押すと、濃いインクの匂いと羊皮紙の乾いた匂いが波のように押し寄せた。

 背の高い書架が霞のように並んでいる。受付の卓に小悪魔がいて、私に気が付くとすぐに顔を上げた。

 

「妹様。おはようございます」

「おはよう、こあ」

「今日はパチュリー様のご所望で、診立てだけ行うようです。すぐに済むそうですよ」

 

 小悪魔が微笑むと、奥から咲夜が現れた。

 銀のトレイには、湯気の立つポットと二客のカップがあった。

 

「妹様。紅茶をお持ちしました」

「……ありがと」

 

 傍に控える咲夜を見る。彼女が淹れる音は、いつ聞いても静かだ。

 薄絹が水面を撫でるみたいに静かで、でも確かに香りを立てる。

 琥珀色の液体がカップに満ちるあいだ、私は椅子に腰を下ろした。

 

 ほどなくして、ページを閉じる乾いた音が聞こえてきた。

 小さな丸ぶちメガネを掛けたパチュリーが、机の向こうで空中に指先で軽く印を切る仕草をしている。

 視界の端に薄い魔法陣が咲いて、私の周りを一度だけめぐった。

 

「――もう、どこにも影響は見られないわ」

 

 短く、それだけ。

 私の胸の中で、糸を一本外すように緊張がほどける。

 ホッと胸をなで下ろした私は、淹れてもらった紅茶をそっと口に運ぶ。

 ……この紅茶は、香りがよく立つ。スッ……と、喉の奥に温度が落ちる。

 さっきまで“確かめるために飲んでいた”味が、“楽しむための味”に少しだけ変わった。

 咲夜がカップに視線を落とし、目だけで微笑む。

 私も――ほんのわずかに、笑って返した。

 

 図書館を後にして、今度は廊下を抜けて中庭へと向かう。

 自分の日傘は、まだない。だから、今日はお姉様の白い日傘を借りた。

 柄の付け根に赤いリボンが結んであって、持ち手は細い銀。

 布地は真珠みたいな白さで、縁取りのフリルが朝の風にふわりと揺れた。

 

 扉を押して中庭へ一歩踏み出す。影の帯に立ち、傘を軽く開いた。

 布越しの光がやわらかく世界を照らす。バラの葉が薄く透け、緑の筋を浮かべる。

 芝の匂い。湿り気を含んだ土の匂い。遠くで水が落ちる音。小鳥の鳴き交わし。

 

 ――この情景を、私は知っている。

 あの人の……創英の記憶の中で、触れたものと同じだ。

 “外”には、こんなにたくさんの音があって、匂いがあって、温度がある。

 それを、今の私は怖がらずに受け取れている。

 日傘の影の下なら、ちゃんと受け止められる。

 

 そうしてゆっくり石畳を進むと、門の方から足音がする。

 そちらに顔を向ければ、美鈴が熊手を肩に、こちらを見つけて手を振っていた。

 

「妹様。ごきげんよう」

「おはよう、美鈴」

「調子はどうです?」

「うん……悪くないよ」

「それは何より。――そうだ、創英さんなら、ガゼボにいらっしゃいますよ。まだ本調子じゃないみたいですけど、よく外を眺めてて。最近だと、朝の時間帯には何時も居ますね」

 

 ガゼボ――中庭の奥、丸い屋根と白い格子の休み処のことだ。

 私は小さく頷く。傘の柄を握り直し、そちらへ向かった。

 足取りは自然で、心は静か。けど、胸のどこかが、少しだけ早くなる。

 

 日陰から日陰へ、木漏れ日の切れ目を読む。布の上で光が粒になって転がる。

 ――“日常”は、たぶんこうやって続くんだろう。

 地下室の扉のかわりに、庇の影。封印のかわりに、白い日傘。

 触れられなかった世界が、ここでは“やり方さえ選べば”触れられる。

 私は、その方法をようやく手に入れた。

 

 ガゼボの白い柱が近づいてくる。

 中に、人影。椅子に浅く腰掛け、庭の先を見ている少年――時崎創英が、そこに居た。

 彼の頭に巻かれた包帯の白が、風に揺れている。

 

 私は息をひとつだけ整えた。傘の角度を少し傾けて、影を広げる。

 

「――来たよ」

 

