幻想回帰節   作:北宮 涼

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46の節:実りの宴と小さな鬼

◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 十一月へ入って間もない朝、新居の床板は、靴下越しにも分かるほど冷え込んでいた。

 

 布団から抜け出した俺は、寝室の窓へ薄く浮いた曇りを指先で拭う。外には淡い朝靄が垂れ込め、里の家々から立ち上る炊煙が、白み始めた空へゆっくり溶けていた。庭の土は夜露に濡れ、軒先へ積んでおいた薪の表面にも、細かな霜が降りている。

 

 外の世界にいた頃、冬という季節そのものを知らなかったわけではない。だが、暖房の利いた家で過ごしていた時と、自分で火を起こさなければ部屋の空気すら温まらない今とでは、寒さの意味がまるで違った。

 

「……冷えるな」

 

 吐いた息が、居間の中でうっすら白くなる。

 

 昨夜のうちに灰へ埋めておいた炭を火鉢へ移し、細く割った薪を足して息を吹き込む。赤い火が木の内側へ移るまでには少し時間がかかったが、ぱちりと小さな音が鳴る頃には、指先の強張りも幾分か和らいでいた。

 

 新居で迎える初めての冬に備え、準備そのものはすでに終えている。軒下には乾かした薪を積み、隙間風の入る場所には詰め物を施した。寝具も厚手のものへ替え、炊事場の棚には干した茸や野菜、塩漬けにした肉、根菜類を収めてある。保存食の作り方は阿求や稗田家の人々から教わり、薪の選び方や屋根へ雪が積もった時の対処については、里の職人たちが何度も念を押してくれた。

 

 家を持つとは、帰る場所ができることだけではない。雨風から暮らしを守り、明日のために火を残し、食べるものを蓄えておく。その全てを、自分の手で引き受けることでもあるらしい。

 

 朝餉の味噌汁へ干し菜を落としたところで、玄関の戸が叩かれた。まだ人が訪ねてくるには早い時間だ。誰だろうと警戒しながら戸を開けると、そこには藍さんが立っていた。その一歩後ろでは、紫さんが大きな欠伸を扇子で隠している。

 

「おはよう、創英」

「おはようございます。随分と朝早いですね」

「私はこれから、長いお休みに入るところなの」

 

 紫さんは眠たげに目を細めると、肩へ掛けた布を引き寄せた。いつもの華やかな姿に比べると、今日は随分と防寒を意識した格好をしている。

 

「長い休み?」

「紫様は、冬の間はお眠りになられる」

 藍さんが紫さんに代わり、事務的な口調で説明する。

「春先までは、余程の事態でない限り表へは出ない。その間、幻想郷の監視や各方面との連絡は私が代行することになった」

「冬眠、ですか」

「ええ。寒い時期に無理をするなんて、賢い妖怪のすることではないでしょう?」

「その間の仕事を、全部藍さんへ押しつけるのは賢いと言うんですかね」

「あら。適材適所よ」

 

 紫さんは悪びれずに微笑む。隣の藍さんは何も言わなかったが、狐耳が僅かに下がった気がした。

 

「創英。今後、何か異変の兆候を掴んだ場合や、こちらへ連絡する必要が生じた時は、私を通してくれ」

 

 藍さんは袖から一枚の札を取り出し、俺へ差し出した。通常の呪符よりも厚い紙でできており、表面には見慣れない術式が細かな線で刻まれている。中央には、九つの尾を思わせる紋様があった。

 

「この札へ霊力を通せば、私の式へ知らせが届く。緊急時でなければ、用件を裏面へ記しておいてくれ。こちらから取りに来る」

「分かりました。大事に保管しておきます」

「紛失しても紫様の寝所へ直接訪ねようとは思わないでくれ」

「さすがにしませんよ。というか、紫さんの家が何処に在るかなんて知りませんし」

「そうか。それならいいんだ」

 

 藍さんは真顔だった。誰か過去に、似たようなことをした者がいたのかもしれない。

 

「春まで寂しくても、私を起こしに来ては駄目よ?」

 

 紫さんが横から口を挟む。

 

「別に寂しくは――」

 

 言い切ろうとして、少しだけ言葉に詰まった。

 

