◆◇◆◇◆◇◆◇◆
伊吹萃香と出会った収穫祭から、数日が過ぎた。
十一月の冷気は日を追うごとに深まり、朝晩には火鉢が欠かせなくなっている。新居での暮らしにもようやく慣れ、炊事場で一人分の朝餉を作ることにも、誰もいない居間で食卓へ向かうことにも、以前ほど妙な静けさを感じなくなっていた。
その日の朝も、俺は味噌汁の鍋を火から下ろし、炊き上がった飯を椀へよそっていた。
玄関の戸が叩かれたのは、ちょうど膳を居間へ運ぼうとした時だった。
「はい。今行きます」
膳を卓へ置き、廊下を進む。戸を開けると、冷たい朝風と共に、一羽の蝙蝠が家へ飛び込んできた。
「うわっ」
反射的に身を引く。
蝙蝠は玄関の中を一度だけ旋回すると、俺の目の前で紫色の光へ変わった。光は一枚の封書へ形を変え、そのまま床へ落ちる。
表には見覚えのある端正な字で、俺の名前が書かれていた。
「……紅魔館からか」
封蝋には、紅魔館を示す紅い印章ではなく、月と星を組み合わせた小さな紋章が押されている。
差出人は、パチュリーさんだった。
文面は簡潔だった。
新たに調合した魔法薬の安全性を確認するため、試飲へ協力してほしい。薬は霊力を扱う人間の消耗を軽減し、乱れた霊力の流れを一時的に整えることを目的としている。使用する素材は事前に検査済みであり、試飲中は自分が責任を持って経過を観察する――そう記されていた。
最後には、小さな字で追伸が加えられている。
『危険な実験ではないわ。少なくとも、今回は』
「最後の一文が一番不安なんだけど……」
文を読み終え、思わず呟く。
とはいえ、パチュリーさんが無責任に人へ薬を飲ませるとは思えない。紅い霧の異変以降、彼女が魔法や霊石の研究に対して慎重であることも知っている。それに、霊力の消耗を抑える薬が完成すれば、俺自身も助かる。
戦闘の後だけではない。結界の維持や、長時間の探索で霊力を使い続けた時にも役立つだろう。退魔師として、効果を確かめる価値はある。
「……まあ、飲むだけならいいか」
文へ承諾の返事を書き、封をする。
封書を玄関先へ置くと、先ほどの蝙蝠がどこからともなく現れ、文を咥えて飛び去っていった。
その背中を見送りながら、俺はひとつだけ決めた。
何か妙なことが起きても、今回は絶対に黙って帰らない。
九月から数えて、何度同じことで叱られたか分からない。さすがに俺だって学習するさ。
⸻
紅魔館を訪れたのは、その翌日の昼だった。
門番をしていた美鈴さんへ来訪の目的を告げると、彼女は少しだけ心配そうに首を傾げた。
「パチュリー様の実験ですか?」
「新薬の試飲を頼まれたんです。危険なものじゃないらしいですよ」
「パチュリー様がそう仰るなら、大丈夫だとは思いますけど……」
「何ですか、その間は」
「いえ。以前、図書館から七色の煙が吹き出したことがありまして」
「それ、実験は成功したんですか?」
「パチュリー様は成功だと仰っていました」
「煙が吹き出してるのに?」
「新しい換気方法を発見した、と」
「それは失敗を言い換えてませんかね」
美鈴さんは曖昧に笑うだけで、否定しなかった。……少し、帰りたくなってきたなぁ。
——大図書館へ着くと、普段の閲覧机から離れた一角に、簡素な実験区画が設けられていた。
床には魔法陣が描かれ、中央には椅子と小さな卓が置かれている。卓上には水差しと空の杯、それに淡い青色の液体が入った細い瓶が一本だけ並んでいた。
周囲の棚や器具台とは、出入口を残して透明な結界で仕切られており、誤って別の薬品へ触れないよう配慮されている。
パチュリーさんは書見台へ資料を広げ、小悪魔さんと共に器具の確認をしていた。
「来たわね、創英」
「こんにちは、パチュリーさん。今日はよろしくお願いします」
「ええ。まずは座って。試飲の前に説明するわ」
促されるまま椅子へ腰を下ろす。
パチュリーさんは青い薬瓶を手に取り、中の液体を光へ透かした。
「これは、霊力の循環を補助する薬よ。霊力を回復させるというより、滞った流れを整えることで、無駄な消耗を抑えるものと考えてちょうだい」
「傷を治す薬、ではないんですね」
「そうね。疲労や霊力切れそのものを消すことはできない。ただ、同じ量の霊力をより効率よく扱えるようになる可能性があるわ」
「副作用は?」