 声に、自分でも驚く。小さく、けれど、淀みも迷いもない。

 そんな私の声に、創英がこちらへ顔を向けた。光に縁取られた金髪が淡く光り、紫の瞳がかすかに見開かれて、すぐに柔らかくなった。

 私の胸の内側で、目に見えない何かが静かに定位置へ収まる。

 ここから、話す。ここから、始める。

 

 地下の“静寂”なんかじゃない。

 地上の“静かな朝”のまま――私は、ガゼボの白い階段を上がった。

 

 

◆ side:時崎創英 ◆

 

 ここ最近になって、ようやく紅魔館の様子に慣れてきた。

 どこを見ても必ず目に入る紅に目をやられそうになることもあったが、慣れてしまえば「そういうものか」と流せてしまう。

 人というのは、環境に対する適応力が半端ではないのだと思った。

 

 だが慣れないものだってある。

 この東屋……確か、洋館のモノはガゼボって言うんだったか。

 このガゼボに置かれている木の椅子は思ったよりも硬くて、背中にずっと同じ角度で当たっていると少し痛む。

 外の景色を眺めるには、少し邪魔にも思える痛みだ。

 

 でも、その代わりに風が心地良かった。

 庭を渡る空気は涼しくて、草の匂いが混ざって、時々バラの花弁が一枚だけ揺れて落ちる。

 地下で聞いた暴風の轟きや、耳を裂く咆哮なんて影もない。

 ここは、ただの静かな庭だった。

 

 ……本来なら、人間の里へともう帰っていたはずだ。

 阿求のところへ戻る約束もしていた。

 でも、身体はまだ痛むし、まだ力が入らない。

 無理を押し通した代償は大きく、下手をしたら階段で転びかねないのが今の俺の状況だった。

 だが、それとは別に――どうしても、ひとりで去りたくはないという思いもあった。

 

 気に掛けているのは、あの少女のこと。

 ――フランドール・スカーレット。

 俺が眠っている間、先に目覚めた彼女はまず先に館の皆へと謝って回ったそうだ。

 館の主の妹が従者に頭を下げるという異常事態に、ある意味でパニックが起こりかけたそうだが、それでもとフランは頑なに頭を上げなかったのだそうだ。

 そして同時に、これからいっぱい迷惑をかけるだろうけど、許して欲しいとも述べたのだとか。

 

「根は真っ直ぐで、真面目な子なんだな。ほんとに……何から何まで、絢香にそっくりだ」

 

 従者達からの反応はみな一様であったという。

 

『我々は主にお仕えする身。そのように頭を下げられては困ります。故に――堂々となさって下さい。我々は、そんな主をお支えする影なのですから』……原文ママである。

 今までフランの力に怯えていたのがまるで嘘のような物言いに、変わったのはフランだけでは無いことは容易に想像できた。

 

「一時は敵対こそしたけど、出会い方さえ違っていれば……いや、そんなの言ったって仕方がないか」

 

 そうしてガゼボの天井を見上げていると、石畳を踏む軽い足音が聞こえた。同時に俺の元に影が差す。

 白い布の淡い光――日傘だ。しかも見覚えのある柄。

 そっと顔を上げると、そこにフランがいた。

 

 フリルの付いた可愛らしい紅いドレスに、艶やかに光を反射する金色の髪。

 そして、肩の高さに掲げられた白い日傘。

 その姿は――初めて会ったときより、ずっと柔らかかった。

 

「……来たよ」

 

 小さな声だった。

 けれど、地下の破壊の渦の中で聞いたどの叫びよりも、強い声だった。

 

「おはよう、フラン。調子はどうだ?」

 

 声をかけると、フランは傘を軽く傾けて、影を俺の方へ伸ばす。

 光が当たらないように――まるで当然みたいに。

 

「大丈夫。……もう、怖くないよ」

 

 その言葉を言えた時点で、本当に回復しているんだろう。

 俺がそう思っていると、フランはガゼボに上がり、俺の隣――じゃなく、真正面の椅子に腰を下ろした。

 そして、おずおずといった感じでフランは喋り始めた。

 

「自分の傘ね、まだないから……お姉様に借りてきたの」

「そうだったのか」

「うん。……そのうち、わたし用のを作ってくれるんだって。赤いの。フリルつきで、リボンも……」

 

 そう言いながら、フランはほんの少し笑った。

 その笑顔に、胸がきゅっと締めつけられる。

 あの戦いの後の、気を失う直前に見た、泣き笑いの顔と重なって見えた。

 