 幻想郷へ来た日に俺を迎えに来たのも、稗田邸へ預ける道を作ったのも紫さんだ。普段は勝手に現れては人をからかい、食事まで要求してくる面倒な妖怪だが、数か月も姿を見せないとなれば、今までとは勝手が違う。

 

 だからといって、素直に寂しいと言う気にもなれない。

 

「……静かにはなりそうですね」

「まあ。酷い言い草」

「人の寝床へ勝手に潜り込む人がいなくなるので」

「春になったら、真っ先にここへ来てあげるわ」

「宣言しないでください」

 

 紫さんは楽しそうに笑い、踵を返した。

 

「それでは、良い冬を。創英」

「紫さんも、ゆっくり休んでください」

「ええ。冬の間に、妙な縁を増やしすぎないようにね」

 

 含みのある言葉を残し、紫さんの姿が細い隙間の向こうへ消える。藍さんは俺と今後の連絡方法をもう一度確認すると、最後に新居の屋根と軒先を見上げた。

 

「冬支度は問題なさそうだな」

「里の皆に教わりましたから」

「それでも、積雪が多い時は一人で無理をするな。人手が必要なら、札で知らせても構わない」

「そこまで頼っていいんですか?」

「紫様から、貴方との連携も任されている。必要なことなら遠慮はいらない」

 

 藍さんはそう言い切ると、紫さんの後を追って隙間へ入っていった。

 

 閉じた空間の跡をしばらく眺め、それから渡された札を手の中で裏返す。紫さんの代わりに藍さんが窓口となる。ただそれだけの、事務的な引き継ぎだった。けれど、いつでも現れると思っていた妖怪が春まで眠りにつくと知ると、冬という季節が、昨日よりも少し長く感じられた。

 

 それから数日後、人間の里では収穫祭が催された。朝から大通りには色鮮やかな幟が立ち並び、家々の軒先へ縄飾りや稲穂が吊るされている。広場には収穫された米や根菜、果物が山のように積まれ、湯気を上げる屋台からは、炊き込み飯や焼き芋、甘く煮た豆の匂いが漂っていた。

 

 今年の実りへ感謝し、来年の豊作を願う祭り。幻想郷へ来て初めて見るものだが、賑わいそのものにはどこか懐かしさがある。大人たちが慌ただしく動き、その間を着飾った子供たちが走り回る光景は、外の世界で見た祭りと大きく変わらない。

 

 違いがあるとすれば、往来の端へ妖怪の姿が見えても、誰もすぐには騒ぎ出さないことくらいだろう。

 

「創英、そっちの樽も頼めるか!」

「分かりました!」

 

 声を掛けてきた男の指す先には、酒樽が三つ並んでいた。二つをまとめて抱え上げると、周囲から感心するような声が上がる。修行を始めたばかりの頃なら、持ち上げることはできても、足元をふらつかせていただろう。今は身体の使い方も分かり、運ぶ程度なら苦にならない。

 

「相変わらず働くねえ、創英坊」

 

 屋台の女主人が、焼き上がった芋をひとつ紙へ包んで差し出してきた。

 

「ほら。働き賃だ」

「ありがとうございます……っと、あちちっ」

 

 熱い芋を受け取ると、近くで遊んでいた子供たちが一斉にこちらを見た。

 

 視線の意味を察し、芋をいくつかに割って差し出す。

 

「ほら、火傷しないように食べろよ?」

「創英兄ちゃんの分、なくなっちゃうよ?」

「俺の分はちゃんと買うから大丈夫だ」

「ほんと?」

「ああ」

 

 子供たちは嬉しそうに芋を受け取り、湯気へ息を吹きかけながら頬張った。

 

 家を建ててもらった頃から、里の人々が俺へ声を掛ける回数はさらに増えた気がする。新居の住み心地を聞かれたり、冬支度に不足がないか心配されたり、余った野菜や薪を押しつけられたりもした。

 

 ありがたい。だが、今日に限っては、別の話題まで加わっていた。

 

「立派な家もできたことだし、あとは嫁さんだな!」

 

 酒樽を置いた直後、酔いの回った男に背中を叩かれる。俺はその勢いにむせ返りながら、ジトっと睨み返した。

 

