幻想回帰節   作:北宮 涼

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34の節:襲来! 伝統の幻想ブン屋

◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 ――八月の終わり。

 夏の終わりと秋の始まりが、どこか曖昧に溶け合う頃。

 

 陽はすでに高く、稗田邸の庭は蝉の声と乾いた風に包まれていた。朝の涼しさは影を潜め、じんわりと肌にまとわりつく熱が、今日もまた平穏な一日になることを予感させる。

 

「そーえー、こっちの花、ちょっと元気ないみたい」

 

 縁側に腰掛けていたフランが庭先を指差す。

 今日は阿求の許しを得て、フランが“お泊まり”に来ている日だ。

 紅魔館の面々にも一応連絡は入れてあるし、レミリアも了承済み。つまり今この場にいるのは、俺と阿求、そしてフランの三人だけだ。

 

「こいつは、水のやりすぎだな。これじゃあ根が呼吸できずに根腐れしちまう」

 

 俺がそう呟きながら屈み込むと、阿求が縁側から小さく笑った。

 

「本当に創英さん、庭仕事が板についてきましたね。もはや稗田家専属庭師です」

「専属の庭師さんは他に居るだろうに。仕事を奪ってるみたいで、なんだか申し訳ないな」

「そんなことはありませんよ。皆、貴方が来てから助けられているのです。お気になさらないで下さい」

「……そうか。それならまぁ、いいんだが」

 

 そんなやり取りをしつつ、ジョウロを片手に土の様子を確かめる。

 いつの間にか隣までやってきていたフランは、その様子を興味深そうに覗き込みながら日傘をくるくると回していた。

 

 この幻想郷に来てから手に入れた日々は、鮮烈で、鮮明で……愛おしく感じる人たちに囲まれながら、俺はようやく、新たな日常に溶け込めたのだと思えるようになっていた。

 平和だった――少なくとも、この時点までは。

 

 空気が変わったのは、その瞬間だった。

 

 ごう、と風を裂く音。

 耳をつんざくような圧と、一拍遅れて響く爆音を背に受け――

 

「――え?」

 

 ――次に知覚したのは、視界が緑に染まったことだった。

 

「ぐはっ――!?」

 

 身体が浮いた。いや、吹き飛ばされたと理解する前に、俺の額は庭の茂みに『ごすっ』と豪快に突っ込んでいた。

 視界は葉と土と影で埋まり、何も見えない。

 そして何より――体が抜けない。

 

「ちょ、待っ……!」

 

 腕を動かそうにも、頭から完全に刺さってしまっていて、バランスも取れない。結果、できることはひとつだけ。

 

――ばたばたばたばたっ!

 

 足だけが空中で無様に踊った。

 

「創英さん!?  ちょっと!?  何が起きたんですか!?」

 

 阿求の声が慌てて響く。見えはしないが、相当焦っていることは伝わってくる。

 対する俺は……

 

「ん~っ! んぅ~っ!!」

 

 ……とまぁ、こんな感じに、声すらもまともに出せない状態に陥っていた。

 

「そ、創英さーんっ!?」

「に、にぃにーっ!?」

 

 二人の焦った声がハモって聞こえ、バタバタと足音が近づいてくるのがわかる。

 何とか抜け出そうと試みはするが……だめだこれ。完全に茂みに刺さっちまってる。

 

「んぉ~っ!」

「お、お落ち着いてください創英さん、今助けますから! フランさん!」

「分かった! 日傘持ってて! せーのっ!」

 

 ずぼぉ!

 ……と、効果音が鳴りそうな勢いで引き抜かれたことで、俺は脱出を果たせた。

 少々勢いが強すぎて顔が傷だらけになってしまったが、それはまぁ大事の前の小事として気にしないでおこう。

 ともあれ。大きなケガ等もなく、事なきを得られたことでほっと胸をなでおろした……その時だった。

 

 ばさり、と力強い羽音がする。

 そして、少し楽しげな声が上から降ってきた。

 

「いやあ失礼失礼! ちょっと派手に入りすぎましたねぇ」

 

 新たな声の主は、にこやかさが滲んだ調子だった。

 

「どうもこんにちはっ! 清く正しい鴉天狗の新聞記者、射命丸文です♪」

 

 ……射命丸文?

