幻想回帰節   作:北宮 涼

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◆ 幻想郷の日々編:2003年 8月 〜 2004年 4月末
33の節:第三次ゆかりんインパクト


◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 八月の午後。

 暑さの名残がまだ庭に滞り、縁側に置いた麦茶のグラスが、ゆっくりと汗をかいていた。

 

 縁側では阿求が扇子でぱたぱたと風を送りながら、原稿用紙と格闘している。

 俺は資料を阿求の元へ運んで、隣に腰を下ろした。

 

「創英さん、そこに置いてください。ありがとうございます」

「どういたしまして。……にしても、今日も暑いな」

「夏もそろそろ終わりなんですけどね。こうも暑いと、秋が恋しくなりますよ」

 

 夏の終わり独特の、少しだけ乾いた風が吹く。

 風鈴が澄んだ音を鳴らして、縁側の空気だけはどこか涼しい。

 

 ――そんな、いつも通りの日常。だったのに。

 

 ふ、と。

 背筋に冷たいものが走った。

 

 音も気配もなく、空間に裂け目が走る。

 さっきまでただの縁側だった場所に、深い闇の隙間が開いた。

 

「――創英。迎えに来たわ」

 

 声がした。

 どこまでも艶やかで、静かに響く、けれど抗いがたい声。

 

 八雲紫。

 

 阿求の扇子が止まり、紙面の上にぱたりと落ちる。

 俺も口を開けたまま固まった。

 

「……は?」

 

 紫は扇子で口元を隠しながら、ゆっくりと縁側に足を踏み入れた。

 白い日傘と、薄紫のドレスが風に揺れる。

 この夏の光景にはあまりにも不釣り合いな“妖怪の貴婦人”。

 

 そして、言った。

 

「決めたの。あなたを“わたくしの側”に置くと」

「待て待て待て待て待て!? なんでそうなる!?」

 

 阿求の表情が固まったまま動かない。

 ペンを握る手が震えてる。

 

 紫は近づき、俺を覗き込む。

 

「逃げても無駄よ? 隙間で捕まえるから」

「脅し方がホラーなんだよ!!」

 

 阿求は完全に誤解してる様子で、うつむきながら呟く。

 

「……創英さん、そういうご関係、だったんですか……?」

「違う!! ほんとに違うからな!?」

 

 そして、紫はあっさりとこう言う。

 

「うふふ。冗談よ?」

 

 扇子で笑いを隠しながら、肩をすくめる。

 

「今日はね、創英。ご飯を食べに来ただけ」

「ご飯!!!!???」

 

 俺と阿求、声が重なった。

 

「だって、あなたの料理が恋しくなったの。“心に染みる味”って、なかなか出会えないのよ?」

 

 言い方が完全に口説き文句だ。

 

 阿求は真っ赤、俺は真っ青。

 紫だけが涼しい顔。

 

「夜、また来るわね。逃げても、隙間で捕まえるから」

 

 扇子で口元を隠し、楽しげに笑いながら紫は消えた。

 隙間は静かに閉じ、庭に夏の空気が戻る。

 俺は天を仰いだ。

 

(……もうやだ……あの妖怪、敵じゃないのに精神を容赦なく削ってくる……)

 

 隣で阿求が小さくため息をつく。

 

「創英さん」

「……なんだ?」

「ご愁傷様です」

 

 心底同情のこもった声だった。

 

 その日、俺は悟った。

 幻夢の妖怪、幻想郷の賢者――八雲紫。

 その脅威は力でも術でもない。

 

 ――言葉ひとつで人の心を転がす、恐ろしい存在であるということを。

 

⸻⸻⸻

⸻⸻

 

 夜の稗田邸は、蝋燭の灯りが柔らかく揺れていた。

 

 昼間に八雲紫が現れてから、胸がざわつきっぱなしだった。

 あの妖怪は、冗談を本気で言う。

 “ご飯を食べに来た”――なら、絶対に来る。

 

 ならば――迎え撃つまでだ。

 

