お久しぶりです。北宮涼です。
大変長らくお待たせいたしました。
心身の不調に伴い、何の連絡もないまま半年以上にわたって更新を停止しておりましたが、本話の投稿をもちまして『幻想回帰節』の連載を正式に再開いたします。
今後は『毎週土曜日の12時頃』を目安に更新していく予定です。
またこうして、創英たちの幻想郷での物語を皆様にお届けしていければと思います。
長らく更新のない間も本作をお待ちいただいていた皆様、そして今回また本作を手に取ってくださった皆様、本当にありがとうございます。
改めまして、これからも『幻想回帰節』をよろしくお願いいたします!
また、本投稿に先駆け、各編(章)の最後に、その章の中で登場した人物紹介を投稿しております。
半年以上もの期間更新できなかった分、振り返りが出来るように関係性などにも言及して書いたつもりですので、良ければご一読下さると幸いです。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
竹林の空気が、ぴたりと張った。
風は吹いているはずなのに、葉擦れの音だけがどこか遠い。細く差し込む木漏れ日は、青い竹の節に遮られ、地面の上で途切れ途切れに砕けていた。倒れ伏した妖怪うさぎたちの寝息は静かで、その安堵だけが、かえってこの場の緊張を際立たせている。
鈴仙は一歩、前へ出る。
長い耳がわずかに揺れ、赤い瞳がまっすぐこちらを射抜いた。女学生めいた服装に反して、その立ち姿はあまりにも隙がない。まるで、何度も何度も“撃つべき相手”を見定めてきた者の重心だ。
「改めて言うわ。正規のスペルカードルールに則った弾幕決闘よ」
乾いた声。けれど、その奥にあるのは平静じゃない。
同胞を傷つけられたと思っているのだ。怒るのは当然だし、退けないのも当然だった。
「残機は互いに三。四回目の被弾で敗北」
「分かった」
「……勝てば話を聞く。負けたら、永遠亭まで来てもらう」
俺はゆっくり頷いた。
逃げる気はない。
ここで剣を引けば、疑いは確信になる。ならば、正面から受けるだけだ。
背後で妹紅が小さく息を吐いた気配がした。
口は挟まない。だが、完全に見放しているわけでもない。距離を取りながら立っているだけで、その不器用な信頼が分かってしまう。
一方で、竹の上へひらりと飛び乗ったてゐが、愉快そうに足を揺らした。
「いやぁ、いいねぇ。竹林で正規の弾幕ごっこなんて」
「ごっこじゃないわ、てゐ」
「はいはい。鈴仙は真面目だねぇ」
その軽さだけが、この場で妙に浮いている。
けれど、あいつはあれで全部見ていると感じた。
遊んでいるように見えて、何一つ見落としていない類の目をしている。
鈴仙が片手を上げた。
「……行くわ」
次の瞬間、空気が“ずれた”。
視界の端で赤い光が走る。霊力の弾だ――と認識した、その瞬間には、胸の奥に薄い膜を一枚貼られたような気持ち悪さが広がっていた。心の輪郭を、指先で撫で回されるみたいな感覚。怒りも警戒も、少しだけ鈍る。
精神干渉。
理解した時には、弾幕はもう目の前にあった。
(避け――)
右へ身体を捻る。
見えていた弾道から、確かに外れた――はずだった。
だが、次の瞬間。
「……っ!」
肩口に灼けるような衝撃が走り、身体が弾かれる。数歩たたらを踏み、竹の根元に足を取られそうになるのをどうにか踏みとどまった。
熱い。
痛みそのものより、“避けたはずなのに当たった”という事実が、ぞっとするほど冷たかった。
てゐが竹の上で声を弾ませる。
「おお、ほんとに当たる」
「……精神干渉自体はノーカウント。でも、見誤えば一発ってことね」
