◆◇◆◇◆◇◆◇◆
目を覚ました時、最初に感じたのは、後頭部を引かれる鈍い痛みだった。
「いっ……!?」
寝返りを打とうとした身体が途中で止まる。何かが背中の下へ挟まり、首から頭にかけて強く引っ張られていた。
枕元へ手を伸ばし、指に絡みついたものを確かめる。
金色の髪だった。
肩から背中を通り、腰よりも下まで伸びた髪が、身体と布団の間へ盛大に巻き込まれている。眠る前に背中から退けたつもりだったが、寝返りを繰り返すうちに自分で踏んでしまったらしい。
「……夢じゃなかったかぁ」
口から漏れた声も、昨日と変わらず高く柔らかい。
その事実だけで、眠気が綺麗に吹き飛んだ。
髪を引き抜くように背中の下から救い出し、絡まった部分を指で解きながら身体を起こす。普段なら何も考えずにできる動作なのに、重心の位置が僅かに違うせいで、上半身を起こしただけでも身体が左右へ揺れた。
昨夜より多少は慣れたと思っていた。
どうやら、寝ている間にその感覚まで綺麗に失くしてしまったらしい。
「ああもう、動きづらいなぁ……」
布団から足を出し、床へ立つ。一歩目で膝が僅かに内側へ入り、慌てて柱へ手をついた。
筋力が極端に落ちたわけではない。ただ、腕や脚の長さ、骨盤の位置、身体を支える筋肉の使い方が昨日までとは違っている。
頭では同じように動いているつもりなのに、身体は半歩遅れて別の軌道を辿る。それが何とも気持ち悪かった。
寝室の鏡へ目を向ける。薄い寝間着を着た少女が、長い金髪を乱したまま立っていた。
紫色の瞳。細くなった肩。腰まで流れる髪。眠そうに眉を寄せた表情だけが、見慣れた俺のものだった。
「……本当に、戻ってないな」
パチュリーさんは、通常なら半日から一日で戻ると言っていた。
事故が起きたのは昨日の昼過ぎだ。既に半日はとうに過ぎている。それでも身体には、元へ戻り始めているような兆候すらなかった。
痛みはない。熱もない。霊力の流れも、むしろ普段以上に安定している。だからこそ、不安だった。
異常がないのではない。この姿を、身体が異常として認識していない。パチュリーさんの言葉が、嫌でも頭へ浮かんだ。
――貴方の身体が、変化を受け入れすぎているのよ。
「……考えるのは後にしよう」
鏡から視線を外し、寝間着の襟元を整える。
まずは顔を洗い、朝餉を用意しなければならない。その後で紅魔館へ行き、検査を受ける。やるべきことをひとつずつ片づければいい。
そう思って炊事場へ向かったものの、長い髪が腕へ絡まり、廊下を歩くだけで何度も足を止めることになった。
顔を洗うだけでも一苦労だった。
髪を肩の後ろへ払っても、身体を屈めればすぐ前へ落ちてくる。片手で髪を押さえながら水を掬った結果、今度は袖口を濡らした。
朝餉を作ろうと竈へ火を入れれば、髪の先が炎へ近づく。
「危なっ!」
慌てて身体を引くと、今度は背後の棚へ肩をぶつけた。
女の姿になったこと自体よりも、日常の動作がひとつひとつ思いどおりにいかないことの方が、今の俺には堪えた。
刀を振る時なら、相手の動きを見て身体を合わせられる。
けれど、茶を淹れる。飯を炊く。顔を洗う。廊下を歩く。
考えるまでもなく染みついていた動作ほど、違いを意識した瞬間に崩れていく。
……結局、朝餉を作ることは諦めた。
湯だけを沸かし、昨夜の残りの漬物を卓へ出したところで、玄関の戸が叩かれた。
「創英さん。お目覚めですか?」
阿求の声だった。
「阿求! 起きてるよ、今開けるっ!」
返事をしてから、慌てて寝間着のままだったことへ気づく。
