◆◇◆◇◆◇◆◇◆
俺の家は、まだ家と呼ぶには少し早かった。
里の出入口近くに用意された土地には、太い柱が何本も立ち、梁が渡され、屋根の形だけがようやく空へ線を引き始めている。
壁はまだなく、風は通り放題。床板の一部も仮置きで、足を乗せると木の匂いがふわりと立った。
外の世界で見慣れた家とは違う。けれど、俺の拙い説明を何とか形にしようとしてくれている大工たちの手によって、少しずつ、確かに俺の望んだ輪郭へ近づいていた。
「おう、創英。今日も差し入れか」
材木を担いでいた棟梁が、俺を見つけて片手を上げる。
俺は抱えていた籠を持ち上げ、軽く会釈を返した。
「はい。蒸かし芋とお茶です。休憩の時にでも召し上がってください」
「ありがとうよ。若いのに気が利くなぁ」
「いえいえ、そんな。気にしないでください。家を建ててもらう側が、ただ見てるだけってのもソワソワして落ち着かないんで」
そう答えると、棟梁は豪快に笑った。周りの職人たちも、似たような顔でこちらを見る。
照れくさい。けれど、その笑いには馬鹿にするような色はない。
変な間取りを頼む外来人の小僧を、彼らは彼らなりに面白がり、受け入れてくれているのだろう。
かん、かん、と槌の音が響く。
柱に釘が入る音。木材が噛み合う音。誰かの号令。誰かの笑い声。
人の手で場所が作られていく音は、思っていたよりもずっと賑やかで、ずっと温かかった。
「それにしても、本当に里の出入口でよかったのか?」
棟梁が茶の支度をする俺の横で、建築途中の家を見上げながら言った。
「里の真ん中の方が便利だろうに」
「まぁ……便利さだけなら、そうかもしれませんけどね」
俺は湯呑みに茶を注ぎながら、少しだけ視線を里の外へ向けた。
道の向こうには、人の住まう場所と妖怪の出る場所との境目がある。
昼間は穏やかでも、夜になれば空気が変わる場所だ。
「ここなら、何かあった時に早く動ける。里の中にも、外にもね。外からの不審な動きにも気付きやすいですし、里の中央への往来も楽ですから、ここがいいんです」
「へぇ。まったく、若いのに難儀な性分だな」
「はは……よく言われます」
「褒めてんだよ。人の好意は素直に受け取りな」
そう言って、棟梁は湯呑みを受け取った。
俺は苦笑しつつ、自分用の湯呑みにも茶を注いだ。その時だった。
風が、妙に軽くなった。
大工たちの声は続いている。槌の音も止まっていない。けれどその合間に、ほんの小さな笑い声が混じった気がした。
子供の声のようで、鳥の鳴き声のようでもある。誰かがすぐ近くで笑ったはずなのに、周囲の誰も反応していない。
俺は顔を上げた。
建築途中の梁の上に、少女が座っていた。
緑がかった髪。軽く揺れる帽子。胸元に閉じた瞳のようなものを飾り、足をぶらぶらと宙に遊ばせている。
危ない、と思った。けれど次の瞬間、それより先に別の違和感が胸の奥へ沈んでくる。
誰も、彼女を見ていない。
棟梁も、職人たちも、すぐ下を通る若い大工も、梁の上に座る少女へ視線を向けない。
見えていないのではない。もっと変だ。目に入っても、そのまま意識の表面を滑り落ちているような感じがした。
「……そこ、危ないぞ」
思わず声を掛けると、棟梁が不思議そうにこちらを見た。
「ん? どうした、創英」
「いや……」
梁の上の少女が、ぱちりと目を瞬かせた。次いで、花が開くみたいに笑う。
「あれ。見つかっちゃった」
声は確かにした。
けれど、棟梁はやはり反応しない。湯呑みを手にしたまま、俺の視線の先を追って、何もない空間を眺めている。
「誰かいたか?」
「……いえ。気のせいでした」
そう返すしかなかった。
少女は梁の上からふわりと立ち上がる。足場も何も気にしない軽さで、彼女は建ちかけの家の奥へ歩いていった。
まるで床も梁も壁も、彼女にとっては同じくらい意味の薄いものなのだと言わんばかりに。
俺は湯呑みを置き、棟梁へ軽く頭を下げた。
「少し、周りを見てきますね」
「おう。変なところに足を乗せるなよ。まだちゃんと床張ってねーから、下手すると抜けるからな」
「はい。気をつけます」
返事をしながら、俺は少女の消えた方へ向かった。
建築途中の家の中は、まだ部屋になりきっていない。ここが玄関になる予定で、ここから廊下が伸びる。奥は台所。外の世界の記憶を頼りに説明したそれらは、今は線と柱で示されているだけだ。