 それきり、しばらくは風の音と鳥の声だけが流れていた。

 沈黙は重くない。言葉を探すのに必要な時間みたいだった。

 

 そうしていると、フランがそっと息を吸った。

 

「ねぇ、そーえー」

「うん?」

「その……えっと、ね」

 

 フランの指が、日傘の柄をきゅっと強く握る。

 不安が滲む瞳は、それでもちゃんと俺を見ていた。

 

「あなたのこと、”にぃに”って……呼んでいい?」

 

 言った瞬間、フランの睫毛が小さく震えた。

 勇気を振り絞って、言葉を外に押し出したのが分かる。

 

 胸があたたかくなる。

 泣きたいような、笑いたいような気持ちが、同時に湧く。

 ――考えるまでもない。返事は決まっていた。

 

「ああ、いいよ」

 

 言葉にした瞬間、フランの肩がほっと落ちた。

 

「じゃあ俺も――」

 

 そんなフランに、少しだけ手を伸ばす。

 震えていたフランの手の上に、そっと自分の手を重ねる。

 

「フランのことを、妹として迎え入れるよ」

 

 フランはぽかんとした顔をした。

 そして――くしゃくしゃっと、表情を歪ませた。

 それでも、こみ上げてくるのを必死に堪えながら、小さな声で笑う。

 

「……うれしい。ほんとうに」

 

 日傘の布を通して光が揺れ、フランの金髪に淡い輝きが落ちる。

 ああ、大丈夫。もう大丈夫だ。

 この子はもう、地下で暴走していた化け物なんかじゃない。

 世界に触れたかった、ただひとりの少女だ。

 

 フランは椅子からそっと立ち上がる。

 そして、俺の隣にまで来て椅子に座ると――遠慮がちに、俺の肩にもたれた。

 

 震えている。

 でも、その震えは――恐怖なんかじゃない。

 

「にぃに、って呼んでもいいって……言ってくれたから」

「ああ」

「ちゃんと呼ぶよ。ちゃんと、言うから」

 

 その小さな囁きは、涙混じりの笑い声になった。

 

「――にぃに」

 

 はっきりと、迷いなく。

 

 俺は返事の代わりに、フランの頭をそっと撫でた。

 それだけで、フランはもう泣いていた。

 でも、その表情はとても晴れやかで、明るさの灯る笑みを浮かべていた。

 

 ……この世界に来て、こんな光景を見るなんて思わなかった。

 妖魔は……妖怪は、恐ろしいものだと思っていた。

 実際、妖怪は恐ろしい。恐怖が無いかと問われれば有ると自信をもって言える。

 でも――だからこそ、守りたかった。

 この子だけは、守りたいと思った。

 人とか妖とか関係ない。フランの事を――妹として、守り抜きたい。そう強く想った。

 

 中庭の風が吹く。

 バラの香りが優しく揺れ、ガゼボの白いカーテンを少しだけはためかせる。

 

 “ひとりぼっちの少女”はもういない。

 ここにいるのは――家族になった、最愛の”妹”だ。

 

「なぁ、フラン」

「なぁに?」

「これからは、遠慮なく外に出ろよ。日傘があれば大丈夫だろ?」

「うん。……大丈夫」

「それができるなら、フランはもう――地下の子じゃない」

 

 フランはゆっくり顔を上げた。

 

「ふふ。わたし、地上の子になる」

 

 その言葉は、小さな革命だった。

 風が吹き抜け、二人だけの静かな朝がゆっくり過ぎていった。

 

⸻⸻⸻

⸻⸻

 

 紅魔館に滞在してから、二週間が経った。

 

 体の痛みはまだ残っている。

 深く息を吸うと肋骨が軋むし、重いものを持てば腕は震える。

 だけど、歩くのに杖はいらなくなった。

 階段もゆっくりなら昇れる。

 料理だって片手でできる。

 

 ――そろそろ、里へ戻らないといけない。

 

 フランの事は気掛かりではある。

 だが阿求に「必ず帰る」と言った。

 それならば、約束を果たすべきだ。

 あの子なら――今のフランなら、きっと大丈夫。そう信じることにした。

 

 思い立ったが吉日。俺は掃除中の咲夜さんを捕まえて、声を掛けた。

 

「手紙を書きたいんです。人間の里へ」

 

