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十一月へ入って間もない朝、新居の床板は、靴下越しにも分かるほど冷え込んでいた。
布団から抜け出した俺は、寝室の窓へ薄く浮いた曇りを指先で拭う。外には淡い朝靄が垂れ込め、里の家々から立ち上る炊煙が、白み始めた空へゆっくり溶けていた。庭の土は夜露に濡れ、軒先へ積んでおいた薪の表面にも、細かな霜が降りている。
外の世界にいた頃、冬という季節そのものを知らなかったわけではない。だが、暖房の利いた家で過ごしていた時と、自分で火を起こさなければ部屋の空気すら温まらない今とでは、寒さの意味がまるで違った。
「……冷えるな」
吐いた息が、居間の中でうっすら白くなる。
昨夜のうちに灰へ埋めておいた炭を火鉢へ移し、細く割った薪を足して息を吹き込む。赤い火が木の内側へ移るまでには少し時間がかかったが、ぱちりと小さな音が鳴る頃には、指先の強張りも幾分か和らいでいた。
新居で迎える初めての冬に備え、準備そのものはすでに終えている。軒下には乾かした薪を積み、隙間風の入る場所には詰め物を施した。寝具も厚手のものへ替え、炊事場の棚には干した茸や野菜、塩漬けにした肉、根菜類を収めてある。保存食の作り方は阿求や稗田家の人々から教わり、薪の選び方や屋根へ雪が積もった時の対処については、里の職人たちが何度も念を押してくれた。
家を持つとは、帰る場所ができることだけではない。雨風から暮らしを守り、明日のために火を残し、食べるものを蓄えておく。その全てを、自分の手で引き受けることでもあるらしい。
朝餉の味噌汁へ干し菜を落としたところで、玄関の戸が叩かれた。まだ人が訪ねてくるには早い時間だ。誰だろうと警戒しながら戸を開けると、そこには藍さんが立っていた。その一歩後ろでは、紫さんが大きな欠伸を扇子で隠している。
「おはよう、創英」
「おはようございます。随分と朝早いですね」
「私はこれから、長いお休みに入るところなの」
紫さんは眠たげに目を細めると、肩へ掛けた布を引き寄せた。いつもの華やかな姿に比べると、今日は随分と防寒を意識した格好をしている。
「長い休み?」
「紫様は、冬の間はお眠りになられる」
藍さんが紫さんに代わり、事務的な口調で説明する。
「春先までは、余程の事態でない限り表へは出ない。その間、幻想郷の監視や各方面との連絡は私が代行することになった」
「冬眠、ですか」
「ええ。寒い時期に無理をするなんて、賢い妖怪のすることではないでしょう?」
「その間の仕事を、全部藍さんへ押しつけるのは賢いと言うんですかね」
「あら。適材適所よ」
紫さんは悪びれずに微笑む。隣の藍さんは何も言わなかったが、狐耳が僅かに下がった気がした。
「創英。今後、何か異変の兆候を掴んだ場合や、こちらへ連絡する必要が生じた時は、私を通してくれ」
藍さんは袖から一枚の札を取り出し、俺へ差し出した。通常の呪符よりも厚い紙でできており、表面には見慣れない術式が細かな線で刻まれている。中央には、九つの尾を思わせる紋様があった。
「この札へ霊力を通せば、私の式へ知らせが届く。緊急時でなければ、用件を裏面へ記しておいてくれ。こちらから取りに来る」
「分かりました。大事に保管しておきます」
「紛失しても紫様の寝所へ直接訪ねようとは思わないでくれ」
「さすがにしませんよ。というか、紫さんの家が何処に在るかなんて知りませんし」
「そうか。それならいいんだ」
藍さんは真顔だった。誰か過去に、似たようなことをした者がいたのかもしれない。
「春まで寂しくても、私を起こしに来ては駄目よ?」