「……何でそうなるんですか」

「家があって、料理もできて、稼ぎもある。嫁の一人や二人、すぐ来るだろう?」

「いや、一人や二人って……」

「十三で嫁の心配をされるなんて、幻想郷でも珍しいな」

 

 近くで祭りの見回りをしていた慧音が、呆れたように口を挟む。

 

「そういう話は、せめて本人が成人してからにしてやってくれ」

「おっと、先生に怒られちまったな」

 

 男は笑いながら別の酒樽へ向かっていく。

 

「……助かりました。ありがとうございます、慧音先生」

「気にするな。祭りの日は、皆いつも以上に口が軽くなる」

「創英さんは、もう少し気にしてもいいと思いますけれど」

 

 横から聞き覚えのある声がして振り返ると、阿求が腕へ小さな籠を提げて立っていた。今日は普段より少し華やかな着物を身につけており、髪飾りにも秋色の組紐が使われている。

 

「おはよう阿求。で、何を気にするんだ?」

「さて、何でしょう」

「肝心なところを濁さないでくれよ」

 

 阿求は微笑むだけで答えなかった。その隣では、小鈴が興味深そうに屋台を眺めている。

 

「創英さん、あちらで珍しい古本を売っていたんです。あとで一緒に見に行きませんか?」

「収穫祭で古本?」

「収穫とは、農作物に限りません。本との出会いも、一種の実りですから」

「それだと、小鈴は普段から収穫祭をやってるようなものじゃないか?」

「それとこれとは別ですっ♪」

 

 小鈴は胸を張る。阿求が苦笑しながらも否定しない辺り、二人の間では通じる理屈らしい。

 

 その後も、俺は祭りの手伝いを続けた。荷物を運び、屋台の火を調整し、迷子になった子供を親元へ送り届ける。合間には霊夢や魔理沙と顔を合わせたが、二人は手伝いより食べ歩きへ意識が向いていた。

 

「霊夢。それ、何個目だ?」

「数えてないわ」

「代金は払ってるんだろうな」

「失礼ね。今日はちゃんと払ってるわよ」

「今日は、という言い方が気になるんだが……」

「創英、こっちの串焼きも美味いぜ」

「魔理沙。お前まで話を逸らすなよ」

 

 二人を相手にしていると、祭りの喧騒が一層大きく感じられる。

 

 ——だが、その賑わいへ紛れ込むように、首筋を撫でる感覚があった。

 

 俺は串焼きを持ったまま、足を止める。人の熱気。炭の匂い。祭囃子。笑い声。そのどれとも違う何かが、意識の端を掠めた。

 

 新築祝いの夜にも感じた、所在の掴めない気配。これまで二度ほど感じた時には、ただ誰かに見られているような曖昧さしかなかった。だが今回は違う。祭りの空気へ濃く混ざっているためか、その性質を以前よりはっきり捉えられる。

 

 人間のものではない。霊でもない。妖気だ。それも、ひとつの場所から放たれているのではない。広場の隅にも、酒樽の周囲にも、踊る人々の輪の中にも、ごく薄く散っている。意識を向けるたび、別の場所へ移ったように感じられた。

 

「どうした、創英?」

 

 魔理沙が串を咥えたまま尋ねる。

 

「……いや。何でもない」

 

 もう一度、周囲を見渡す。

 

 妖気はある。しかし敵意はない。殺気も、誰かを害そうとする意思も感じられなかった。むしろ祭りの笑い声が大きくなるほど、その妖気まで楽しげに揺れているように思える。

 

 何者かがいるのは間違いない。けれど、祭りを放り出してまで追う理由はなかった。

 

 俺は意識の片隅だけを警戒へ残し、串焼きへ視線を戻した。

 

「本当に何でもないのか?」

 

 霊夢もこちらを見ている。

 

「ああ。少し気になることはあるけど、危ない感じはしない」

「なら、騒ぎが起きてから考えればいいわ」

「……巫女として、それでいいのか?」

「何もしてない妖怪まで追い回してたら、祭りを楽しむ暇がないでしょう」

 

 霊夢はそう言って、俺の串焼きから肉をひとつ奪った。

 

「それは俺のだぞ」

「油断する方が悪いのよ。ん~、おいしっ」

 

 ……妖気への警戒より、目の前の巫女への警戒を強める必要がありそうだった。

 

 

 

 

