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◆ side:稗田 阿求 ◆
九月の初め。
暦の上ではすでに秋だというのに、空の色はまだ青く深く、どこか夏の残り香を手放しきれずにいた。
照りつける日差しは和らいだとはいえ、庭の石畳からは昼の暑気がほんのりと立ち上っている。
けれど風は確かに涼しく、通り抜けるたびに颯と衣擦れを鳴らし、肌を撫でるその感触には、夏とはちがう穏やかさがあった。
稗田邸の書斎は、いつも以上に静かだった。
外から聞こえてくる虫の声――リーン、リーンと鋭く澄んだ秋の音色――が、筆先の擦れる音と溶け合い、心地よいリズムを刻んでいる。
障子越しに差し込む光は柔らかく、紙に淡い陰影を作っていた。
――幻想郷縁起の編纂。
この作業は、私にとって心を最も落ち着かせてくれる時間だ。
記す言葉は幻想郷の歴史であり、人々の記憶であり、そして未来へ渡すべき形なき宝。
――そう、いつもなら。
「……あ」
小さく漏れた声とともに、筆が止まった。
視線を横に向けると、机の端に積まれている数冊の本が目に入る。和綴じの背表紙を見た瞬間、胸の奥で何かがコトリと音を立てて落ちた。
(……貸本屋の返却日、今日でしたね)
鈴奈庵から借りていた資料。
幻想郷縁起を書くうえでとても参考になったものだが、期限を過ぎるわけにもいかない。
そろそろ返しに行かなければ――そう思うのだが、積まれた本に手を伸ばしてみて、思わず首をひねった。
「……けっこう重いですね」
一冊一冊は大した重さではないものの、これだけまとまると背負うのは少し骨が折れそうだ。
書斎に積もった静けさの中で、私はふと、ある人物の姿を探した。
「創英さんに……手伝ってもらいましょうか」
自然と口をついて出た名前。
彼なら、こういう時は「任せろ」と言ってくれるだろう。
私は席を立ち、まずは廊下を、次に庭先を、裏口を、縁側を――いつも彼がいる場所を順に見て回る。
しかし。
「……何処にもいませんね」
縁側でほうき片手に掃いていたり、庭木の剪定をしたり、あるいは縁側に腰かけてぼんやり空を眺めていたり。
ここ数日、そんな姿をよく見かけていただけに、今日の不在は少しだけ意外だった。
(外出でしょうか……お仕事か、あるいは寺子屋か……)
一瞬、胸の奥をくすぐるような寂しさが過ぎった。
けれどそんなものはすぐにかき消して、私はいつも通りの顔で風呂敷を取り出す。
本を一冊ずつ丁寧に包みながら、ふと、彼の手つきを思い出してしまう。
なぜだか分からないが、最近はよく、ちょっとした瞬間に彼の姿が思い浮かぶようになってしまった。
「……考えても仕方ありませんね」
自分に言い聞かせるように息を吐き、きゅっと風呂敷の紐を締める。
背負ってみると、やはりずっしりとした重みが肩に乗る。
「行ってきます」
書斎を出る時、誰に向けたでもない声が自然と漏れた。
自分でも少し驚きながら、稗田邸の門をゆっくりとくぐる。
九月の昼下がり。
秋へと向かう風が私の袖を揺らし、本の重みとともに、静かな一日が始まるのを告げていた。
⸻
秋へと向かう風は、どこか優しかった。
けれど――背に負った本の重みは、歩くたびにじわりと肩へ食い込んでくる。
風呂敷の中で本が揺れるたび、ぎゅ、ぎゅ、と軋む音がして、まるで小さな文句を言われているかのようだ。
「……やっぱり、創英さんが戻るまで待てばよかったでしょうか」
思わず漏れた独り言に、自分で苦笑する。
いや、彼に頼りすぎるのも良くない……と頭では分かっている。
分かってはいるのだけれど、最近はどうしても“居てくれるのが当たり前”になりつつあって――。
(……いけませんね。彼に依存しているみたいです)
軽く頬を叩いて気を引き締めつつ、人里の通りへ入る。
昼下がりの里は活気に満ちていた。
店先には秋の果物が並び、行商の声、子どもたちの笑い声、どこかの家から漂ってくる味噌汁の香り――さまざまな生活音が柔らかく混じり合い、里の鼓動となって響いている。
私が歩いていると、左右から次々と声が飛んできた。
「おや、阿求様じゃないか。今日はお一人で?」
「まあまあ、お日の下を歩かれるなんて珍しいですね」
……いつもの光景だ。
里の有力者として顔が知られている以上、こうした挨拶はむしろ日常で、嫌いではない。