鈴仙は表情を崩さないまま、低く言い放つ。
その通りだった。
今のは、幻覚に直接やられたわけじゃない。目で追って、読んで、避けたつもりになった結果、実弾の位置を見誤った。ならこれは、立派な一被弾だ。
残機、あと二つ。
胸の内で冷たい計算が働くより早く、鈴仙の周囲に新たな弾幕が浮かび上がった。
「波符《赤眼催眠(マインドシェイカー)》」
赤い光の輪が、竹林の薄闇に広がる。
弾は多くない。
だが、その一つ一つがやけに大きく、やけに近く見えた。いや、近いのか遠いのか、その判断が遅れる。距離感が引き伸ばされた輪ゴムみたいに、急に縮んだり伸びたりする。
地面が妙に遠い。
鈴仙との間合いが、三歩分にも十歩分にも感じられる。
同じ竹が、二本あるようにも一本しかないようにも見える。
「……くそ」
舌打ちが漏れる。
弾は見えている。
見えているのに、身体が正しい間合いを掴めない。避ける動作の半拍、その半拍が致命的に狂う。
左へ切り返した瞬間、目前に“なかったはず”の弾がぬっと現れた。
「がっ……!」
腹部を打たれ、息が潰れる。鈍い衝撃が内側まで食い込み、肺から空気がごっそり抜けた。
二被弾。
喉の奥に鉄臭さが滲む。視界が一瞬だけ白く飛び、それでも俺はどうにか足を止めなかった。
「……まだ立つの」
鈴仙の声は変わらない。けれどその無機質さの裏で、わずかに息が詰まったのが分かった。
予想よりしぶとい、とでも言いたい顔だ。
「立つさ。こっちにも、退けない理由があるんでね」
守りたいものがある。
里の日常。阿求の穏やかな笑み。霊夢や魔理沙との縁。紅魔館でようやく手繰り寄せた、あの小さな居場所。
そして――倒れている妖怪うさぎたちもまた、今は“救うべき命”だ。
ここで俺が折れれば、何も伝わらない。
鈴仙の赤い瞳が、わずかに細くなる。
「狂符《狂視調律(イリュージョンシーカー)》」
次いで放たれた弾幕は、先程よりずっと静かだった。
静かなまま、質が悪い。
弾が二重に見える。
鈴仙の姿が、半拍遅れて残像を引く。
飛んでくるはずのない角度から光が走り、避けた先に別の弾が待っている。
視界が、信用ならない。
(このまま目で追ってたら、削り殺される……)
その時、不意に紅い霧の向こうで交わした拳の記憶が蘇った。
紅美鈴の間合い。
目で見て反応したんじゃ遅い、気の流れを読めと拳で教えられた感覚。
次いで、ラッシュの風。
羽ばたきの軌跡、空気の裂け目、見えない流れに先回りするように身体を乗せた、あの戦い。
“見る”のではない。
“感じる”のだ。
俺は強く息を吐いた。
視界へ向けていた意識を、意図的に落とす。瞳に映る像を信じるのをやめる。代わりに、皮膚へ、耳へ、足裏へ、霊力の巡りへ感覚を沈めていく。
竹の葉を撫でる風。
弾が生まれる瞬間の、ごく僅かな空間のひずみ。
霊力が凝縮し、放たれる前の揺らぎ。
幻は目を欺く。
だが――本物の弾は、空気を押す。
「……何をするつもり?」
鈴仙の声に、初めて訝しさが混じった。
「いやなに。ちょっとだけ……対応を変えるだけだ」
踏み込む。
近接。離脱。再接近。
自分の間合いを細かく刻みながら、鈴仙の視界の外周を撫でるように移動する。
直線じゃない。弾幕戦の理に則りつつ、それでも実戦で叩き上げた癖を混ぜ込み読ませない動きを作り上げる。
指先に霊力を集め、一気に展開した。
「――縛符《星状縛鎖結界》」
空中に星型の結界が咲く。
五芒の軌道を描く霊鎖が、きらりと光を引きながら鈴仙の周囲を囲い込む。逃げ道を塞ぐのではなく、避ける先そのものを誘導して絡め取る拘束の形。
鈴仙は反射的に跳んだ。