「現時点で確認されているのは、軽い眠気、身体の熱、味覚の鈍化。それから一時的な食欲の増加ね。どれも数時間以内に収まっている」
「誰か、もう飲んだんですか?」
「小悪魔と私が少量ずつ試したわ。けれど、私たちは魔力を主体とする存在でしょう? 霊力を扱う人間に同じ効果が出るとは限らない」
なるほど。俺を呼んだ理由は理解できた。
「試飲量は?」
「水で十倍に薄めたものを、杯の三分の一。飲んだ後は二時間ほどここで経過を観察するわ。異常があればすぐに中止する。元々体調が悪い、あるいは不安があるのなら、今日は取りやめても構わないわ」
パチュリーさんは普段と変わらない淡々とした口調で説明しているが、確認すべき部分を曖昧にはしていない。
魔法薬の性質。投与量。予想される副作用。観察時間。問題が起きた時の対処。
全てを説明し終えてから、彼女は俺の返事を待った。
「分かりました。協力します」
「本当にいいのね?」
「はい。役に立つ薬なら、俺も使うことになるかもしれませんからね」
「そう。では始めましょう」
パチュリーさんが小悪魔さんへ目を向ける。
小悪魔さんは青い薬を目盛り付きの器へ移し、水で薄めてから杯へ注いだ。結界越しに確認できる他の薬品類は全て離れた器具台へ置かれており、こちらの卓へあるのは試飲用の一杯だけだ。
念入りだ。ここまで慎重に準備されているのなら、さすがに妙なことは起きないだろう。
「まず、口へ含んで味と刺激を確認して。その後、問題がなければ飲み込んでちょうだい」
「分かりました」
杯を手に取る。淡い青色の液体から、薬草に似た匂いが僅かに漂っていた。
一口だけ含む。舌の上へ広がったのは、強い苦味だった。その奥に金属のような味があり、遅れて口の中が僅かに痺れる。
「……苦いです」
「それは想定内よ」
「舌も少し痺れます」
「それも想定内」
「想定内なら、もう少し飲みやすくできなかったんですか?」
「効果を確認した後で改良するわ」
「今は味より効能優先ですか」
「当然でしょう」
パチュリーさんらしい返答だった。
喉や呼吸に異常はない。俺は残りを飲み込んだ。
液体が喉を通り、胃へ落ちていく。僅かな熱が胸の奥へ広がったが、痛みはなかった。
空になった杯を卓へ戻す。
「飲みました」
「では、しばらく座っていて。小悪魔、時間を」
「はい、パチュリー様」
小悪魔さんが砂時計を返す。実験は、そこまで何の問題もなく進んでいた。
最初の十分ほどは、特に変化がなかった。パチュリーさんが俺の脈や霊力の流れを調べ、小悪魔さんが数値を記録していく。僅かに身体が温かくなった程度で、眠気や気分の悪さもない。
「霊力を少し動かしてみて」
「どのくらいですか?」
「掌へ集めるだけでいいわ。術式は使わないで」
言われた通り、右手へ霊力を集める。
淡い翠緑の光が掌を包む。
普段より流れが滑らかになったような感覚があった。霊力が一か所へ集まりすぎず、身体の中を循環しながら必要な分だけ手元へ流れてくる。
「……悪くないですね」
「負担は?」
「ほとんどありません。いつもより楽なくらいです」
パチュリーさんの目が僅かに細くなる。
「成功かもしれないわね」
「一度で決めるのは早くないですか?」
「だから、かもしれないと言ったのよ」
そんな会話をしていた時だった。
図書館の入口側から、慌ただしい足音が響いた。
ひとつではない。
軽く跳ねるような足音と、それを追いかける別の足音。
「フラン様、お待ちください!」
ラッシュの声が聞こえた直後、大図書館の扉が勢いよく開いた。
「にぃにー!」
弾んだ声が、静かな図書館へ響き渡る。
入ってきたのはフランだった。
その後ろでは、ラッシュが珍しく息を乱している。
「創英様が紅魔館へいらしていると聞いて、フラン様がどうしても――」
「そーえー、来てたの!?」
フランは俺の姿を見つけると、嬉しそうに駆け出した。
「フラン、待っ――」
止めるより早く、フランがこちらへ飛びついてくる。
俺は椅子から立ち上がり、反射的に彼女を受け止めた。
その瞬間、実験区画の外側で金属の触れ合う音が鳴った。
「あっ」
小悪魔さんの短い声に反応して、視線だけを向ける。
実験とは別の器具台へ薬品を戻そうとしていた小悪魔さんが、突然開いた扉とフランの勢いに驚き、手にしていた銀の盆を傾けていた。