 俺は台所に立ち、食材を整えた。

 季節の野菜、川魚、手に入れたばかりの上等な蕎麦。

 冷たい水と氷を準備し、献立を組む。

 

 阿求は机に頬杖をつきながら、それを見ていた。

 

「創英さん、本気ですね」

「ああ。紫さんは格が違うからな。――手抜きで笑われるのは御免だ」

 

 普段はのんびりした仕事人間だが、本気を出す時だけは別だ。

 包丁の刃が、具材を軽快に刻む。

 火と油、出汁の香り。

 湯気の向こうで、阿求が微笑んだ。

 

「時々思うんですけど……創英さん、料理人の方が向いてるんじゃないですか?」

「退魔師が料理上手でもいいだろ」

「むしろギャップが大きくて……そこが、余計に魅力的ですよ」

 

 阿求がやけに素直に褒めるものだから、少し照れて顔を背ける。

 そんな時だった。

 

 ――空間が裂け、見慣れた黄金と紫の穴が開く。

 

「来たか」

 

 隙間から、八雲紫が一歩踏み出した。

 昼とは違い、夜会服めいた紫の衣装。

 艶やかで、柔らかで、迫力がある。

 

「こんばんは、創英。約束通り来たわよ」

「いらっしゃいませ、紫さん。ようこそ稗田邸へ」

 

 俺は深く礼をし、笑顔を作った。

 紫は扇子で口元を隠し、目だけで愉しそうに笑う。

 

「まあ、落ち着いた顔。随分と覚悟ができているのね?」

「昼に脅されたのでね。逃げても無駄だと」

「うふふ、理解が早い子は好きよ」

 

 そして、隙間からふたつの影が続く。

 

 長い金髪と狐耳が魅力的な、九本の尾を揺らす女性。

 その背中に、小さな三角の耳と二本の尻尾を揺らす少女。

 

 夜風に乗って、狐耳の女性は静かに姿勢を正した。

 

「初めまして。八雲藍と申します。主の無礼、どうかお許しください。本日は食事を振る舞っていただけると伺い、同行致しました」

 

 完璧な礼儀。美しい一礼。

 主が自由奔放すぎて、部下が苦労するタイプなのが一瞬で伝わる。

 俺も丁寧に応じた。

 

「初めまして。稗田邸にてお世話になっている、時崎創英です。退魔師をやっております。本日はようこそお越しくださいました。おもてなしの準備は出来ていますので、どうぞお寛ぎ下さい」

 

 藍はわずかに目を丸くした。

 妖怪に対し、恐れず、しかし侮らず、完璧な礼儀を返す人間なんて見たことないからかもしれない。

 そんな俺の様子に、ふわりと笑みを浮かべる。

 

「……ご丁寧にありがとうございます。紫様、良い人間を見つけましたね」

「ふふ、でしょう?」

 

 紫は満足そうに胸を張った。

 

 一方の猫耳の少女はというと、あちらこちらへ視線を泳がせている。

 初めて見る家や、人、匂いに戸惑っているのだろうか?

 そんな落ち着かない様子のまま、俺を見上げた。

 

「えっと……私は橙! 藍様の式神だよ! その……よろしくお願いします!」

 

 元気いっぱいに自己紹介をする。

 ……なんとなく、撫でてほしそうな雰囲気が滲み出ている。

 だから、俺は少し屈んで目線を合わせ、優しく笑った。

 

「橙って言うんだな。今日は来てくれてありがとう。ゆっくり食べて、遊んで、楽しんでいってくれ」

 

 橙の耳がぴん、と上がり、顔がぱっと明るくなる。

 

「遊んでいいの!? ご飯も!? お風呂入ってもいい!? 布団で寝てもいい!?」

「まずはご飯からだ。順番を守ろうな」

「はーい!」

 

 藍はというと、橙の横で小さくため息。

 

「橙。はしたないですよ」

「あっ! ご、ごめんなさい……」

 