紫さんが横から口を挟む。
「別に寂しくは――」
言い切ろうとして、少しだけ言葉に詰まった。
幻想郷へ来た日に俺を迎えに来たのも、稗田邸へ預ける道を作ったのも紫さんだ。普段は勝手に現れては人をからかい、食事まで要求してくる面倒な妖怪だが、数か月も姿を見せないとなれば、今までとは勝手が違う。
だからといって、素直に寂しいと言う気にもなれない。
「……静かにはなりそうですね」
「まあ。酷い言い草」
「人の寝床へ勝手に潜り込む人がいなくなるので」
「春になったら、真っ先にここへ来てあげるわ」
「宣言しないでください」
紫さんは楽しそうに笑い、踵を返した。
「それでは、良い冬を。創英」
「紫さんも、ゆっくり休んでください」
「ええ。冬の間に、妙な縁を増やしすぎないようにね」
含みのある言葉を残し、紫さんの姿が細い隙間の向こうへ消える。藍さんは俺と今後の連絡方法をもう一度確認すると、最後に新居の屋根と軒先を見上げた。
「冬支度は問題なさそうだな」
「里の皆に教わりましたから」
「それでも、積雪が多い時は一人で無理をするな。人手が必要なら、札で知らせても構わない」
「そこまで頼っていいんですか?」
「紫様から、貴方との連携も任されている。必要なことなら遠慮はいらない」
藍さんはそう言い切ると、紫さんの後を追って隙間へ入っていった。
閉じた空間の跡をしばらく眺め、それから渡された札を手の中で裏返す。紫さんの代わりに藍さんが窓口となる。ただそれだけの、事務的な引き継ぎだった。けれど、いつでも現れると思っていた妖怪が春まで眠りにつくと知ると、冬という季節が、昨日よりも少し長く感じられた。
それから数日後、人間の里では収穫祭が催された。朝から大通りには色鮮やかな幟が立ち並び、家々の軒先へ縄飾りや稲穂が吊るされている。広場には収穫された米や根菜、果物が山のように積まれ、湯気を上げる屋台からは、炊き込み飯や焼き芋、甘く煮た豆の匂いが漂っていた。
今年の実りへ感謝し、来年の豊作を願う祭り。幻想郷へ来て初めて見るものだが、賑わいそのものにはどこか懐かしさがある。大人たちが慌ただしく動き、その間を着飾った子供たちが走り回る光景は、外の世界で見た祭りと大きく変わらない。
違いがあるとすれば、往来の端へ妖怪の姿が見えても、誰もすぐには騒ぎ出さないことくらいだろう。
「創英、そっちの樽も頼めるか!」
「分かりました!」
声を掛けてきた男の指す先には、酒樽が三つ並んでいた。二つをまとめて抱え上げると、周囲から感心するような声が上がる。修行を始めたばかりの頃なら、持ち上げることはできても、足元をふらつかせていただろう。今は身体の使い方も分かり、運ぶ程度なら苦にならない。
「相変わらず働くねえ、創英坊」
屋台の女主人が、焼き上がった芋をひとつ紙へ包んで差し出してきた。
「ほら。働き賃だ」
「ありがとうございます……っと、あちちっ」
熱い芋を受け取ると、近くで遊んでいた子供たちが一斉にこちらを見た。
視線の意味を察し、芋をいくつかに割って差し出す。
「ほら、火傷しないように食べろよ?」
「創英兄ちゃんの分、なくなっちゃうよ?」
「俺の分はちゃんと買うから大丈夫だ」
「ほんと?」
「ああ」
子供たちは嬉しそうに芋を受け取り、湯気へ息を吹きかけながら頬張った。
家を建ててもらった頃から、里の人々が俺へ声を掛ける回数はさらに増えた気がする。新居の住み心地を聞かれたり、冬支度に不足がないか心配されたり、余った野菜や薪を押しつけられたりもした。
ありがたい。だが、今日に限っては、別の話題まで加わっていた。
「立派な家もできたことだし、あとは嫁さんだな!」
