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◆ side:時崎創英 ◆
十月某日の朝は、夏の名残をすっかり手放していた。
縁側へ差し込む光は柔らかく、庭の草木には夜露が薄く残っている。台所から漂う湯気も、少し前より長く空気の中に留まっていた。
俺は洗い終えた椀を棚に戻しながら、今日と明日の予定を頭の中で確かめる。
朝餉の片付けを終えたあと、俺は阿求へ紅魔館に行くことを伝えた。
「紅魔館へ、ですか?」
阿求は帳面から顔を上げ、ほんの少し目を瞬かせた。
「ああ。前にフラン達が遊びに来た時に言ってたろう? 今度は弾幕ごっこをしようって。それで、今日は紅魔館に遊びに行ってこようかと思ってな」
「お泊まりで?」
「うん、そのつもり。伸び伸び遊んでほしいから、夜に弾幕ごっこをする予定だ。だから帰りは翌日の夕方か、夜になると思う。咲夜さんにもそのあたりは事前に伝えてあるよ」
紅魔館の面々とやり取りすることにも、いつの間にか慣れてしまった。
最初にあの館へ入った時は、薄暗い廊下の奥から何が出てくるかも分からず、ずっと背筋を張っていた気がする。
とはいえ今でも気は抜けない。薄暗いからオバケとか出そうだし。……けれど、恐怖だけの場所ではなくなっているのは事実だ。
紅魔館は、フランがいる場所だ。ラッシュや美鈴や咲夜さんがいて、レミリアお嬢様が不器用に妹を案じている場所だ。俺にとっても、もうただの異変の舞台ではない。
阿求は筆を置き、少しだけ考えるように目を伏せた。
「……分かりました。紅魔館の皆さんに、よろしくお伝えください」
「ああ。今建築中の家のことも話してくるよ。完成したら、新築祝いに来てくれって」
「きっと、フランさんが一番喜ぶでしょうね」
「だろうね。泊まりたいって言われたら、今度こそちゃんとお嬢様たちに許可を取らせるつもりだよ」
「ふふ、それがよろしいかと」
阿求はそう言って微笑んだが、その目の奥にはいつもの心配が薄く揺れていた。
紅魔館そのものを疑っているわけではないだろう。けれど俺がどこかへ行くとなれば、阿求は自然と帰りを気にする。九月の件以降、それはなおさら強くなった気がする。
俺は棚を閉め、阿求の方へ向き直った。
「……ちゃんと戻るよ」
何気なく言ったつもりだった。けれど阿求は、少しだけ驚いたようにこちらを見る。そして、薄く頬に朱が差したように見えた。
「……はい。お待ちしています」
その返事は静かだったが、庭の露よりもずっと温かく胸に落ちた。
俺は支度を整え、風花を腰に差し、黒いロングコートの裾を軽く払う。
玄関を出ると、里の出入口の方角から、今日もかん、かん、と槌の音が聞こえてきた。建ちかけの家は、昨日より少しだけ屋根らしくなっているはずだ。
——あそこも、いつか帰る場所になる。
そんなことを考えながら、俺は秋の寒空へと翠緑の翼を広げ、ゆっくりと飛び立った。
⸻
紅魔館へ着いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
空から眺める湖の水面は秋空を映して静かに揺れている。紅い館は相変わらず、湖畔の向こうに堂々と立っていた。
尖った屋根、白い壁、紅い窓。初めて見た時は異国の城のようで、ただただ近寄りがたいと思ったものだが、今は門の前に立つ赤髪の門番の姿を見つけると、不思議と肩の力が抜ける。
「こんにちは、美鈴さん」
「あ、創英さん。いらっしゃいませ」
地上に降り立った俺へ、美鈴さんは朗らかに笑って門の前で軽く手を振った。
今日は眠っていない。いや、本人の名誉のために言えば、いつも眠っているわけではないのだろうが……どうしても寝ている印象が強いのは仕方がないと思う。