けれど、この日はどうにも胸の奥にひっかかりがあった。
それは、ある商家の奥さんに声をかけられたときだった。
「そういえば阿求様、今日は彼氏さんはご一緒じゃないのかい?」
「最近はいつも、お二人で歩いてるからさぁ」
「…………っ」
頬が一瞬で熱を帯びた。
背負っている本よりもずっと重い何かが胸の奥に落ちてくる。
「ち、違いますっ!! 彼氏だなんてそんな……! 創英さんは、ただの居候で……!」
「はいはい、そういうことにしとくわね」
くすくす、と楽しげな笑い声が背中に刺さる。
阿求様は照れると可愛らしい、といわんばかりの含み笑いも混じっている。
(もうっ……! どうして皆さん、そうやって……)
創英さんが横にいてくれれば、きっと困ったように笑って「違いますよ」と軽く流してくれたはずだ。
そう思うと、足元がむず痒く、かすかな寂しさまでこみ上げてくる。
(唐変木……本当に、肝心なときに限って居ないんですから)
ぷくっと頬を膨らませながらも、私は前へ進む。
やがて、見慣れた木造の建物が視界に入った。
――貸本屋 鈴奈庵。
引き戸の前に立つと、ほのかな紙と墨の香りが鼻をくすぐった。
創英さんが以前、「ここは品揃えが良くて落ち着く」と話していたのを思い出す。
(そういえば、創英さん……小鈴とも仲がいいんですよね)
胸が、ちくりと刺さった。
別に、やましいことがあるわけではないと分かっている。
分かってはいるのだけれど――想像すると、どうにも落ち着かない。
そんな自分を振り払うように、一度深呼吸してから引き戸に手を伸ばした。
その、直前。
「……っ、こ、ここ、支えてて、ください……!」
「分かった! そのまま、そのままだぞ、小鈴!」
中から聞こえてきたのは、息の上がったような焦った声。
そして――
「大丈夫だ、今支えてるから! 無理するなよ!」
聞き慣れた、優しい低い声。
(……創英、さん?)
心臓が跳ねる。
戸越しに伝わってくるのは、ただならぬ慌ただしさ……そして、男女の距離が近い時に出るような、妙な緊張感。
(え……えっ……? こ、ここで? 白昼堂々……?)
脳裏を駆け巡るのは、決して健全とは言えない妄想の数々。
頬から耳にかけて、みるみる熱が広がっていく。
(ま、まさか……そんな……! でも声の感じが……!)
胸の奥で、訳のわからない焦燥が渦巻いた。
そして、気づけば私は――
「――白昼堂々、何をしでかしているんですか創英さんっ!!」
――勢いのままに、がらん、と戸を開け放っていた。
「っ……あ、阿求……?」
素っ頓狂な声と共に私の視界に飛び込んできたのは、想像していたような艶めいた光景ではなく。
ぐらつく大きな本棚を、小鈴が必死に肩で支えている姿。
その横で、創英さんが袖をまくり、傷んだ木枠を抑えながらどうにか持ちこたえている姿。
そして二人の頭上には、今にも落ちてきそうな古書の束……。
それは極めて健全であり、そして極めて切羽詰まった現実だった。
「……え? あ……?」
脳が一瞬で真っ白になった。
思考が追いつかない。口も動かない。
ただ、さっきまで自分が想像していた“いけない光景”だけが脳内をぐるぐる反復して……。
「あ、阿求……? ひ、ひまじゃないなら、手伝ってくれると……助かるんだけど……っ!」
小鈴が、本棚の圧に押しつぶされそうになりながら叫ぶ。
必死さが伝わってきて、慌てて我に返った。
「は、はいっ!? す、すみません!! 何をすれば……!」
「右側の棚板、押さえて! そこ、いまにも外れそうで!」
「わ、分かりました!」
私は慌てて駆け寄り、言われた場所に手を添える。
途端に棚の重みがどっと腕にかかり、肩がびくりと震えた。
「……お、重い……!」
「だろ? 小鈴一人じゃ危なかった」
創英さんが、少し汗をにじませながら言った。
いつもと変わらぬ落ち着いた声。
その声が逆に、私の恥ずかしさを刺激した。
「さっきは……すまん。中で何が起きてるか分からなかったんだろ?」
「~~~~っ!! い、言わないでください!!」
恥ずかしすぎて、全身が熱い。
棚の重みより、羞恥の方が耐えられない。
「阿求、顔真っ赤だよ……!? あの、ほんとに大丈夫!? 棚、押さえながら倒れたりしないよね!?」
「倒れませんっ! 大丈夫です!!」
動揺して声が上ずる。
(なにを想像してたの!? 本当に私は、一体何を……!?)