 ああ。幻想郷縁起にも載っていた"あの"天狗の新聞屋か。

 

「今日は噂の外来人、時崎創英さんに独占取材をお願いしに来ました!」

 

 荒れ果てた庭に降り立ち、にこやかに宣言する射命丸。その声色で分かる。

 コイツ。今の一連の出来事について、絶対に反省してない。

 文のそんな態度にひどくご立腹なフランが前に躍り出ると、射命丸は目を爛々と輝かせて口を開く。

 

「これはこれは、紅魔館の妹君ではありませんか! なぜ稗田邸におられるのでしょう?」

「そんなのいま関係ない話だし、そーえーを爆風で茂みに突っ込ませておいて第一声がそれ!?」

「いやいや、登場演出は大事ですから! ……風圧で吹き飛ばしてしまったのは申し訳なく思いますけども」

「庭は!?  そーえーの手入れした阿求の庭については!?」

「あっ、それは後で謝りますから!」

「後でじゃダメ! いま謝って!」

 

 射命丸のあまりの態度にフランがヒートアップする。

 が……それとは別に、氷点下まで心の温度が下がってるのが一人居る。

 それは、言い合いを繰り広げてる二人の間に割って入り、絶対零度の一言を放った。

 

「射命丸様……稗田家の庭は、私どもの記録と同じくらい大切なのですが?」

 

 声が、冷たい。

 筆を持つ者の声音ではない。

 冷気の発生源である阿求は、誰がどう見たってブチ切れていた――。

 

「ひ、ひぃっ……?」

 

 さしもの傍若無人さんも、阿求の冷たい怒気にあてられて明らかに血の気が引いたのが分かる。

 

「す、すみません! すぐに修復代は……!」

「修復ではなく、信頼の問題です」

 

 ああ、これはやばい。今まで見たことが無いレベルで怒ってる。

 

「阿求、いったん落ち着こう。俺は大丈夫だし、庭も俺が元に戻してやるからさ。なっ?」

「にぃに……」

 

 何とか宥めようと声をかけ、それに合わせて肩に手を置く。

 最近自覚した"悟りの力"の応用で直接心に訴えかけ、怒りの冷気を収めてもらえるように説得した。

 

「創英さん……はぁ、しょうがないですね。彼に感謝することです、射命丸様」

「あ……ありがとうございます! 以後気を付けますので!」

 

 ペコペコと平謝りする射命丸。

 ジト目を向けると同時に、じっと見つめて心を見透かそうとしてみるものの、深くは覗き込めなかった。

 まぁ反省の情は見受けられたし、今回は許すとしよう。

 そんなことを思っていると、気を取り直した文がふふっと笑った。

 

「なるほどなるほど……噂以上に面白い方ですね、創英さん」

「噂?」

「おや、ご存じないのですか? 阿求さんが更新した幻想郷縁起にあなたのことが載ったというのに?」

「はい?」

 

 思わす阿求の方を見る。当の阿求はきょとんとした顔をしていた。

 

「なるほど……察しの悪さも記載通り、と」

「何か言ったか」

「いえいえ。でもこれで安心して取材ができそうです!」

 

 安心とは。

 

「さあ! せっかくですし落ち着いてお話しましょう! 阿求さん、応接間をお借りしてもよろしいですか?」

「はぁ……本当にしょうがないですね。只今用意させますので、少々お待ちください」

「ありがとうございます! では改めて……取材開始です!」

 

 ……こうして。

 俺の平穏な朝は、新聞記者という名の暴風によって綺麗に消し飛んだのだった。

 

⸻⸻⸻

⸻⸻

 

 応接間へと場所を移した俺たちは、簡単な卓を挟んで向かい合う形になった。

 中庭に面した窓からは、先ほど荒らされた庭を庭師たちがせっせと手直ししている様子が見える。

 阿求が用意させたお茶と団子が各々の席の前に運ばれ、場の空気もようやく落ち着きを取り戻しつつあった。

 ……とはいえ、この場に“台風の目”がいる以上、平穏など幻想に過ぎないだろうが。

 

「さてさて! それでは改めまして!」

 

 射命丸はにこやかな笑みを浮かべながら、羽ペンを構えた。

 

「外来人にして、紅魔館異変の当事者。そして最近、里でやたらと名前を耳にする男――時崎創英さんに、色々とお話を伺っていきましょう!」

「色々ってのがもう嫌な予感しかしないんだがな……」

「遠慮はいりませんよ! むしろ遠慮は売り物じゃございませんから!」

 

 自信満々で何の慰めにもなっていない宣言をしつつ、文は小首を傾げた。

 