昨日借りた咲夜さんの服は、寝室の衣桁へ掛けてある。着替えるには少し時間が掛かるうえ、阿求を寒い外で待たせることになる。
「あー、ごめん。少し待ってくれ」
「慌てなくて構いません。ゆっくりで結構ですから」
外から返ってきた声は穏やかだったが、完全に俺の行動を見透かしている。
仕方なく、上から黒いロングコートだけを羽織り、長い髪を背へ流したまま玄関へ向かった。
戸を開けると、白い息と共に冷たい風が入り込む。
阿求は厚手の羽織を着込み、両手で大きな包みを抱えていた。俺の姿を確認すると、まず顔を見て、次に長い髪へ視線を落とす。
「……まだ、お戻りではないのですね」
「ああ。期待して目を覚ましたんだけどな」
「身体の具合はいかがですか?」
「痛みも熱もない。霊力にも変化はないよ」
「それなら、ひとまずは安心ですが……」
阿求はそう答えながらも、表情を完全には緩めなかった。
「中へ入ってくれ。外は寒いだろ?」
「はい、では失礼いたします」
阿求を居間へ案内する。
俺が卓の前へ座ると、彼女は抱えていた包みを広げた。中には、湯気の立つ粥と煮物、それに小さく切った漬物が収められていた。
「朝餉をお持ちしました」
「わざわざ作ってきてくれたのか?」
「このお身体では、炊事にも不便があるのではないかと思いまして」
炊事場に置いたままの水桶と、中途半端に用意された食器を見れば、否定のしようがない。
「うん……正直、すごく助かるよ」
「やはり、作れていなかったのですね」
「作ろうとはしたんだけどね」
「髪を燃やしかけましたか?」
「な、何で分かるんだ?」
「創英さんの髪から、僅かに煙の匂いがします」
言われて髪の先を持ち上げる。
金色の毛先の一部が、ほんの少しだけ縮れていた。
「あちゃー……気づかなかったな……」
「座っていて正解でしたね」
「そこまで言わなくてもいいだろ」
阿求は小さく笑い、粥を椀へよそった。
朝餉を食べながら、昨夜から今朝までの変化を話す。
阿求は俺の言葉をひとつずつ確かめるように聞き、時折、帳面へ簡単な記録を残していた。
「夜中に眩暈や吐き気は?」
「なかったよ。何度か髪を下敷きにして、その痛みで目が覚めたくらいだ」
「髪を下敷きに?」
「寝返りを打つたびに、自分で下敷きにしてたんだ」
「髪を身体の上側へ流してからお休みになれば、多少は楽になると思います」
「上に流しても、結局寝返りで巻き込むだろ」
「では、緩く編んでおくのはいかがですか?」
「編む?」
「三つ編みです。髪が広がらないので、今夜もそのお姿のままなら――」
「今夜までこの姿でいる前提で話さないでくれ……」
「可能性として申し上げただけです」
阿求の口調は真面目だった。けれど、その目が僅かに笑っている。
「むぅ。面白がってるだろ」
「まさか」
「昨日と同じ返しじゃないか」
「事実ですから」
阿求は涼しい顔で茶へ口をつけた。
朝餉を終えた頃、再び玄関が騒がしく叩かれた。
「おーい、創英! 起きてるかー?」
今度は魔理沙の声だ。
「朝から声が大きいのよ」
すぐ後ろから、霊夢の呆れた声も聞こえる。
俺と阿求は、揃って玄関の方へ顔を向けた。
「うげぇ……どうして二人が……」
「私は何も話しておりませんよ」
阿求が先回りして答える。
「分かってるよ。昨日、誰にも言わないって約束したもんな」
「ええ。ですが、このままお帰しするのも難しそうですね」
居留守を使うという選択肢が、一瞬だけ頭を過った。
だが、魔理沙が戸を叩く音は止まらない。
「創英ー? 朝飯が余ってるなら、少しくらい分けてくれてもいいんだぜー」
「そのために来たのかよ……」
「聞こえてるぞー」