頭を抱えられないのが、逆に苦痛だった。
「……とりあえず固定するぞ。小鈴、釘は?」
「ここです、兄さん!」
創英さんがしっかり木枠を押さえ、小鈴が釘を渡し、
私はひたすら棚が傾かないように支える。
奇妙な連携プレーが十数秒続いたあと――
「よし、これで大丈夫だろう」
カンッ、と最後の釘が収まり、棚が安定した。
創英さんがそっと手を離すと、傾きも消え、倒れる気配もなくなる。
小鈴がほぅっと大きく息を吐いた。
「助かりました……! あとちょっとで、私、下敷きでした……」
「ほんとに危なかったな。怪我とかしてないか?」
「大丈夫ですよ。兄さんのおかげです」
二人が笑い合う光景は、とても自然で、どこか温かい。
……それが、胸の奥に小さな棘のように刺さって、痛い。
(そんな優しい声……私の時も、かけてくださいましたけど……)
自分でも嫉妬だと分かる感情が、静かに疼いていた。
ふと、創英さんがこちらを見た。
「阿求もありがとうな。おかげで助かったよ」
その穏やかな声に返事をしようとしたのだが――
「……あ、あの……私……」
言葉が喉につかえた。
なぜなら、小鈴がじーっと、いやらしいほどにじぃ〜っと、私の顔を見ていたからだ。
「ねえねえ、阿求さぁん?」
「……な、なんでしょう……?」
「さっきの“白昼堂々なにをしでかしているんですか”って……」
「っ~~~~!!」
「阿求は一体、何を想像してたんですかぁ~?」
「こ、小鈴っ! あなたには関係ありません!!」
ぶわっと頬が熱くなる。
創英さんが「ん?」と少し首をかしげた。
「そんなに変な言い方だったか?」
「はい。だいぶ変でしたよ。……特に声のトーンが」
「ちょ、ちょっと小鈴!? 説明しなくていいです!!」
羞恥で棚よりも倒れそうになる私。
そんな私を見ながら、創英さんは困ったように、けれど楽しそうに笑っていた。
「意外だな。阿求にも、あんな慌て方する時があるんだ」
「~~~~っ!!」
その柔らかい笑みに、胸の奥がくすぐったくなる。
(……やめてください。そんな顔をされたら……余計に……)
視線をそらすと、まるで追いかけるように創英さんが覗き込んでくる。
「怒った?」
「怒ってませんっ!!」
即答したが、声が少し震えていた。
その震えに気づいたのか、創英さんの表情が僅かに曇る。
「……嫌われた、かと思った」
「そんなわけないじゃないですかっ!!」
勢い余って大きめの声が出る。
創英さんはきょとんと目を瞬かせ、それから安堵したように微笑んだ。
――その笑顔が、また胸を刺した。
「……もうっ」
思わず口の中で呟いてしまう。
(どうして、そんな顔をするんですか……)
小鈴が、そのやり取りを見て、じとーっとした視線を送ってきた。
「あっま~……。砂糖菓子みたいに甘いわ~……」
「うるさいです小鈴!」
「はいはい、ごちそうさまでーす」
全身から湯気が出そうな勢いで、私はぷいと顔を背けた。
こうして本棚騒動は、ようやく一段落したのだった。
⸻
棚の騒動もひと段落し、ようやく店内に落ち着きが戻った。
私は息を整え、小さく咳払いをしてから風呂敷を開いた。
「あの……本の返却をお願いします」
「はぁい。いつもありがとうございます~」
小鈴は慣れた手つきで帳面を取り出し、ぱらぱらとページをめくっていく。
その横で、創英さんは工具を片づけながら、私の方をちらりと見た。
「その本、重かったろう。悪かったな、今日は付いててやれなくってさ」