それでも、俺の中にはもう完成後の姿がぼんやり見えている。
その、まだ壁のない客間になるはずの場所に、少女はいた。
仮置きの床板にしゃがみ込み、木目を指でなぞっている。こちらに気づいているのかいないのか、鼻歌のようなものを小さく転がしていた。
「君は、一体何者だ?」
尋ねると、少女は顔だけをこちらへ向けた。
「それ、最初に聞くの?」
「他に聞くべきこともあるけどな。どうして誰にも気づかれてないんだ、とか。なんで建築中の家にいるんだ、とか。危ない場所だって分かってるのか、とか。あと、このあいだ紅魔館から帰ってきた時にも居たよな。手を振ってただろ」
「うわぁ。いっぱいあるねぇ」
「ありすぎるんだよ」
俺が溜息をつくと、少女はくすくす笑った。
敵意は感じない。だが妖気はある。しかし、こちらを害そうとするような鋭さではない。
水面に落ちた木の葉みたいに、ふとした瞬間にどこかへ流れてしまいそうな、ひどく掴みどころのない気配だった。
「私はこいし」
少女は立ち上がり、両手を後ろで組んだ。
「古明地こいし」
「古明地……?」
聞き慣れない姓だった。少なくとも、俺が幻想郷へ来てから耳にした記憶はない。
「君は妖怪なのか?」
「うん。たぶん妖怪」
「たぶんって」
「だって、あんまり考えたことないもの」
そう言って、こいしは自分の胸元にある閉じた瞳のようなモノへ指を触れた。
飾りのようにも見えるそれは、しかしただの装飾ではないように思える。
沈黙しているように見えて、そこだけ妙に存在感があった。
見ないために閉じている。
ふと、そんな言葉が頭に浮かぶ。
「……怖い?」
こいしが首を傾げた。
俺は少しだけ考えた。
怖くない、と言えば嘘になる。目の前にいるのは、誰にも認識されずに建築現場へ入り込める妖怪だ。敵意がないとはいえ、得体が知れないことに変わりはない。
「怖くないわけじゃない」
「ふぅん」
「でも、今のところ危ない感じはしない。だから、いきなりどうこうしようとは思わないよ」
「正直だね」
「嘘をつくところでもないだろ」
こいしはまた笑った。
その笑い方が、少しだけフランに似ていると思った。
無邪気で、近くて、けれど奥の方に誰も入れない、固く固く閉ざされた部屋を持っている。笑っているのに、笑顔の向こうがひどく遠く感じられる。
「あなた、変わってるね」
「初対面で言うことか?」
「だって変だよ。みんな私に気づかないのに、あなたはすぐに気付いた。見ようとしてないのに、見た。聞こうとしてないのに、聞いた」
「だって、笑ってただろ」
「あれ? わたし、笑ってた?」
「自覚ないのかよ」
「うん」
悪びれもなく頷かれ、俺は軽く頭を抱えた。
この調子だと、まともに問い詰めても何も出てこないかもしれない。いや、むしろ問い詰めた瞬間、するりと別の話題へ逃げられる気がする。
紫とも違う。てゐとも違う。目の前にいるのに、『目の前』という感覚が薄い相手だった。
こいしは柱に手を添え、まだ壁のない部屋を見回した。
「ここ、あなたのおうち?」
「ああ。まだ建ってないけどな」
「ふぅん。あなたのおうち、まだ空っぽなんだ」
「そりゃそうだ。柱と梁しかないし」
「でも、もう賑やか」
その言葉に、俺は少しだけ黙った。
賑やか。たしかに、昨日も似たようなことを阿求に言われた気がする。
フランが来る。ラッシュが来る。霊夢や魔理沙や、紅魔館の連中や、八雲の厄介な面々や。まだ形もできていない家の中に、俺は勝手に誰かの笑い声を詰め込んでいた。
けれど、こいしがそれをどうして分かったのかは分からない。
「分かるのか?」
「分からないよ」
「今、分かってるみたいに言っただろ」
「思っただけ。ここ、まだ空っぽなのに、誰かが来る気配でいっぱい。おもしろいね」
こいしは足元を見下ろし、つま先で床板を軽く叩いた。
「あなた、扉みたい」
「扉?」
「うん。閉じてるのに、どこか開いてる。人間の方にも、妖怪の方にも、外にも、中にも。開いてるのに、自分では閉じてるつもり」
背筋に、細い風が通った気がした。
言葉の意味を全部理解できたわけじゃない。けれど、こいしの言葉が妙に胸に引っかかった。
紫に初めて会った時のような、あの嫌なほど鮮やかな感覚。触れられた瞬間に流れ込んできた、誰かの思い。自分では分からない何かを、相手だけが知っているような……そんな気配。
「……俺は、ただの人間だよ」
「そうなの?」