「ではまず単刀直入にお聞きしましょう。あなたは何故――紅魔館へ“侵入”したのですか?」

 

 ぴたり、と場の空気が静まる。

 阿求は静かに視線をこちらへ向け、フランは少し不安そうに俺の袖を掴んだ。

 

「侵入、ね……」

 

 俺はお茶を一口飲み、息を整える。

 

「理由は二つある。ひとつは紅い霧を止めるため。もうひとつは……霊石の気配を感じたからだ」

「れいせき?」

 

 文が聞き返す。

 

「聞いたこともありませんが?」

「無理もない。事件や問題として表に出てきたのは、つい数週間前の話だからな」

 

 そう言って、俺は事の経緯を順序立てて語り始める。

 

 理性を失った妖怪が里を襲い、その妖怪が紫色の水晶のような奇妙な石――霊石を所持していた事。

 その後、数日のうちに里を覆った赤い霧から霊石の気配を感じた事。

 博麗神社へ人間の里代表として出向き、霊夢と魔理沙と共に異変調査のため博麗神社を出発。霊夢先導の元に紅魔館へ辿り着いた事。

 そこで出会った妖精メイドのラッシュとの戦闘中に記憶を覗き、霧から感じる気配の原因が“持ち込まれた霊石”によるものであると知ったこと。

 そして――フランが、その影響を最も強く受けていたこと。

 

「……つまりあなたは」

 

 文がペンを走らせながら、目を細める。

 

「紅魔館を荒らしにいったのではなく、“原因を突き止めるため”だった?」

「結果的にそうなった、ってだけだ。正直、侵入方法はもっと穏やかでありたかったよ」

「なるほどなるほど……」

 

 文の視線が、少しだけ鋭くなる。

 

「ですが――それは人間にとって非常に無謀な行為であったはずです。それほどの危険地へ、なぜそこまで踏み込んだのです?」

「そこは簡単だよ」

 

 俺は窓際に視線を移し、当時に思いを馳せる。

 

「見過ごせなかった。それだけだよ」

 

 フランは嬉しそうに頬を綻ばせ、阿求は目を閉じて頷いた。

 文は一瞬、言葉を失ったようにペンを止める。

 

「……なるほど」

 

 そして小さく笑う。

 

「ますます興味深いですねぇ、あなたという人間は」

 

 その瞳は、単なる記者の好奇心ではなかった。

 鴉天狗として、妖怪の一員として、"人を見極めようとしている目"だった。

 

「では次の質問に移りましょうか」

 

 その言葉と共に、ペン先がゆっくりと俺へと向けられる。

 

「あなたは――妖怪をどう思っていますか?」

 

 射命丸の問いは、静かで、しかし確かな核心を突く問いだった。

 だがその静けさは、探りでも、揺さぶりでもなく――こちらの“芯”を確かめるための刃に近い。

 深く深く切り込んで、その先にある中身を暴き出す包丁のように――。

 

 応接間に沈む沈黙の中で、俺はゆっくりと息を吐いた。

 視線の端で、阿求がじっとこちらを見つめているのが分かる。

 フランは俺の袖をぎゅっと握ったまま、不安げに表情を曇らせていた。

 

「……率直に言うとさ」

 

 俺は曖昧に笑う。

 

「怖いよ。今でも」

 

 文の羽ペンが、ぴたりと止まった。

 

「妖怪という存在そのものが、な」

 

 誰かを否定するためじゃない。ただ、事実として。

 

「力も、考え方も、生き方も……俺たち人間とは根本から違う。理解しきれない部分の方が多いし、正直なところ、何をするか分からないって恐れもある」

 

 胸の内を曝け出してゆく。それは、誤魔化しようのない本音だった。

 

「でも――」

 

 そこで言葉を区切る。

 昔の光景が、ふと脳裏を過ぎった。

 拒絶した背中。閉ざした心。取り返しのつかない夜――。

 

「――だからって、憎みたくはないんだ」

 

 袖を握るフランの指先が、少しだけ緩んだ。

 

「怖いから殴る。怖いから遠ざける。怖いから拒む……そういう自分に、もう戻りたくない」

 

 視線を落とし、湯呑みを見つめながら静かに続ける。

 

「俺は昔――“自分と違う存在”を、きちんと受け止められなかった。それで、取り返しのつかない後悔をしたんだ」

 

 阿求の気配が少し硬くなる。

 

「だから今は、せめてこう思ってる。妖怪だからどうこうじゃない。人だからどうこうでもない。ただ、“相手がどういう存在か”を見て、その上で向き合いたいってな」

「中立……ということですか?」

 