「だ、大丈夫ですよ。私、一応これくらいは運べます」
「そうか? でも、無理はしないでくれよ」
さらりと、そんな優しいことを言う。
その声が耳に触れただけで、胸の奥がふわっと熱くなる。
(……不意にそういうことを言うの、本当にやめてほしいです)
そんな内心を悟られないよう、私は視線を本に落とすふりをした。
「はぁい、返却完了っと……」
小鈴が帳面に日付を書き込みながら、にまにまと笑っている。
嫌な予感がした。
「ところで阿求?」
「……はい?」
「さっきの“白昼堂々~”のやつなんだけど」
「っ!! ま、まだ言うんですか!?」
「だぁって気になるんだもん! ねえねえ、一体何を想像して――」
「――小鈴」
少しだけトーンの低い、静かで落ち着いた声が小鈴の言葉を遮った。
創英さんが片眉を上げ、ほんの少しだけ困った顔をしている。
「それ以上は揶揄わないでやってくれ。……阿求が本気で困ってるだろ」
「えぇ~? 兄さんがそういう反応するってことは、本当は気になってるんじゃないんですか~?」
「違う。……阿求が困ってるのは、俺も嫌なだけだ」
「~~~~~っ!!?」
――その返答はこっちが困るんですけど!?
言葉にできない悲鳴が胸の奥で弾け、私は慌てて顔をそむけた。
耳の先までとても熱い。溶けてしまいそうだ。
(……どうして。どうして、そんな自然な顔で……そんなことを……)
小鈴は「あぁ~~~」とわざとらしいため息をつきながら、
「ごちそうさまでした。これはもう、上等の甘味だわ……」
「うるさいです小鈴!!」
もう一度叫ぶと、小鈴はくすくす笑った。
「はいはい。それじゃ、またいつでも借りに来てくださいね。……阿求も、創英兄さんも」
その最後の一言に、どこか含みを感じてしまう私は、やっぱり少しおかしいのだろうか。
「それじゃあ、行くか」
創英さんの声に、私は風呂敷を結び直し、店を出る準備をする。
引き戸を開けると、夕暮れの光が静かに差し込んだ。
淡い橙色が鈴奈庵の床に伸び、埃を金色に輝かせる。
「ありがとうございましたー!」
明るく響く小鈴の声を背に、私たちは鈴奈庵を後にした。
⸻
外に出ると、風が少し冷たくなっていた。
秋の匂いが、昼よりはっきりしている。
私達は並んで歩き出す。いつもなら何とも思わない距離なのに――今日はやけに意識してしまって、歩幅を合わせるのが難しかった。
(……本当に、私はどうしちゃったんでしょう)
隣を見ると、創英さんは夕暮れの光を浴びていた。
柔らかい光が頬の線をなぞり、どこか優しげな影を作る。
それを見ているだけで、胸の奥がざわついた。
(……落ち着きません)
普段なら、創英さんと並んで歩くのは自然なことだ。
むしろ、安心すらする距離だったはずなのに。
今日は、どうにも呼吸が浅くなる。
夕陽が長い影を作り、二人分の影が足元で寄り添う。
その近さがまた、胸をざわつかせた。
「……さっきは悪かったな」
ぽつり、と創英さんが言った。
私は一瞬返事が遅れてしまう。
「え? ……な、何がですか?」
「本棚のことじゃなくて……えっと、阿求を困らせた、というか」
「こ、困ってなんて……」
否定しようとしたけれど、頬が熱くなるのが分かる。
ごまかすつもりが、逆にバレる。
「困ってただろ。顔が、すごかった」
「~~~~~っ!!」
曖昧に笑うような、そんな困った顔を私に向ける。
それにつられるようにして思い出してしまい、私は視線を地面に落とした。
(見ないでくださいその顔で……!)
