◆◇◆◇◆◇◆◇◆
十月末日。朝日が昇るより少し前に、俺は目を覚ました。
布団から出ると、室内の空気は冷えている。顔を洗い、髪を整えてから炊事場へ入ると、前日までに仕込んでおいた食材をひとつずつ確認した。
根菜の煮物。鳥肉の香草焼き。湖魚の揚げ物。茸を使った汁物。握り飯と炊き込み飯。甘味には、栗と芋を練り込んだ焼き菓子を用意してある。
酒や茶も揃えた。子供たちや俺が飲む果実水もある。食器の数は何度確認しても不安だったが、足りなければ椀を洗いながら回せばいい。
腕まくりをして包丁を握ったところで、玄関が叩かれた。まだ朝餉にも早い。
誰だろうと思いながら戸を開けると、阿求が立っていた。後ろには稗田家の者が二人おり、布に包まれた大きな籠を抱えている。
「おはようございます、創英さん」
「おはよう、阿求。お付きの人達も、今日はまた随分と早いですね」
「ええ。創英さんが一人で全部済ませようとしている気がしましたので、様子を見に」
「あはは……そっか。でもまぁ、昨日までに大体は仕込み終わったよ。今日はその残りを——」
「そうですか。それはつまり……今日もまた、一人で仕上げるつもりであった。そう言うわけですね?」
「——え、えーっと……それはまぁ、その~……」
「全くもうっ! 目を離すとすぐ無理をするんですからっ」
阿求が、ムスッとした不機嫌そうな顔になる。
「あ、あはは……その、なんだ。手伝ってもらえると、助かります……?」
「なぜ疑問形なんですか……」
苦笑を浮かべつつも、阿求は満足そうに頷き、俺の返事を待たず家へ上がった。
籠の中には、稗田家で用意してくれた漬物や果物が入っていた。他にも予備の膳や椀、座布団まである。
「これだけあれば、多少人数が増えても大丈夫でしょう」
「多少って……これ以上まだ増えるってのか?」
「宴会とは、招かれていない方まで増えるものですから」
「恐ろしいことを言うなよ……」
だが、幻想郷では有り得ないと言い切れないのがさらに恐ろしかった。
——日が高くなる頃には、家中へ料理の匂いが満ちていた。
阿求が器と座布団を整え、俺は炊事場で鍋を見ながら焼き物を仕上げる。居間と和室の間にある戸は全て外し、大人数が一度に座れるよう広く開けた。椅子を好む者は板張りの居間へ、畳へ座る者は和室へ回れる。
昼を過ぎた頃、再び玄関が叩かれた。
「創英、いるか?」
戸を開けると、棟梁が酒樽を抱えて立っていた。
「完成祝いだ。職人連中からな」
「ありがとうございます。でも、こんなには貰えませんよ」
「人の好意は素直に受け取れって、前にも言っただろうが」
同じ言葉を返され、俺は酒樽を受け取るしかなかった。
「棟梁は宴には来ないんですか?」
「ああ。夜は妖怪も大勢来るんだろ? 俺たちがいたら、向こうも気を遣うだろうさ。昼のうちに祝えりゃ十分だ」
「気を遣うような人たちかは怪しいですけどね」
「違いねえな」
棟梁は声を上げて笑うと、新居を見回した。
「もう、いい匂いがしてやがる。ちゃんと家になったじゃねえか」
「まだ、今日からですよ」
「いいや。人を迎える準備をしてるなら、それはもう立派な家だ」
棟梁の掌が、玄関の柱を軽く叩く。
「楽しめよ、家主」
「はい。ありがとうございます、棟梁」
今度は頭を下げすぎないように気をつけながら、俺は棟梁を見送った。
夕刻が近づき、料理を並べ始めた頃。 玄関の外から、何かが勢いよく地面へ降り立つ音がした。
「来たわよ!」
戸を開ける前から、誰なのか分かってしまう。
玄関にはチルノが胸を張って立ち、その後ろで大妖精が大きな包みを抱えていた。空はまだ茜色にもなっていない。
「チルノと大妖精か、早いな。待ち切れなかったのか?」
「あはは……チルノちゃんが時間を間違えちゃって……」
「へっへーん! あたいが一番乗りねっ!」
大妖精が申し訳なさそうに頭を下げる。
「夕方って、太陽が少し傾いたら夕方でしょ?」
「違うぞ。まだ昼過ぎだ」
「細かいことはいいのっ!」
どうやら、チルノ的には細かい問題らしい。