 射命丸が静かに問い返す。

 

「そうだな。中立でいたい。けど、無関心ではいたくない」

 

 顔を上げ、文を見る。

 

「恐れもあるし、警戒もする。でも、それを理由に切り捨てたりはしない。俺は……俺が後悔しない選択をしたいだけだ」

 

 しばしの沈黙。

 文は筆を走らせながら、ふう、と小さく息を漏らした。

 

「……人間にしては、随分と危うい思想ですねぇ」

「だろうな」

 

 苦笑すると、彼女は目を細めた。

 

「でも面白い。ええ、とても」

 

 その笑みは、先ほどまでの軽薄さとは違う、天狗としての冷静さを帯びていた。

 

「妖怪を『恐れている』と認めた上で、それでも拒まない……これは幻想郷でも珍しい人間ですよ」

「珍しくて結構だよ。でも俺は、誰かの敵になるためにここに来たわけじゃない」

「ならば――誰の味方になるおつもりで?」

 

 文の問いに、フランが小さく身じろいだ。

 俺は少しだけ考えてから、静かに答える。

 

「誰の味方でもないさ。しいて言うなら……“俺の大事な人たち”の味方だな」

 

 その言葉に、阿求がほんのわずかに頬を染め、フランは嬉しそうに笑った。

 射命丸は、それを見逃さない。

 

「ほう……なるほど」

 

 彼女の目が、天狗らしい光を宿す。

 

「人にも妖にも肩入れせず、しかし情には真っ直ぐ……これは記事が面白くなりそうです」

「変な見出しを付けるのはやめてくれよ?」

「それは読者次第、ということで♪」

 

 悪びれない笑顔。

 だが、その視線の奥には確かに俺への“評価”があった。

 そしてまた、次なる問いが用意されているのだろう。

 ペン先が、ゆっくりと紙の上を滑り始める。

 

「では次の質問と参りましょうか。ますます個人的な部分に踏み込ませていただきますが……」

 

 射命丸の声が、少しだけ本気の色を帯びた。

 各々の視線が、まっすぐこちらに向けられる。

 

「あなたがここまで“妖怪を憎まない”と語るに至った背景……そこには何があったのでしょう?」

 

 応接間に、静けさが落ちた。

 阿求の気配が、わずかに強張るのが分かる。

 フランは俺の袖を、そっと強く握り直していた。

 

「……そこ、聞くか」

 

 苦笑まじりに呟いてから、ひとつ息を吐く。

 

 正直、言葉にするのは簡単じゃない。

 でも――避ける理由も、もう無かった。

 

「いいよ。話すさ」

 

 湯呑みに視線を落としたまま、ゆっくりと言葉を選ぶ。

 

「俺が幻想郷に来る前の話だ。故郷で……家族を、失った」

 

 静かに、だが確かに。

 

「妖怪に殺された。父も、母も……妹も」

 

 フランの指が、ぴくりと震えたのが伝わる。

 

「……でもな、本当に苦しかったのはその前だ」

 

 胸の奥が、じわりと痛む。

 

「俺には妹がいた。人とは少し違う力を持っててな……俺はそれを、素直に受け入れられなかった」

 

 拒んでいた。

 遠ざけていた。

 どこかで“異質な存在”として見ていた。

 

「それが原因で、妹は一時行方不明となった。……家出したんだよ」

 

 今でもはっきりと思い出せる。

 泣きそうな顔で、それでも何も言わずに背を向けたあの時の事を。

 

「父は激怒したよ。俺を叱り飛ばして、それから……みんなで妹を探しに行った」

 

 震える足で、必死に探した。

 名前を呼んで、何度も何度も。

 

「見つけた時、妹はひとりで泣いてた。でも……それ以上に、俺が泣いていた」

 

 そこで、ようやく気づいたんだ。

 

 どれだけ、自分が愚かだったか。

 どれだけ、取り返しのつかないことをしようとしていたか。

 

「その時に誓ったんだ。力のある奴を妬んで遠ざけたり、違う存在を嫌って突き放すのは、もうやめようって。誰にでも分け隔てなく接しよう……ってね」

 

 そして――その誓いの数か月後に、すべてが奪われた。

 

「通り魔に扮した妖怪に襲われてな……俺以外、みんな死んじまった」

 

 声が、少しだけ掠れる。

 