幻惑を軸にした回避の手順は、きっといつもならそれで足りるのだろう。だが一瞬、俺の動きの変化に意識を割かれた。その遅れが、霊鎖の届く理由になる。
「……っ!」
足首に巻き付きかけた鎖を、辛うじて外す。
だが完全には避け切れない。
霊力弾を重ねるように撃ち込み、鈴仙の肩口を捉えた。
一被弾。
赤い瞳が、はっきり揺れた。
「ただの人間相手に、油断したな」
「……ただの人間が、そんな避け方をするものですかっ!」
鈴仙が空中で体勢を立て直しながら、苦々しく言う。
その声音はまだ硬い。けれど、その中にあるのは怒り一色じゃない。警戒と、戸惑いと、理解の修正だ。
今になってようやく、彼女の中で俺が“雑に撃ち倒していい相手”ではなくなったのだろう。
竹の上でてゐが笑う。
「おやおや。鈴仙、ちょっと焦ってる?」
「うるさいっ!」
そのやり取りの間にも、弾幕は止まらない。
俺は間を詰め、霊力を組み替える。速度差を持たせた弾幕は、精神干渉と相性がいい。相手の判断をさらに狂わせるには、これが最適だった。
「共振《迅速果断のリテヌート》」
弾幕が高速で走る。
そして、中盤で急激に速度を落とした。
直線のように見えた軌道が、途中からぬるりと粘り、避けるタイミングを外す。早く避ければ追いつかれ、遅く避ければ間に合わない。読みを半拍ずらすためだけに作った、性格の悪い弾幕だ。
「……っ、く!」
鈴仙の眉が寄る。
幻惑でこちらの視覚を乱す側の彼女にとって、己のリズムを崩され、時間感覚を揺さぶられるのは気持ちのいいものじゃないはずだ。
――だが、それで押し切れるほど甘くもない。
赤い弾幕が俺を追い、俺の減速弾が鈴仙を追う。
竹林の中空に、色の違う意志が交差する。
「懶惰《生神停止(マインドストッパー)》」
鈴仙が最後の札を切った瞬間、世界がぬるりと停滞した。
葉の落ちる速度が遅い。
自分の呼吸が遠い。
斬り返すべき腕も、踏み込むべき足も、水の底に沈められたように重い。
思考だけが先に走るのに、身体がついてこない。
(不味っ――)
実弾の発生源は読める。
空間の歪みも感じている。
それなのに、回避へ移るまでの“一拍”が伸ばされる。
目前の弾を紙一重で避けた、と思った刹那。
「っ、ぁ……!」
脇腹に衝撃。
三被弾目。
肺の奥が潰れたみたいに息が詰まる。膝が折れかける。残機は、もうない。次をもらえば終わりだ。
だが同時に、俺の《迅速果断のリテヌート》が鈴仙の回避を食った。
高速で迫る弾へ反応し、避けた先で減速した一発が肩を叩く。
続けて、間合いを詰めた霊力弾が袖を裂いた。
二被弾目。
鈴仙の息が乱れる。
互いに満身創痍。竹林の空気が、さっきまでとは別種の熱を帯びていた。
妹紅がぽつりと零す。
「……すげぇな。残機ゼロで後が無いのに、それでもまだ前に出るのか」
「後ろに下がって勝てる相手じゃないだろ」
吐き出す声は自分でも驚くほど掠れていたが、笑う余裕だけは残っていた。
それを聞いて、妹紅が鼻で笑う。対する鈴仙は俺を見つめたまま、微かに唇を噛んだ。
怒っているのに、まだ許せないはずなのに、それでも今の一言を聞いてしまったことで、ほんの少しだけ躊躇が混じったのが分かる。
……だからこそ、決めるなら今しかない。
鈴仙の周囲に、最後の実弾が幾重にも浮かぶ。
赤い瞳が、まるで夜の獣みたいに細く光った。
「これで、終わらせる……ッ!」
無数の弾が展開される。
見える。だが見えている像のほとんどは幻だ。本物はその奥、霊力が凝縮する一点、実弾の“生まれる場所”にある。
精神干渉の膜が、再び思考の表面を撫でる。