酒樽を置いた直後、酔いの回った男に背中を叩かれる。俺はその勢いにむせ返りながら、ジトっと睨み返した。
「……何でそうなるんですか」
「家があって、料理もできて、稼ぎもある。嫁の一人や二人、すぐ来るだろう?」
「いや、一人や二人って……」
「十三で嫁の心配をされるなんて、幻想郷でも珍しいな」
近くで祭りの見回りをしていた慧音が、呆れたように口を挟む。
「そういう話は、せめて本人が成人してからにしてやってくれ」
「おっと、先生に怒られちまったな」
男は笑いながら別の酒樽へ向かっていく。
「……助かりました。ありがとうございます、慧音先生」
「気にするな。祭りの日は、皆いつも以上に口が軽くなる」
「創英さんは、もう少し気にしてもいいと思いますけれど」
横から聞き覚えのある声がして振り返ると、阿求が腕へ小さな籠を提げて立っていた。今日は普段より少し華やかな着物を身につけており、髪飾りにも秋色の組紐が使われている。
「おはよう阿求。で、何を気にするんだ?」
「さて、何でしょう」
「肝心なところを濁さないでくれよ」
阿求は微笑むだけで答えなかった。その隣では、小鈴が興味深そうに屋台を眺めている。
「創英さん、あちらで珍しい古本を売っていたんです。あとで一緒に見に行きませんか?」
「収穫祭で古本?」
「収穫とは、農作物に限りません。本との出会いも、一種の実りですから」
「それだと、小鈴は普段から収穫祭をやってるようなものじゃないか?」
「それとこれとは別ですっ♪」
小鈴は胸を張る。阿求が苦笑しながらも否定しない辺り、二人の間では通じる理屈らしい。
その後も、俺は祭りの手伝いを続けた。荷物を運び、屋台の火を調整し、迷子になった子供を親元へ送り届ける。合間には霊夢や魔理沙と顔を合わせたが、二人は手伝いより食べ歩きへ意識が向いていた。
「霊夢。それ、何個目だ?」
「数えてないわ」
「代金は払ってるんだろうな」
「失礼ね。今日はちゃんと払ってるわよ」
「今日は、という言い方が気になるんだが……」
「創英、こっちの串焼きも美味いぜ」
「魔理沙。お前まで話を逸らすなよ」
二人を相手にしていると、祭りの喧騒が一層大きく感じられる。
——だが、その賑わいへ紛れ込むように、首筋を撫でる感覚があった。
俺は串焼きを持ったまま、足を止める。人の熱気。炭の匂い。祭囃子。笑い声。そのどれとも違う何かが、意識の端を掠めた。
新築祝いの夜にも感じた、所在の掴めない気配。これまで二度ほど感じた時には、ただ誰かに見られているような曖昧さしかなかった。だが今回は違う。祭りの空気へ濃く混ざっているためか、その性質を以前よりはっきり捉えられる。
人間のものではない。霊でもない。妖気だ。それも、ひとつの場所から放たれているのではない。広場の隅にも、酒樽の周囲にも、踊る人々の輪の中にも、ごく薄く散っている。意識を向けるたび、別の場所へ移ったように感じられた。
「どうした、創英?」
魔理沙が串を咥えたまま尋ねる。
「……いや。何でもない」
もう一度、周囲を見渡す。
妖気はある。しかし敵意はない。殺気も、誰かを害そうとする意思も感じられなかった。むしろ祭りの笑い声が大きくなるほど、その妖気まで楽しげに揺れているように思える。
何者かがいるのは間違いない。けれど、祭りを放り出してまで追う理由はなかった。
俺は意識の片隅だけを警戒へ残し、串焼きへ視線を戻した。
「本当に何でもないのか?」
霊夢もこちらを見ている。
「ああ。少し気になることはあるけど、危ない感じはしない」
「なら、騒ぎが起きてから考えればいいわ」