「少なくとも、自分ではそう思ってる」
「じゃあ、そういうことにしておくね」
こいしはあっさり言った。
否定も肯定もしない。その軽さが、逆に落ち着かなかった。けれど、彼女の声にはからかいよりも、もっと曖昧な親しみがあった。
秘密を暴くつもりはない。ただ、見えたものを見えたまま口にしただけ……そんな無防備さだけが、そこにある。
俺は息を吐き、籠に残していた蒸かし芋をひとつ取り出した。
「……食べるか?」
こいしの目が、きらりとした。
「いいの?」
「建築現場で遊んでた罰として、説教だけして追い返すのも考えたけどな。敵意や害意がないなら、客を放っておく理由もない」
「私、客?」
「勝手に入り込んだ時点で客かどうかは怪しいけど、今は客ってことにしておくよ」
「じゃあ、受け取っとこうかな」
芋を渡すと、こいしは両手で受け取った。熱さに少しだけ指を引っ込め、それからふうふうと息を吹きかけてかじる。
「おいしい」
「そりゃよかった」
「これ、あなたが作ったの?」
「ああ。まぁ蒸かしただけだけどな」
「それでもおいしい」
そう言って食べる顔は、本当にただの少女みたいだった。
だが、少し離れたところでは大工たちが休憩している。誰一人として、床板の上で芋を食べる緑髪の少女に気づかない。
俺が彼女に向かって話していることにも、せいぜい独り言か何かだと思っている程度だろう。
普通ならあり得ない光景なのに、そのあり得なさすら周囲から滑り落ちている。
「……いつも、こうなのか?」
こいしは芋をかじる手を止めた。
「こうって?」
「誰にも気づかれないこと」
「ああ」
納得したように頷く。
「うん。だいたい、そう。気づかれない方が楽だよ。見られないし、聞かれないし、何も考えなくていいから」
軽い声だった。
けれど、それは軽すぎるようにも見えた。
「寂しくはないのか?」
尋ねた瞬間、こいしはきょとんとした。
「寂しい?」
「ああ」
「どうだろう。寂しいって思わないようにしてたら、寂しいかどうか分からなくなっちゃった」
胸の奥が、静かに痛んだ。
それは、あまりにも簡単な言い方だった。
けれど、簡単に言えるようになるまでに、どれだけのものを閉じたのかまでは分からなかった。
分からないからこそ、軽々しく同情するのは違う気がした。
フランの時もそうだった。地下室に閉じ込められていた少女へ、かわいそうだと言うのは簡単だ。
けれど、その言葉で救えるものはきっと少ない。必要なのは、憐れむことではなく、目の前にいる相手を見落とさないことだった。
「俺には、今、君が見えてる」
言葉は自然に出た。
こいしが、ゆっくりこちらを見る。
「だから、少なくとも今ここでは、君は誰にも気づかれない何かじゃない。俺に芋を食わされてる、建築中の家に勝手に入り込んだ変な客だ」
「変な客」
「変だろ」
「うん。変かも」
こいしは笑った。今度の笑い声は、さっきより少しだけ近かった。
「じゃあ、あなたも変な家主だね」
「まだ家主じゃないさ」
「でも、なるんでしょ?」
「まあ、そうだな」
「じゃあ、変な家主さん」
「その呼び方はやめろよ」
「えー」
「えー、じゃない」
こいしは楽しそうに芋を食べ終えた。指についた欠片を払い、ふわりと立ち上がる。
歩く音はしない。床板が軋むこともない。そこにいるのに、そこに重さを残さない。感じさせない。
「また来てもいい?」
「……完成してからならな。建築中は本当に危ないから来るな」
「完成したらいいの?」
「ああ。その時は、ちゃんと玄関から来い」
「誰も気づかないのに?」
「俺が気づくかもしれないだろ。今みたいに」
そう言うと、こいしは瞬きをした。
ほんの一瞬だけ、彼女の顔から笑みが消えた。
驚いたような。困ったような。泣き方を忘れた子供が、何かを思い出しかけたような顔だった。
けれどそれはすぐに消え、この会話の中で散々見た、掴みどころのない笑顔へと戻る。
「そっか。じゃあ、次は玄関から来るね」
「ああ」
「勝手に布団に入るのは?」
「なに言ってんだ。駄目に決まってんだろ」
「えー」
「えー、じゃないっ」
笑う声が、木の匂いの中に転がった。
次の瞬間、こいしは柱の陰へ歩いた。追おうとして一歩踏み出した時には……もう、どこにも姿がなかった。
隠れたのではなく、意識の外側へ滑り落ちたかのような消え方だった。