「んー、まあ……来たものは仕方ないか。中に上がって、適当に寛いでいてくれ。まだ準備中なんだ」
「そうなの? じゃあ、あたいも手伝う!」
「いや、別に——」
「手伝うっ!」
「……じゃあ、家を凍らせる以外で頼む」
「分かった! じゃあ、料理を冷やす!」
「温かい料理までは冷やすなよ……?」
チルノへ念を押し、大妖精から包みを受け取る。中には湖畔で摘んだらしい小さな花と、霜に包まれた木の実が入っていた。
「チルノちゃんと二人で用意しました。新しいお家、おめでとうございます」
「ありがとう、大妖精。早速飾らせてもらうよ」
花を水差しへ生けて居間の窓辺へ置くと、何もなかった部屋へ柔らかな色が加わった。
その後は、戸を閉める暇もないほど来客が続いた。
霊夢は祝いとして博麗神社の守護札を持参し、玄関の内側へ貼るよう俺へ渡した。
「これで、変なものは入りづらくなるわ」
「紫さんは入れるのか?」
「入るでしょ。あいつを防げたら、私が使いたいくらいよ」
「そ、そうか……」
魔理沙は霊夢の後ろから顔を出し、家へ上がるなり廊下や棚を眺め始めた。
「へぇ~……本当に変わった造りだなぁ。台所も広いし、部屋も繋がるのか」
「勝手に戸棚を開けるなよ」
「何も盗らないぜ」
「まだ何も言ってないだろ」
「なら問題ないな」
「あるよ」
霖之助さんは魔理沙の態度に呆れながら、壁へ掛ける古い時計を祝いとして持ってきてくれた。外の世界のものらしいが、振り子を調整すれば幻想郷でも動くという。
慧音は里で使われる丈夫な敷物を、妹紅は竹で編んだ大きな籠を持参した。妹紅の籠には採れたばかりの茸が詰まっており、創英なら料理に使えるだろうと言われたので、汁物へ急遽加えることにする。
紅魔館の一行が到着すると、玄関前は一気に華やかになった。
「にぃに! 約束通り、お祝いに来たよ!」
フランが俺の姿を見るなり駆け寄ってくる。飛びつく直前にラッシュから「フラン様」と声を掛けられ、慌てて勢いを止めた。
「いらっしゃい、フラン。それに皆さんも、ようこそ。お待ちしてました。本日はお越し下さり、ありがとうございます」
「うん! ……ここが、にぃにの新しいお家?」
「ああ。今日からここが俺の家だ」
フランは目を輝かせ、俺の横から玄関の奥を覗き込む。
「入っていい? 入っていい?」
「ああ、いいぞ。そのために呼んだんだ。遠慮なく上がってくれ」
「わあ~っ!」
許可を得た途端、フランは館内へ駆け込んでいく。
ラッシュが一礼してからその後を追い、大妖精と一緒に料理を運んでいたチルノが、すぐさまフランへ張り合うようについていった。
「おーい! 廊下は走るなよー!」
「はーい!」
「分かった!」
二人分の返事が重なる。元気なのは良いことだが、あれは絶対に分かっていないだろうな。
「——なかなか悪くない家ね」
レミリアお嬢様は玄関先から建物を見上げ、満足そうに頷いた。
「人里の内と外、その境に近い。貴方らしい場所を選んだじゃないか」
「ええ、まぁ。ここからなら、里の中へも外へもすぐ動けますから」
「それだけ?」
紅い瞳が、試すように俺を見る。
「……皆が来やすい場所でもありますね」
「ふふ。なら、合格よ」
何に合格したのかは分からないが、お嬢様は機嫌よく家へ入っていった。
咲夜さんは祝いの品が入った箱を小悪魔さんと美鈴さんへ任せると、そのまま炊事場へ向かう。
「お手伝いします、創英様」
「今日は客なんですから、座っていてもいいんですよ?」
「大人数を一人で迎えようとなさった方に、言われたくはありませんわね」
「ゔっ」
阿求とほとんど同じことを言われた。
「お……お願いします……」
「ふふ、かしこまりました」
咲夜さんが加わった途端、料理の仕上げと配膳は恐ろしいほど速く進み始める。俺が鍋の様子を見ている間に皿が並び、振り向けば使い終えた調理器具まで洗われていた。
時間を止めているのかもしれないが……聞かない方がいい気がした。うん。
八雲家の三人は、予告通り玄関から来なかった。
居間と和室の境目へ隙間が開き、最初に橙が顔を出す。続いて藍さんが大きな重箱を抱えて現れ、最後に紫さんが扇子を片手に優雅に足を踏み入れた。