どうやら、もう逃げられないらしい。
俺は黒いコートの前を閉じ、髪を背中へ払ってから玄関へ向かった。
「今開ける」
戸を開ける。
外には、箒を肩へ担いだ魔理沙と、腕を組んだ霊夢が立っていた。
二人は俺の姿を見た瞬間、同時に動きを止めた。
魔理沙の目が大きく見開かれる。霊夢は一度俺を見て、家の奥へいる阿求を見て、それからもう一度俺へ視線を戻した。
「……誰?」
「俺だよ」
「俺?」
「創英だ」
冷たい風が、長い金髪を揺らす。魔理沙の口が、ゆっくりと開いた。
「……創英?」
「ああ」
「時崎創英?」
「他に誰がいるんだよ」
数秒の沈黙。先に吹き出したのは、魔理沙だった。
「ぶはっ!」
「笑うなっ!」
「いや、だって……本当に創英なのか!? 声まで全然違うじゃないか!」
「好きでこうなったんじゃないっ!」
魔理沙は腹を抱え、その場へしゃがみ込んだ。
霊夢は隣で深く息を吐き、魔理沙の帽子を平手で軽く叩く。
「笑ってる場合じゃないでしょ。創英、身体は平気なの?」
「まぁ、今のところは」
「中へ入れて。外じゃ落ち着いて診られないわ」
「診るって、霊夢が?」
「一応巫女よ? 変な呪いや憑き物じゃないかくらいは分かるわよ」
「一応って自分で言うんだな」
「細かいことを気にする元気はあるみたいね」
霊夢は俺の返事を待たず、魔理沙の襟首を掴んで家へ入ってきた。
居間へ移ると、霊夢は俺を卓の前へ座らせた。
額へ手を当て、次に首筋と手首へ指を添える。触れられた場所から、温かな霊力が身体の中へ細く流れ込んできた。
俺の霊力を刺激しないよう、表面だけを慎重になぞっている。
魔理沙も笑うのをやめ、少し離れた位置から真剣な目でこちらを観察していた。
「悪い気配はないわね」
霊夢が目を閉じたまま呟く。
「呪いでもない。妖怪に化かされてるわけでもなさそう」
「魔法の残滓はあるぜ」
魔理沙が俺の周囲へ手を翳す。
「けど、変身魔法を掛けられた時の残り方じゃない。表面に術式が張りついてるんじゃなくて、身体の中へ溶け込んでる感じだ」
「パチュリーさんも似たようなことを言ってたよ」
「パチュリーが?」
「昨日、紅魔館で試薬を誤って飲み込んだんだ」
俺が事故のあらましを説明すると、霊夢の眉間へ皺が寄った。
魔理沙は途中から興味深そうに身を乗り出していたが、フランが原因の一端だったと聞いたところで笑みを引っ込める。
「フランは大丈夫なのか?」
「かなり気にしてた。でも、事故だからな。次から気をつけるように言っておいたよ」
「それより自分の心配をしなさいよ」
霊夢に即座に返される。
「してるよ」
「だったら、どうして一人で帰ってきたの?」
「阿求にもパチュリーさんにも言われたよ、それ」
「言われても直さないなら、何度でも言うわ」
返す言葉がない。
阿求が静かに頷いているのが、視界の端へ映った。
「……三対一は卑怯じゃないか?」
「アンタが一人で抱え込むから、こうなるのよ」
「そうだぜ。私たちは面白がるだけじゃなく、ちゃんと心配もしてるんだ」
「最初に笑った奴が言うな」
「それとこれとは別だぜ」
魔理沙は胸を張って答えた。
話が一段落したところで、俺は茶を淹れようと立ち上がった。
「創英さん、私が」
「大丈夫だよ。茶くらいなら淹れられるさ」
阿求の制止を断り、炊事場へ向かう。
さっきは失敗したが、今度は髪を前へ落とさないよう、左腕で抱えるようにして歩いた。
それでも、慣れないロングスカートの裾が足へ絡む。
「あっ……」
踏み出した足が布を巻き込み、身体が前へ傾いた。
片手には湯の入った鉄瓶がある。