 日が沈む頃には祭りもひと段落し、人々はそれぞれの家や馴染みの店へ移り始めた。

 

 俺たちは冷えた身体を温めようという話になり、稗田邸で鍋を囲むことになった。

 

 最初は阿求と小鈴、それに俺の三人だけの予定だったらしい。

 

 だが、どこで聞きつけたのか霊夢と魔理沙が加わり、見回りを終えた慧音が妹紅を連れてきたことで、座敷はあっという間に大所帯となった。

 

「どうしてこうなったんでしょうね」

 

 炊事場で白菜を切りながら、阿求が呟く。

 

「阿求が霊夢たちに声を掛けたんじゃないのか?」

「霊夢さんと魔理沙さんは、創英さんが鍋を作ると聞いて勝手に来たのです」

「おい、聞こえてるぜ」

 

 座敷から魔理沙の声が飛んでくる。

 

「事実でしょう」

「私は阿求に呼ばれたわよ」

「霊夢さんには、祭りが終わったら寄ってくださいと申し上げました。魔理沙さんへは言っていません」

「霊夢が来るなら、私も来るのが自然だろ?」

「どの辺りが自然なんですか……」

 

 阿求が呆れたようにため息をつく。

 

 俺は切った白菜を笊へ移し、次の野菜へ包丁を入れた。

 

「まあ、材料は足りるよ。慧音先生たちが茸も持ってきてくれたし」

「妹紅が竹林で採ってきたものだ。毒の有無は私が確認した」

「その言い方だと、私が毒茸を持ってきたみたいじゃないか」

 

 背後から慧音先生と、不満げな妹紅の声がする。

 

「以前、似た茸を間違えて持ち帰ったのは誰だ?」

「あれは似てただけだろ」

「似ているから危険なんだ」

「はいはい。先生は細かいな」

「お前が大雑把すぎるんだ」

 

 二人の言い合いを聞きながら、鍋へ出汁を張る。

 

 昆布と干し茸で取った出汁へ根菜を入れ、火が通りにくいものから順に煮ていく。湯気と共に出汁の香りが立ち上がると、座敷から待ちきれない者たちの視線が集まった。

 

「創英、まだ出来ないのかしら」

「霊夢……さっきまで祭りでいいだけ食べてただろうが」

「祭りの食事と鍋は別腹よ」

「そういうものか……?」

「そういうものだぜ」

「魔理沙まで……ったく、しょうがない奴らだな。そら、そろそろ運ぶから退いた退いた」

 

 土鍋を囲炉裏へ運ぶと、座敷の空気が一気に華やいだ。

 

 阿求と小鈴が野菜や豆腐を並べ、慧音は鍋を安定させる。妹紅が香辛料の小瓶を取り出そうとしたが、慧音に即座に没収されていた。

 

「少しくらい辛い方が身体が温まるだろ」

「皆が食べるものに入れる物じゃないだろう。そういうのは自分の器によそってから入れろ」

「私は辛くても平気ですよ」

 

 小鈴が興味を示す。

 

「小鈴。妹紅さんの『少し』を信用してはいけませんよ」

「阿求まで酷くないか?」

「先日、汁物を真っ赤にした人が言いますか?」

「赤いだけで美味かっただろ」

「味が分からなくなるほど辛かったです」

 

 鍋が煮えるまでの間にも、話題は途切れなかった。

 

 小鈴は祭りで手に入れたという古書を持ち出し、見慣れない文字について阿求へ尋ねる。魔理沙は横から覗き込み、魔法書かもしれないと言って手を伸ばしたが、小鈴に叩かれていた。

 

「創英さんは、外の世界でこういった文字を見たことはありますか?」

 

 小鈴から本を渡され、表紙を眺める。

 

 文字らしき記号は並んでいるが、日本語にも英語にも見えない。何らかの暗号か、幻想郷で使われなくなった古い文字だろうか。

 

「いや、見覚えはないな……」

「創英さんでも分かりませんか」

「外の世界のことを、何でも知ってるわけじゃないよ」

「では今度、一緒に調べましょう!」

「いいけど、危ない妖魔本じゃないだろうな?」

「たぶん違います」

「たぶんで持ってくるなよ、そんなもん」

「鈴奈庵ではよくあることです」

「おい……阿求も止めてくれよ」

「止めているのですが、小鈴は聞かないのですよ」

「阿求だって気になる本があれば止まらないでしょう」

「私は記録者ですからね」

「ずるい」

 