「今日はちゃんと起きてるんですね」
「創英さんまでそんなこと言うんですかっ!?」
「あはは。冗談ですよ、冗談」
「むぅ~……」
美鈴が頬を膨らませる。その様子に苦笑しながら門をくぐると、彼女はすぐに表情を柔らかくした。
「妹様、朝からずっと楽しみにされていましたよ。屋根の上まで出ようとして、咲夜さんに止められていました」
「はは、そうですか。なんか想像できるなぁ」
「夜まで待つようにって言われてましたけど、たぶん今も落ち着いてないと思いますよ」
「でしょうね。なら、今日はうんと遊ばなきゃな」
フランがそわそわしている姿は簡単に想像できた。嬉しそうに足を揺らし、ラッシュにたしなめられ、それでも窓の外を何度も見る。そんな光景が頭に浮かんで、自然と口元が緩む。
玄関へ向かうと、扉の前には咲夜さんが待っていた。
「ようこそ、創英様。お待ちしておりました」
「こんにちは、咲夜さん。お世話になります」
「お部屋の準備は整えてあります。夕食まではお好きにお過ごしください。妹様は現在、ラッシュと共にドローイングルームでお待ちです」
「分かりました。……ところで、フランは大人しく待ててますか?」
「ええ。おおむねは」
「おおむねは、ですか」
「紅茶の砂糖壺を三度ほど開け閉めした程度です」
「……それは大人しい方なんですかね?」
「ええ。本日はかなり」
咲夜さんは涼しい顔でそう言った。フランがソワソワと落ち着きなくしている様子がありありと想像できた。
「お嬢様。創英様が到着なさいました」
三度のノックの後に案内された客間の扉が咲夜さんの手で開かれると、待ちきれなかったと言わんばかりに、金色の髪がこちらへ向いた。
「そーえー!」
フランが椅子から立ち上がり、ぱっと顔を輝かせる。隣ではラッシュが控えており、ほっとしたように微笑んでいた。
窓際にはレミリアお嬢様が紅茶を手に座り、その横でパチュリーさんが本から顔だけを上げている。傍には小悪魔さんも控えていて、軽く会釈をしてきた。
俺は片手を上げ、フランへ声を掛けた。
「よう、フラン。遊びに来たぞ。レミリアお嬢様、それに皆様方も、本日はお世話になります」
それだけで、フランの顔がさらに明るくなった。
「うん! いらっしゃい、そーえー!」
「よく来たわね、いらっしゃい創英。楽にしてもらって構わないわ」
「久しぶりね創英。元気にしてた?」
「お久しぶりです、創英様」
順に、フラン、レミリアお嬢様、パチュリーさん、小悪魔さんが声を掛けてきた。ラッシュは黙したまま、お辞儀だけをしてきた。
フランは駆け寄ってきて、俺の袖を掴む。飛びつくのは我慢したのかもしれない。
偉い。たぶんお嬢様か咲夜さんから、淑女として落ち着いた対応をするように言われているのだろう。
とはいえ、堪え切れずに席を立ってやってきた辺りを見るに、相当楽しみにしていたことは伝わってくる。お嬢様も、仕方のないものを見るような困った表情をしていた。
「ねぇにぃに。今日は夜までいるんでしょ?」
「ああ。明日の夕方か夜までは世話になる予定だ」
「じゃあ、いっぱい遊べるね!」
「夜の弾幕ごっこで俺が動けなくならなければな」
「だいじょーぶ、ちゃんとルールは守るから! ねっ?」
フランはにこにこしている。
悪気はない。悪気はないが……吸血鬼の妹君の加減や感覚を、人間基準で測っていいものかはかなり怪しい。
そんな思考が顔に出ていたのか、お嬢様は紅茶のカップを置きながら、楽しげに笑った。
「あら。怖気づいたのかしら?」
「まさか。来たからには付き合いますよ。ただ、場所は選ばなきゃいけないと思いますけどね。館を壊しかねないですし」