 叱り方が優しい。

 橙はしゅんと耳を寝かせたが、すぐに尻尾が揺れ始める。

 元気いっぱいなだけで、基本的にいい子だ。

 

 そんな様子を見て、紫はくすりと笑う。

 

「創英。これがわたくしの家族よ。丁重に扱いなさい?」

「もちろん。――紫さん達は、大事なお客様です」

 

 言った瞬間、紫の目が細くなる。

 妖怪の色香と、満足げな笑み。

 

「そう。それなら……期待していいわね?」

 

 挑発するような、美しい声。

 俺はゆっくりと振り返り、襖を開いた。

 奥の間の食卓には、用意した料理を所狭しと並べた光景が広がっている。

 俺はそれらへ手を差し出すと、丁寧に説明を始めた。

 

「今宵の献立は、夏の終わりに合わせました。冷やし茄子の煮浸し、鮎の塩焼き、夏野菜の天ぷら。締めは手打ちの冷やし蕎麦。よろしければ、紫さんのために冷酒も冷やしています」

 

 阿求が横で、じっと俺を見ていた。

 紙にペンを走らせながら、少し頬を赤くして。

 

「……創英さんが、本気を出した時の、あの凛とした所作……やっぱり、見ていて飽きないですね」

 

 紫はゆっくりと扇子を閉じ、柔らかく言葉を落とす。

 

「――気に入ったわ。さあ、席に案内して?」

 

 八雲紫、八雲藍、橙。

 幻想郷でも指折りの妖怪たちを、俺は自分の手料理で迎えた。

 

 この夜、稗田邸は――まるで宴の館のように、静かに、華やかに灯りがともる。

 

 

 蝋燭の炎がゆらりと揺れ、障子の外には虫の声が遠く響く。

 紫は、何の遠慮もなく上座へ。

 自然な動作なのに、圧倒的な存在感がある。

 藍はその隣に静かに腰を下ろし、橙はそわそわしながら座布団にちょこんと正座した。

 

「お待たせしました。どうぞ召し上がってください」

 

 紫は初めて見る献立に、扇子を閉じて目を細めた。

 

「……良い香り。人間の料理って、こういう優しい匂いを出すのね」

 

 まず箸を伸ばしたのは藍だった。

 冷やし茄子の煮浸しを一口――

 

 そして、ほんのわずかに目が見開く。

 

「……っ。柔らかい……口の中でほどけますね。味付けもくどくない。丁寧な仕事です」

 

 紫はおかしそうに微笑んだ。

 

「藍、気に入ったみたいね?」

「はい。これは……本当に美味しいです」

 

 橙はと言えば、鮎の塩焼きをがぶりと噛み――

 次の瞬間、尻尾がぶんぶん揺れ始めた。

 

「おいっしい!! なにこれ!? 魚なのに全然苦くないっ!」

「橙、はしたないですよ。ゆっくり食べなさい」

 

 藍の注意にも、橙は「だっておいしいんだもん……!」とむくれる。

 紫は優雅に杯を口に運び、冷酒を含んだ。

 舌の上で転がし、一呼吸置いて――

 

「ふふ。創英、あなた、この料理……本気で作ったわね?」

「当たり前です。紫さんを迎えるのに、手を抜く理由がありません」

 

 紫の唇が、妖艶に弧を描く。

 

「……そう。じゃあ、わたくしは褒美をあげなきゃね」

 

 ああ、来た。

 この流れは嫌な予感しかしない。

 

 紫は扇子を閉じ、身を乗り出す。

 

「今日からあなた、わたくしの――」

 

 阿求の心拍数が明らかに上がった。

 橙は口を開いたまま固まり、藍は眉をひそめる。

 

(やめろ、やめろ、やめろ……っ!)