「事件の後……俺は半年近く入院した。夜になる度にフラッシュバックして、呼吸もできなくなって……何度も、死のうとした」

 

 阿求が、息を呑む音がした。

 

「死ねば楽になれると思った。皆の元へ逝きたかった」

 

 ――皆がいない世界に、生きる意味なんて見いだせなかったから。

 だから俺は、病室の窓から飛び降りようとした。

 でも……ジジイに、創厳じいちゃんに止められた。

 ジジイは泣いてたよ。守ってやれなくて、すまなんだ……って。

 

 「その後は宗家に引き取られて、退魔の術を叩き込まれて……それでも俺の中は空っぽなままだった。だけどな……ある時ふと思ったんだ」

 

 ゆっくりと目を開ける。

 

「もし俺が“恐れ”を理由に、誰かを拒んだままだったら……妹に誓ったあの日の自分まで、裏切ることになるなって」

 

 ――だから決めた。

 

「妖怪が怖くても、憎まない。距離は取っても、拒まない。向き合える範囲で、ちゃんと向き合う」

 

 視線を上げ、射命丸を見る。

 

「それが……俺なりの贖罪であり、誓いなんだ」

 

 しばしの沈黙。

 

 フランは俺を見上げていた。

 阿求は何か言いたそうに口を開きかけて、それでも言葉を飲み込んでいる。

 射命丸は、静かにペンを動かしていた。

 

「……なるほど」

 

 その声音は、いつもの軽さとは違う。

 

「あなたは“妖怪が怖い人間”でありながら、“妖怪を憎めない人間”なのですね」

「そうかもしれないな」

「ですがその姿勢……山の妖怪たちから見れば、危うくもあり、同時に非常に興味深い」

 

 彼女の目に宿る光は、記者のそれではない。

 

「恐れを超えようとする人間……それは時に、妖怪にとって“脅威”にもなり得ます」

 

 それは警告であり、評価でもあった。

 

「覚悟しておいてくださいね、創英さん」

 

 筆記帳が静かに閉じられる。

 

「あなたの在り方は、もう“ただの外来人”では済まされなくなっています」

 

 その視線は、幻想郷を見つめる鴉天狗のものだった。

 

 そして俺は理解する。

 

 これはただの取材じゃない。

 “観測”だ。

 

 ――俺という存在が、幻想郷にとって“何者”になるのかを。

 

 

 

◆ side:フランドール・スカーレット ◆

 

 応接間の空気は、静かだった。

 でも、静かすぎて――息をする音すら、やけに大きく聞こえた。

 

 にぃにの声が、まだ耳の奥に残っている。

 

"――それが……俺なりの贖罪であり、誓いなんだ"

 

 淡々としているのに、どこか震えていて。

 それでも逃げずに話してくれた言葉。

 

 私はあの日、にぃにの過去を“知った”。

 あの人の記憶が、私の中へつぶさに流れ込んできたから。

 でも――。

 

(違う……)

 

 今の話は、あの時とは違う。

 

 あの時は、ただ流れ込んできただけだった。

 悲しみも後悔も、叫びも……全部“見てしまった”だけだった。

 でも今のは、にぃにが自分の意志で言葉を選んで、痛みを晒してくれたものだった。

 

 それが、どうしようもなく胸に沁みて。

 ぎゅっと、袖を掴む指に力が入る。

 

(……つらかったんだね)

 

 誰にも頼れなくて。

 ひとりになって。

 それでも、誰かを拒まないように必死で――。

 

(それでも、やさしくなろうとしたんだ)

 

 "あの時"の創英は、ただ哀しみに吞まれてしまっていた。

 けれど、今ここにいる“にぃに”は痛みを抱えたまま、それでも誰かに手を伸ばしている。

 その違いが、胸の奥をじんわりと温める。

 

「……ねぇ、阿求」

 

 私は、そっと声を落として呼んだ。

 阿求は小さく肩を揺らし、私の方を見る。

 

「はい、フランさん」

「阿求は……にぃにの話、どれくらい知ってたの?」

 

 阿求は、少しだけ視線を落とした。

 

「大まかなことは、以前に報告として聞いていました。でも……今日のように、その後の創英さん自身の事や想いまでは、初めてです」

 

 そう言って、静かに微笑む。

 

「だから私も……少し、驚いています」

「……そっか」

 

 私は、にぃにの横顔を見た。

 どこか遠くを見てるようで、それでもちゃんとここにいる顔。

 "あの日"の泣き崩れていた創英とは別の顔。

 