「それについては同感ね。咲夜、観戦の準備を」
「すでに」
「ふふ、さすがね」
咲夜さんは当然のように一礼した。観戦の準備まで整っているらしい。
今日の弾幕ごっこは、いつの間にか紅魔館の夜の催しになっていたようだ。
ラッシュが俺の方へ歩み寄り、改めて丁寧に頭を下げてきた。
「お久しぶりでございます、創英様。本日はお越しいただきありがとうございます。フラン様は、この日を大変楽しみにされていました」
「ラッシュも久しぶり。俺も楽しみにしてたよ。ラッシュも、今日は見てるのか?」
「必要であれば、フラン様の補佐に入ります。ですが、本日はできる限り見守るつもりでございます」
その言葉に、ラッシュも以前より少しだけ変わったことを感じた。
かつての彼女なら、フランの側を離れまいとして、守ることだけに意識を向けていたかもしれない。
だが、今は違う。見守るという選択を、彼女は口にできるようになっていた。
「そっか。じゃあ、何かあったらその時は頼むよ」
フランがそれを聞いて、少し誇らしげに胸を張った。
「今日は私がそーえーと遊ぶの。ラッシュは見ててね?」
「はい、フラン様。応援しております」
そのやり取りを見ていると、館の地下で泣いていた少女と、罪悪感に縛られていた妖精メイドの姿がふと脳裏を過ぎった。
二人とも、完全に過去を置いてきたわけではない。けれど、少しずつ前へ歩いている。そのことが、ただ嬉しかった。
⸻
夕食の紅魔館は、相変わらず賑やかだった。
長い食卓には咲夜さんの料理が並び、レミリアお嬢様はいつものように威厳を保とうとし、フランは俺の隣を当然のように確保した。
ラッシュはフランから少し離れた位置で控えていたが、フランに呼ばれると柔らかく笑って席へと近づく。
美鈴さんは食べる量が多く、パチュリーさんは食事よりも本に意識が向きがちで、そのたびに小悪魔に小声で注意されていた。食事時くらいは書物から手を引いて欲しいものだ。
紅魔館の食卓は、稗田邸とはまるで違う。人里の夕餉の匂いとも異なる。だが、そこに流れるものは確かに"日常"だった。
「……そういえば貴方、家を建てているそうね?」
食後の紅茶を飲みながら、お嬢様が言った。
「ええ。里の出入口近くに。まだ途中ですけどね」
「外来人が幻想郷に家を持つ。なかなか面白い話じゃないの」
「俺としては、面白いより落ち着かない方が大きいですけどね。まだ13歳なのに、家を持つんですから」
「落ち着かないくらいで丁度いいと思うわ。家というのは、ただ住む箱ではないもの。そこに誰を招くかで、持ち主の運命も変わる」
お嬢様は少し芝居がかった調子で言う。だが、その言葉には妙な重みがあった。
運命を操る吸血鬼が言うと、ただの比喩に聞こえないから困る。
「完成したら、新築祝いをするつもりです」
「へぇ?」
「紅魔館の皆さんにも来てほしいと思ってます。もちろん、都合が合えばですけど」
フランの顔がこちらへ向いた。
「絶対行く!」
「早いな」
「だって、にぃにのお家でしょ? 絶対に行くよ!」
「わかったわかった。けど、先にお嬢様の許可を取ってからな」
俺が言うと、フランはすぐにレミリアお嬢様の方を見た。お嬢様はわざとらしく目を細め、カップを揺らす。
「……招待状の出来次第ね」
「お姉様っ!」
「ふふ、冗談よ。予定が合えば行きましょう。咲夜」
「かしこまりました」
咲夜さんが即座に頷く。もう日程調整が始まったらしい。紅魔館の機動力は恐ろしく早いな。
フランは、満足そうに笑う。
「じゃあ、今日はその前のお祝いだね」
「ん? 何の祝いだ?」
「にぃにが遊びに来たお祝い」
「それは……前に来た時にもしてた気がするけど、もしかして毎回やる気か?」