目の前にあったはずのものが、最初からなかったことにされるような感覚。
俺はしばらく、誰もいない柱の陰を見つめていた。
「——そー君」
背後から声がした。
振り返る。けれど、やはり何処にも姿が見えない。
「またね」
それだけを残して、今度こそ声も気配も消えたのだった。
俺は額に手を当て、長く息を吐く。
今の名前の呼び方には、何処かで覚えがあったはずなんだが……それがいつのことであったのか、俺はついぞ思い出すことはなかった。
「……また、厄介そうなのが増えたな」
そう呟いた声は、槌の音に混じって小さく消えていった。
⸻
稗田邸へ戻ったのは、それから少し後のことだった。
台所で湯を沸かしていた阿求は、俺の顔を見るなり小さく首を傾げた。
最近の阿求は、何かを察するのが本当に早い。
俺が何も言わなくても、俺が何か妙な物事を見聞きしたのをあっさりと見抜いてくる。
「創英さん。何かありましたか?」
「……あったけど、なんで分かった?」
「女の勘です」
「なにそれこわい。……まぁ、話すよ」
隠しても仕方がない。というより、九月の末頃に阿求に怒られたばかりだ。
危険かどうか分からない相手だからこそ、言わない理由にはならないだろう。
俺は縁側に腰を下ろし、先ほどの出来事を順に話した。建築途中の家で、誰にも気づかれない少女に会ったこと。古明地こいしと名乗ったこと。妖怪らしいこと。敵意は感じなかったこと。俺以外の誰も、彼女に反応していなかったこと。
阿求は黙って聞いていた。途中で筆を取ろうとして、少しだけ手を止める。
「古明地、こいし……」
名を口にした阿求の眉が、わずかに寄った。
「聞き覚えは?」
「少なくとも、人里周辺の妖怪としては記録にありません。古明地という姓も……地上では、ほとんど見ない名ですね」
「地上では?」
「断言はできません。ただ、心を読む妖怪にまつわる古い記述の中で、似た響きを見た記憶があります。ですが、今すぐ確かなことは言えません」
阿求はそう言って、帳面へゆっくりと筆を走らせた。けれど、その筆先が一度、不自然に止まる。
「……妙ですね」
「どうした?」
「記録しようとすると、少しだけ意識が逸れます。名前を忘れるほどではありませんが、目を離した途端に、重要度が薄れるような感覚があります」
「やっぱり、普通じゃないか」
「はい。ですが、創英さんの話を聞く限り、今のところ敵対的な存在ではなさそうですね」
「俺もそう思う」
敵意はなかった。だが危うさはある。けれどそれは、刃を向けてくる危うさではない。
誰にも気づかれないまま、ふらりとどこへでも入り込めてしまう危うさだ。
本人が悪意を持っていなくても、周囲にとっては十分に異常で、薄気味悪く、不安定な存在。
阿求は筆を置き、俺を見る。
「次に会った時は、できれば無理に追わないでください」
「ああ。というか、あれを追うのは厳しいかな」
こいしの様子を思い浮かべて、苦笑しながら俺はそう言った。
「……それにしても」
阿求は帳面に視線を落としたまま、ぽつりと言った。
「誰にも気づかれない妖怪、ですか。創英さんは、本当に不思議な縁を拾いますね」
「拾いたくて拾ってるわけじゃないんだけどなぁ」
「それでも拾ってしまうのが、創英さんなのでしょう。ここまで来ると、縁自体が寄ってきているようにも思えますが」
冗談めかして言う阿求の言葉を否定しようとして……思い当たる節が多すぎるなと思った俺は、曖昧に笑うことしかできなかった。
庭の向こうでは、夕暮れの光が少しずつ薄れている。遠くから、また槌の音が聞こえた。
かん、かん、と。俺の家が、今日も少しずつ形になっていく。
誰かを迎える場所。
阿求やフランやラッシュの顔を思い浮かべたその場所に、今日、誰にも知られない客の影がひとつ増えた。
古明地こいし。
名前を胸の内で繰り返す。
忘れないように。
意識の隙間から滑り落ちないように。
誰にも気づかれないというのなら——せめて俺だけは、次に会った時にも気付いてやれるように。
その時、庭の端でまた小さな笑い声がした気がした。
振り向いても、やはり誰もいない。
けれど今度は、気のせいだとは思わなかった。
俺は空になった湯呑みを手に取り、まだ見えない自分の家の方角へ目を向ける。
ひとつの縁が、また別の縁を呼ぶ。
その輪の中に、誰にも知られない少女の足音が紛れ込んだ。
十月の風は、少しだけ冷たくなり始めていた。