 咲夜は掃除用の布を畳み、少しだけ目を丸くした。

 

「……お帰りになるのですね」

「はい。長居しすぎましたし、仕事も残ってます。……それに、里に帰りを待ってる人が居るんです」

 

 咲夜は静かに頷き、メモ帳を懐から取り出した。

 

「レターセットをご用意しますわ。上階の応接間でよろしいですか?」

「はい。お願いします」

 

 咲夜は一度姿を消し、すぐに銀のトレイに手紙道具一式を載せて戻ってきた。

 

 白い便箋に、墨の濃い万年筆。

 丁寧に整えられた封筒には紅魔館の紋章が押されていた。

 

「ありがとうございます」

 

 咲夜が椅子を引き、その場を離れようとした時――廊下の奥から、軽やかな足音が聞こえてきた。

 

「手紙?」

 

 レミリアが現れる。

 いつもの余裕の笑みではなく、少しだけ寂しさを隠したような横顔。

 

「……ええ。そろそろ戻らないと」

「そうね。フランの傍にいる間、あなたも十分に無茶したもの。里の方でもきっと――」

 

 一呼吸置いて、レミリアは俺を見た。

 

「待っている子が、居るのでしょう?」

 

 俺は微かに笑った。

 

「ええ」

「で、今日はどこへ行くつもり?」

「図書館に。パチュリーさんへ挨拶と……あとは、小悪魔さんに礼を言いに」

 

 レミリアは小さく肩をすくめて笑った。

 

「まったく……律儀な人間ね。いいわ、咲夜。手紙ができたら、里へ届けておきなさい」

「かしこまりました、お嬢様」

 

 それで、この場は収まる――と思った。

 だが、レミリアはそこにひとつ付け足した。

 

「……創英。その手紙を出した後、時間はある?」

「まだ少しなら」

「そう。なら厨房に行くといいわ。あなたが元気なうちに、みんなに食事を振る舞いなさい」

「え?」

 

 思わず顔を上げる。

 レミリアは表情を崩さないまま言い切った。

 

「貴方のことだし、私達に恩返しをしたいのでしょう? なら、言葉よりも食事の方が伝わるものよ」

 

 ……あぁ、この吸血鬼は本当に鋭い。

 

「ありがとうございます。使わせて頂きますね」

「美味しい料理を待っているわね。咲夜、案内して」

「かしこまりました。創英様、こちらへ」

 

 咲夜は一礼して、俺を厨房へ案内した。

 

 

 厨房には包丁の少気味良い音がこだましていて、鍋の沸騰による湿気とハーブの香りがスッと肺へ溶け込んでくる。

 久しぶりの、俺の場所。家庭を象徴する舞台に、俺は立っていた。

 

「創英様、無理はなさらず」

「大丈夫ですよ。……さぁ、まずは味の確認をお願いします」

 

 咲夜に向かってスプーンを差し出すと、彼女は少しだけ緊張した顔で口に運んだ。

 次の瞬間、目が驚いたように見開かれる。

 

「……これは、素晴らしい。優しい味なのに、芯がある……」

「よかった。では、このまま進めます」

 

 体はボロボロでも、料理だけは別らしい。

 肉の火入れ、魚の香草焼き、野菜のポタージュ、冷たい前菜、温かいパイ生地――。

 次第に厨房は料理人の戦場から、食卓の匂いへと変わっていく。

 ひとつひとつを無駄なく、淀みなく、流れるようにこなしては作り生み出す。

 それを横で見ていた咲夜さんは、小さく唸った後に声を掛けてきた。

 

「創英様。当館の料理人を目指してみませんか?」

「……そんなに気にいりました?」

「はい。……それはもう、惜しいくらいに」

 

 咲夜さんの声には、わずかに笑いが混じっていた。

 

 

 夜、食堂。

 長いテーブルに料理が並び、紅魔館の住人が席につく。

 美鈴は最初に涙ぐみながら叫んだ。

 

「うまっ!? ちょ、ちょっと待ってください!! これ本当に創英さんが作ったんですか!?」

 

 小悪魔はスプーンを抱いたまま動けず、

 

「……しあわせ〜……」

 

 パチュリーは無言で頷き続け、

 

「……認めるわ。これは魔法では再現できない」

 

 フランはというと――

 もぐもぐと、口いっぱいに食べながら俺を見て、目を輝かせていた。

 