「うんっ!」
そんな当たり前の顔で言われると、返す言葉に困る。だがまぁ、悪い気はしない。……咲夜さんが困った顔をしているのが印象的だったが。
夜が更けるにつれて、館の外の空気はぐっと冷えた。
秋の夜風が湖の上を渡り、波立つ湖面に細く反射する月の光条が、紅魔館の屋根や塔の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせる。
月は高く、雲は薄い。周囲の木々はざわざわと音を立てていた。
弾幕ごっこの場は、紅魔館の上空に定められた。
館のテラスにはレミリアお嬢様、咲夜さん、美鈴さん、ラッシュが並び、少し離れた窓辺にはパチュリーさんと小悪魔さんの姿も見える。
……観戦席という言葉が冗談ではなかったことに、今さらながら少しだけ肩が重くなった。
俺とフランは、紅魔館の屋根より高い位置で向かい合った。
フランの金髪が月光を受けて淡く光り、背中の七色の羽が夜風に揺れて、小さな宝石のように瞬く。
地下で見た時のような、感情のままに世界を壊そうとする圧はない。だが、内側に眠る力の大きさは変わっていない。
むしろ、抑えられているからこそ、その輪郭がはっきりと見えるようだった。
テラス側で咲夜さんが銀時計を閉じ、静かに声を張った。
「本日の弾幕ごっこは、双方の残機を三機とし、四度目の被弾が確定した時点で敗北といたします。使用できるスペルカードは、それぞれ三枚まで。戦闘前の事前申告は不要といたしますが、使用時の宣言だけはお忘れなきように。規定枚数を終えた時点で決着がつかない場合、被弾数の少ない方を勝者とします」
「はい!」
フランが元気よく返事をする。
「了解です」
俺も頷いた。
遊びだからこそ、枠がいる。力の強い者ほど、形を決めておかなければならない。そういう意味では、このルールはフランのためでもあり、俺のためでもあるのだろう。
「準備はいい?」
フランが笑う。
「ああ。いつでも」
「じゃあ、いくね——」
その声が、夜空に弾んだ。
「禁忌《クランベリートラップ》っ!」
最初に広がったのは、赤い小さな光だった。
ひとつ。ふたつ。みっつ。瞬きのように生まれた弾が、次の瞬間には紅い実の群れになって夜空へ散る。
弾はただ飛んでくるのではない。避けた先から、散ったはずの光がこちらへ吸い寄せられるように流れ込んでくる。
……罠だ。
そう思った瞬間、俺は呼吸を少しだけ落とした。
焦って逃げれば、流れに足を取られる。近づく弾を弾こうとしても、別の紅がその隙間へ滑り込むだろう。ならば、こちらも流れを作って対抗するしかない。
「共振《止水眇忽(しすいびょうこつ)のメヌエット》」
俺の周囲に、淡い霊力が広がった。
それは激しく撃ち返すための弾幕ではない。
静かな水面に月光が揺れるように、小さな弾が緩やかな弧を描き、紅い弾の進路を少しずつずらしていく。
押し返すのではなく、受けて流す。引き寄せられる紅の流れへ、こちらの静かな波紋を重ねる。
フランの弾幕は、綺麗だった。
危ない。鋭い。少しでも判断を誤れば即被弾する。
けれど、それ以上に、夜空へ撒かれた紅い実のような輝きが美しいと思った。
館の地下で見た破壊の光とは違う。今のフランは、ナニカを壊すためではなく、相手がどうするのかを見たくて弾を放っている。
俺は、自身で放った水面のような弾幕の中を滑り、紅い弾の引き寄せを外しながら前へ出た。
フランは楽しそうに目を輝かせ、さらに弾を増やす。逃げ道が細くなり、肩先を紅い光が掠めたが、咲夜さんの判定は鳴らない。まだ"被弾"ではない。
「すごい……そーえー、それすっごくきれい!」