「新居の完成、おめでとう。創英」
「ありがとうございます。……でも、玄関はあっちですよ?」
「あら。境目を広くしておいてと伝えたでしょう?」
「通り道の指定だったんですか、あれ……」
「ええ。お陰でとても入りやすかったわ♪」
紫さんは悪びれもせず笑い、部屋の造りを見回した。
「里の縁へ、随分と面白い家を建てたものね」
「便利な場所だと思っただけですよ」
「そうね。そういうことにしておきましょうか」
その言い方が少し気になったが、尋ねる前に橙がチルノたちを見つけて駆けていく。藍さんは申し訳なさそうに頭を下げながら、持参した重箱を咲夜さんへ渡した。
人間と妖怪。里の内と外。
新しく作った居間と、古くからある畳の部屋。
紫さんの目には、それらが俺には見えない何かとして映っているのかもしれない。
だが今日だけは、あまり深く考えないことにした。
招待した者がほぼ揃い、そろそろ宴を始めようかという時だった。
玄関の戸が、控えめに三度叩かれた。
名簿へ目を落とす。まだ来ていない者はいないはずだ。
「はぁい。どなたですか?」
戸を開くと、黒い翼を畳んだ射命丸さんが、片手に帳面を持って立っていた。
「どうも、射命丸文です! 里の出入口に縁を紡ぐ退魔師の新居が完成したと聞きまして、取材へ伺ったのですがっ!」
射命丸さんは俺の肩越しに、すでに大勢の集まっている室内を覗き込む。
「ほほぉ~? これはまた、随分と賑やかなことになっていますねぇ?」
「今日は新築祝いの宴会なんですよ」
「なるほどなるほど。でしたら、日を改めた方がよろしいでしょうか?」
「いえ、大丈夫ですよ。それと、せっかく来たんですから上がっていきませんか?」
俺が横へ退くと、射命丸さんは僅かに目を瞬かせた。
「取材に来た新聞記者まで宴へ招くのですか?」
「家に来た相手を、外へ立たせたまま宴会を始めるわけにもいかないでしょう? 料理もありますし、お酒もありますよ」
「お酒っ!? ……オホン。では、ご相伴にあずかりましょう」
射命丸さんは嬉しそうに笑い、玄関へ足を踏み入れた。
……結局、招いていなかった者まで増えた。阿求の言葉は正しかったようだ。
全員が席へ着いた頃には、外はすっかり暗くなっていた。
居間と和室を繋げた広間へ、料理の皿と膳が並ぶ。板張りの側には椅子を好むパチュリーさんやレミリアお嬢様が座り、畳の側には霊夢や魔理沙、慧音たちが腰を下ろした。
フランとチルノが早くも何かを張り合っている。大妖精とラッシュ、橙はその間に挟まれ、止めるべきか一緒に遊ぶべきか迷っているようだった。
俺は皆の顔を見渡し、用意していた果実水の杯を手に立ち上がった。
視線が集まる。人前で挨拶をすることには慣れていない。
何か立派なことを言おうと考えていたはずなのに、これだけの顔を見ると、用意していた言葉はどこかへ消えてしまった。
「ええと……今日は、俺の家の新築祝いに来てくださって、ありがとうございます」
自分でも驚くほど、普通の挨拶しか出てこなかった。
「幻想郷へ来たばかりの頃は、自分がここで家を持つなんて考えてもいませんでした。そもそも、生きて暮らしていけるかも分からなかったので」
霊夢が杯を持ったまま、僅かに目を細める。阿求は何も言わず、俺の言葉を待っていた。
「それでも、色々な人に助けてもらって、俺はここまで来られました。この家も、俺一人で手に入れたものじゃありません。里の人たちが建ててくれて、皆が今日ここへ来てくれたから、ようやく家になったんだと思います」
完成したばかりの柱。人の熱で曇り始めた窓。
並べた料理の匂いと、抑えきれない笑い声。
一人で迎えた最初の夜とは、まるで違う場所になっている。
「だから――これからも、遠慮なく遊びに来てください。何か困った時でも、ただ飯を食べたい時でも構いません。俺にできることなら、できるだけ応えます」
「ふぅん? ただ飯だけでもいいのね?」
霊夢がすぐに反応する。
「毎日は勘弁してくれよ?」
「何よ。けちねぇ」
