幻想回帰節   作:北宮 涼

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37の節:鈴奈庵にて

◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

◆ side:稗田 阿求 ◆

 

 九月の初め。

 暦の上ではすでに秋だというのに、空の色はまだ青く深く、どこか夏の残り香を手放しきれずにいた。

 照りつける日差しは和らいだとはいえ、庭の石畳からは昼の暑気がほんのりと立ち上っている。

 けれど風は確かに涼しく、通り抜けるたびに颯と衣擦れを鳴らし、肌を撫でるその感触には、夏とはちがう穏やかさがあった。

 

 稗田邸の書斎は、いつも以上に静かだった。

 外から聞こえてくる虫の声――リーン、リーンと鋭く澄んだ秋の音色――が、筆先の擦れる音と溶け合い、心地よいリズムを刻んでいる。

 障子越しに差し込む光は柔らかく、紙に淡い陰影を作っていた。

 

 ――幻想郷縁起の編纂。

 この作業は、私にとって心を最も落ち着かせてくれる時間だ。

 記す言葉は幻想郷の歴史であり、人々の記憶であり、そして未来へ渡すべき形なき宝。

 ――そう、いつもなら。

 

「……あ」

 

 小さく漏れた声とともに、筆が止まった。

 視線を横に向けると、机の端に積まれている数冊の本が目に入る。和綴じの背表紙を見た瞬間、胸の奥で何かがコトリと音を立てて落ちた。

 

(……貸本屋の返却日、今日でしたね)

 

 鈴奈庵から借りていた資料。

 幻想郷縁起を書くうえでとても参考になったものだが、期限を過ぎるわけにもいかない。

 そろそろ返しに行かなければ――そう思うのだが、積まれた本に手を伸ばしてみて、思わず首をひねった。

 

「……けっこう重いですね」

 

 一冊一冊は大した重さではないものの、これだけまとまると背負うのは少し骨が折れそうだ。

 書斎に積もった静けさの中で、私はふと、ある人物の姿を探した。

 

「創英さんに……手伝ってもらいましょうか」

 

 自然と口をついて出た名前。

 彼なら、こういう時は「任せろ」と言ってくれるだろう。

 私は席を立ち、まずは廊下を、次に庭先を、裏口を、縁側を――いつも彼がいる場所を順に見て回る。

 しかし。

 

「……何処にもいませんね」

 

 縁側でほうき片手に掃いていたり、庭木の剪定をしたり、あるいは縁側に腰かけてぼんやり空を眺めていたり。

 ここ数日、そんな姿をよく見かけていただけに、今日の不在は少しだけ意外だった。

 

(外出でしょうか……お仕事か、あるいは寺子屋か……)

 

 一瞬、胸の奥をくすぐるような寂しさが過ぎった。

 けれどそんなものはすぐにかき消して、私はいつも通りの顔で風呂敷を取り出す。

 本を一冊ずつ丁寧に包みながら、ふと、彼の手つきを思い出してしまう。

 なぜだか分からないが、最近はよく、ちょっとした瞬間に彼の姿が思い浮かぶようになってしまった。

 

「……考えても仕方ありませんね」

 

 自分に言い聞かせるように息を吐き、きゅっと風呂敷の紐を締める。

 背負ってみると、やはりずっしりとした重みが肩に乗る。

 

「行ってきます」

 

 書斎を出る時、誰に向けたでもない声が自然と漏れた。

 自分でも少し驚きながら、稗田邸の門をゆっくりとくぐる。

 九月の昼下がり。

 秋へと向かう風が私の袖を揺らし、本の重みとともに、静かな一日が始まるのを告げていた。

 

 

 

 

 秋へと向かう風は、どこか優しかった。

 けれど――背に負った本の重みは、歩くたびにじわりと肩へ食い込んでくる。

 風呂敷の中で本が揺れるたび、ぎゅ、ぎゅ、と軋む音がして、まるで小さな文句を言われているかのようだ。

 

「……やっぱり、創英さんが戻るまで待てばよかったでしょうか」

 

 思わず漏れた独り言に、自分で苦笑する。

 いや、彼に頼りすぎるのも良くない……と頭では分かっている。

 分かってはいるのだけれど、最近はどうしても“居てくれるのが当たり前”になりつつあって――。

 

(……いけませんね。彼に依存しているみたいです)

 

 軽く頬を叩いて気を引き締めつつ、人里の通りへ入る。

 