「ねぇ阿求」

「はい?」

「にぃにってさ……すごく、がんばってきたんだね」

 

 ぽつりとこぼれた言葉。

 阿求は小さく頷く。

 

「ええ……とても」

 

 そして、少しだけ寂しそうに続けた。

 

「だからこそ……今こうして、笑っていてくれることが、私は嬉しいです」

「うん……」

 

 私も、そう思う。

 

 あの暗い夜を越えて、ここに来たんだ。

 ひとりぼっちになっても、それでも“誰かの味方でいよう”と決めた人。

 そんな人を、私は知ってしまった。

 ……だったら。

 

 私はぎゅっとにぃにの袖を引いた。

 

「にぃに」

 

 呼ぶと、少し驚いた顔でこちらを見る。

 

「フラン?」

「……私ね、にぃにのお話、もっと聞きたい」

 

 にぃには言葉を失ったみたいに瞬きをしている。

 

「つらいのも、かなしいのも……全部じゃなくていい。でもね」

 

 小さく、でもはっきりと言った。

 

「ひとりで抱えるのは、もうやめてほしいな」

 

 あの時の記憶は、私の中に残っている。

 だけど今は、それだけじゃない。

 

 “今のにぃに”を知ったから。

 

 阿求がそっと頷き、優しい声で言う。

 

「フランさんに同意です。創英さんは、もう独りではありませんよ」

 

 その言葉に、にぃには少しだけ困ったように笑った。

 

 でも――

 その笑顔は、どこか安心しているようにも見えた。

 

 私はその横顔を見ながら、静かに思う。

 

("あの日"の痛そうに泣いてたにぃにじゃなくて……今、ここで笑ってるにぃにが好き)

 

 だから私は、もっと近くにいたい。

 

 守られるだけじゃなくて、隣に立てる妹でいたいと――そう思った。

 

 応接間には、まだ静けさが残っていた。

 けれどその沈黙は、さっきまでとは違う。

 どこか、あたたかい色を帯びていた。

 

 

⸻⸻⸻

⸻⸻

 

◆ side:射命丸文 ◆

 

 妖怪の山に戻る風は、やけに冷たく感じた。

 

 稗田邸を後にしてから、もうどれほどの距離を飛んだだろう。

 見慣れた木々、岩肌、吹き抜ける上昇気流。

 けれど、いつもなら胸が躍るこの空が、今日はひどく静かだった。

 

「……ふぅ」

 

 思わず、小さく息を吐く。

 

 情報を追い、真実を暴き、記事にする。

 それが鴉天狗、射命丸文の誇りであり、生き方だ。

 

 ならば今日の取材も、ただの“成果”として処理されるはずだった。

 

 ――はずだったのに。

 

(……あの男)

 

 脳裏に浮かぶのは、稗田邸の応接間で語られたあの声。

 妖怪を“怖い”と認めながらも、憎まないと語った人間。

 己の過ちを語り、血を失い、なおも誰かの味方であろうとする退魔師。

 

 人間は往々にして単純だ。

 怯え、憎み、排斥する。

 それが当然の生き物だというのに。

 

 時崎創英は、違った。

 

(妖怪を恐れる。なのに、それでも拒まない……?)

 

 風を裂きながら、文は小さく目を細める。

 

 それは甘さか。

 それとも、愚かさか。

 あるいは――新しい“何か”か。

 

 鴉天狗として。

 妖怪の一員として。

 あの在り方は、あまりにも曖昧なモノに映った。

 

 人にも、妖にも完全には属さない。

 けれど両方に手を伸ばそうとする――危うさ。

 

 それが秩序を壊す存在になるのか。

 それとも、新たな均衡を生む存在になるのか。

 

 どちらに転ぶかは、まだ分からない。

 だからこそ――目を離せない。離す訳にはいかない。

 

 ひらり、と山の稜線が近づく。

 見慣れた天狗の集落が眼下に広がり始めた。

 

「ただの外来人じゃ済まなさそうですねぇ……面白くなってきましたよ、本当に」

 

 あの人間の行く先。

 その背中が、幻想郷に何をもたらすのか。

 

 ――それを見届けるのも、悪くない。

 

 風は再び強くなり、羽音が山の空に溶けていく。

 妖怪の山は、相変わらず静かで、揺るぎない。

 

 けれど確かに、新しい“波”が生まれつつある。

 

 その中心に――時崎創英という名が、静かに刻まれ始めていることを、私はハッキリと感じていた。

 

 

 

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