「家主を破産させるつもりかお前は」
笑いが起こり、肩へ入っていた力が抜けた。
「……とにかく。今夜は楽しんでいってください。乾杯っ!」
『乾杯~!』
いくつもの声と杯が重なり、新しい家で初めての宴が始まった。
そして……宴は、始まって間もなく収拾がつかなくなった。
霊夢は真っ先に煮物を取り、魔理沙は鳥肉の香草焼きを山のように皿へ載せる。美鈴さんと妹紅はどちらが多く食べられるかで張り合い始め、慧音から食べ物を粗末にするなと揃って叱られていた。
パチュリーさんと霖之助さんは、家の内部構造と外の世界の建築について話し込んでいる。小悪魔さんはその会話へ相槌を打ちながらも、パチュリーさんの皿から料理が減っていないことを気にしていた。
フランは俺の隣へ座り、料理をひとつ食べるたびに感想を伝えてくる。
「にぃに、これおいしいっ!」
「そっか、それは良かった。その茸は妹紅が持ってきてくれたやつなんだよ」
「こっちは?」
「それは慧音先生の持ってきた野菜を使った煮物だ」
「じゃあじゃあ、これは?」
「それは咲夜さんが仕上げを手伝ってくれた焼き菓子だな」
「んふふ、全部おいしいっ!」
「っはは。なら、ゆっくり食べな。焦って食べると喉に詰まらせるぞ?」
フランの口元へ付いた菓子の欠片を布で拭ってやると、少し離れた場所からラッシュが安堵したように微笑んでいた。
レミリアお嬢様はそんな妹の姿を横目で見ながら、持参した紅茶を優雅に飲んでいる。だがフランが「お姉様も食べて」と菓子を差し出すと、威厳を保つ間もなく口へ運ばれていた。
チルノは、俺が用意した氷菓子を見て大喜びした。
「これ! あたいのために作ったの!?」
「そういうわけではないけど……暑い時期に試作してみて、そのまま作り方を覚えてただけだよ」
「むぅ~……今からでも、あたいのためってことにしなさいっ!」
「分かった分かった。チルノのために作った。……これでいいか?」
「やった~!」
満足したチルノが大妖精へ自慢し始める。
何がそんなに嬉しいのかは分からない。けれど、笑っているならそれでいいか。
射命丸さんは料理を楽しみながらも、記者としての仕事を忘れてはいなかった。
「創英さん。少しよろしいですか?」
「はい? なんでしょうか」
「この場所へ家を建てた理由をお伺いしても?」
差し出された筆を見て、宴の中でも取材をするつもりなのだと理解する。
「里の外で何かあった時、すぐに動けるからです。それに、里の中央へ行くにも不便じゃない。人間にも妖怪にも、来やすい場所だと思ったので」
「人間にも妖怪にも、ですか?」
「はい。どちらか片方しか来られない家にはしたくなかったんですよ」
射命丸さんの筆先が、僅かに止まった。
「なるほど。まさに、縁を紡ぐ退魔師の住まいというわけですね」
「その呼び方は……まだ慣れませんけどね」
「では、慣れるまで新聞へ書き続けましょう!」
「勘弁してください……」
「話は変わりますが……創英さん、文々。新聞の定期購読はいかがです? 人里だけでなく、山や森、妖怪たちの間で起きた出来事まで広く知ることができますよ」
「急に商売を始めましたね」
「取材と営業は、同時に行うと効率が良いのですよ」
阿求の記録は、幻想郷の過去や妖怪たちの性質を知る上で欠かせない。だが射命丸さんの新聞には、今この瞬間に幻想郷で何が起きているのかが記される。
偏りがないとは思えない。けれど、その偏りも含めて、阿求とは違う視点が得られるはずだ。
「分かりました。定期購読します」
「毎度ありがとうございますっ!」
射命丸さんは満面の笑みで帳面へ何かを書き込んだ。
「初回は明日の朝にお届けしますね」
「随分と早いですね」
「新聞は鮮度が命ですので!」
明日から玄関先へ新聞が届く生活になるらしい。またひとつ、この家での日常が増えた。
そんな宴の途中。ふと、妙な感覚が首筋を撫でた。
笑い声。料理の匂い。酒と茶の香り。
その中へ、どこからともなく濃い『酒気』が混じった気がした。
俺は杯を置き、周囲へ意識を向ける。
妖気。
確かにそう感じた。