 昼下がりの里は活気に満ちていた。

 店先には秋の果物が並び、行商の声、子どもたちの笑い声、どこかの家から漂ってくる味噌汁の香り――さまざまな生活音が柔らかく混じり合い、里の鼓動となって響いている。

 

 私が歩いていると、左右から次々と声が飛んできた。

 

「おや、阿求様じゃないか。今日はお一人で?」

「まあまあ、お日の下を歩かれるなんて珍しいですね」

 

 ……いつもの光景だ。

 里の有力者として顔が知られている以上、こうした挨拶はむしろ日常で、嫌いではない。

 けれど、この日はどうにも胸の奥にひっかかりがあった。

 それは、ある商家の奥さんに声をかけられたときだった。

 

「そういえば阿求様、今日は彼氏さんはご一緒じゃないのかい?」

「最近はいつも、お二人で歩いてるからさぁ」

「…………っ」

 

 頬が一瞬で熱を帯びた。

 背負っている本よりもずっと重い何かが胸の奥に落ちてくる。

 

「ち、違いますっ!! 彼氏だなんてそんな……! 創英さんは、ただの居候で……!」

「はいはい、そういうことにしとくわね」

 

 くすくす、と楽しげな笑い声が背中に刺さる。

 阿求様は照れると可愛らしい、といわんばかりの含み笑いも混じっている。

 

(もうっ……! どうして皆さん、そうやって……)

 

 創英さんが横にいてくれれば、きっと困ったように笑って「違いますよ」と軽く流してくれたはずだ。

 そう思うと、足元がむず痒く、かすかな寂しさまでこみ上げてくる。

 

(唐変木……本当に、肝心なときに限って居ないんですから)

 

 ぷくっと頬を膨らませながらも、私は前へ進む。

 やがて、見慣れた木造の建物が視界に入った。

 

 ――貸本屋 鈴奈庵。

 引き戸の前に立つと、ほのかな紙と墨の香りが鼻をくすぐった。

 創英さんが以前、「ここは品揃えが良くて落ち着く」と話していたのを思い出す。

 

(そういえば、創英さん……小鈴とも仲がいいんですよね)

 

 胸が、ちくりと刺さった。

 別に、やましいことがあるわけではないと分かっている。

 分かってはいるのだけれど――想像すると、どうにも落ち着かない。

 

 そんな自分を振り払うように、一度深呼吸してから引き戸に手を伸ばした。

 その、直前。

 

「……っ、こ、ここ、支えてて、ください……!」

「分かった! そのまま、そのままだぞ、小鈴!」

 

 中から聞こえてきたのは、息の上がったような焦った声。

 そして――

 

「大丈夫だ、今支えてるから! 無理するなよ!」

 

 聞き慣れた、優しい低い声。

 

(……創英、さん?)

 

 心臓が跳ねる。

 戸越しに伝わってくるのは、ただならぬ慌ただしさ……そして、男女の距離が近い時に出るような、妙な緊張感。

 

(え……えっ……? こ、ここで? 白昼堂々……?)

 

 脳裏を駆け巡るのは、決して健全とは言えない妄想の数々。

 頬から耳にかけて、みるみる熱が広がっていく。

 

(ま、まさか……そんな……! でも声の感じが……!)

 

 胸の奥で、訳のわからない焦燥が渦巻いた。

 そして、気づけば私は――

 

「――白昼堂々、何をしでかしているんですか創英さんっ!!」

 

 ――勢いのままに、がらん、と戸を開け放っていた。

 

「っ……あ、阿求……?」

 

 素っ頓狂な声と共に私の視界に飛び込んできたのは、想像していたような艶めいた光景ではなく。

 ぐらつく大きな本棚を、小鈴が必死に肩で支えている姿。

 その横で、創英さんが袖をまくり、傷んだ木枠を抑えながらどうにか持ちこたえている姿。

 そして二人の頭上には、今にも落ちてきそうな古書の束……。

 

 それは極めて健全であり、そして極めて切羽詰まった現実だった。

 

「……え? あ……?」

 

 脳が一瞬で真っ白になった。

 思考が追いつかない。口も動かない。

 ただ、さっきまで自分が想像していた“いけない光景”だけが脳内をぐるぐる反復して……。

 

「あ、阿求……? ひ、ひまじゃないなら、手伝ってくれると……助かるんだけど……っ!」

 

 小鈴が、本棚の圧に押しつぶされそうになりながら叫ぶ。

 必死さが伝わってきて、慌てて我に返った。

 