「褒める余裕があるなら、少しは緩めてくれるとありがたいな」
「やだ!」
「っはは、即答かっ!」
笑いながら返してくるフランに、こちらも苦笑してしまう。
初手は互いに様子見だった。いや、フランの放つ"様子見"は普通に危ないのだが、それでも彼女なりに加減しているのは分かる。
俺の水面が紅い流れを受け、フランの赤い実の罠がその水面を乱そうとする。しばらくの間、紅と淡青の光が夜空で重なり、湖に揺れる月がその下で静かに震えていた。
◆ side:レミリア・スカーレット ◆
「……面白いわね」
テラスで紅茶を手にしたまま、私は小さく呟いた。
夜空では、フランの紅い弾幕と創英の水面のような淡い弾幕が絡み合っている。
赤い果実のような弾が吸い寄せられ、静かな水面のような弧がそれを受け止めて流す。本人たちはただ、互いの弾幕を見て、その場で最も自然な返しを選んでいるだけなのだろう。
だが、外から見れば違う意味が立ち上がる。
「妹様の放つ"果実"に、"水面"のような弾幕を重ねるとは」
咲夜が、私の横で静かに言った。
「貴女も気付いたのね。……狙っているようには見えないけれど」
「ええ。創英様も妹様も、そこまでは考えていないかと」
「だから面白いのよ。狙っていないのに、意味として噛み合っている。紅い実を沈める水面、ね」
私はカップの中の紅茶を見下ろした。揺れない水面に、夜の色が薄く映っている。
「"ウェットハーベスト"……あの子、妙なところでフランの遊びに意味を与えるわね」
「妹様も、とても楽しそうです」
「ええ」
私は夜空を見上げる。
フランが笑っている。あの地下で、力のままに何もかも壊してしまいそうな顔をしていた私の妹が、今は誰かへ向かって弾幕を放ちながら、返ってきた光に目を輝かせている。
それを、奇跡と呼ぶのは簡単だ。
けれど、あの人間の少年はきっと、そのつもりであの場にいるわけではない。ただ遊びに来たと言って、フランの前に立っている。
「……本当に、妙な縁を持ち込むわね。あの子は」
私はそう言って、誰にも聞こえない程度に笑った。
◆ side:時崎創英 ◆
一枚目の応酬は、互いに被弾なしで終わった。
フランの紅い弾が夜空でほどけ、俺の淡い霊弾も月明かりに溶ける。テラスの方から小さな拍手が聞こえたが、何を話していたのかまでは分からない。レミリアお嬢様が少し楽しそうに笑っていたから、悪い内容ではないのだろう。
「次、いくよ」
フランが両手を広げる。
「ああ」
「今度は、ちょっと難しいよ?」
「さっきの時点でだいぶ難しかったけどな」
「じゃあ、もっと難しい!」
フランは嬉しそうに笑った。
「禁忌《フォーオブアカインド》っ!」
夜空に、フランが増えた。
一人。二人。三人。四人。全員が同じ顔で笑っている。全員が同じ羽を瞬かせ、同じようにこちらを見る。
幻か、分身か、本体か……目で追えば追うほど、どれも本物に見えてくる。
紅い瞳が四方向からこちらを覗き込み、次の瞬間、弾幕が一斉に放たれた。
「うおっ!? 速いな……っ!」
右から来たと思えば、左下から別の弾が差し込む。正面のフランへ意識を向けた瞬間、背後に回り込んだもう一人が紅い光を撒く。
逃げ道そのものが4つの笑顔に塞がれていく。悠長にどれが本物かを見抜こうとしていたら、たぶん回避は間に合わないだろう。
ならば——全部まとめて縛り上げる。
「縛符《星状縛鎖結界》」
呪符を放つと、霊力で編んだ鎖が五芒の軌道を描いて広がった。
星型に走る鎖は、フランたちの移動範囲をじわじわと狭めていく。鎖の先端から小さな霊弾が散り、通過した軌跡が薄い結界として場に残る。
フランのうち一人が、楽しそうに声を上げた。
「わ、星だ星だっ!」