嫌な記憶を掘り返し、躊躇を誘い、身体の反応を鈍らせる。
――守れなかったもの。
絢香の泣き顔。
届かなかった手。
胸の奥が、鋭く痛んだ。
けれど次の瞬間、それを包むように別の記憶が灯る。
紅い霧の向こうでようやく取り戻した、あの小さな手の温度。
地上へ出たフランが、恐る恐る、それでも嬉しそうに笑った顔。
今の俺は、あの時とは違う。
守れなかった後悔だけで立っているんじゃない。
守りたい縁が、前へ押してくれる。
「……っ、負けるかよ」
刀を構える。
風花の刀身に、霊力が走る。
炎の色が宿る。
「――熾炎《石火燈籠》ッ!」
踏み込みと同時に、前方へ炎の斬撃を叩き出した。
火球が散る。
散った火が竹林の薄闇に赤い灯を点し、その軌道が円を描くように広がっていく。派手だ。だが派手さのための火じゃない。視界を塗りつぶす幻を、実体の熱と衝撃で剥がすための火だ。
鈴仙の実弾が生まれる場所へ、真っ向から刃を通す。
「――えっ」
鈴仙の声が揺れた。
見えていたはずの優位が、そこで初めて崩れたのだろう。
精神干渉を無視して、実弾の発生源だけを斬る。常識外れもいいところだ。だが、幻に対する最短の答えはそれだった。
炎の斬撃が赤い弾の核を砕く。
散った火球が鈴仙の退路を塞ぐ。
そこへさらに踏み込み、霊力弾を連ねる。
一発。
二発。
「……っ、ぁ!」
三被弾目。
続けざまに、四被弾目。
鈴仙の身体がぐらりと傾ぎ、弾幕の輪が一斉に霧散した。張り詰めていた結界がほどけ、竹林へ本来の音が戻ってくる。遅れて葉擦れのざわめきが降ってきた。
それが決着の合図となった。俺はそこで、ようやく膝をつく。
「はっ……は、ぁ……」
喉が熱い。腕が重い。肺が焼ける。
勝ったはずなのに、地面が近すぎて、立ち上がる理由だけではもう身体が動かない。
鈴仙は数歩よろめいた後、どうにか着地し、しばらく俯いていた。
肩が小さく上下している。呼吸を整えているのか、それとも悔しさを飲み込んでいるのか。……たぶん、そのどちらもだろう。
先に口を開いたのは、てゐだった。
「いやぁ……良い見世物だったよ、そーえー君」
「てゐ……!」
鈴仙が悔しげに睨む。
けれどてゐは悪びれもせず、竹からひょいと飛び降りてきた。
「だぁってさぁ……本当にただの人間だったら、ここまでやれないでしょ~?」
細めた目が、俺をじっと見上げる。
笑っているのに、その奥だけが冷たい。値踏みというより、観測だ。異質な何かを測る目。
鈴仙は一度目を閉じ、それから俺の前まで歩み寄った。
「……私の、負けよ」
軍人めいた硬さは消えていない。けれど、その声にははっきりと敗北を認める潔さがあった。
その後、簡単に経緯を説明する。それを聞いた彼女は深く頭を下げ、謝意を述べた。
「疑ってしまって、すみません」
「……いや、状況が悪かっただけだ。俺でも、あれを見たら悪い方向に考えるよ」
そう返しながら、俺は懐から封印した霊石を取り出した。
札に包まれたままでも、紫の嫌な気配が残っている。
「――原因はこれだ。こいつが、うさぎたちの感情を掻き乱してた」
「それが……」
鈴仙の瞳がわずかに見開かれる。
俺は頷き、倒れた妖怪うさぎたちへ視線を向けた。
「全員、生きてる筈だ。気絶させただけだからね。霊石を封じたから、そのうち目も覚める筈だよ」
「……確認するわ」
鈴仙はしゃがみ込み、仲間たちの呼吸や脈を一体ずつ確かめていく。その視線は、戦っていた時よりずっと柔らかかった。
同胞なのだ。当たり前だが、その当たり前が見えたことに、俺は少しだけ安堵した。
「問題なさそうね……本当に、ただ気絶してるだけみたい」