盆の上には、細い試薬瓶が一本載っている。
その瓶が、宙へ放り出された。
俺はフランを片腕で支えたまま、空いた手を伸ばす。
指先が瓶へ届く。なんとか受け止めることは出来たか。
そう思った直後——緩んでいた栓が外れた。
「――っ」
瓶の中身が跳ねる。
紫がかった透明な液体が顔へ飛び、驚いて開いた口の中へ数滴が入った。
強烈な甘味と、焼けるような刺激が口内に広がる。反射的に咳き込んだ。
吐き出そうとしたが、その前に喉が動いてしまう。
「創英!」
パチュリーさんの声色が変わった。
フランを床へ下ろし、俺は口元を押さえる。
「げほっ……少し、飲み込んだかもしれません」
「少しとはどのくらい!?」
「分かりません。数滴だと思います」
「小悪魔、その瓶を!」
「は、はい!」
小悪魔さんから空になった瓶を受け取ったパチュリーさんが、側面に刻まれた印を確認する。
その顔から、血の気が引いてゆく。
「……創英。今すぐ椅子へ座って」
「何の薬なんですか?」
「後で説明するわ。先に身体の状態を確認する」
俺を椅子へ座らせると、パチュリーさんは杖を取り、複数の魔法陣を展開した。
赤。青。紫。
光の輪が俺の身体を上から下まで通過する。
「脈拍は上昇。体温も……早い」
「パチュリーさん。あれは何だったんですか?」
「性相変成のための試薬よ」
「せいそう……?」
「肉体が持つ性質を、一時的に反対側へ偏らせるためのもの。変身魔法や使い魔の生体変化を研究する際に使うわ」
説明の意味を理解するまで、数秒かかった。
「……それ、人が飲んだらどうなるんです?」
「分からないから、飲ませる予定なんてなかったのよ」
「今一番聞きたくない答えなんですけど——」
胸の奥で、心臓が強く跳ねた。
次の瞬間、喉から腹の底へ熱が走る。
「——っ!?」
身体を折る。
先ほど飲んだ青い薬の温かさとは違う。熱い液体が血管を通って全身へ広がり、骨と筋肉の隙間へ染み込んでいくような感覚だった。
「にぃに!」
フランが駆け寄ろうとする。
ラッシュがその肩を抱き、制止した。
「フラン様、今はパチュリー様へお任せください」
「でも、私が――」
「フラ、ン」
俺は息を整えながら、彼女へ顔を向けた。
「大丈夫だ。痛いけど……怪我をしたわけじゃ、ない」
そう言った自分の声が、耳へ奇妙に響いた。
高い。
まだ幼い少年だった元の声よりも、明らかに細く柔らかい。
「……何だ、この声」
喉へ手を当てる。
指先の感覚まで違っていた。
手が僅かに小さくなり、骨張っていた指の線が細くなっている。肩を締めつけていたジャケットが、今度は別の場所で身体へ引っかかる。重心が少しずつずれ、椅子へ座っているだけなのに、これまでと同じ姿勢を保てない。
背中へ何かが触れた。
一本や二本ではない。
首筋から肩を越え、次々と伸びていく髪が、背中と腕へ絡みついている。
「髪が……」
普段は襟足へ僅かに掛かる程度だった金髪が、今は肩を越えて胸元へ流れ、なおも伸び続けている。
肩甲骨。背中。腰。
波打つ髪が重さを持ち、椅子の背へ広がった。
それだけではない。身体の輪郭もどんどん変わっていく。
肩幅が狭まり、腕や脚から余分な張りが抜ける。腰回りの感覚が変わり、履いていたスラックスがうまく身体へ沿わなくなる。視線の高さまで僅かに下がり、自分の身体なのに、座っている位置さえ掴みづらい。
激痛ではない。だが、身体の内側を作り替えられているような不快感がある。
俺は奥歯を噛み、変化が過ぎるのを待った。
……どのくらい経ったのかは分からない。実際には数分だったのだろう。
全身を巡っていた熱が引くと、図書館は異様なほど静かになっていた。
パチュリーさんも、小悪魔さんも、ラッシュも、誰も言葉を発しない。
フランだけが、心配そうに俺を見つめている。
「……終わったんですか?」
口から出た声に、もう元の面影はほとんどなかった。
パチュリーさんは答えず、空中へ小さな鏡を作り出した。
「自分で確認して」
鏡が目の前へ移動する。そこに映っていたのは、見知らぬ少女だった。
長い金髪が腰よりも下まで流れ、緩やかな波を描いて肩や背へ広がっている。顔立ちは細く整い、顎や頬の輪郭も以前より柔らかい。