「星……っていうか、捕まえるための鎖なんだけどなっ!」
「でも、きれいだよ!」
四人分の声が重なった。
どこから本物の声がしているのか分からない。けれど、フランが楽しんでいることだけは分かる。
俺は霊鎖を広げ、四人の動きを一瞬だけ鈍らせた。右上のフランが鎖を避け、左下のフランが弾を撒く。正面のフランが笑って動きを止めた瞬間、胸の奥で違和感が鳴った。
……あれは囮だ。
俺は身体をひねり、背後へ霊弾を撃ち返す。そこにいたフランの肩先へ、星状結界から散った小弾が当たった。
咲夜さんの持つ硝子の手鈴が、ちりん、と小さく鳴る。
「フランドール様、一被弾です」
「むぅ」
フランが少しだけ頬を膨らませる。けれど、すぐに笑った。
「じゃあ、お返し!」
四人のフランが同時に動いた。
避ける。斬る。流す。結界の内側へ潜る。
頭では分かっているのに、身体が追いつかない。右肩に紅い光が当たり、続けて足元から跳ね上がった弾が脇腹を叩いた。
手鈴が二度鳴る。
「創英様、二被弾です」
「くっ……今のは、完全に持っていかれたな」
「えへへ。そーえー、びっくりした?」
「そりゃあするさ」
痛みは軽い。判定として残る程度には威力もきっちり抑えられている。
……フランの強さははっきり伝わった。
四人に増えたから強いのではない。四人に増えた後でも、遊びとして成立するようにちゃんと制御しているのだから、恐ろしい。
けれどそれは、紅い霧の時には見えなかった強さだった。
——二枚目が終わる頃、俺の息は少し上がっていた。
フランは一被弾、俺は二被弾。残機はまだある。だが、次で決めに来るつもりなのは、フランの顔を見てすぐに分かった。
夜空に浮かぶフランは、少しだけ真剣な目をしていた。
「最後……いくね」
「ああ、来い」
「きれいなの、見せてあげる——」
フランの羽が、ぱちりと瞬いた。
「——禁弾《スターボウブレイク》ッ!」
夜空が、割れたように見えた。
星の光が、虹の弧を描いて降ってくる。そのひとつひとつの弾が鋭く、鮮やかで、軌道を読み切る前に次の光が視界を塗り替えてゆく。
七色の羽から零れた輝きが、紅魔館の上空いっぱいに広がり、湖面へもその残光を落としていく。
……綺麗だ。
そう思った瞬間、背筋が冷えた。
綺麗だと思わせ、目と思考を奪う弾幕ほど危ないものだ。
俺は風花の柄へ手を添える。
ここまで、刀を抜かずに応じてきた。けれど、最後の一枚にはこちらも一閃で返したい。壊すためではなく……あの光の中へ、道を作るために。
「刺気(しき)を以て、六花(むつのはな)を成す——」
納刀状態のまま霊力を込め、次の瞬間——
「——清冽《氷華一閃》ッ!」
——俺は、風花を抜いた。
刀身から冷気が走り、一直線上に氷の道が生まれる。俺はその道を斬り砕きながら前へ出た。
砕けた氷片が花弁のように舞い、星虹の弾幕とぶつかって淡い光を散らす。紅魔館の夜空に、七色の星と青白い氷華が重なった。
フランが目を輝かせる。
「すごいすごいっ! とってもきれいっ!!」
「見とれてると、当たるぞ!」
「そーえーもねっ!」
その通りだった。
氷の道は細い。速度と貫通力はあるが、横から降る星の弾幕までは消しきれない。
肩口に一発、虹色の光が当たる。硝子の手鈴が鳴った。
「創英様、三被弾です」
これで後がなくなった。
けれど、こちらの氷華もただ砕けているわけではない。
散った氷片が花弁のように広がり、フランの進路へ薄く残る。
フランが星の弧を描いて回り込もうとした瞬間、その足元で氷片が光った。
「っ!?」
フランの動きがわずかに止まる。そこへ、俺の放った小さな霊弾が届いた。
フランの手に当たり、手鈴が澄んだ音を鳴らす。