「――料理番にスカウトするわ」

「……へ? 料理番?」

 

 ……思っていたより軽い。

 だが次の瞬間、紫は楽しげに続けた。

 

「もちろん、住み込みよ? 衣食住、全面的に面倒を見るわ。退魔師なんてやめて、私のところへ来なさい?」

 

 阿求の手が、ぴたりと止まる。

 視線は俺と紫の間を何度も往復し、明らかに動揺している。

 

 場が妙な緊張感に包まれている中、藍は静かに口を開いた。

 

「紫様、それは……本人の意思を確認なさらないと」

「確認してるじゃない。ねえ、創英?」

 

 紫の視線は、試すようで、甘くて、危険で。

 まるで“逃がさない”と言わんばかりだった。

 

 俺は息を吸い、丁寧に返した。

 

「お断りします」

 

 紫の笑みが、ぴたりと止まる。

 

「……あら、どうして?」

「大事な人たちがいます。里には阿求がいて、紅魔館にはフランがいる。どちらも放り出して、紫さんの元へ行く理由はありません」

 

 紫は少しだけ目を伏せ、扇子で口元を隠す。

 そして――笑った。

 

「……いいわね。そうやって誰かを理由に断れる男、嫌いじゃないわ」

 

 むしろ、気に入ったという声色だった。

 橙が頬を膨らませて言う。

 

「ねー紫様。もしこの人間が来たら、私のご飯作ってくれるの? 三食? おやつも?」

「ええもちろん。お風呂上がりの牛乳も」

「やったー!!」

 

 大喜びする橙の横で、藍がこめかみに手を当てる。

 

「橙。主が冗談を言っているときは、あまり真に受けすぎてはいけません」

「えっ!? 冗談なの!? ええっ!? じゃあ牛乳は!?」

「そこじゃないでしょう……」

 

 阿求は、胸に手を当て、ほっとしたように小さく息をついた。

 

「……心臓が止まるかと思いました。突然“料理番として連れて行く”なんて言われたら……」

「俺がそんな簡単にいなくなると思うか?」

「思います。紫さん、時々冗談では済まないことをしますから」

 

 あまりの言われように、紫が扇子で口元を隠しながら肩を震わせた。

 

「ふふ……阿求、あなた見かけによらず毒舌ね」

「稗田家は事実を記録する家ですので」

 

 淡々と言い放つ阿求は、どこか誇らしげだった。

 紫は杯を置き、俺を見据える。

 

「――気に入ったわ、創英。あなた、本当に良い男ね」

「褒めたってこれ以上は何も出て来ませんよ?」

「照れちゃって、かわいい」

「やめい」

 

 軽快にツッコミを入れる。

 阿求は筆を走らせながらニコニコしていた。

 

(……どうせこの光景も、後世に残るんだろうな)

 

 だが、そのときだった。

 紫は、ふと表情を変え、俺に身を寄せる。

 

「ねえ、創英。一つだけ聞かせて?」

「……なんですか」

「“人間のくせに妖怪の家族になる”なんて――あなたは、本当に怖くないの?」

 

 静かな声音。

 挑発でも、冗談でもない。

 藍でさえ顔を上げた。

 橙は口を止める。

 

 ……俺は、まっすぐに目を見て答えた。

 

「……怖いですよ。でも――誰かを怖がって距離を取るのは、もうやめたんだ」

 

 紫の瞳が揺れる。

 

「フランも、レミリアも、パチュリーも、美鈴も。あの館の連中は……ただ、居場所が欲しいだけだ。だったら俺は“人間だから無理”なんて言うつもりはない。それに、その話をするなら咲夜さんだって人間でしょう?」

 

 紫は黙って聞いていた。

 

「必要としてくれるなら、応える。――それだけで十分です」

 

 沈黙。

 そして紫は静かに笑んだ。

 

「……いいわ。本当に、いい子を拾ったものね」

 

 扇子を閉じ、杯を掲げる。

 

「では――この夜に、乾杯を」

 

「乾杯!」

 

 橙が元気に叫び、藍が微笑む。

 阿求も杯を掲げ、俺も続いた。

 

 この夜、稗田邸には

 妖怪と人間の境界を越えた小さな宴が満ちた。

 