その呟きには、心底からの安堵が滲んでいた。
張り詰めていた肩が、ほんの少し落ちる。
妹紅が隣まで来て、拾い上げておいた籠を肩へ担ぎ直した。
「今回みたいに、妖怪が集団でおかしな行動を取る場所には、霊石があるかもな」
「……ああ。残念な話だけど、これは竹林に限った話じゃないかもしれない」
妹紅の言葉に俺がそう返すと、鈴仙も立ち上がって頷いた。
「最近、竹林の奥で似たような異変が増えていたの。落ち着きのない子が増えて、理由が分からなかったけれど……これなら説明がつくわ」
「つまり、もう広がってるってことか……」
「……ええ」
短い肯定。
それだけで十分だった。
竹林の一点に沈んでいたはずの紫が、実はもう、幻想郷のあちこちへ染み出しているのかもしれない。
そう思うと、勝った安堵より先に、冷たい予感が背を撫でた。
てゐがそこで、またにやりと笑う。
「あんた、運がいいねぇ」
「それ、さっきも聞いた気がするな」
「うん。……言い方を変えるとね」
細い指が、封印された霊石をちょんと指す。
「その運、ソレに嫌われる類のモノだよ」
「……嬉しくないな」
「だろうねぇ」
くすくすと笑う声は軽いのに、言葉の芯だけが妙に重い。
俺は札越しに霊石を握りしめた。
この石が嫌っているのか、あるいは引き寄せているのか。どちらにせよ、今の俺は、もう見て見ぬ振りなんて出来ない位置に立ってしまっている。
「……次は、一人で動かないようにするよ」
ぽつりと零すと、鈴仙がこちらを見た。
「え?」
「こういうのは、抱え込んで良い話じゃないからな。次に異変の気配を見つけたら、ちゃんと仲間にも声をかけるつもりだ」
霊夢、魔理沙、阿求、慧音。
頭に浮かぶ顔はいくつもあった。
守るべき場所が増えたのなら、背負う相手も一人じゃない方がいい。それをようやく口に出来た自分に、少しだけ苦笑する。
鈴仙は数秒だけ黙り、それから真面目な顔のまま言った。
「……そうしてください。また誤解を招く状況に出くわすのは、こちらとしても対処に困るので」
「努力する」
「絶対にして」
思ったよりきっぱり返されて、思わず苦笑が深くなる。
そのやり取りを聞いていたてゐが、肩を震わせて笑った。
「あははっ。鈴仙、完全に保護者じゃ~ん」
「貴女は黙ってなさいっ!」
「はいは~い」
妹紅がそこで鼻を鳴らした。
「話には聞き及んじゃいたが……面倒なコトに自分から首を突っ込む性分なんだな、お前」
「否定はしないさ」
「はっ。まぁなんだ……私は嫌いじゃないよ、そういうの」
短い笑いと共にぶっきらぼうに投げられたその一言が、竹林の冷えた空気の中で妙に温かかった。
俺はゆっくり立ち上がる。
膝はまだ笑っているし、身体のあちこちが痛む。けれど、立てる。なら、まだ前に進める。竹の間を抜ける風が、ようやく汗を撫でていった。
……戦いの熱が去ったあとの竹林は、静かだ。静かなのに、その静けさはもう、以前のそれとは違っていた。
平穏ではない。むしろその下で、何かが確実に広がっていると知ってしまったが故の、不穏を孕む静けさだ。
倒れたうさぎたちの耳が、ぴくりと小さく動く。命は守られ、誤解も解けた。けれどそれで終わりではない。
幻想郷のあちこちに、同じ紫が沈み始めているのだ。竹林だけじゃない。里も、森も、館も、山も。
いつか……どこもかしこも“霊石の戦場”になるのかもしれない。その予感だけが消えずに残った。
俺は封印した霊石を懐へ戻し、竹林の奥に溜まる薄紫の気配を想像しながら、静かに息を吐いた。
――次は、もっと大きな嵐になる。
そんな未来だけが、やけにはっきり見えていた。
⸻