けれど、紫色の瞳だけは変わらない。少し吊り上がった目元も、自分がよく知っているものだった。
「これは……俺、なのか……?」
鏡の中の少女が、同じように口を動かす。
全く知らない顔ではない。確かに俺の面影がある。
それなのに、俺ではない誰かを見ているような感覚が消えなかった。
長い金髪。紫色の瞳。整った輪郭。
どこかで見慣れた誰かの姿が、薄く重なった気がする。
だが、混乱した頭では、その正体まで掴めなかった。
「……完全に変わってるじゃないですか」
「ええ」
「一時的なんですよね?」
「試薬の効果だけを考えるなら、一時的なはずよ」
「その言い方、安心できないんですけど」
「今は断定できないもの」
パチュリーさんは魔法陣の光をさらに細くし、俺の身体へ通していく。
脈。呼吸。体温。霊力。
確認を重ねるほど、彼女の眉間へ皺が寄っていった。
「何か問題が?」
「問題がないことが問題なのよ」
「……どういう意味ですか?」
「拒絶反応がほとんどない。通常、肉体をここまで変化させれば、魔力と生命力の流れに大きな乱れが出る。発熱や眩暈、場合によっては意識障害が起きても不思議ではないわ」
「今は、少し身体が重いくらいですけど……」
「ええ。霊力の流れも安定している」
パチュリーさんの紫色の目が、俺の身体を観察する。
「薬が効きすぎたのではないわね。貴方の身体が、変化を受け入れすぎているのよ」
背筋へ、変化の熱とは違う冷たさが走った。
「受け入れ……すぎている……?」
「最初からこの姿だったように、肉体の各部が自然に繋がっている。変身魔法で表面だけを変えた状態ではないわ。骨格も筋肉も、内側の働きまで女性の身体として成立している」
「……そんなに綺麗に変わるものなんですか?」
「本来なら、ここまで短時間では無理よ」
パチュリーさんはそこで言葉を止め、俺を見つめた。
「それに……」
「何です?」
「いいえ。今はまだ、確証がないわ」
彼女の視線は、俺の長い金髪と紫色の瞳を行き来していた。
まるで、俺以外の誰かを思い出そうとしているように見えた。
「にぃに……」
小さな声がして、鏡から視線を外す。
フランはラッシュの腕の中で俯き、服の裾を握っていた。
「ごめんなさい。私が急に入ってきたから……」
先ほどまでの明るさはない。紅い瞳に涙が滲み、自分を責める色が広がっている。
俺は椅子から立ち上がろうとした。だが、変わった重心へ身体がついていかず、足元が僅かに揺れる。
「創英様」
ラッシュが片手を伸ばす。その手を借りて立ち上がり、フランの前へ進んだ。
歩幅が定まらない。長い髪が脚や腕へ触れ、元の服も身体へうまく馴染んでいない。
それでも、フランの前までなんとか辿り着く。
「フラン。顔を上げて」
少女の声で話すことには、まだ強い違和感があった。
フランは恐る恐るこちらを見る。
「今のところ、身体に危ない異常はない。パチュリーさんも、時間が経てば戻る可能性が高いって言ってる」
「でも……」
「今回は事故だよ。フランだけのせいじゃないさ」
「私が飛び込まなかったら、瓶は落ちなかったもん」
「それは……そうだね」
誤魔化さずに答えると、フランの肩が僅かに跳ねた。
俺はその頭へ手を置く。自分の手なのに、いつもより小さく感じられた。
「だから、次からは実験中の部屋へ入る時、ちゃんとノックすること。誰かが止めたら、一度立ち止まること。それでいい」
「……怒ってないの?」
「危なかったから注意はする。でも、フランが俺を困らせようとしてやったんじゃないことくらい分かってるつもりだよ」
フランの目から、涙が一粒だけ落ちた。
「ごめんなさい、にぃに」
「ああ。次は気をつけような」
「うん……」
フランは俺の腰へ抱きつきかけ、途中で今の姿を思い出したように動きを止める。
「抱きついてもいいよ」
そう言うと、フランは遠慮がちに腕を回してきた。
身体の感覚が変わっても、フランの体温は変わらない。そのことに、少しだけ安心した。
⸻
検査は、その後さらに三時間続いた。
元の姿へ戻すための薬はあるらしい。だが性相変成の原液を誤って飲み込んだ直後に別の薬を重ねれば、効果が衝突し、どのような負担が起きるか予測できない。
そのため、まずは自然に薬効が抜けるのを待つことになった。
「少量なら、通常は半日から一日で戻るはずよ」