「は、はいっ!? す、すみません!! 何をすれば……!」

「右側の棚板、押さえて! そこ、いまにも外れそうで!」

「わ、分かりました!」

 

 私は慌てて駆け寄り、言われた場所に手を添える。

 途端に棚の重みがどっと腕にかかり、肩がびくりと震えた。

 

「……お、重い……!」

「だろ? 小鈴一人じゃ危なかった」

 

 創英さんが、少し汗をにじませながら言った。

 いつもと変わらぬ落ち着いた声。

 その声が逆に、私の恥ずかしさを刺激した。

 

「さっきは……すまん。中で何が起きてるか分からなかったんだろ?」

「~~~~っ!! い、言わないでください!!」

 

 恥ずかしすぎて、全身が熱い。

 棚の重みより、羞恥の方が耐えられない。

 

「阿求、顔真っ赤だよ……!? あの、ほんとに大丈夫!? 棚、押さえながら倒れたりしないよね!?」

「倒れませんっ! 大丈夫です!!」

 

 動揺して声が上ずる。

 

(なにを想像してたの!? 本当に私は、一体何を……!?)

 

 頭を抱えられないのが、逆に苦痛だった。

 

「……とりあえず固定するぞ。小鈴、釘は?」

「ここです、兄さん!」

 

 創英さんがしっかり木枠を押さえ、小鈴が釘を渡し、

 私はひたすら棚が傾かないように支える。

 奇妙な連携プレーが十数秒続いたあと――

 

「よし、これで大丈夫だろう」

 

 カンッ、と最後の釘が収まり、棚が安定した。

 創英さんがそっと手を離すと、傾きも消え、倒れる気配もなくなる。

 小鈴がほぅっと大きく息を吐いた。

 

「助かりました……! あとちょっとで、私、下敷きでした……」

「ほんとに危なかったな。怪我とかしてないか?」

「大丈夫ですよ。兄さんのおかげです」

 

 二人が笑い合う光景は、とても自然で、どこか温かい。

 ……それが、胸の奥に小さな棘のように刺さって、痛い。

 

(そんな優しい声……私の時も、かけてくださいましたけど……)

 

 自分でも嫉妬だと分かる感情が、静かに疼いていた。

 ふと、創英さんがこちらを見た。

 

「阿求もありがとうな。おかげで助かったよ」

 

 その穏やかな声に返事をしようとしたのだが――

 

「……あ、あの……私……」

 

 言葉が喉につかえた。

 なぜなら、小鈴がじーっと、いやらしいほどにじぃ〜っと、私の顔を見ていたからだ。

 

「ねえねえ、阿求さぁん?」

「……な、なんでしょう……?」

「さっきの“白昼堂々なにをしでかしているんですか”って……」

「っ~~~~!!」

「阿求は一体、何を想像してたんですかぁ~?」

「こ、小鈴っ! あなたには関係ありません!!」

 

 ぶわっと頬が熱くなる。

 創英さんが「ん?」と少し首をかしげた。

 

「そんなに変な言い方だったか?」

「はい。だいぶ変でしたよ。……特に声のトーンが」

「ちょ、ちょっと小鈴!? 説明しなくていいです!!」

 

 羞恥で棚よりも倒れそうになる私。

 そんな私を見ながら、創英さんは困ったように、けれど楽しそうに笑っていた。

 

「意外だな。阿求にも、あんな慌て方する時があるんだ」

「~~~~っ!!」

 

 その柔らかい笑みに、胸の奥がくすぐったくなる。

 

(……やめてください。そんな顔をされたら……余計に……)

 

 視線をそらすと、まるで追いかけるように創英さんが覗き込んでくる。

 

「怒った?」

「怒ってませんっ!!」

 

 即答したが、声が少し震えていた。

 その震えに気づいたのか、創英さんの表情が僅かに曇る。

 

「……嫌われた、かと思った」

「そんなわけないじゃないですかっ!!」

 

 勢い余って大きめの声が出る。

 創英さんはきょとんと目を瞬かせ、それから安堵したように微笑んだ。

 ――その笑顔が、また胸を刺した。

 

「……もうっ」

 

 思わず口の中で呟いてしまう。

 

(どうして、そんな顔をするんですか……)

 

 小鈴が、そのやり取りを見て、じとーっとした視線を送ってきた。

 

「あっま~……。砂糖菓子みたいに甘いわ~……」

「うるさいです小鈴!」

「はいはい、ごちそうさまでーす」

 