「……巫女として、それでいいのか?」
「何もしてない妖怪まで追い回してたら、祭りを楽しむ暇がないでしょう」
霊夢はそう言って、俺の串焼きから肉をひとつ奪った。
「それは俺のだぞ」
「油断する方が悪いのよ。ん~、おいしっ」
……妖気への警戒より、目の前の巫女への警戒を強める必要がありそうだった。
⸻
日が沈む頃には祭りもひと段落し、人々はそれぞれの家や馴染みの店へ移り始めた。
俺たちは冷えた身体を温めようという話になり、稗田邸で鍋を囲むことになった。
最初は阿求と小鈴、それに俺の三人だけの予定だったらしい。
だが、どこで聞きつけたのか霊夢と魔理沙が加わり、見回りを終えた慧音が妹紅を連れてきたことで、座敷はあっという間に大所帯となった。
「どうしてこうなったんでしょうね」
炊事場で白菜を切りながら、阿求が呟く。
「阿求が霊夢たちに声を掛けたんじゃないのか?」
「霊夢さんと魔理沙さんは、創英さんが鍋を作ると聞いて勝手に来たのです」
「おい、聞こえてるぜ」
座敷から魔理沙の声が飛んでくる。
「事実でしょう」
「私は阿求に呼ばれたわよ」
「霊夢さんには、祭りが終わったら寄ってくださいと申し上げました。魔理沙さんへは言っていません」
「霊夢が来るなら、私も来るのが自然だろ?」
「どの辺りが自然なんですか……」
阿求が呆れたようにため息をつく。
俺は切った白菜を笊へ移し、次の野菜へ包丁を入れた。
「まあ、材料は足りるよ。慧音先生たちが茸も持ってきてくれたし」
「妹紅が竹林で採ってきたものだ。毒の有無は私が確認した」
「その言い方だと、私が毒茸を持ってきたみたいじゃないか」
背後から慧音先生と、不満げな妹紅の声がする。
「以前、似た茸を間違えて持ち帰ったのは誰だ?」
「あれは似てただけだろ」
「似ているから危険なんだ」
「はいはい。先生は細かいな」
「お前が大雑把すぎるんだ」
二人の言い合いを聞きながら、鍋へ出汁を張る。
昆布と干し茸で取った出汁へ根菜を入れ、火が通りにくいものから順に煮ていく。湯気と共に出汁の香りが立ち上がると、座敷から待ちきれない者たちの視線が集まった。
「創英、まだ出来ないのかしら」
「霊夢……さっきまで祭りでいいだけ食べてただろうが」
「祭りの食事と鍋は別腹よ」
「そういうものか……?」
「そういうものだぜ」
「魔理沙まで……ったく、しょうがない奴らだな。そら、そろそろ運ぶから退いた退いた」
土鍋を囲炉裏へ運ぶと、座敷の空気が一気に華やいだ。
阿求と小鈴が野菜や豆腐を並べ、慧音は鍋を安定させる。妹紅が香辛料の小瓶を取り出そうとしたが、慧音に即座に没収されていた。
「少しくらい辛い方が身体が温まるだろ」
「皆が食べるものに入れる物じゃないだろう。そういうのは自分の器によそってから入れろ」
「私は辛くても平気ですよ」
小鈴が興味を示す。
「小鈴。妹紅さんの『少し』を信用してはいけませんよ」
「阿求まで酷くないか?」
「先日、汁物を真っ赤にした人が言いますか?」
「赤いだけで美味かっただろ」
「味が分からなくなるほど辛かったです」
鍋が煮えるまでの間にも、話題は途切れなかった。
小鈴は祭りで手に入れたという古書を持ち出し、見慣れない文字について阿求へ尋ねる。魔理沙は横から覗き込み、魔法書かもしれないと言って手を伸ばしたが、小鈴に叩かれていた。
「創英さんは、外の世界でこういった文字を見たことはありますか?」
小鈴から本を渡され、表紙を眺める。
文字らしき記号は並んでいるが、日本語にも英語にも見えない。何らかの暗号か、幻想郷で使われなくなった古い文字だろうか。
「いや、見覚えはないな……」