けれど創英さんは、何事もないように続ける。
「でも、来てくれて助かった。本当は少し危なかったんだ。小鈴も、俺も」
その優しい声音が夕暮れの風に溶け、胸に触れてくる。
少しの安堵と、少しの悔しさがないまぜになる。
「……仲、いいんですね」
気づけば、思ってもない言葉が口から漏れていた。
創英さんがきょとんとする。
「ん? 誰と?」
「……小鈴と、ですよ」
自分で言った瞬間、しまった、と思った。
論理的にも筋が通らない。
ただの感情論。
本当に子どもみたいだ。
「仲……? まあ、兄妹みたいなもんかな」
創英さんは笑って肩をすくめた。
「大したものではないけど、小鈴はよく怪我をするからな。気付くと手を貸すことが多くてさ。そうしてる内に、いつの間にか兄さん呼びなんかされちゃって。……良い子だよ、小鈴は」
「……それは、そうでしょうけど」
納得しているのに……どこか納得したくない。
(……いや、何を考えてるんです私は)
胸の中に生まれた、名前のつかない感情が疼く。
「むしろ今日は運が悪かったよ。阿求に誤解されるとは思わなかった」
「っ!?」
「“白昼堂々なにをしでかしているんですか創英さん”って」
「言わないでくださいーーー!!」
両手で耳を塞ぎ、思わずしゃがみ込みそうになる。
創英さんが思わず苦笑しながら、そっと私の肩をつついた。
「そんな怒るなよ」
「怒ってません……ただ……恥ずかしいだけです……」
消え入りそうな声で返すと、創英さんはふと黙り込んだ。
しばし沈黙が落ち、風が二人の間を抜けていく。
「……俺さ、嫌われたかと思ったんだよ」
不意に落ちてきたその言葉に、胸が跳ねた。
「は、はぁ!? ……嫌いじゃ、ありませんよっ!」
「そっか。よかった」
本当に、嬉しそうに微笑む。
その笑顔を見た瞬間、胸のどこかがぎゅっと締めつけられ、思わず俯いてしまう。
「寧ろ……私の態度の方が、あなたを不快にさせたのではと……」
「そんなことはないさ。俺が阿求を嫌うわけないだろ。それに……」
そんな発言を聞いて、私は顔を上げる。
創英さんは、本当になんでもないことのように……穏やかな顔で、私を見つめながら、こう言った。
「阿求が頼りにしてくれるから、俺も嬉しいんだよ」
一瞬、ほんの一瞬だけ、頭の中が真っ白になる。
そして次第に……波のような感情が、わぁっと胸の中を満たした。
(……ずるいです。そんな顔、ずるいですよ)
言えない言葉が喉元で渦巻く。
でも、口に出せない。
だから私は、せめてもの抵抗として言った。
「……次からは、心配させないようにしてくださいね」
「心配してくれたのか?」
「し、してないです!! あ、い、いやっ……してない訳ではなくて、ただ……その……!」
しどろもどろになる私の横で、創英さんは穏やかに笑っていた。
「まあでも……阿求が飛び込んで来たとき、なんか必死な顔をしてて……ちょっと可愛かったな」
「~~~~~~~っ!!!!」
その一言で、私は再起不能になった。
夕暮れの帰り道は、
しばらくの間まともに創英さんの顔を見ることができなかった。
⸻
夜の帳が静かに落ち、稗田邸にも深い影が満ち始めていた。
夕餉を終え、湯で温まり、部屋に戻ってきたというのに――私の心だけは、どうにも落ち着かなかった。
寝台に腰掛け、ぼんやりと天井を見上げる。
障子越しに虫の声が響き、秋の気配をもたらしていた。
(……今日は、一体どうしてしまったのでしょう)
考えるほどに疲れそうなのに、考えずにはいられない。
むしろ、考えるなと言われたほうが難しいくらいに、頭が“彼”で埋まっていた。
創英さん。
幻想郷の外から来た少年。
ほんの一ヶ月前までは、名前も知らなかった。それなのに――今は。