 全身から湯気が出そうな勢いで、私はぷいと顔を背けた。

 こうして本棚騒動は、ようやく一段落したのだった。

 

 

 

 

 棚の騒動もひと段落し、ようやく店内に落ち着きが戻った。

 私は息を整え、小さく咳払いをしてから風呂敷を開いた。

 

「あの……本の返却をお願いします」

「はぁい。いつもありがとうございます~」

 

 小鈴は慣れた手つきで帳面を取り出し、ぱらぱらとページをめくっていく。

 その横で、創英さんは工具を片づけながら、私の方をちらりと見た。

 

「その本、重かったろう。悪かったな、今日は付いててやれなくってさ」

「だ、大丈夫ですよ。私、一応これくらいは運べます」

「そうか? でも、無理はしないでくれよ」

 

 さらりと、そんな優しいことを言う。

 その声が耳に触れただけで、胸の奥がふわっと熱くなる。

 

(……不意にそういうことを言うの、本当にやめてほしいです)

 

 そんな内心を悟られないよう、私は視線を本に落とすふりをした。

 

「はぁい、返却完了っと……」

 

 小鈴が帳面に日付を書き込みながら、にまにまと笑っている。

 嫌な予感がした。

 

「ところで阿求?」

「……はい?」

「さっきの“白昼堂々~”のやつなんだけど」

「っ!! ま、まだ言うんですか!?」

「だぁって気になるんだもん! ねえねえ、一体何を想像して――」

「――小鈴」

 

 少しだけトーンの低い、静かで落ち着いた声が小鈴の言葉を遮った。

 創英さんが片眉を上げ、ほんの少しだけ困った顔をしている。

 

「それ以上は揶揄わないでやってくれ。……阿求が本気で困ってるだろ」

「えぇ~? 兄さんがそういう反応するってことは、本当は気になってるんじゃないんですか~?」

「違う。……阿求が困ってるのは、俺も嫌なだけだ」

「~~~~~っ!!?」

 

 ――その返答はこっちが困るんですけど!?

 言葉にできない悲鳴が胸の奥で弾け、私は慌てて顔をそむけた。

 耳の先までとても熱い。溶けてしまいそうだ。

 

(……どうして。どうして、そんな自然な顔で……そんなことを……)

 

 小鈴は「あぁ~~~」とわざとらしいため息をつきながら、

 

「ごちそうさまでした。これはもう、上等の甘味だわ……」

「うるさいです小鈴!!」

 

 もう一度叫ぶと、小鈴はくすくす笑った。

 

「はいはい。それじゃ、またいつでも借りに来てくださいね。……阿求も、創英兄さんも」

 その最後の一言に、どこか含みを感じてしまう私は、やっぱり少しおかしいのだろうか。

 

「それじゃあ、行くか」

 

 創英さんの声に、私は風呂敷を結び直し、店を出る準備をする。

 引き戸を開けると、夕暮れの光が静かに差し込んだ。

 淡い橙色が鈴奈庵の床に伸び、埃を金色に輝かせる。

 

「ありがとうございましたー!」

 

 明るく響く小鈴の声を背に、私たちは鈴奈庵を後にした。

 

 

 

 

 外に出ると、風が少し冷たくなっていた。

 秋の匂いが、昼よりはっきりしている。

 

 私達は並んで歩き出す。いつもなら何とも思わない距離なのに――今日はやけに意識してしまって、歩幅を合わせるのが難しかった。

 

(……本当に、私はどうしちゃったんでしょう)

 

 隣を見ると、創英さんは夕暮れの光を浴びていた。

 柔らかい光が頬の線をなぞり、どこか優しげな影を作る。

 それを見ているだけで、胸の奥がざわついた。

 

(……落ち着きません)

 

 普段なら、創英さんと並んで歩くのは自然なことだ。

 むしろ、安心すらする距離だったはずなのに。

 今日は、どうにも呼吸が浅くなる。

 夕陽が長い影を作り、二人分の影が足元で寄り添う。

 その近さがまた、胸をざわつかせた。

 

「……さっきは悪かったな」

 

 ぽつり、と創英さんが言った。

 私は一瞬返事が遅れてしまう。

 

「え? ……な、何がですか?」

「本棚のことじゃなくて……えっと、阿求を困らせた、というか」

「こ、困ってなんて……」

 

 否定しようとしたけれど、頬が熱くなるのが分かる。

 ごまかすつもりが、逆にバレる。

 

「困ってただろ。顔が、すごかった」

「~~~~~っ!!」

 

 曖昧に笑うような、そんな困った顔を私に向ける。

 それにつられるようにして思い出してしまい、私は視線を地面に落とした。

 

(見ないでくださいその顔で……!)