「創英さんでも分かりませんか」
「外の世界のことを、何でも知ってるわけじゃないよ」
「では今度、一緒に調べましょう!」
「いいけど、危ない妖魔本じゃないだろうな?」
「たぶん違います」
「たぶんで持ってくるなよ、そんなもん」
「鈴奈庵ではよくあることです」
「おい……阿求も止めてくれよ」
「止めているのですが、小鈴は聞かないのですよ」
「阿求だって気になる本があれば止まらないでしょう」
「私は記録者ですからね」
「ずるい」
小鈴が頬を膨らませる。
そのやり取りへ笑いが起こり、鍋の蓋が湯気に押されて小さく鳴った。
「——よし。そろそろ食べられるぞ」
蓋を開けると、白い湯気が一斉に立ち上った。
具材の色と香りが広がり、冷えた身体を内側から誘う。霊夢と魔理沙が同時に箸を伸ばしたので、俺は鍋の縁を軽く押さえた。
「熱いから気をつけろよ」
「分かってるわ」
「子供じゃないぜ」
言った直後、魔理沙が熱い豆腐を口へ入れて悶絶する。
「だから言っただろうが」
「は、早く言えよ……!」
「言ったよ!」
霊夢はその横で、豆腐を一度椀へ取って冷ましている。こういう時だけ妙に抜け目がない。
——それぞれの椀へ具を取り分け、俺もようやく席へ腰を下ろす。出汁を吸った白菜は柔らかく、茸の香りが汁へ深みを加えている。祭りの間ずっと外へいた身体へ熱が染み込み、指先まで血が戻っていくようだった。
「創英さん。こちらもどうぞ」
阿求が、自分の前にあった鳥肉を俺の椀へ入れる。
「阿求の分が減るだろ」
「先ほどから皆さんへ取り分けてばかりで、創英さんご自身がほとんど食べていませんので」
「自分で取るよ」
「そう言って、また誰かの分を優先するでしょう?」
図星だった。
阿求は俺が反論しないことを確認すると、満足そうに自分の椀へ視線を戻した。
「創英は本当に世話焼きだな」
妹紅が酒の入った杯を揺らす。
「家まで持ったことだし、このまま里の母親役にでもなるんじゃないか?」
「せめて父親役にしてくれ」
「似たようなものだろ」
「全然ちげーよ」
「料理を作って、子供の面倒を見て、怪我をすれば叱る。私には違いが分からないな」
「妹紅さん。創英さんは、父親というよりお兄さんという印象ではありませんか?」
小鈴が首を傾げる。
「確かに。子供たちからも兄のように慕われているな」
慧音まで同意する。
「阿求はどう思う?」
霊夢が突然、阿求へ話を振った。
「なぜ私へ聞くのですか」
「一番長く一緒に暮らしてたでしょう」
阿求は少し考え、鍋の湯気越しに俺を見る。
「創英さんは……創英さんです」
「答えになってないぜ」
「それで十分なのです」
阿求は静かに言い切り、椀へ口をつけた。
横顔は落ち着いているように見えるが、耳が僅かに赤い気がする。鍋の熱のせいかもしれないので、深く考えないことにした。
⸻
賑やかな食事が続く中、俺は再びあの気配を感じた。今度は祭りの時より近い。
鍋の湯気の中へ、酒の香りへ、皆の笑い声の隙間へ、妖気が薄く溶け込んでいる。
部屋の外にいるのではない。この座敷そのものへ散っている。
視線だけで周囲を確かめる。霊夢は鍋へ箸を伸ばし、魔理沙は妹紅と最後の茸を奪い合っている。慧音は二人を止め、小鈴は阿求へ古書の話を続けていた。
誰も、妖気に気づいた様子はない。ただ一人、阿求だけが俺の箸が止まったことへ気づいた。
視線が重なる。俺は騒ぎにするほどではないという意味を込め、小さく首を横へ振った。続けて庭の方へ目を向ける。
阿求の目が僅かに細くなった。
「創英さん」
「ん?」
「薪が少なくなっています。裏手から幾つか持ってきていただけますか?」
阿求がごく自然な声音で言った。