「フランドール様、二被弾です」
「わ、当てられた!」
フランは驚いたように笑う。悔しさよりも楽しさが勝っている顔だった。
……だが、勝負はまだ終わっていない。スターボウブレイクの光は、最後にもう一度強く瞬いた。砕けた星の残光が一拍遅れて背後から降る。
避ける道はあった。ほんの細い隙間が、夜の中に見えた気がした。けれど、そこへ身体を通すには、もう半歩足りない。
俺は風花を返し、氷華の残りで弾を流した。
直撃は避ける。けれど、これ以上攻めに出る余裕はなかった。
最後の星が頬を掠めたが、咲夜さんの手鈴は鳴らない。
判定外——その判定に俺は息を吐き、夜空で動きを止めた。
互いに三枚目が終わる。
フランの星虹がほどけ、俺の氷華も夜風に消えた。
咲夜さんが静かに告げる。
「規定枚数の終了を確認しました。フランドール様、二被弾。創英様、三被弾。勝者、フランドール様」
一瞬、夜空が静かになった。
次の瞬間、フランが両手を上げた。
「やったぁ! にぃにに勝ったぁ!」
「ああ。強かったよ、フラン」
俺は素直にそう言った。
悔しさがないわけではない。けれど、それ以上に、胸の奥に残っているものがある。
——楽しかった。そう言う前から、その言葉はもう喉元にあった。
フランはまっすぐ飛んできて、俺の目の前で止まる。
「楽しかった?」
「ああ。楽しかった。すごくな」
迷わず返すと、フランは一瞬だけ目を丸くした。それから、勝った時よりもずっと嬉しそうに笑った。
「またやろうね」
「ああ。またやろうな」
「次はもっと、きれいなのを見せてあげるね」
「これ以上にか?」
「うん。そーえーも、もっともっときれいなの作ってよ」
「ははは、努力するよ」
フランは満足そうに頷き、俺の手を取って一緒にテラスへと降りた。
戻ると、ラッシュが一番に駆け寄ってきた。フランへ怪我がないか確かめ、それから俺の焦げた袖と冷気で白くなった手元を見て、小さく目を見開く。
「創英様、お怪我は」
「問題ない、大丈夫だ」
「本当に?」
「本当に」
ラッシュはまだ少し疑わしそうだったが、フランが「ちゃんと手加減したよ」と胸を張ると、ようやく肩の力を抜いた。
「はい。とてもお上手でした、フラン様」
その言葉に、フランが嬉しそうに笑う。
美鈴は腕を組み、感心したように頷いていた。
「いやぁ、いい勝負でしたね。創英さんも粘りましたし、妹様もすごく綺麗でした」
「勝負としては、だいぶ劣勢を強いられていましたけどね」
「そうですか? 妹様に最後まで付き合えたなら十分かと思いますよ。以前に私と戦った時よりも、ずっと強くなっているようですし」
朗らかな笑みを浮かべながら、美鈴さんがそう評価する。
「そうね。フランも吸血鬼、その強さはそこらの妖怪などに引けを取らないわ。遊びとはいえ、それを相手にして遊びを成立させられている時点で、貴方は十分に強いわ」
美鈴さんの言葉に続けて、お嬢様もそう言った。
彼女はテラスの欄干に手を置き、夜空の残光を見上げている。声はいつものように余裕を含んでいたが、その横顔は少しだけ柔らかかった。
「……フランが、あんなふうに夜空で遊ぶ日が来るなんてね」
「お嬢様……」
「ふふ。何でもないわ、咲夜」
レミリアお嬢様はすぐにいつもの顔へ戻った。けれど、今の一言だけで十分だった。姉としての本音は、たぶんあれで精一杯なのだろう。
フランはそれに気づいたのか、気づいていないのか。俺の袖を引きながら、満足げに笑っていた。
「にぃに、明日も遊べる?」
「明日は夕方には帰るつもりだけど、それまでならな」
「じゃあ朝から」
「少しは寝ろ。吸血鬼だろ」
「えー? 吸血鬼だって朝から動くもん」