「にぃに、これ美味しい!」

「ほら、口の周りにソースついてるぞ」

 

 拭ってやると、フランは恥ずかしそうに笑った。

 そして――全員の箸が落ち着いた頃合いを見て、レミリアが席を立つ。

 

「創英」

 

 その声掛けに応じて、俺も立ち上がる。

 紅魔館の主は、静かに宣言した。

 

「あなたを紅魔館の客としてではなく――フランの義兄として、正式に受け入れるわ」

 

 息が止まった。

 咲夜、美鈴、小悪魔、パチュリーが揃って頷く。

 フランは言葉もなく、ただ泣きそうな顔で俺を見ている。

 ――何かあるだろうなとは思っていた。だが、予想を大きく上回ってきた。

 まさか、館の主から直々に、フランの兄として在ることを認められるとは。

 

 俺は仰々しく姿勢を正し、貴族の前でのように礼をした。

 礼を尽くす。それ以外に、この思いに報いる方法は無いだろう。

 

「――光栄至極にございます。レミリア・スカーレット様」

 

 ――その瞬間、咲夜がさらりと言う。

 

「創英様、先程は料理人と申しましたが、執事も目指してみませんか?」

「そ、それは……全力で遠慮させて頂きます……」

 

 その返しに、テーブルが笑いに包まれた。

 

 フランは涙をこぼしたまま、それでも満面の笑顔で言った。

 

「ねぇにぃに。ずっといても、いい?」

「……もちろん」

 

 この夜、紅魔館は温かな灯りと笑い声に満ちていた。

 

 

 出発の日の朝。

 霧の湖にかかる薄い朝靄を、紅い屋敷の影が静かに飲み込んでいく。

 

 俺は玄関前で荷物を肩に掛けた。

 荷物といっても着替えと薬草、そして阿求への土産くらいだ。

 

「……ほんとに帰るんですね」

 

 美鈴が門の前で手を振る。

 

「ええ。けど、またここへ来ますよ。今度はフランの兄として」

「ふふ……その”また”がちゃんと来るのなら、誰も泣かないで済みますね!」

 

 涙ぐみながら笑っている。

 門番のくせに、こういう時はすぐ緩む。本当に人間みたいな妖怪だ。

 

 挨拶を済ませた後、すぐに森の入口に向かう。

 レミリアたちはすでに準備を整えていた。

 咲夜は軽食を詰めた籠を片手に、ラッシュはいつも通り背筋を伸ばして控えている。

 そして――フランは、自分専用の紅い日傘を手にしていた。

 

 ラッシュとパチュリーが一週間かけて作った特注品。

 傘の内側に魔法布と銀糸が織り込まれていて、陽の光を完全に遮断できる。

 その傘を――フランは、誇らしげに俺へ向けて広げた。

 

「ほら見て! わたしの傘! どうかな? どうかなっ!」

「ははっ、よく似合ってるよ。……大事にするんだぞ」

 

 フランは少し照れ、そして俺の隣にぴたりと寄り添う。

 

「もちろん! にぃにの隣を歩くための傘だもん!」

「……こほん」

 

 レミリアが咳払いした。

 

「では行くわよ。時間はたっぷりあるけれど、無駄に使う必要もないでしょう」

 

 ツンツンしてるように見せながら、

 彼女は俺たちの歩幅に合わせてゆっくりと歩き出す。

 

 

 魔法の森。

 本来なら危険な魔物や妖怪が潜んでいるはずだが――今日は違う。

 鳥の声、葉が揺れる音、遠くで水の滴る音。

 その中に、普段なら何がしかの音は混ざる。

 妖精の話し声。獣系の妖怪が小枝を踏み折る音。有翼系の妖怪の羽ばたく音。エトセトラ、エトセトラ……

 

 しかし今日は、そのどれも聞こえて来ず、また誰も襲ってこなかった。

 いや、正確には――近寄ろうともしないのだ。

 紅魔館の主と、その妹と、その従者。

 そもそも襲うだけ無謀だ。

 

「さあ、創英様。口を開けて下さい」

 

 咲夜が差し出したのは、小さなカップケーキ。

 俺は苦笑しながら手を伸ばした。

 

「食べられますよ、自分で」

「負傷者は素直に甘えていて下さい」

 

 む……言い返せない。

 しぶしぶと口を開いて一口かじると――甘い匂いが広がった。

 