だが、紫さんや藍さん、紅魔館の面々が放つものとは違う。
ひとつの場所へ集まっているようで、同時に部屋中へ薄く散っている。
敵意はない。むしろ楽しげな気配さえあるのに、所在だけが掴めなかった。
「創英さん?」
隣にいた阿求が、俺の様子に気づく。
「いや……今、何か感じなかったか?」
「何か、とは?」
「妖気みたいなものが」
「妖気……」
阿求も辺りを見回すが、首を横へ振った。
紫さんの方へ視線を向ける。彼女は酒盃を口元へ運びながら、閉じた扇子の向こうで薄く笑っていた。
気づいているのか、それとも何も知らないのか。その表情からは読み取れない。
再び意識を研ぎ澄ます。
だが、先ほどの妖気はすでに薄れ、酒の匂いだけが宴の中へ溶けていた。
「……気のせいか?」
「創英さんがそう感じたのであれば、全くの気のせいとは限らないでしょう。ですが、今は皆さんもいらっしゃいます。誰かの気配が混じり合って、偶々そう感じただけかもしれません。それに、敵意は感じられなかったのでしょう」
「ああ。何も感じなかった」
「でしたら、今夜は宴を楽しみましょう。何かあれば、その時に調べればよいのです」
阿求の言葉に頷く。以前の俺なら、すぐに一人で外へ確かめに行こうとしたかもしれない。
けれど今は、ここを離れる理由がない。何かあれば、皆へ伝えればいい。俺は杯を持ち直し、宴の輪へ戻った。
夜が深まっても、笑い声は途切れなかった。
魔理沙が余興だと言って小さな魔法を披露し、火花を見たチルノとフランが自分たちも弾幕を出そうとして全員に止められた。橙は大妖精やラッシュと一緒に庭へ出て、月明かりの下で遊んでいる。
藍さんは紫さんが飲みすぎないよう気を配りながら、自分も橙の様子を何度も確認していた。咲夜さんは客として来たはずなのに、いつの間にか空いた皿を下げ、阿求と共に次の料理を運んでいる。
俺も炊事場と広間を行き来していたが、途中でレミリアお嬢様に呼び止められてしまった。
「創英」
「はい、何でしょう?」
「少しは座っていなさい。家主が最も落ち着いていない宴など、客の方が気を遣うわ」
「でも、料理の配膳が——」
「咲夜がいるでしょう。あの子に任せて、貴方は座ってなさいな」
見ると、咲夜さんが無言で頷いている。
「今日は貴方の祝いでもあるのよ。もてなすことばかり考えず、もてなされることも覚えなさい」
同じようなことを、棟梁にも言われた気がする。
「……分かりました」
俺が広間へ戻ると、阿求が自分の隣の座布団を軽く叩いた。
「家主の席はここですよ。こちらへどうぞ、創英さん」
「そこ、家主の席だったのか?」
「私が今決めました」
「そ、そうか」
言われるまま腰を下ろす。
視線を上げれば、完成した家の中に、これまで出会った者たちがいる。
幻想郷へ来た俺を最初に迎えた紫さん。
行く場所のなかった俺へ居場所をくれた阿求。
弾幕の世界を教えた霊夢と魔理沙。
紅い霧の中で出会い、今では俺を兄のように慕ってくれるフラン。
そのフランを支えるラッシュや、紅魔館の皆。
人里で俺を受け入れてくれた慧音たち。
湖で出会ったチルノと大妖精。
ひとつひとつの縁は、最初からここへ繋がっていたわけではない。偶然ぶつかり、時には争い、互いに傷つきながら、それでも切れずに残ったものだ。
「……どうですか?」
阿求が、皆には聞こえない声で尋ねる。
「自分の家を持ったご感想は」
「……実を言うと、最初の夜は、広すぎると思ったよ」
「今は?」
フランとチルノの笑い声が響く。魔理沙が何かを言って霊夢に叩かれ、美鈴さんと妹紅はまだ料理を取り合っている。
窓は人の熱で薄く曇り、新しい木の匂いには、料理と茶と酒の香りが重なっていた。
「……俺一人の家って感じがしない」
正直に答える。
「でも、嫌じゃないよ。むしろ、こういう家にしたかったんだって思う。皆が遊びに来て、笑顔でいられる。そんな家にしたかったんだろうな」
窓の外に浮かぶ月を見上げる。思えば、これまでにいろいろな事があった。そのどの出来事にも——ここにいる誰かしらの姿があった。繋がった縁があったのだ。