竹林を出る頃には、空の色がわずかに傾き始めていた。
青はまだ残っているが、その奥に、夕刻の柔らかい橙が滲んでいる。
葉擦れの音も、さっきまでとは違って穏やかだった。
「……結局、気晴らしにはならなかったな」
肩に担いだ籠の重みを確かめながら、ぽつりと零す。
「それはお前が勝手に厄介事を拾ったせいだろ」
隣で妹紅がそっけなく言った。
「それは、まぁ……否定できないな」
その余りの無遠慮さに、俺は苦笑するしかなかった。
……市場での何気ない選択。
そこから筍狩りの為に竹林へ足を踏み入れ、その先で霊石を見つけ、戦って、そして――
(結局、こうなった)
静かにしていれば、きっと何も起きなかったのかもしれない。
けれど、あのまま霊石を見逃すという選択は最初からなかった。
ならばこれはこれでいい。そう、無理やり納得するしかなかった。
妹紅がちらりとこちらを見る。
「……で。どうするんだ、それ」
「封印はしてある。里に持ち帰って……阿求に報告する」
「ああ、あの本の嬢ちゃんか」
短く納得したように頷く。
「きっと怒られるぞ。急な事とはいえ、自分の与り知らない所で事件に首突っ込んでんだから」
「分かってるさ」
分かっている。分かっているが――
(黙っておく方が、よほど怒られるだろうなぁ)
いや、怒るだけならまだいい。あいつはきっと、それ以上に悲しむだろう。
“何も言わずに危険へ踏み込んだこと”を。
「……ま、そういう顔してるなら大丈夫だな」
妹紅は、俺の顔を覗き込んだ後、それ以上は何も言わなかった。
その代わり、肩に担いだ筍を軽く叩く。
「ちゃんと美味く料理しろよな」
「……ああ」
短いやり取り。
それだけで、十分だった。
⸻
里に戻る頃には、夕餉の支度の匂いがあちこちから漂っていた。
煮物の甘い香り。
焼き魚の香ばしさ。
人の声と、生活の音。
――守りたい日常。
それは確かにここにある。
だからこそ、今日見た“異変の種”が、余計に重く感じられた。
足はそのまま、稗田邸へ向かう。
門をくぐり、縁側へ回ると――
「……遅かったですね」
案の定、そこに阿求がいた。
筆を置いたまま、こちらを見ている。
その表情は穏やかだが、目だけが笑っていない。
「買い出し、のはずでしたよね?」
「……そのつもりだったんだけどさ」
視線を逸らす。
無意識に、籠を持つ手に力が入った。
阿求はゆっくりと立ち上がる。
「創英さん」
「……はい」
「こちらへ」
――逃げ道はない。
観念して縁側へ上がり、正座する。
向かい合った瞬間、空気がぴしりと張った。
「……何があったんですか?」
静かな声。
だが、その裏にある圧力は、密な弾幕よりも余程重い。
そんな静かな圧を感じながら、俺は一度息を吸い……意を決するように吐いた。
「――市で妹紅さんと出会って、筍狩りの為に迷いの竹林に入った」
「はい」
「そこで、霊石を発見した」
「……はい」
「霊石の影響で、妖怪うさぎが集団で暴走していた」
阿求の眉が、わずかに動く。
「それで?」
「出来るだけ穏便に鎮圧して、霊石を封印した」
「その後は?」
「……後から来た妖怪うさぎの仲間に誤解されて、弾幕決闘を申し込まれた」
一瞬、沈黙が落ちた。
次の瞬間。
「はぁぁぁ……」
阿求は、深く、深く息を吐いた。
額に手を当て、そのまましばらく動かない。
怒鳴られると思っていた。だが来たのは静かな溜息だった。
それが、今の俺には余計に効く。
「創英さん」
「はい……」
「貴方は、どうしてそうやって……」
言葉が、途中で止まる。
……怒りきれないのだろう。
責めたいのに、責めきれない。