 小鈴が頬を膨らませる。

 

 そのやり取りへ笑いが起こり、鍋の蓋が湯気に押されて小さく鳴った。

 

「——よし。そろそろ食べられるぞ」

 

 蓋を開けると、白い湯気が一斉に立ち上った。

 

 具材の色と香りが広がり、冷えた身体を内側から誘う。霊夢と魔理沙が同時に箸を伸ばしたので、俺は鍋の縁を軽く押さえた。

 

「熱いから気をつけろよ」

「分かってるわ」

「子供じゃないぜ」

 

 言った直後、魔理沙が熱い豆腐を口へ入れて悶絶する。

 

「だから言っただろうが」

「は、早く言えよ……!」

「言ったよ!」

 

 霊夢はその横で、豆腐を一度椀へ取って冷ましている。こういう時だけ妙に抜け目がない。

 

 ——それぞれの椀へ具を取り分け、俺もようやく席へ腰を下ろす。出汁を吸った白菜は柔らかく、茸の香りが汁へ深みを加えている。祭りの間ずっと外へいた身体へ熱が染み込み、指先まで血が戻っていくようだった。

 

「創英さん。こちらもどうぞ」

 

 阿求が、自分の前にあった鳥肉を俺の椀へ入れる。

 

「阿求の分が減るだろ」

「先ほどから皆さんへ取り分けてばかりで、創英さんご自身がほとんど食べていませんので」

「自分で取るよ」

「そう言って、また誰かの分を優先するでしょう?」

 

 図星だった。

 

 阿求は俺が反論しないことを確認すると、満足そうに自分の椀へ視線を戻した。

 

「創英は本当に世話焼きだな」

 

 妹紅が酒の入った杯を揺らす。

 

「家まで持ったことだし、このまま里の母親役にでもなるんじゃないか?」

「せめて父親役にしてくれ」

「似たようなものだろ」

「全然ちげーよ」

「料理を作って、子供の面倒を見て、怪我をすれば叱る。私には違いが分からないな」

「妹紅さん。創英さんは、父親というよりお兄さんという印象ではありませんか?」

 

 小鈴が首を傾げる。

 

「確かに。子供たちからも兄のように慕われているな」

 

 慧音まで同意する。

 

「阿求はどう思う?」

 

 霊夢が突然、阿求へ話を振った。

 

「なぜ私へ聞くのですか」

「一番長く一緒に暮らしてたでしょう」

 

 阿求は少し考え、鍋の湯気越しに俺を見る。

 

「創英さんは……創英さんです」

「答えになってないぜ」

「それで十分なのです」

 

 阿求は静かに言い切り、椀へ口をつけた。

 

 横顔は落ち着いているように見えるが、耳が僅かに赤い気がする。鍋の熱のせいかもしれないので、深く考えないことにした。

 

 

 

 

 賑やかな食事が続く中、俺は再びあの気配を感じた。今度は祭りの時より近い。

 

 鍋の湯気の中へ、酒の香りへ、皆の笑い声の隙間へ、妖気が薄く溶け込んでいる。

 

 部屋の外にいるのではない。この座敷そのものへ散っている。

 

 視線だけで周囲を確かめる。霊夢は鍋へ箸を伸ばし、魔理沙は妹紅と最後の茸を奪い合っている。慧音は二人を止め、小鈴は阿求へ古書の話を続けていた。

 

 誰も、妖気に気づいた様子はない。ただ一人、阿求だけが俺の箸が止まったことへ気づいた。

 

 視線が重なる。俺は騒ぎにするほどではないという意味を込め、小さく首を横へ振った。続けて庭の方へ目を向ける。

 

 阿求の目が僅かに細くなった。

 

「創英さん」

「ん?」

「薪が少なくなっています。裏手から幾つか持ってきていただけますか?」

 

 阿求がごく自然な声音で言った。

 

 囲炉裏の横には、まだ薪が残っている。どうやら、俺へ席を外す理由を作ってくれたらしい。

 

「ああ。分かった」

「私も手伝おうか?」

 

 慧音が立ちかける。

 