「おお……これは美味しい」

「ふふ。それは良かったです」

 

 その横では、ラッシュがフランとじゃれ合っている。

 

「ラッシュ、くすぐったいってば!」

「フラン様こそ、はしゃぎすぎです! 転んだら創英様が驚かれますよ!」

「えへへー、大丈夫っ! にぃにがいるから!」

 

 フランは俺の腕に自分の腕を絡めて歩き、

 ラッシュはぴったり寄り添いながら、周囲に鋭い視線を飛ばしていた。

 どうやら、護衛の姿勢は崩さないらしい。

 

 一方、レミリアは日差しを避けるように日傘を差しながら、そっぽを向きつつ時折こちらを伺っていた。

 

「ねぇ創英」

「はい?」

「……べ、別に、あの子の護衛をしてあげに来たわけじゃないんだからね。フランが勝手についてきただけで、私は暇だったから仕方なく――」

「はいはい、ありがとうございます」

「ちょっと!? 今の聞き流したわね!?」

 

 フランが笑う。

 

「お姉様、顔があか〜い」

「赤くないわよ!」

 

 森の奥へ進むほど、空気は軽く、風は涼しくなっていく。

 普通なら緊張と警戒が絶えない道なのに――今日は、ただの散歩道みたいだった。

 

 俺の足取りはまだ重い。胸もたまに痛む。

 それでも……俺は歩ける。歩いて行ける。

 心は、ずっと軽かった。

 

「ねぇ、にぃに」

「なんだ?」

「帰るの、ちょっと寂しいけど……また、すぐ会えるよね」

「もちろん。俺は逃げも隠れもしない。フランだって、紅魔館から飛び出してこっち来られるだろ?」

「うん! だから、泣かない!」

 

 そう言って、フランはぎゅっと俺の腕に抱き着いた。

 

 ――そうこうしている内に森を抜けた。

 目の前には、人間の里の屋根と、遠くに稗田邸の門が見えた。

 

「到着、と言ったところかしら」

 

 レミリアが言う。

 森の中は決して歩きやすい所ではなかったはずなのに、楽しいひと時はもう終わってしまった。

 名残惜しさを胸にしまい込みながら、レミリアの言葉に応える。

 

「案外、あっという間でしたね」

「それは、あなたがこっち側の生活になじんできた証拠よ」

 

 ……たぶん、その通りだ。

 ここに来てから、もう1ヶ月以上は経った。

 怨霊が取り憑いていた『変な家』に、霊石。そして――紅い霧の異変。

 色んなことがあった。色んな学びがあった。

 死と隣り合わせの戦いも経験したし、実際何度も、本当に死にかけた。

 けど、その度に周りの人間や妖怪に助けられて、今此処に居る。

 新たな繋がりも、家族も得た。帰る場所だけでなく、帰りを待つ者たちも出来た。

 ……俺はもう、独りなんかじゃない。

 

 その証拠と言わんばかりに、里の入口には数人の影が立ち並んでいた。

 霊夢、魔理沙、慧音、白髪の少女……名はなんと言ったか。確か、ふじわらの……

 

「そーくん、おかえりー!」

 

 手をぶんぶん振ってる、元気ハツラツといった様子の少女が居る。

 奇妙なアクセサリーのような、紐にコブのついた何かを身に絡ませたその少女は、俺へ手を振っている。

 だが霊夢たちは、全く気づいていない。これだけ騒がしくしているにも関わらずだ。

 

 俺とフランは、無言のまま目線で返す。

 フランは小声で呟いた。

 

「……だれ?」

「里で時折見る子だよ。名前は確か、こめ――」

 

 名前を言おうとしたタイミングで、霊夢が俺の目の前まで飛んできて口を開く。

 

「遅かったわね、創英。あのまま死んじゃったんじゃないかと思ったわ」

「霊夢、そう言いながら顔がちょっと安心してるぜ?」

「うっ、うるさいっ!」

 

 魔理沙が笑いながら俺の背中を叩いてきた。

 

「全く、無茶しやがってよぉ。……でもよ、最後までやり切ったのはすげぇよ。正直、創英に惚れたぜ」

「……魔理沙サン、惚レラレテモ困リマス」

「冗談だって! ってか何でカタコトなんだよっ!」

 

 慧音が歩み寄り、ゆっくりと頭を下げる。

 