 

 けれど創英さんは、何事もないように続ける。

 

「でも、来てくれて助かった。本当は少し危なかったんだ。小鈴も、俺も」

 

 その優しい声音が夕暮れの風に溶け、胸に触れてくる。

 少しの安堵と、少しの悔しさがないまぜになる。

 

「……仲、いいんですね」

 

 気づけば、思ってもない言葉が口から漏れていた。

 創英さんがきょとんとする。

 

「ん? 誰と?」

「……小鈴と、ですよ」

 

 自分で言った瞬間、しまった、と思った。

 論理的にも筋が通らない。

 ただの感情論。

 本当に子どもみたいだ。

 

「仲……? まあ、兄妹みたいなもんかな」

 

 創英さんは笑って肩をすくめた。

 

「大したものではないけど、小鈴はよく怪我をするからな。気付くと手を貸すことが多くてさ。そうしてる内に、いつの間にか兄さん呼びなんかされちゃって。……良い子だよ、小鈴は」

「……それは、そうでしょうけど」

 

 納得しているのに……どこか納得したくない。

 

(……いや、何を考えてるんです私は)

 

 胸の中に生まれた、名前のつかない感情が疼く。

 

「むしろ今日は運が悪かったよ。阿求に誤解されるとは思わなかった」

「っ!?」

「“白昼堂々なにをしでかしているんですか創英さん”って」

「言わないでくださいーーー!!」

 

 両手で耳を塞ぎ、思わずしゃがみ込みそうになる。

 創英さんが思わず苦笑しながら、そっと私の肩をつついた。

 

「そんな怒るなよ」

「怒ってません……ただ……恥ずかしいだけです……」

 

 消え入りそうな声で返すと、創英さんはふと黙り込んだ。

 しばし沈黙が落ち、風が二人の間を抜けていく。

 

「……俺さ、嫌われたかと思ったんだよ」

 

 不意に落ちてきたその言葉に、胸が跳ねた。

 

「は、はぁ!? ……嫌いじゃ、ありませんよっ!」

「そっか。よかった」

 

 本当に、嬉しそうに微笑む。

 その笑顔を見た瞬間、胸のどこかがぎゅっと締めつけられ、思わず俯いてしまう。

 

「寧ろ……私の態度の方が、あなたを不快にさせたのではと……」

「そんなことはないさ。俺が阿求を嫌うわけないだろ。それに……」

 

 そんな発言を聞いて、私は顔を上げる。

 創英さんは、本当になんでもないことのように……穏やかな顔で、私を見つめながら、こう言った。

 

「阿求が頼りにしてくれるから、俺も嬉しいんだよ」

 

 一瞬、ほんの一瞬だけ、頭の中が真っ白になる。

 そして次第に……波のような感情が、わぁっと胸の中を満たした。

 

(……ずるいです。そんな顔、ずるいですよ)

 

 言えない言葉が喉元で渦巻く。

 でも、口に出せない。

 だから私は、せめてもの抵抗として言った。

 

「……次からは、心配させないようにしてくださいね」

「心配してくれたのか?」

「し、してないです!! あ、い、いやっ……してない訳ではなくて、ただ……その……!」

 

 しどろもどろになる私の横で、創英さんは穏やかに笑っていた。

 

「まあでも……阿求が飛び込んで来たとき、なんか必死な顔をしてて……ちょっと可愛かったな」

「~~~~~~~っ!!!!」

 

 その一言で、私は再起不能になった。

 夕暮れの帰り道は、

 しばらくの間まともに創英さんの顔を見ることができなかった。

 

 

 

 

 夜の帳が静かに落ち、稗田邸にも深い影が満ち始めていた。

 夕餉を終え、湯で温まり、部屋に戻ってきたというのに――私の心だけは、どうにも落ち着かなかった。

 

 寝台に腰掛け、ぼんやりと天井を見上げる。

 障子越しに虫の声が響き、秋の気配をもたらしていた。

 

(……今日は、一体どうしてしまったのでしょう)

 

 考えるほどに疲れそうなのに、考えずにはいられない。

 むしろ、考えるなと言われたほうが難しいくらいに、頭が“彼”で埋まっていた。

 