「いえ、大丈夫です。すぐ戻りますから、座っていてください」

 

 俺は立ち上がり、縁側へ向かった。

 

 背後で再び会話が始まる。阿求が自然に話題を引き戻したため、霊夢たちも特に疑ってはいないようだった。

 

 戸を開けると、冷たい夜気が頬を撫でた。庭には月明かりが落ち、植木や石灯籠が薄い影を伸ばしている。祭りの名残なのか、遠くの通りから笛の音と人の笑い声が僅かに届いていた。

 

 俺は一つ深呼吸をすると、意識を沈めて妖気を探る。

 

 庭の端。屋根の上。塀の外。ひとつの場所へ意識を絞ろうとするたび、気配は細かく散って別の場所から現れる。

 

「——いるんだろ」

 

 庭の中央で立ち止まり、声を掛ける。

 

「祭りの時から、ずっと見てたよな」

 

 返事はない。ただ、軒先から雫が落ちるように、庭の隅へ妖気が集まり始めた。

 

 薄い霧が寄り合い、月明かりの下で小さな輪郭を作る。最初に見えたのは、額から伸びる二本の角だった。

 

 続いて、長い橙色の髪。小柄な身体。手首から伸びた鎖の先には、三角形や球体の飾りが揺れている。片手には、大きな瓢箪を抱えていた。

 

 少女は庭石の上へ座り、こちらを見上げて楽しそうに笑った。

 

「三度目で、ようやく追いかけてきたね」

「一度目から気づいてはいたよ」

「嘘だあ」

「嘘じゃない。ただ、敵意を感じなかったから、無理に探さなかっただけだ」

 

 少女は目を丸くし、それから瓢箪へ口をつけた。

 

 酒の匂いが夜気へ広がる。新築祝いの夜に感じたものと、同じ香りだった。

 

「退魔師なのに、妖怪を見つけても放っておくの?」

「妖怪を見つけるたびに斬ってたら、幻想郷じゃ暮らせないだろ」

「へえ」

 

 少女の笑みが深くなる。

 

「妖怪が怖くないの?」

「怖くないとは言ってない。何をするか分からない相手なら、警戒はするさ」

「でも、刀は抜かないんだ」

「今のところ、抜く理由がないからな」

 

 風花の柄へ手を掛けてはいない。だが、いつでも動けるよう重心は僅かに落としている。

 

 少女もそれへ気づいているのだろう。楽しげな目で、俺の足元から頭までを眺めた。

 

「面白いね、お前」

「最近、よく言われるよ」

「そうだろうね。人間なのに、人間の匂いだけじゃない。妖怪の宴へ混ざっても、全然薄くならない」

「……どういう意味だ?」

「そのままの意味だよ」

 

 少女は答えを濁し、瓢箪を軽く揺らした。中では酒が波打っているはずなのに、いくら飲んでも減っている様子がない。

 

「それより、お前の周りは随分と濃いね」

「周り?」

「人も妖怪も、みんな好き勝手に寄ってきてる。祭りでも、新しい家でも、さっきの鍋でも。お前がいるところは、何もしてなくても宴会みたいになる」

「俺が集めてるわけじゃないよ」

「だから厄介なんじゃないか」

 

 少女は笑ったまま言う。

 

 声音は軽い。けれど、その言葉だけが冬の夜気より冷たく、胸の内側へ触れた。

 

「自分で集めたつもりがない奴ほど、寄ってきたものを全部抱えようとする。誰かが傷つけば自分のせいにして、誰かが離れれば、自分が足りなかったって思うんだ」

「……俺が、そう見えるのか?」

「見えるというよりは、そう匂うかな」

 

 瓢箪を抱えた少女が、鼻先を小さく動かす。

 

「お前は、随分と寂しい匂いがするのに、一人でいるのが下手だ。だから来たものを追い返せない。怖くても手を伸ばすし、傷ついても離せない」

 

 妹の姿が脳裏を掠める。

 

 変な家で見せられた、絢香の幻影。紅い地下で泣いていたフラン。風の中で自分を責め続けていたラッシュ。里の子供たち。阿求。

 

 俺が守れた者も、守れなかった者も、言葉の隙間から一斉に浮かび上がった。

 

「悪いことなのか?」

「さあね」

 

 少女は肩を竦める。

 