「紅魔館のメイドとやらから事情は聞いた。……君は間違いなく、里を守った英雄だよ。本当に、ありがとう」

「……そんな大したことは」

「言うな。事実だ」

 

 真顔で言い切られ、照れくさくなる。

 そして――視線が奥へ向いた。

 

 稗田邸の方から、パタパタと誰かが駆けてくる音が聞こえる。

 

「創英さんっ!!」

 

 悲鳴にも似た泣き声とともに、息せき切って駆けてきた阿求が飛び込んできた。

 その瞬間――視界がぶれる。

 

「え、阿求――」

 

 避ける間もなく、彼女は勢いのまま俺に抱きついた。

 

「っ……!」

 

 まだ完全に治っていない体は、彼女の重さに耐えきれず、少しよろめく。

 しかし、そんなのはお構い無しと言わんばかりに……阿求は、俺に思いの丈をぶつけ始めた。

 

「帰ってきた……っ、帰ってきてくれた……っ!! この二週間……すごく、すごく心配したんですから……っ!! 霊夢さんや魔理沙さんから、重傷って聞いて……っ!! 生きてるって分かってても、怖かった……!!」

「あ、阿求、落ち着――」

「落ち着けませんっ!! ……本当に、帰ってきてくれて良かった……」

 

 腕にしがみついたまま、涙をぽろぽろ零し続ける。

 ……ほんとに、心配させたんだな。

 

 と、その時。

 

「…………」

 

 横で、フランがむくれていた。

 

 頬をぷくっと膨らませ、

 じぃっと阿求と俺を見上げる。

 そして――日傘で阿求の背中をつんつんし始めた。

 

「ちょ、ちょっとフラン!?」

「ねぇ、そ〜え〜? その人、だぁれ?」

「だ、誰って……っ!?」

 

 阿求が気まずそうに離れる。

 

「え、えぇと……私は、稗田阿求と申します。それで……あなたは?」

「わたしはフランドール・スカーレット。にぃにの――」

 

 言った瞬間、フランは真っ赤になって口を押さえた。

 

「……に、にぃに、じゃなくて。そ、創英の……ごほっ、友達……っ」

 

 いや、無理があるだろ。

 

「そ、そうですか……」

 

 そらみろ、困惑してる。

 

 ……だが阿求は、そんなフランを見て微笑んだ。

 

「……妹さん、なんですね」

「っ……」

 

 何かを察した阿求の発言に、フランは小さく、小さく頷く。

 俺は苦笑しながら、二人の頭を優しく撫でた。

 

「……仲良くしてくれたら嬉しい。俺の、大事な人たちだ」

 

 阿求は破顔し、

 

「もちろんです! 創英さんの妹なら、歓迎します!」

 

 フランは耳まで赤くしながら、

 

「……ありがと」

 

 ぽつりと、つぶやいた。

 レミリアは胸を張り、いつもの笑顔でこう言った。

 

「じゃあ――創英。これから先も、フランの事を任せるわね」

 

 言い方が完全に“姉”だった。

 咲夜とラッシュも頷いている。

 俺は深く頭を下げた。

 

 

 ――稗田邸の庭先。

 夕方の風が、ゆっくりと木々を揺らしていた。

 

 レミリアたちは、先に帰る準備をしている。

 似合いすぎる紅い日傘を肩に乗せ、フランがこちらを振り返った。

 

「ねぇ、そーえー」

「ん?」

 

 フランは少しだけ、視線を落とした。

 泣きそうで、でも泣きたくない――そんな顔。

 

「……また、来るよね?」

 

 その質問は、“いつか会えなくなるのが怖い”という想いと同じに思えた。

 俺は笑って、頭を撫でてやる。

 少し乱雑に、ワシワシと。

 

「ああ、会いに行くよ。フランは――俺の妹なんだから」

「っ……」

 

 フランの肩が震えた。

 涙で頬が零れる。でも、その涙は悲しみから来るものではない。

 その証拠に――

 

「……約束、したからね」

 

 ――花が咲いたような、可愛らしい笑顔がそこにあった。

 

「絶対にまた来てね。中庭で、紅茶飲んで……ラッシュとお喋りして……そーえーにぃにと、笑うんだから」

「ああ。その時は、今度こそ一緒に遊ぼうな」

 

 そのまま、フランはぎゅっと俺に抱きついた。

 小さく、小さく呟く。

 