「通常は、ですか」
「貴方の場合を通常と呼んでいいのか、少し自信がなくなったわ」
「やめてくださいよ」
「明日の昼までに戻らなければ、必ずここへ来て。痛みや発熱、霊力の乱れがあった場合は、時間に関係なくすぐに連絡すること」
「分かりました」
「一人で耐えて、後から報告するのは禁止よ」
「……どうして皆、俺に同じことを言うんですかね」
「貴方に前科があるからでしょう」
反論できなかった。
——生命に危険はなく、魔法薬の効果も安定している。今夜は紅魔館へ泊まっても構わないと言われたが、俺は新居へ戻ることを選んだ。
自分の家の方が落ち着くというのもある。けどそれ以上に、今の姿を紅魔館の全員へ見られる前に帰りたかった。すでに遅い気もするが、被害は少ない方がいい。
そこで問題となったのが、衣服だった。
元のワイシャツやベスト、スラックスは、変化した身体へうまく合わない。着られないわけではないが、肩や腰の位置がずれ、歩くだけでも布が引っかかる。何より、今の姿で無理に着続ければ、外から見てもかなり不自然だった。
事情を聞いて現れた咲夜さんは、俺の姿を上から下まで一度確認すると、即座に結論を出した。
「私の館外用の衣服が、最も寸法に近いでしょう」
「……咲夜さんの服を、俺が着るんですか」
「現在の創英様に合う衣服が、他にございませんので」
「理屈は、分かるんですけどね……」
「ご安心ください。メイド服ではございません」
「そこは本当に助かります」
「えー!?」
横から、フランの不満げな声がした。
「にぃにのメイド服姿、見たかったのにぃ」
「俺は見られたくないよ」
「でも、きっと似合うよ?」
「似合うかどうかの問題じゃないんだよ……」
咲夜さんは僅かに口元を緩めると、一度その場から姿を消した。
数秒もしないうちに、衣服一式を腕へ抱えて戻ってくる。
「白いブラウスと濃紺のロングスカート、厚手のタイツ、それに外出用の編み上げ靴です。今の創英様より私の方が僅かに背丈がありますので、腰回りと裾は調整いたします」
「調整って、今からですか?」
「すでに済んでおります」
「い、いつの間に……」
聞くだけ無駄だろう。咲夜さんなのだから。
衝立の向こうで着替えを済ませる。白い長袖のブラウスは、元のワイシャツよりも生地が柔らかい。濃紺のロングスカートは足首近くまであり、歩くたびに裾が脚へ触れる感覚が落ち着かなかった。
厚手のタイツと編み上げ靴も、咲夜さんが寸法を調整してくれているため、履き心地そのものに問題はない。
問題があるとすれば、俺の意識の方だった。
「……これでいいですか?」
「拝見いたします」
衝立の外へ出る。咲夜さんがブラウスの袖と襟元を確認し、腰の位置へ細い革帯を巻いた。風花の鞘を普段と同じ左腰へ固定すると、ようやく少しだけ自分の格好へ戻れた気がする。
紫色のネクタイだけは、元の服から外してそのまま使った。
最後に、自分の黒いロングコートを羽織る。
肩幅が変わったため少し大きく感じるが、身体の線を隠すにはかえって都合が良かった。
「髪はおまとめになりますか?」
咲夜さんが、腰よりも長く流れる金髪へ目を向ける。
鏡を見る。
髪を束ねれば、多少は動きやすくなるだろう。
だが、今まで一度もなかった長さの髪を、知らない形に結われることへ妙な抵抗があった。身体も服も変わっているのに、これ以上自分の知らない姿へ整えられたくない。
「……このままでお願いします」
「承知いたしました」
咲夜さんは無理に勧めず、櫛で乱れだけを整えた。
金色の髪が肩から背へ落ち、黒いコートの上を波打ちながら広がる。
「服装だけなら、最初からそのような少女だったように見えますね」
小悪魔さんが、少し離れたところから言った。
「やめてください。俺は鏡を見るたびに混乱してるんですから」
「小悪魔が言っているのは、衣服だけではないわ」
パチュリーさんが書見台から顔を上げる。
「その身体の馴染み方よ。動作には戸惑いがあるのに、外見には継ぎ目がない」
「今は、それ以上考えたくないです」
「そう。けれど明日は考えてもらうわ。検査のために」
「……分かってます」
パチュリーさんは頷き、今後の注意事項を記した紙と、緊急連絡用の魔法札を俺へ渡した。
帰り際、フランは玄関までついてきた。