囲炉裏の横には、まだ薪が残っている。どうやら、俺へ席を外す理由を作ってくれたらしい。
「ああ。分かった」
「私も手伝おうか?」
慧音が立ちかける。
「いえ、大丈夫です。すぐ戻りますから、座っていてください」
俺は立ち上がり、縁側へ向かった。
背後で再び会話が始まる。阿求が自然に話題を引き戻したため、霊夢たちも特に疑ってはいないようだった。
戸を開けると、冷たい夜気が頬を撫でた。庭には月明かりが落ち、植木や石灯籠が薄い影を伸ばしている。祭りの名残なのか、遠くの通りから笛の音と人の笑い声が僅かに届いていた。
俺は一つ深呼吸をすると、意識を沈めて妖気を探る。
庭の端。屋根の上。塀の外。ひとつの場所へ意識を絞ろうとするたび、気配は細かく散って別の場所から現れる。
「——いるんだろ」
庭の中央で立ち止まり、声を掛ける。
「祭りの時から、ずっと見てたよな」
返事はない。ただ、軒先から雫が落ちるように、庭の隅へ妖気が集まり始めた。
薄い霧が寄り合い、月明かりの下で小さな輪郭を作る。最初に見えたのは、額から伸びる二本の角だった。
続いて、長い橙色の髪。小柄な身体。手首から伸びた鎖の先には、三角形や球体の飾りが揺れている。片手には、大きな瓢箪を抱えていた。
少女は庭石の上へ座り、こちらを見上げて楽しそうに笑った。
「三度目で、ようやく追いかけてきたね」
「一度目から気づいてはいたよ」
「嘘だあ」
「嘘じゃない。ただ、敵意を感じなかったから、無理に探さなかっただけだ」
少女は目を丸くし、それから瓢箪へ口をつけた。
酒の匂いが夜気へ広がる。新築祝いの夜に感じたものと、同じ香りだった。
「退魔師なのに、妖怪を見つけても放っておくの?」
「妖怪を見つけるたびに斬ってたら、幻想郷じゃ暮らせないだろ」
「へえ」
少女の笑みが深くなる。
「妖怪が怖くないの?」
「怖くないとは言ってない。何をするか分からない相手なら、警戒はするさ」
「でも、刀は抜かないんだ」
「今のところ、抜く理由がないからな」
風花の柄へ手を掛けてはいない。だが、いつでも動けるよう重心は僅かに落としている。
少女もそれへ気づいているのだろう。楽しげな目で、俺の足元から頭までを眺めた。
「面白いね、お前」
「最近、よく言われるよ」
「そうだろうね。人間なのに、人間の匂いだけじゃない。妖怪の宴へ混ざっても、全然薄くならない」
「……どういう意味だ?」
「そのままの意味だよ」
少女は答えを濁し、瓢箪を軽く揺らした。中では酒が波打っているはずなのに、いくら飲んでも減っている様子がない。
「それより、お前の周りは随分と濃いね」
「周り?」
「人も妖怪も、みんな好き勝手に寄ってきてる。祭りでも、新しい家でも、さっきの鍋でも。お前がいるところは、何もしてなくても宴会みたいになる」
「俺が集めてるわけじゃないよ」
「だから厄介なんじゃないか」
少女は笑ったまま言う。
声音は軽い。けれど、その言葉だけが冬の夜気より冷たく、胸の内側へ触れた。
「自分で集めたつもりがない奴ほど、寄ってきたものを全部抱えようとする。誰かが傷つけば自分のせいにして、誰かが離れれば、自分が足りなかったって思うんだ」
「……俺が、そう見えるのか?」
「見えるというよりは、そう匂うかな」
瓢箪を抱えた少女が、鼻先を小さく動かす。
「お前は、随分と寂しい匂いがするのに、一人でいるのが下手だ。だから来たものを追い返せない。怖くても手を伸ばすし、傷ついても離せない」
妹の姿が脳裏を掠める。
変な家で見せられた、絢香の幻影。紅い地下で泣いていたフラン。風の中で自分を責め続けていたラッシュ。里の子供たち。阿求。