(……あの笑顔が、ずるいんです)
夕暮れの帰り道で見た、ほっとしたような、安心したような……
あの穏やかな眼差しが、今も胸の奥に残り続けている。
まぶたを閉じると、自然とその表情が浮かんできて、
その度に胸がきゅっと、痛いほどに締め付けられる。
「~~~~っ……」
思わず枕を抱きしめ、その上に顔を埋めた。
(落ち着きなさい、稗田阿求。あなたはもっと冷静な人間だったはずです)
けれど、冷静になろうとするほど逆効果だった。
次から次へと、昼間の出来事が蘇ってくる。
鈴奈庵の本棚でのやり取り。
小鈴のにやにやした視線。
“阿求、顔が真っ赤だったぞ”。
そして――『阿求が飛び込んで来たときの顔、かわいかった』
「か、かわっ……? 私が……?」
私はあえなく撃沈し、布団の中で悶絶する羽目になった。
(違います……あれは驚いたからで……! ……かわいいなんて、そんな、そんな……)
頭がぐるぐるする。
身体の奥が熱い。
思考が、いつものように整理できない。
枕を抱え、くるりと寝返りを打つ。
「……私、こんなにも弱かったでしょうか」
小さく呟いた声は、少し震えていた。
情けなくて、苦しくて、でもどこか嬉しくて。
(ああ、もう……小鈴のこと、少し気にしすぎですよね)
あの軽口。
あの遠慮ない笑顔。
創英さんと話しているときの、距離の近さ。
思い出すと胸がざわつく。
(“仲がいいんですね”なんて……何を聞いているんです私は)
自分で自分に突っ込みたくなる。
本当に、どうかしている。
けれど――その直後に彼が言った言葉を思い返し、胸がまた熱を帯びる。
『阿求を嫌うわけないだろ。阿求が頼りにしてくれるから……俺も嬉しいんだよ』
耳に残ったその声音は、嘘や気遣いではなく、ただの“本音”だった。
それが、解ってしまったから。
(……そんなこと、言われたら)
心が浮き立つのを止められるわけがない。
そしてまたひとつ、思い出す。
八月初頭のあの日――紅霧異変の一件で、彼が死にかけたと聞いた時のこと。
胸の奥が、きゅっと痛む。
あの時は、本気で心が折れた。
(……あれほど取り乱したのは、何時ぶりだったでしょうか)
転生を重ね、感情の扱いには慣れているつもりだった。
けれど、彼のことになるとどうしても制御できない。
私は知っている。
この想いがどれほど危ういものなのか。
(私は……“御阿礼の子”なのです)
人間の里の記録者。
稗田の娘。
短命であることを理解して生まれた者。
だからこそ――心を乱すべきではない。
特定の誰かを、深く想ってはいけない。
そう、わかっているのに。
「……どうして、こんなにも」
胸に手を当てると、脈が早い。
恋なんて、もっと穏やかなものだと思っていた。
けれど、実際はこんなにも苦しくて、息が詰まる。
しかし、不思議と嫌ではない。
(あの人の笑顔を見る度に……心が揺れてしまうのです)
それが嬉しいのか、怖いのか。
まだよく分からなかった。
けれど――分かっていることがひとつある。
(私は……創英さんのことが、好きなのだと思います)
そう自覚しただけで、顔が熱くなり、胸がぎゅうっと締め付けられた。
布団に潜り込み、枕を抱え、もう一度転がる。
「はぁ……どうしましょう……」
たぶん、今日は眠れない。
明日になっても、この気持ちは消えない。
むしろ、もっと大きくなってしまうかもしれない。
(それでも……)
ほんの少しだけ、心がふっと軽くなる。
(創英さんのそばにいる時間が、やっぱり私は好きなのです)
その事実だけは、素直に受け入れられた。
虫の声が遠くで響き、夜風が障子をかすかに揺らした。
その音に包まれながら、私は胸の奥で静かに恋心を抱きしめ続けた。