「にぃに、本当に一人で帰るの?」
「大丈夫だよ。飛ばずに歩いて帰るから」
「私も行く」
「今日は紅魔館にいろ。外へ出る許可も取ってないだろ?」
「でも……」
「明日、検査に来る。その時には戻ってるかもしれない」
「戻ってなかったら?」
「その時は、その時考えるよ」
フランの表情が曇る。俺はその頭を撫でた。
「大丈夫。何かあったら、すぐパチュリーさんに連絡する。勝手に我慢もしない。約束するよ」
「……ほんと?」
「ああ」
「じゃあ、明日も来てね」
「分かった」
何度も念を押され、ようやくフランは俺のコートから手を離した。
⸻
紅魔館を出た頃には、空が夕暮れの色へ染まり始めていた。
普段なら霊力の翼を広げ、人里まで空を飛んで帰るところだ。だが今の身体では重心も霊力の感覚も微妙に違う。長い髪や慣れないスカートで風を受けることにも不安があったため、湖沿いの道を歩いて帰ることにした。
一歩進むたび、髪が背や腕へ触れる。風が吹けば視界へ流れ込み、手で払っても別の束が頬へ掛かる。女の姿になったことより、髪の扱いの方が先に嫌になりそうだった。
「紫さんは、よくこんな長さで平気だな……」
呟いてから、足が止まる。なぜ今、紫さんを思い出したのか。
長い金髪と紫色の瞳。鏡へ映った姿に感じた既視感。
そこまで考え、首を横へ振る。
「髪と目の色が同じなだけだろ」
今は余計なことまで考えるべきではない。薬の効果で身体が変わり、混乱しているだけだ。
人里の近くまで戻ると、道を歩く者の姿が増え始めた。
幸い、日が落ちかけているため、遠目には顔までは見えない。黒いコートの襟を少し立て、なるべく俯きながら歩く。
知らない少女として見られる程度なら、まだ耐えられる。
知っている相手に正体を見抜かれ、事情を説明する方がずっと面倒だった。
新居までは、あと少し。このまま誰にも会わずに帰れれば――。
「……あら?」
聞き慣れた声が、前方から聞こえた。
顔を上げる。
道の向こうに、阿求が立っていた。
腕には帳面と、小さな包みを抱えている。俺の家へ向かう途中だったのかもしれない。
阿求は一度こちらを見たものの、すぐには正体へ気づかなかった。
当然だ。今の俺は、腰まで流れる金髪と紫の瞳を持ち、咲夜さんの服を着た少女にしか見えない。
俺は視線を逸らし、その横を通り過ぎようとした。
「——失礼ですが」
阿求が呼び止める。足を止めずにいようと思った。
だが、身体が反射的に反応してしまう。
「……はい。何ですか?」
振り返り、声を出した瞬間に失敗したと思った。
口調を変える余裕がなかった。
阿求は少女の声を聞き、僅かに眉を寄せる。
「どこかで、お会いしたことがありませんか?」
「えっと……ないと思います」
「そうですか」
阿求は一度頷いた。
これで終わった。そう思い、再び歩き出そうとする。
その時、風が吹いた。
長い髪が顔へ掛かり、視界を塞ぐ。慣れない感覚に苛立ちながら髪を払い、同時に左手で風花の柄を押さえた。
普段からしている癖だ。
鞘が歩みに合わせて揺れないよう、無意識に柄へ手を添える。
阿求の視線が、俺の左手へ落ちた。
風花。紫色のネクタイ。黒いロングコート。そして、俺の目。
阿求の表情から、少しずつ戸惑いが消えていく。
「その刀……」
「……」
「それに、その歩き方」
逃げるべきだったかもしれない。
けれど今さら背を向ければ、かえって正体を認めるようなものだ。
「お名前を伺っても?」
「それは……」
答えに詰まる。
阿求が一歩近づいた。
夕暮れの光が、彼女の顔を照らす。
「……創英さん?」
心臓が止まりそうになった。
「……どうして」
反射的に言葉が漏れる。
「分かったんだ?」
口に出してから、完全に逃げ道がなくなったことへ気づく。
阿求は大きく目を見開き、しばらく何も言わなかった。
俺も言葉を失う。
冷たい風だけが、二人の間を通り抜けた。
「……本当に、創英さんなのですか?」
「……ああ」
「そのお姿は?」
「話すと長くなる」
「では、長くても構いません」
「明日には戻るらしいから、別に――」
「創英さん」
静かな声だった。だが、拒否を許さない響きがある。
「ご自宅へ参りましょう。そこで、最初から全てお話しください」
「……はい」
断れるはずがなかった。