「変、かな」
「いいえ。それでよろしいのではありませんか?」
阿求は穏やかに笑った。
「家は、住む者だけで形作られるものではありません。訪れる者や、そこで交わされた言葉も、少しずつ積み重なっていくものですから」
「記録みたいに?」
「ええ。家そのものが、一編の……いえ、一冊の記録になるのかもしれませんね」
その言葉を聞きながら、俺は賑やかな広間を見渡した。
まだ最初の一頁だ。けれど、その一頁には、すでに書ききれないほど多くの名前がある。
この先も、きっと増えていく。
今はまだ知らない誰かが戸を叩き、新しい縁をここへ運んでくるのだろう。
「創英にぃに!」
フランの声に顔を向ける。
「こっち来て! チルノが自分の方が強いって言うの!」
「あたいが最強なんだから当たり前でしょ!」
「家の中で弾幕は駄目だからな」
「まだ何もしてないよ!」
「今からしそうだから言ってるんだよ」
俺が立ち上がると、広間のあちこちから笑い声が上がった。
その笑いの中へ歩いていきながら、胸の奥へ温かなものが満ちていく。
ここが、俺の家だ。
誰かを遠ざけるための壁ではなく、誰かを迎え入れるための戸を持つ場所。
人も妖怪も、記録者も巫女も魔法使いも、吸血鬼も妖精も。
俺が幻想郷で結んできた縁が、今夜、この家へ集っていた。
⸻
宴が終わったのは、夜も随分と更けてからだった。
霊夢と魔理沙は博麗神社へ戻り、慧音は酔った妹紅を連れて人里の方へ歩いていった。
霖之助さんは新しく掛けた時計の具合を最後まで確かめ、射命丸さんは明日の新聞を楽しみにしていてくださいと言い残して飛び去った。
紅魔館の一行は、眠そうになったフランをラッシュと美鈴さんが支えながら帰っていった。フランは最後まで俺の袖を離したがらず、近いうちにまた来ると何度も約束させられた。
八雲家は、来た時と同じように隙間へ消えた。紫さんは去り際、玄関ではなく家そのものへ視線を向けていた。
「良い家になったわね」
それだけを残し、扇子の向こうへ笑みを隠して姿を消した。
チルノと大妖精は早い時間から来ていたこともあり、宴の途中で眠ってしまった。二人を起こし、大妖精が支えながら湖の方へ飛んでいくのを見送る。
最後まで片付けを手伝ってくれた阿求が、玄関で履き物を整えた。
「明日、続きを片づけに来ます」
「もう十分手伝ってもらったからいいよ。あとは俺一人でできるからさ」
「そう言って、朝まで片づけるおつもりでしょう?」
「うぐっ……今日は寝ます……」
「約束ですよ」
「……ああ」
阿求は満足そうに頷き、外へ出た。
「それでは、おやすみなさい。創英さん」
「おやすみ、阿求。また明日」
「ええ。また明日」
その姿が夜道の向こうへ消えるまで見送り、戸を閉める。
家の中は、最初の夜とは違う静けさに包まれていた。
広間には空いた皿や湯呑みが残り、座布団はあちこちへずれている。窓辺には大妖精たちの持ってきた花が飾られ、壁では霖之助さんから贈られた時計が、一定の間隔で時を刻んでいた。
静かになったはずなのに、皆の声がまだ家の中へ残っている。
俺は皿を重ねようと腰を屈め、和室の端に小さな杯が置かれていることに気づいた。
「ん……? こんなの出したっけな?」
他の杯より一回り小さい。
手に取ると、底には酒が一滴だけ残っていた。鼻を近づければ、宴の酒とは違う、妙に濃く甘い香りがする。
同時に、先ほど感じた妖気が微かに指先へ触れた。
濃いのに、掴もうとすれば散ってしまう気配。
俺は顔を上げ、誰もいない広間を見回す。
当然、返事はない。ただ、軒先のどこかで、幼い笑い声に似た音が聞こえた気がした。
「……また、変な客が増えそうだな」
苦笑し、小さな杯を流し台へ運ぶ。
明日になれば、また阿求が来る。新聞も届く。
フランや魔理沙なら、そう遠くないうちに再び戸を叩くだろう。こいしも、今度こそ玄関から来るかもしれない。
家は静かだった。
けれど、もう空っぽではない。
今日ここへ集った縁と、これから訪れる縁。そのすべてを迎え入れるように、新しい家は十月最後の夜へ灯りを残していた。