 

 食事が終わっても、席を立つ者はいなかった。

 卓上の湯飲みから立つ湯気と、夜風が運ぶ虫の声が心地良い。

 

 橙は腹いっぱいになったようで、座布団の上でごろんと丸くなり、尻尾をふわふわと揺らしている。

 顔は緩み切り、眠気との戦いの真っ最中だ。

 

「橙、寝るなら部屋で寝なさい」

「うん……でも、ここが温かい……」

 

 藍はため息をつきながらも席を立とうとする。

 そこで俺がそっと立ち上がった。

 

「毛布、用意します。藍さん、どうぞ座っててください」

「いえ、これは私が――」

「お客様に動かせるわけにはいきませんから」

 

 言い切ると、藍はなぜか一瞬だけ目を丸くし、それから困ったように笑った。

 

「……君は、本当に妙な人間だな」

 

 橙には柔らかな毛布を掛けてやり、枕代わりに小さな座布団を差し出す。

 橙はうとうとしながら、尻尾で俺の手をちょんと触れた。

 

「そーえー、またご飯作ってね……」

「いくらでも作るさ」

 

 撫でてやると、子猫のように気持ちよさそうに目を閉じた。

 

 藍はじっとその光景を見つめていた。

 真面目で、冷静で、常に紫の隣を歩く式神が――わずかに、安堵の色を滲ませて。

 

「……橙が、あんな顔で寝るのは久しぶりです」

「料理が合ったなら嬉しいです」

「料理だけじゃない。創英さん、あなたは……橙に対して、敵意や距離をまったく見せない」

 

 それを言う藍の声には、意外なほど“感情”があった。

 

「妖怪の式神は、人間から警戒されることが多いのです。ですがあなたは――最初から普通に接していた。それが、さも当然のことの様に」

「それはそうですよ。いくら妖怪とはいえ、この子はただの“子供”でしょう」

 

 藍は息を飲む。

 紫は、横で静かに微笑み、言った。

 

「ねえ、藍。だから言ったでしょう? この人間は、稀有な存在だって」

 

 紫は湯飲みを指で軽く弾き、薄い琥珀色のお茶を揺らす。

 

「……さて、創英。あなた――幻想郷に来てから、一度も“正しい選択”をしていないわね」

「……え?」

 

 唐突に、至極唐突にそんなことを告げられる。

 そんな紫の様子に、阿求も筆を止めて顔を上げた。

 紫は楽しげに、しかし残酷なほど本質だけを言葉に変える。

 

「本来、人間が妖怪に近づくのは愚かなことよ。ましてや、吸血鬼……フランドールと関わるなんて以ての外。そんなのは自殺行為以外に有り得ない。にも関わらず、貴方は紅魔館に出入りし、あまつさえ妖怪の信頼を得て見せた。そんなこと、普通の人間なら、まずしないわ」

 

 藍は静かに頷く。

 その横で橙は寝息を立てている。

 

「だけどあなたは逆を選び続けた。人間の里、“稗田の家”という安全圏を出て、妖怪の領域に自分から踏み込んだ」

 

 紫は扇子を持ち上げ、俺を指す。

 

「そして――“受け入れられた”。これがどれほど異常なことか、わかっているかしら?」

 

 ……わかっている。

 俺がフラン達を相手に……普通に笑って、喧嘩して、飯を作って――それで受け入れられたことは、本来ありえない事のはずだ。

 そんなのは、分かっているんだ。

 

 紫は続ける。

 

「創英。あなたは人間のくせに、妖怪の側へ躊躇なく踏み込み、“境界線”をぼやかし続けている」

 

 扇子がぱちん、と閉じられる。

 

「……そんな人間、私の知る限り――今までに一人もいなかった」

 

 重たい沈黙が場を支配する。

 阿求が、喉を鳴らして息を呑む。

 藍は瞳を細め、静かに俺を見つめてきた。

 

「――でも」

 

 やや暫くの間の後に、紫の声は、存外柔らかく落ちた。

 