⸻
新居へ入るなり、阿求は居間の椅子へ俺を座らせた。
自分も向かいへ座るのかと思えば、まず俺の手首へ指を当て、脈を確かめる。
「痛みはありますか?」
「今はないよ」
「息苦しさや眩暈は?」
「それもない」
「熱は?」
「変わった直後は身体が熱かったけど、今は平気だ」
「呪いや、妖怪から攻撃を受けた可能性は?」
「ない。紅魔館で起きた実験事故だよ」
事故という言葉を聞き、阿求の目が細くなる。
「詳しく」
「その前に、茶くらい淹れないか?」
「座っていてください。私が淹れます」
「ここ、俺の家なんだけど」
「怪我人が家主だからといって、働かせる理由にはなりません」
「怪我はしてないって」
「では、身体に重大な変化を受けた方、と言い換えます」
「ゔっ……お、お願いします」
阿求は炊事場の勝手を知っている。茶葉などを仕舞ってある場所も分かっている。
ほどなくして、二人分の茶を運んできた。
湯呑みを受け取る。長い髪が前へ流れ、湯呑みの縁へ触れそうになったので、慌てて肩の後ろへ払った。
その動作を、阿求がじっと見ている。
「そんなに見ないでくれ」
「申し訳ありません。ですが……」
「ですが?」
「本当に、創英さんなのですね」
「刀も持ってるし、家の鍵だってあるだろ」
「そうではなく」
阿求は言葉を探すように、俺の顔を見つめた。
「外見はまるで違うのに、仕草や話し方は創英さんのままです。髪を邪魔そうに払う表情まで、よく知っている創英さんです」
「俺なんだから当然だよ」
「ええ。ですが、妙な感覚です」
「こっちはもっと妙な感覚なんだぞ」
自分の声で話しているはずなのに、自分の声に聞こえない。
湯呑みを持つ手も、椅子へ座る姿勢も、僅かずつ以前と違う。慣れた家へ戻ってきたのに、自分の身体だけが借りもののようだった。
俺は、紅魔館で起きたことを最初から説明した。
パチュリーさんに新薬の試飲を依頼されたこと。
事前の説明や安全確認に問題はなかったこと。
実験中にフランが図書館へ飛び込み、驚いた小悪魔さんが別の試薬を落としたこと。
それを受け止めようとして、偶然中身を飲み込んだこと。
そして、性相変成の薬によって今の姿になったこと。
阿求は途中で口を挟まず、全てを聞いた。
「なるほど」
説明が終わると、阿求は茶へ口をつけた。
「事情は分かりました」
「怒ってる?」
「フランさんやパチュリーさんに対しては、怒っておりません。故意ではありませんし、パチュリーさんも必要な対応をしてくださったのでしょう」
「じゃあ、俺に?」
「なぜ、私へ何も知らせず、そのまま一人で帰ろうとなさったのですか?」
「だって、明日には戻る可能性が高いって――」
「創英さん」
「……はい」
「九月に申し上げたことを、もうお忘れですか?」
「忘れてません」
「十月にも似たようなことを申し上げましたね」
「覚えてます」
「つい先日、鬼にまで同じ趣旨の忠告を受けたばかりでは?」
「それも覚えてます」
「では、なぜですか?」
「……大騒ぎするほど危険じゃないと思ったから」
阿求は深く息を吐いた。
「創英さんにとって危険ではないことと、私たちが心配しないことは別です」
「はい」
「明日までに戻らなかった場合、再検査を受けるのでしょう?」
「はい」
「何か異常があれば、すぐ紅魔館へ連絡するのですね?」
「はい」
「その際は、私にも知らせてください」
「……分かりました」
「約束です」
「はい……約束します……」
阿求はようやく表情を緩めた。それから、改めて俺の姿を見つめる。
さっきまでは心配が先に立っていたのだろう。今度の視線には、記録者としての好奇心が混ざり始めていた。
「それにしても……」
「な、何だよ」
「随分と違和感がありませんね」
「俺は違和感しかないよ」
「そういう意味ではありません。女性の姿になったというのに、不自然な部分がほとんどないのです」
「パチュリーさんにも同じことを言われたよ」
「声も、骨格も、髪も。まるで元からこの姿だったかのように整っています」
阿求は椅子から立ち上がり、俺の隣へ回る。
「髪に触れても?」
「別にいいけど……」
許可すると、阿求は長い金髪を一房だけ指へ取った。
指先で確かめるように、ゆっくりと髪を滑らせる。
「本当に、根元から伸びているのですね」