「鬼は嘘が嫌いだから、綺麗事だけで褒める気はないよ。縁は強い。集まればもっと強くなる。でも、強いものは切れた時によく痛む」

 

 鎖の先に付いた飾りが、彼女の動きに合わせて小さく鳴る。

 

「全部守れると思わない方がいい。集めたものを全部背負おうとしたら、お前の方が先に潰れるよ」

「……耳が痛いな」

「そう?」

「ああ。似たようなことで、阿求にもよく怒られる」

「あはは。それなら、その子は大事にした方がいいね」

「言われなくても、そのつもりだよ。阿求は……俺なんかには勿体ない子だ」

 

 答えると、少女は一瞬だけ目を細めた。笑っているのに、その奥を見透かされているような気がする。

 

「ところで、お前は誰なんだ? 鬼とか言ってたが……」

「ようやく聞いてきたね」

「聞く前に勝手に話し始めたから、聞きそびれたんだよ」

「そうだったっけ?」

 

 少女はとぼけるように首を傾げ、それから庭石の上で立ち上がった。

 

 小柄な身体には似合わないほど、濃密な妖気が周囲へ集まる。

 

「伊吹萃香。見ての通り、鬼だよ」

 

 萃香と名乗った少女。自らを鬼だというその様子に、慧音から聞いた古い話を思い出す。

 

 幻想郷から姿を消した妖怪。

 

 力が強く、嘘を嫌い、酒と宴を好む種族。

 

 今目の前にいる少女が、その鬼だという。

 

「何だい。名前を聞いた途端、怖くなった?」

「いや、驚いただけだよ。鬼が本当にいるとは思ってなかったからな」

「いるさ。見えないところにも、知らないところにもね」

 

 萃香は歯を見せて笑う。

 

「それで、鬼がどうして俺たちを見てたんだ?」

「宴会が好きだから」

「それだけ?」

「それだけで十分だろ?」

 

 あまりにも迷いのない返答だった。

 

 確かに、鬼が宴会を好むのなら、人の集まる場所へ寄ってきても不思議ではない。新築祝い、収穫祭、稗田邸の鍋。俺が気配を感じた場所には、いつも大勢が集まっていた。

 

「だったら、隠れてないで一緒に鍋を食べればいいだろう」

 

 俺が座敷の方へ顎を向けると、萃香は少し意外そうに瞬いた。

 

「鬼を誘うの?」

「敵意がないならな。鍋もまだ残ってるし、酒なら妹紅たちが飲んでる」

「鬼だよ、私は」

「見れば分かるし、それはさっきも聞いた」

「退魔師なんだろ?」

「何度でもいうけど、鬼だからって問答無用で斬る理由にはならないよ」

 

 萃香はしばらく俺の顔を見つめた。やがて、堪えきれないように腹を抱えて笑い始める。

 

「あっははは! やっぱり面白いね、お前!」

「そんなに笑うことか?」

「普通は、正体を知ったらもう少し迷うよ。鍋へ誘うにしたって、考える素振りくらいする」

「考えた上で言ってるんだよ」

「じゃあなおさら変だ!」

 

 萃香は笑いながら瓢箪を傾け、酒をひと口飲む。

 

「でも、今日はやめておくよ」

「どうして?」

「まだ、みんなの前へ出るほど酔ってないからね」

「酒を飲んでから出るものなのか?」

「鬼は大抵そういうものさ」

 

 どこまで本気なのかは分からない。

 

 萃香は庭石から飛び降りると、俺の横を通り過ぎた。その瞬間、濃い酒の香りが鼻を掠める。

 

「次は堂々と飲みに行くよ。お前の家にもね」

「その時は、玄関から来いよ」

「どうしようかな。屋根の上から入る方が面白そうだ」

「入る前から壊すな」

「丈夫に作ったんだろ?」

「だからって壊すような真似はするな」

 

 俺の抗議を聞き流し、萃香の輪郭が霧のように崩れ始める。

 

「またね、時崎創英」

「俺の名前、知ってたのか?」

「祭りでも新聞でも、あれだけ呼ばれてたら嫌でも覚えるよ」

 

 最後に笑い声だけを残し、少女の姿は夜の庭へ散っていった。

 

 妖気が薄まり、冷たい空気だけが戻ってくる。

 