俺が守れた者も、守れなかった者も、言葉の隙間から一斉に浮かび上がった。
「悪いことなのか?」
「さあね」
少女は肩を竦める。
「鬼は嘘が嫌いだから、綺麗事だけで褒める気はないよ。縁は強い。集まればもっと強くなる。でも、強いものは切れた時によく痛む」
鎖の先に付いた飾りが、彼女の動きに合わせて小さく鳴る。
「全部守れると思わない方がいい。集めたものを全部背負おうとしたら、お前の方が先に潰れるよ」
「……耳が痛いな」
「そう?」
「ああ。似たようなことで、阿求にもよく怒られる」
「あはは。それなら、その子は大事にした方がいいね」
「言われなくても、そのつもりだよ。阿求は……俺なんかには勿体ない子だ」
答えると、少女は一瞬だけ目を細めた。笑っているのに、その奥を見透かされているような気がする。
「ところで、お前は誰なんだ? 鬼とか言ってたが……」
「ようやく聞いてきたね」
「聞く前に勝手に話し始めたから、聞きそびれたんだよ」
「そうだったっけ?」
少女はとぼけるように首を傾げ、それから庭石の上で立ち上がった。
小柄な身体には似合わないほど、濃密な妖気が周囲へ集まる。
「伊吹萃香。見ての通り、鬼だよ」
萃香と名乗った少女。自らを鬼だというその様子に、慧音から聞いた古い話を思い出す。
幻想郷から姿を消した妖怪。
力が強く、嘘を嫌い、酒と宴を好む種族。
今目の前にいる少女が、その鬼だという。
「何だい。名前を聞いた途端、怖くなった?」
「いや、驚いただけだよ。鬼が本当にいるとは思ってなかったからな」
「いるさ。見えないところにも、知らないところにもね」
萃香は歯を見せて笑う。
「それで、鬼がどうして俺たちを見てたんだ?」
「宴会が好きだから」
「それだけ?」
「それだけで十分だろ?」
あまりにも迷いのない返答だった。
確かに、鬼が宴会を好むのなら、人の集まる場所へ寄ってきても不思議ではない。新築祝い、収穫祭、稗田邸の鍋。俺が気配を感じた場所には、いつも大勢が集まっていた。
「だったら、隠れてないで一緒に鍋を食べればいいだろう」
俺が座敷の方へ顎を向けると、萃香は少し意外そうに瞬いた。
「鬼を誘うの?」
「敵意がないならな。鍋もまだ残ってるし、酒なら妹紅たちが飲んでる」
「鬼だよ、私は」
「見れば分かるし、それはさっきも聞いた」
「退魔師なんだろ?」
「何度でもいうけど、鬼だからって問答無用で斬る理由にはならないよ」
萃香はしばらく俺の顔を見つめた。やがて、堪えきれないように腹を抱えて笑い始める。
「あっははは! やっぱり面白いね、お前!」
「そんなに笑うことか?」
「普通は、正体を知ったらもう少し迷うよ。鍋へ誘うにしたって、考える素振りくらいする」
「考えた上で言ってるんだよ」
「じゃあなおさら変だ!」
萃香は笑いながら瓢箪を傾け、酒をひと口飲む。
「でも、今日はやめておくよ」
「どうして?」
「まだ、みんなの前へ出るほど酔ってないからね」
「酒を飲んでから出るものなのか?」
「鬼は大抵そういうものさ」
どこまで本気なのかは分からない。
萃香は庭石から飛び降りると、俺の横を通り過ぎた。その瞬間、濃い酒の香りが鼻を掠める。
「次は堂々と飲みに行くよ。お前の家にもね」
「その時は、玄関から来いよ」
「どうしようかな。屋根の上から入る方が面白そうだ」
「入る前から壊すな」
「丈夫に作ったんだろ?」
「だからって壊すような真似はするな」
俺の抗議を聞き流し、萃香の輪郭が霧のように崩れ始める。
「またね、時崎創英」
「俺の名前、知ってたのか?」
「祭りでも新聞でも、あれだけ呼ばれてたら嫌でも覚えるよ」