「私は、嫌いじゃない」

 

 その一言には、不思議と温もりが込められているように感じられた。

 

 

「創英。ロールケーキの準備ができたら教えて?」

「はい。すぐにお持ちします」

 

 キッチンへ立ち、用意した甘い香りのフルーツロールケーキを持ち帰る。

 紫はそれを一口食べ、目を細めた。

 

「……相変わらずいい味ね。他者を幸せにする食事よ」

「俺の料理で目の前の人が笑ってくれるなら、それでいいです」

 

 紫は、にやりと笑う。

 

「なら――これは“返礼”ね」

 

 紫が指先で空間を裂いた。

 食卓の空いたスペースにひらりと落ちたのは、一枚の紙。

 

 見たことのない紋章。

 蝙蝠の翼が象られた赤い紋と、紫と橙色?の陰陽玉の紋が刻まれている。

 

 拾い上げ、目で『これは何か』と紫に訴えかける。

 

「それは、紅魔館の“特別認定証”」

「……は?」

「簡単に言うと――あなたはもう、紅魔館の正式な一員であると認める証よ」

 

 阿求が絶句した。

 藍の目が見開かれる。

 橙は夢の中で「おかわり……」と言っている。

 俺は、思わず椅子からずり落ちそうになった。

 

「ちょっ、待て、え? これはどういう事なんです? こんな物いつの間に――」

「今日よ。フランドールが“お兄ちゃん”と呼び慕い、レミリアが“家族”と認めた。その時点で契は成立していたけれど、改めてそれを誓約書として起して、認めたものがそれよ」

 

 紫は楽しげに言ったのに――声には優しさは無かった。

 

「人間が妖怪の家族になるなんて前代未聞。だけど、あなたはその前代未聞を成し遂げてしまった」

 

 視線が真っ直ぐ俺に刺さる。

 

「……だから言ったでしょう? あなたが退魔師をやめて、うちに来るのも悪くはないって」

「行きません」

「ふふ、知ってるわ」

 

 からかうように笑い、立ち上がる。

 

「じゃあ――今日は帰るわね。創英。あなたの料理、とても気に入ったわ」

 

 藍も立ち上がる。

 

「本日はご馳走様でした。創英さん、あなたは礼儀正しい。本当に、“人間らしくないほど”」

「それ褒めてます?」

「さてね」

 

 橙は眠そうに目をこすり、よれよれと紫に抱え上げられながら言う。

 

「また来るからね、そーえー……」

「ああ、いつでもおいで」

 

 紫は最後に振り返り――

 扇子で口元を隠し、片目だけを覗かせた。

 

「創英。──あなたを見ていると、退屈しないわ」

 

 境界が揺らぐ気配を残し、三人は夜へと消えた。

 

 静かになった稗田邸で

 俺と阿求は、しばらく言葉を失っていた。

 

 そして――阿求がぽつりと言う。

 

「……創英さん。あなた、気付いてますか?」

「何を?」

「八雲紫に“気に入られている”という事の、意味を」

 

 それは、喜びでもなく、恐怖でもなく。

 ただ事実としてのべられた。

 俺は天井を見上げ、深く息をつく。

 

「……知らない方が、平和に眠れそうだ」

「ふふ。それは同意します」

 

 阿求は肩を震わせながら笑い、筆を取った。

 ――こうして、八雲家の襲来は幕を閉じたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆ side:八雲紫 ◆

 

 今宵も夜は深い。

 境界を渡る風が静かに髪を揺らす。

 稗田邸の灯りが遠ざかり、私はひとり、闇に立つ。

 

「……まったく、困ったものね」

 

 境界を扇子で割いて腰掛け、夜を撫でる。

 空気そのものが、軋むように嘶いた。

 

 ――時崎創英。

 

 あの人間はあまりに異質。あまりに“人間らしくない”。

 宗家の屋敷で初めて出会ってから感じてはいたが、この幻想郷に来てからはより顕著となっている。

 