 創英さん。

 幻想郷の外から来た少年。

 ほんの一ヶ月前までは、名前も知らなかった。それなのに――今は。

 

(……あの笑顔が、ずるいんです)

 

 夕暮れの帰り道で見た、ほっとしたような、安心したような……

 あの穏やかな眼差しが、今も胸の奥に残り続けている。

 まぶたを閉じると、自然とその表情が浮かんできて、

 その度に胸がきゅっと、痛いほどに締め付けられる。

 

「~~~~っ……」

 

 思わず枕を抱きしめ、その上に顔を埋めた。

 

(落ち着きなさい、稗田阿求。あなたはもっと冷静な人間だったはずです)

 

 けれど、冷静になろうとするほど逆効果だった。

 次から次へと、昼間の出来事が蘇ってくる。

 

 鈴奈庵の本棚でのやり取り。

 小鈴のにやにやした視線。

 “阿求、顔が真っ赤だったぞ”。

 そして――『阿求が飛び込んで来たときの顔、かわいかった』

 

「か、かわっ……? 私が……?」

 

 私はあえなく撃沈し、布団の中で悶絶する羽目になった。

 

(違います……あれは驚いたからで……! ……かわいいなんて、そんな、そんな……)

 

 頭がぐるぐるする。

 身体の奥が熱い。

 思考が、いつものように整理できない。

 枕を抱え、くるりと寝返りを打つ。

 

「……私、こんなにも弱かったでしょうか」

 

 小さく呟いた声は、少し震えていた。

 情けなくて、苦しくて、でもどこか嬉しくて。

 

(ああ、もう……小鈴のこと、少し気にしすぎですよね)

 

 あの軽口。

 あの遠慮ない笑顔。

 創英さんと話しているときの、距離の近さ。

 思い出すと胸がざわつく。

 

(“仲がいいんですね”なんて……何を聞いているんです私は)

 

 自分で自分に突っ込みたくなる。

 本当に、どうかしている。

 けれど――その直後に彼が言った言葉を思い返し、胸がまた熱を帯びる。

 

『阿求を嫌うわけないだろ。阿求が頼りにしてくれるから……俺も嬉しいんだよ』

 

 耳に残ったその声音は、嘘や気遣いではなく、ただの“本音”だった。

 それが、解ってしまったから。

 

(……そんなこと、言われたら)

 

 心が浮き立つのを止められるわけがない。

 そしてまたひとつ、思い出す。

 八月初頭のあの日――紅霧異変の一件で、彼が死にかけたと聞いた時のこと。

 胸の奥が、きゅっと痛む。

 あの時は、本気で心が折れた。

 

(……あれほど取り乱したのは、何時ぶりだったでしょうか)

 

 転生を重ね、感情の扱いには慣れているつもりだった。

 けれど、彼のことになるとどうしても制御できない。

 

 私は知っている。

 この想いがどれほど危ういものなのか。

 

(私は……“御阿礼の子”なのです)

 

 人間の里の記録者。

 稗田の娘。

 短命であることを理解して生まれた者。

 だからこそ――心を乱すべきではない。

 特定の誰かを、深く想ってはいけない。

 そう、わかっているのに。

 

「……どうして、こんなにも」

 

 胸に手を当てると、脈が早い。

 恋なんて、もっと穏やかなものだと思っていた。

 けれど、実際はこんなにも苦しくて、息が詰まる。

 しかし、不思議と嫌ではない。

 

(あの人の笑顔を見る度に……心が揺れてしまうのです)

 

 それが嬉しいのか、怖いのか。

 まだよく分からなかった。

 けれど――分かっていることがひとつある。

 

(私は……創英さんのことが、好きなのだと思います)

 

 そう自覚しただけで、顔が熱くなり、胸がぎゅうっと締め付けられた。

 布団に潜り込み、枕を抱え、もう一度転がる。

 

「はぁ……どうしましょう……」

 

 たぶん、今日は眠れない。

 明日になっても、この気持ちは消えない。

 むしろ、もっと大きくなってしまうかもしれない。

 

(それでも……)

 

 ほんの少しだけ、心がふっと軽くなる。

 

(創英さんのそばにいる時間が、やっぱり私は好きなのです)

 

 その事実だけは、素直に受け入れられた。

 虫の声が遠くで響き、夜風が障子をかすかに揺らした。

 その音に包まれながら、私は胸の奥で静かに恋心を抱きしめ続けた。

 

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