最後に笑い声だけを残し、少女の姿は夜の庭へ散っていった。
妖気が薄まり、冷たい空気だけが戻ってくる。
俺は萃香の消えた場所を見つめたまま、彼女の言葉を胸の中で繰り返した。
集めたものを、全部抱えようとする。
……否定はできない。けれど、だからといって手を放すことも、今の俺にはできそうになかった。
薪を数本抱え、座敷へ戻る。戸を開けた瞬間、鍋の湯気と暖かな空気が身体を包んだ。
「遅かったわね」
霊夢がこちらを見る。
「薪が少し湿ってて、選ぶのに時間がかかったんだ」
「そう」
霊夢は深く追及しなかった。だが阿求は、俺が席へ戻るまで静かにこちらを見ている。
囲炉裏へ薪を足し、元いた場所へ腰を下ろすと、俺の前には具材の残った椀が置かれていた。白菜、豆腐、鳥肉、茸。俺が席を外す前より、明らかに中身が増えている。
「これは?」
「創英さんの分です」
阿求が答える。
「霊夢さんと魔理沙さんが食べ尽くさないよう、確保しておきました」
「人聞きが悪いぜ」
「実際、狙っていたではありませんか」
「冷める前に食べた方が親切だと思っただけだ」
「それを横取りと言うんです」
阿求と魔理沙のやり取りに、小鈴がくすくすと笑う。
俺は椀を両手で包み、冷えた指先へ熱を移した。
「それで」
阿求が皆に聞こえない声で尋ねる。
「見つかりましたか?」
「ああ」
「何者でした?」
「酒飲みの妖怪だった」
「随分と大雑把な報告ですね」
「本人が、伊吹萃香と名乗った。鬼らしい」
阿求の表情が止まる。
「鬼……ですか?」
「何か知ってるのか?」
「詳しいことは、後で確認します。古い記録の中に、似た名があったような……」
阿求は考え込むように視線を伏せたが、すぐに顔を上げた。
「敵意は?」
「なかった。ただ、宴会が好きで見てたらしい」
「それだけですか?」
「俺の周りへ縁が集まりすぎているから、全部抱えて潰れないようにしろって忠告された」
阿求の目が細くなる。
「鬼にまで言われましたか」
「その言い方、やめてくれないか」
「私は何度も申し上げておりますから」
「分かってるよ」
「本当に?」
「……努力します」
「よろしい」
阿求は満足そうに頷き、自分の椀へ視線を戻した。
誤魔化すつもりはなかったが、結局また叱られてしまった。けれど、その声を聞けることが嫌ではない自分もいる。
阿求の声音を心地よく思っている、俺がいる。
「創英、冷めるぞ」
慧音に声を掛けられ、椀へ箸を入れる。出汁を吸った白菜を口へ運ぶと、優しい熱が身体の内側へ広がった。
……庭で聞いた鬼の言葉はまだ胸へ残っている。けれど、今はそれを一人で抱える必要はない。
隣には阿求がいる。向かいには小鈴が座り、霊夢と魔理沙が鍋の最後の肉を奪い合っている。慧音は二人を止め、妹紅はその隙に茸を自分の椀へ移していた。
「妹紅、それは私が狙ってたのよ」
「早い者勝ちだろ」
「なら、これは私が貰うぜ」
「魔理沙、お前はさっき食べただろう!」
「鍋では数えた方が負けだぜ」
「誰がそんな決まりを作ったんだ!」
騒がしい。鍋を囲んでいるだけなのに、どうしてこれほど騒ぎになるのか分からない。
それでも、笑い声と湯気に満ちたこの場所は暖かかった。
人も妖怪も、出会いも忠告も、放っておけば勝手に俺の周囲へ集まってくる。
それを全て背負えるとは思わない。
けれど、一人でなければ、抱え方を覚えることくらいはできるのかもしれない。
椀へ残った汁を飲みながら、俺は窓の外へ目を向けた。
冷たい夜の庭には、もう鬼の姿も妖気もない。
ただ、どこか遠くから酒瓢箪を揺らす音と、楽しげな笑い声が聞こえたような気がした。