 俺は萃香の消えた場所を見つめたまま、彼女の言葉を胸の中で繰り返した。

 

 集めたものを、全部抱えようとする。

 

 ……否定はできない。けれど、だからといって手を放すことも、今の俺にはできそうになかった。

 

 薪を数本抱え、座敷へ戻る。戸を開けた瞬間、鍋の湯気と暖かな空気が身体を包んだ。

 

「遅かったわね」

 

 霊夢がこちらを見る。

 

「薪が少し湿ってて、選ぶのに時間がかかったんだ」

「そう」

 

 霊夢は深く追及しなかった。だが阿求は、俺が席へ戻るまで静かにこちらを見ている。

 

 囲炉裏へ薪を足し、元いた場所へ腰を下ろすと、俺の前には具材の残った椀が置かれていた。白菜、豆腐、鳥肉、茸。俺が席を外す前より、明らかに中身が増えている。

 

「これは?」

「創英さんの分です」

 

 阿求が答える。

 

「霊夢さんと魔理沙さんが食べ尽くさないよう、確保しておきました」

「人聞きが悪いぜ」

「実際、狙っていたではありませんか」

「冷める前に食べた方が親切だと思っただけだ」

「それを横取りと言うんです」

 

 阿求と魔理沙のやり取りに、小鈴がくすくすと笑う。

 

 俺は椀を両手で包み、冷えた指先へ熱を移した。

 

「それで」

 

 阿求が皆に聞こえない声で尋ねる。

 

「見つかりましたか?」

「ああ」

「何者でした?」

「酒飲みの妖怪だった」

「随分と大雑把な報告ですね」

「本人が、伊吹萃香と名乗った。鬼らしい」

 

 阿求の表情が止まる。

 

「鬼……ですか?」

「何か知ってるのか?」

「詳しいことは、後で確認します。古い記録の中に、似た名があったような……」

 

 阿求は考え込むように視線を伏せたが、すぐに顔を上げた。

 

「敵意は?」

「なかった。ただ、宴会が好きで見てたらしい」

「それだけですか?」

「俺の周りへ縁が集まりすぎているから、全部抱えて潰れないようにしろって忠告された」

 

 阿求の目が細くなる。

 

「鬼にまで言われましたか」

「その言い方、やめてくれないか」

「私は何度も申し上げておりますから」

「分かってるよ」

「本当に?」

「……努力します」

「よろしい」

 

 阿求は満足そうに頷き、自分の椀へ視線を戻した。

 

 誤魔化すつもりはなかったが、結局また叱られてしまった。けれど、その声を聞けることが嫌ではない自分もいる。

 

 阿求の声音を心地よく思っている、俺がいる。

 

「創英、冷めるぞ」

 

 慧音に声を掛けられ、椀へ箸を入れる。出汁を吸った白菜を口へ運ぶと、優しい熱が身体の内側へ広がった。

 

 ……庭で聞いた鬼の言葉はまだ胸へ残っている。けれど、今はそれを一人で抱える必要はない。

 

 隣には阿求がいる。向かいには小鈴が座り、霊夢と魔理沙が鍋の最後の肉を奪い合っている。慧音は二人を止め、妹紅はその隙に茸を自分の椀へ移していた。

 

「妹紅、それは私が狙ってたのよ」

「早い者勝ちだろ」

「なら、これは私が貰うぜ」

「魔理沙、お前はさっき食べただろう!」

「鍋では数えた方が負けだぜ」

「誰がそんな決まりを作ったんだ!」

 

 騒がしい。鍋を囲んでいるだけなのに、どうしてこれほど騒ぎになるのか分からない。

 

 それでも、笑い声と湯気に満ちたこの場所は暖かかった。

 

 人も妖怪も、出会いも忠告も、放っておけば勝手に俺の周囲へ集まってくる。

 

 それを全て背負えるとは思わない。

 

 けれど、一人でなければ、抱え方を覚えることくらいはできるのかもしれない。

 

 椀へ残った汁を飲みながら、俺は窓の外へ目を向けた。

 

 冷たい夜の庭には、もう鬼の姿も妖気もない。

 

 ただ、どこか遠くから酒瓢箪を揺らす音と、楽しげな笑い声が聞こえたような気がした。

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