「えー、じゃない。ちゃんと寝なさい。じゃないと一緒に遊ばないぞ」
「えーっ!? じゃあじゃあ、ちゃんと寝るから、一緒に寝よ!」
「ひ、一人で寝なさいっ!」
そのやり取りに、テラスの空気がまた柔らかくなった。
——夜の紅魔館は冷たい。だが今夜は、その冷たさの中に小さな光がいくつも残っているように感じた。
くれないの館の上で、フランの光が瞬いている。壊すためではなく……誰かと、遊ぶために。
⸻
翌日の紅魔館は、少しだけ寝不足の様相を呈していた。
主にフランが、朝早くから俺を連れ回そうとしたせいである。
咲夜さんに朝食を取ってからにして下さいさいと止められ、ラッシュに身支度を整えられ、美鈴のところへ行っては門番のお仕事の邪魔をして遊び、最後にはパチュリーさんの図書館で静かにするよう言われて、僅か三分ほどで飽きていた。
それでも、フランは楽しそうだった。
俺は午前のうちにフランを楽しませるために美鈴さんと軽い弾幕の見せ合いをし、昼過ぎには紅魔館の面々へ改めて新築祝いの話を伝えた。
咲夜さんは、必要なものがあれば手伝うと申し出てくれた。レミリアお嬢様は「貴方に相応しい土産を考えておくわ」と笑った。美鈴さんは食べ物の量を心配し、パチュリーさんは家の内部構造について興味を示していた。そして……ラッシュは、フランの隣で静かに笑っていた。
そうこうしているうちに夕刻が近づき、そろそろ帰る時間になった時、フランは玄関先まで見送りに来た。
「また来るよね?」
「来るよ、絶対に」
「絶対?」
「ああ、絶対だ」
「じゃあ、私もにぃにのお家に行く!」
「ああ、待ってるよ」
「うんっ! 絶対に遊びに行くからね、創英にぃに!」
フラン達に笑顔で送り出された時には、湖の向こうで既に夕日が沈みかけていた。
昨夜あれほど光で満ちていた空は、今は橙と薄紫に染まっている。夜の弾幕の残光はもう見えない。けれど、目を閉じれば鮮明に思い出せた。
——翠緑の翼を広げて空へ舞い上がる。
帰る場所がある。遊びに行ける場所もある。そして、これから誰かを迎える家ができていく。その全部が、今の俺を取り巻く"幻想郷"なのだと思った。
⸻
稗田邸へ戻った頃には、日がほとんど沈んでいた。
門をくぐると、縁側の灯りがついている。阿求はそこに座っていた。
帳面を開いてはいるが、筆は止まっている。俺の足音に気づくと、彼女は顔を上げた。
「……おかえりなさい、創英さん」
「ああ。ただいま」
その言葉を返せることに、胸の奥が少しだけ温かくなる。
「紅魔館はどうでした?」
「賑やかだったよ。いやぁ、フランは強かったな」
「負けたんですか?」
「そりゃあもう見事に。三対二でね」
「善戦ではありませんか」
「あっはは。そう思いたいなぁ」
阿求は小さく笑った。
「ですが、楽しかったのでしょう?」
「ああ……楽しかったよ、とっても」
夜の上空で瞬いた光を思い出す。あの光は、きっと記録には残しきれない。
けれど、俺の中には確かに残っている。
「もうそろそろ家が完成することも伝えたよ。新築祝いには、紅魔館の皆も来ると思う」
「では、準備が大変になりますね」
「うん。手伝ってくれるか?」
「もちろんです」
阿求は当然のように頷いた。
遠くから、かん、かん……と、槌の音が聞こえた気がした。もうこの時間なら大工たちは作業を終えているはずだから、きっと耳の奥に残った音だろう。
——俺の家は、もう少しで完全な形になる。
誰かを迎えるために。
繋がった縁が、そこへ集まるために。
俺は紅魔館から持たされた土産の包みを阿求へ渡し、縁側に腰を下ろした。
十月の夜風は冷たい。けれど、その冷たさの奥で、昨日の紅い光がまだ小さく瞬いている。そんな気がした。