「……ありがと。ほんとうの“妹”にしてくれて」

 

 腕の中で、彼女の体温が震えた。

 

「……さて、帰りましょう。フラン、咲夜」

 

 名を呼ばれた咲夜は、瀟洒にお辞儀をする。

 

「かしこまりました、お嬢様」

 

 ラッシュは胸に手を当て、丁寧に頭を下げる。

 

「創英様。お身体、くれぐれもご自愛くださいませ」

 

 俺は笑い返した。

 

「ありがとう。また会おう」

 

 そして――紅魔館の一行は、稗田邸を後にした。

 背中が見えなくなるまで、フランはずっと振り返って手を振っていた。

 

 

 その後。

 俺は阿求の書斎に呼ばれ、霊夢たちと共に今回の事件の報告をした。

 

「人間の里と紅魔館で見つかった霊石は、霊夢さんが封印処理を施しました」

 

 阿求は静かに告げる。

 

「これにて――当事件は、一旦の終息を迎えたことになります」

 

 霊夢は湯呑を置きながら、ぼそり。

 

「まぁ、あんたがあんな無茶してくれなきゃ、解決できなかった可能性もあるけどね」

 

 魔理沙は笑う。

 

「そうだな! 次やるときは死ぬなよ?」

「……まぁ、うん。もうやらないとは思う」

「フラグ立ったぞそれ」

 

 みんなで笑い合う。

 大分遅れたけれど……ようやく、終わったんだ。

 紅い霧は晴れ渡り――こうしてまた笑える日常が、戻ってきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――後に。

「紅霧異変」と呼ばれるこの異変は、稗田阿求によって、こう記されることとなる。

 

 ――かつて、幻想郷全体を覆うほどの紅い霧が発生したことがある。

 太陽の光が遮られ、昼でも暗く、冷え込む程であった。

 これは紅魔館の主、レミリア・スカーレットの仕業である。

 

 彼女は、自らの弱点である日光を避けるために幻想郷を霧で覆ったが、その背景には、不器用ながらも”妹”を案じる姉としての想いがあったとされる。

 この異変は、”博麗の巫女”と”人間の魔法使い”、そして――

 

 ――”縁を紡ぐ退魔師”の、計三名によって解決された。と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆ side:??????・ ????? ◆

 

 光の一切届かない、無音の空間。

 その中心で、ひとりの女が立っていた。

 

 白い仮面。

 感情の読めない微笑。

 

 その足元に、部下が跪く。

 

「報告します。人間の里、霧の湖――両方の霊石反応は完全に消滅しました」

「そう」

 

 女は手にしていた“石の欠片”を、静かに見つめた。

 

「力づくではなく、心で拒絶した者がいる」

 

 部下は震える。

 

「……想定外ですか?」

「いいえ。想定外というより――面白いわね」

 

 仮面の奥から、囁き声。

 

「では、次の計画は――」

「焦る必要はないわ。その程度の事で揺らぐ我々ではない。でも――」

 

 仮面の目が、細く笑った。

 

「次も上手くいくとは思わないことね」

 

 足元の影が揺れ、

 女の体はじわりと闇に溶けていく。

 

「さぁ……幻想を覆すその日まで。せいぜい楽しく生きておきなさい、時崎創英」

 

 ――その言葉を最後に、闇が完全に閉じた。




総文字数、実に12,000字オーバー……!!
普段3,000〜5,000字程度に収めてる中でのこの文字数!
いやぁ、書きたいことは沢山ありましたが、とりあえず「紅い霧の異変編」はここまでと致しましょう。

挨拶が遅れましたね。こんばんは、北宮涼です。
私が書いたお話を読んでくださいまして、誠にありがとうございます。
前話の後書きにも触れさせて頂きましたが、今話を持ちまして一度充電期間を設けたいと思います。

具体的な期間としましては、11月8日(土曜日)から、同月17日(月曜日)までとさせて頂きます。
なので、次回の更新日は18日(火曜日)の12時となります。

それまでの間に、色々まとめておこうかと思います。
主に主人公周りを。
(ここまで駆け抜けておいて主人公のスペックすらも晒してないのだから)

また長らくお待たせするかと思いますが、主人公の創英共々、お付き合い頂ければなと存じます。

当幻想入り二次創作小説『幻想回帰節』を、今後ともよろしくお願いいたします。
それでは、次回の更新日にまたお会い致しましょう。
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