阿求へは俺の行動原理を今までにも何度も示した。それを理解して尚、心配が勝っている。
それが分かるからこそ、こちらも下手な言い訳が出来なかった。
「……ごめん」
「謝ってほしいわけではありませんっ」
ぴしゃり、と返される。
顔を上げると、阿求の瞳はまっすぐこちらを見ていた。
その瞳は潤んでおり、不安に揺れていた。
「“無事で帰ってきたからいい”とは、私は思いません。それに、“黙って危険に飛び込む”のはもっと良くないです」
その言葉に、胸の奥が痛んだ。
「……ですが、報告してくれたのは正しいです」
少しだけ、声が柔らぐ。
「そこは、褒めておきます」
「……それは、怒ってるの? 褒めてるの?」
「両方です」
即答だった。
「……まぁ良いでしょう。今回は許します。ですが忘れないで下さい。貴方の身に何かがあれば、私は……いえ、何でもありません。とにかく今日はお疲れ様でした」
何かを言い淀む様子は見せたものの、ようやく場の空気が少しだけ緩んだ気がした。
「それで」
阿求は姿勢を正し、筆を取り直す。
「その“妖怪”について、詳しく聞かせてください」
先ほどまでの様子から一変し、記録者の顔となった阿求が尋ねる。
それを見た俺は静かに頷き、思い出しながら口を開いた。
「後から来た妖怪うさぎの仲間だが、二人いたな。どちらも兎の妖怪で、只者ではなかった」
「二人」
「一人は……小さい方。妙に軽い奴で、“てゐ”と呼ばれてたな」
筆が走る音。
「因幡てゐ、ですね」
即座に返ってきた。
「知ってるのか?」
「ええ。文献に名前だけはあります。“幸運を操る妖怪兎”として」
軽く頷き、続きを話す。
「それで、もう一人は“鈴仙”と呼ばれていた。紫がかった長髪に、赤い瞳。軍人みたいな雰囲気で堅苦しい奴だったが、それは規律や戒律を重んじているが故だと俺は感じた。それに、仲間意識も強かったな。弾幕決闘を申し込んできたのも、その鈴仙だ」
「……聞き慣れない名前ですね」
筆が、止まった。
阿求が顔を上げる。
「鈴仙……でしたか。その名前の妖怪は、私の知る記録にはありません」
「未確認、か」
「ええ」
少し考え込むように、視線を落とす。
「ですが……」
再び顔を上げた時、阿求の目は冷静だった。
「貴方の話を聞く限り、即座に危険視すべき対象ではなさそうですね」
「ああ。俺もそう思う」
「同胞を守ろうとしただけ、という線が濃いでしょう」
筆を走らせながら、淡々とまとめていく。
「てゐが観測し、鈴仙が対処する……そういう関係性も見えます」
「へぇ……話だけなのに、よく分かるな」
「記録とは、そういうものですから」
小さく微笑む。
その様子に、先程までの怒りはもう残っていないようだった。
「ひとまず、今回の件は記録しておきますね」
筆を置き、こちらを見る。
「竹林における霊石の発見。未確認妖怪“鈴仙”の存在。因幡てゐの関与……どれも重要な情報です。これからは、幻想郷の各地で同様の事例が起きる可能性があります」
阿求の声が、静かに落ちる。
「霊石は、今も確実に広がっているものと考えられます。今回の件は、その末端に過ぎないでしょう」
そう言い切り、阿求は視線を外す。
縁側の外。
夕焼けが、庭の草木を橙に染めていた。
穏やかな光景だ。
だが、その下に何かが潜んでいると知ってしまった今――それはもう、ただの平穏には見えなかった。
「創英さん」
阿求が、最後に言う。
「次は、事前にちゃんと相談してくださいね」
「……善処します」
「駄目です。絶対にしてください」
鈴仙だけでなく、阿求にもきっぱりと返されて……俺は思わず苦笑いを漏らしたのだった。