「付け毛じゃないんだからな」
「分かっています。ですが、一日でこれほど伸びるなど、通常では考えられません」
「身体全部が変わったんだから、髪だって伸びるんじゃないか?」
「それもそうかもしれませんが……」
阿求の指から、金色の髪がさらりと落ちる。
彼女は俺の顔を横から見つめ、何かを考え込むように目を細めた。
「創英さん」
「ん?」
「今のお姿は、どこか紫様に似ています」
予想していなかった言葉に、瞬きをする。
「紫さんに?」
「髪と目の色が同じだから、そう見えるだけかもしれません。ですが、顔立ちの一部にも、僅かに面影があるような……」
「偶然だろ」
「ええ。おそらくは」
阿求はそう答えたものの、完全に納得した表情ではなかった。
俺自身も、鏡へ映った姿に感じた既視感を思い出す。けれど、魔法薬で姿が変わった直後だ。
薬の働きが、俺の知っている女性の姿を無意識に参考にした可能性だってある。紫さんを連想したからといって、それ以上の意味があるとは思えなかった。
「まあ、明日には戻るだろうさ」
「戻ると決まったわけではありません」
「縁起でもないこと言うなよ」
「可能性を記録しているだけです」
阿求は元の席へ戻り、自分の帳面を取り出した。
嫌な予感がした。
「えっと、阿求さんや?」
「何でしょう?」
「その帳面は?」
「今回の出来事を記録するためのものです」
「誰にも言わないでくれるんだよな?」
「もちろんです。創英さんが望まない限り、他言はいたしません」
「良かった」
「ですが、記録は残します」
「そっちは残すのかよ」
「当然です」
阿求は筆を取り、さらさらと書き始めた。
「霊力を扱う退魔師が、魔法薬の誤飲によって女性へ変化したのです。しかも肉体へ異常なほど自然に定着している。記録者として、これを残さない理由がありません」
「定着って言うな。戻るんだから」
「では、暫定的な定着と記しておきます」
「余計に嫌な表現になったぞ」
「事実を正確に記す必要がありますので」
阿求の筆は止まらない。その横顔は、心配から解放されたためか、僅かに楽しそうにも見えた。
「……もしかして、少し面白がってないか?」
「まさか」
「今笑っただろ」
「気のせいです」
「俺の方を見て言ってくれ」
阿求は顔を上げなかった。
しばらくして、記録をひとまず終えた阿求が立ち上がった。
「今夜は、きちんとお休みください。明日の朝、様子を見に参ります」
「一人で大丈夫だよ」
「見に来ます」
「……はい」
「朝までに元へ戻っていたとしても、パチュリーさんの再検査は受けてくださいね」
「分かってるよ」
「異常があった場合は?」
「すぐに連絡する。阿求にも知らせるよ」
「よろしい」
玄関まで見送る。戸を開けると、十一月の夜風が長い髪を揺らした。
阿求は外へ出たところで振り返り、もう一度だけ俺の姿を見つめる。
「創英さん」
「何だ?」
「その……今のお姿も、とてもお綺麗ですよ」
「……急に何を言うんだよ」
「事実を申し上げただけです」
平然と言い切った阿求の頬は、暗がりの中でも僅かに赤く見えた。
俺もどう返せばいいのか分からず、視線を逸らす。
「おやすみ、阿求」
「はい。おやすみなさい、創英さん」
阿求は満足そうに微笑み、稗田邸へ続く道を歩いていった。
戸を閉め、静かになった居間へ戻る。
壁へ掛けた鏡の前を通りかかり、思わず足を止めた。
白いブラウス。濃紺のロングスカート。黒いロングコート。紫色のネクタイ。腰には風花。そして、腰より長く流れる金髪と、紫色の瞳。
鏡の中には、見知らぬ少女が立っている。
けれど、その手は俺と同じように刀へ触れ、その目は俺と同じように鏡の中を睨み返していた。
「……明日には、戻るよな?」
問いかけても、鏡の少女は何も答えない。
同じように眉を寄せ、同じように不安を隠そうとしているだけだ。
パチュリーさんの言葉が蘇る。
――貴方の身体が、変化を受け入れすぎている。
萃香の声も重なる。
――人間なのに、人間の匂いだけじゃない。
「……考えすぎだ」
俺は鏡から視線を外し、灯りを消した。
明日になれば戻る。
今夜限りの、借りものの姿だ。
そう言い聞かせながら寝室へ向かう俺の背中を、長い金髪だけが、誰かの名残のように静かに追いかけていた。