 妖怪と遭遇すれば怯えもせず、人間と並べば驕りもせず、そうして――人の理解者を得て、妖の家族を得て、そのどちらにも受け入れられた。

 

 そんな存在は、幻想郷にはいない。

 

 いなくて当然の存在だ。

 

 妖怪は人間の“恐れ”から生まれ、恐れに縋って生きている。

 人間が“恐怖心”を持つからこそ、妖怪は存在できる。

 人間が妖怪を恐れ、妖怪が人間を喰らい、その上に絶妙な均衡がある。

 それが幻想郷の根幹。

 それは理屈でも、制度でもなく――“世界の摂理”である。

 

 なのに、あの人間は――恐れを滲ませない。

 

 彼は、妖怪に怯えず、憎まず、排さず。

 ただ理解しようとし、寄り添おうとする。

 

 それは優しい行いだ。

 善良で、誠実で、温かく――救いにもなる。

 

 だが同時に、それは“世界を壊す”行いでもある。

 

「人間が妖怪を恐れなくなれば、妖怪は消える。妖を“理解し、受け入れる”というのは、妖怪を滅ぼすより残酷な行為ですわ」

 

 恐怖を失った妖怪は、世界に留まれない。

 存在理由を失い、ただ薄れていく。

 

 だから――

 

「妖怪の賢者として言いましょう、時崎創英。もし、あなたがその道を往くのなら」

 

 私は境界の裂け目越しに、稗田邸を見つめる。

 

「あの子たちは、いずれあなたのために死ぬでしょう」

 

 レミリアも、フランドールも。

 恐れられない“妖怪”は、ただの影と成り果てる。

 

 だから、私は見守っている。

 

「あなたが中庸を選ぶなら――良い」

 

 人と妖、どちらにも傾かず、線を踏み越えず、ただ“狭間”に立ち続けるなら。

 それならば、幻想郷は揺れない。

 

「でも、もしこのまま逆を選んだなら」

 

 人と妖を繋ぎ、恐れを消し、境界を曖昧にし、“幻想”を壊すなら。

 あの優しい退魔師は、いずれ――

 

「――幻想郷にとって、もっとも危険な存在になる」

 

 人間にも受け入れられ、妖怪にも愛され、両者の架け橋となりうる人間。

 そんなものが“普通”になれば、恐怖は消え失せ、妖怪は存在を失う。

 平和で、優しく、美しい。それは――幻想郷そのものを、殺す光となるだろう。

 

「創英。あなたが“境界を侵す存在”になったら……」

 

 扇子を広げ、闇を切り裂く。

 

「その時は、私が殺してあげる。だって、それを殺せるのは――私しかいないもの」 

 

 笑いながら、瞳を閉じる。

 遠い昔に思いを馳せ、今を繋ぐ奇跡を想い――ほうっと、息をついた。

 

「……でも。本音を言えば、あなたには面白い未来を選んでほしい」

 

 興味。

 執着。

 寵愛。

 恐れ。

 

 それら全部を混ぜて――吐き出した。

 

「あなたは“境界”そのものを揺るがす存在よ。ねえ、時崎創英。愛しい愛しい――私の影法師」




◆◇◆◇◆◇◆◇◆

お久しぶりです。北宮涼です。
早速本題なのですが、今回の更新から週一回の更新ペースに落とし、その分だけ文章量を増やす方向性でいこうかと思います。

理由としましては、リアルのお仕事の都合で時間を捻出することが難しくなりつつあるためです。

文章の質を落とせば今のペースを保てはしますが、そうまでする理由は無いと判断し、ならば今のクォリティを維持しながら頻度だけを下げる事で対応しようと思い至りました。

楽しみにして頂いた方には申し訳ありませんが、ご理解の程、よろしくお願いします。

更新日は、毎週火曜日の12時とします。
ここは他の方法でも周知しますので、今の更新ペースがどうなっているかのご参考として下さい。

それでは引き続き、幻想回帰節をよろしくお願いします!
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