咄嗟に体勢を戻そうとしたが、元の身体なら間に合ったはずの踏ん張りが利かない。
「危ない!」
霊夢の声がした。
次の瞬間、鉄瓶が手元から消えた。
魔理沙が素早く飛び込み、落ちかけた鉄瓶を両手で受け止めている。霊夢は俺の腕を掴み、床へ倒れる寸前で身体を支えてくれた。
「だから座ってなさいって言ったでしょう」
「……ごめん」
「本当に大丈夫なのか?」
魔理沙は鉄瓶を卓へ置き、さっきまでとは違う表情で俺を見た。
「思ってたより、動けてないじゃないか」
「力が出ないわけじゃないんだ。身体の使い方が、いつもと違うだけで」
「それを動けてないって言うのよ」
霊夢に肩を押され、元の席へ戻される。
長い髪が椅子の背へ挟まり、また頭を引かれた。
「痛っ」
「……本当に不便そうだな」
「面白がる気が失せたか?」
「少しだけな」
「少しだけなのかよ」
「だって、見た目だけなら結構似合ってるぜ」
「もう一度鉄瓶を落としてやろうか」
「それをやったら阿求と霊夢に怒られるのは、お前の方だぞ」
魔理沙の言うとおりだった。
その時、窓の外から羽音が聞こえた。
一羽の小さな蝙蝠が硝子へぶつかりそうな勢いで飛んでくる。窓を開けると、蝙蝠は室内へ入り、俺の目の前で紫色の光に包まれた。
光は一枚の封書へ変わり、卓の上へ落ちる。
「紅魔館からだ」
封を切り、急いで文面を読む。差出人はパチュリーさんだった。
昨夜から性相変成薬の解析を行い、元の身体へ戻すための中和薬が完成したこと。試薬と新薬の残留成分が消えていることを確認できれば、すぐに投与できること。
そして最後に、
『起きていて、熱と眩暈がないなら今すぐ来なさい。勝手に飛んで墜ちないように』
と書かれていた。
「……随分信用がないな」
「妥当な忠告ね」
霊夢が横から文を覗き込む。
「薬ができたんだな?」
魔理沙も身を乗り出した。
「ああ。すぐに来いって」
反射的に立ち上がる。再びスカートの裾が足へ触れ、身体が僅かに揺れた。
霊夢の手が、無言で俺の肩を押し戻す。
「だから、急に動かないの」
「でも、早く戻りたいんだよ」
「それは分かってる。しょうがないから、私たちも一緒に行ってあげるわよ」
「霊夢たちも?」
「今の動きで一人きりにできると思う?」
「私も行くぜ。性相変成薬なんて、滅多に見られるもんじゃないからな」
「魔理沙は半分くらい好奇心でしょう」
「七割くらいだ」
「増えてるじゃないか」
阿求はそんな俺たちを見た後、静かに口を開いた。
「私は、ここでお待ちします」
「阿求は来ないのか?」
「今の創英さんと一緒に空を移動しては、かえって負担になりますから。霊夢さんと魔理沙さんがご一緒なら、私も安心です」
そう言ってから、阿求は霊夢と魔理沙へ向き直る。
「どうか、創英さんをお願いいたします」
「任せておきなさい」
「無茶をしそうになったら、箒に括りつけてでも連れて帰るぜ」
「頼むから、それだけはやめてくれ」
「でしたら、大人しくお二人の言うことを聞いてください」
「はい……」
また三対一だった。
⸻
家の外へ出て、霊力を背中へ集める。
翠緑色の光が翼の形を取り、冷たい朝の空気を押し退けた。
翼そのものは、普段と変わらず形成できる。
だが、地面を蹴って浮き上がった瞬間、身体が思ったよりも軽く持ち上がった。
「うわっ――」
上体が後ろへ流れ、視界が空へ傾く。
霊夢がすぐに腕を掴み、姿勢を戻してくれた。
「飛ぶ時まで同じ感覚でやらないの」
「分かってるんだけど、身体が勝手に……」
「勝手に動いてるんじゃなくて、創英が今までどおりに動かそうとしてるのよ」
その言葉に、少しだけ納得する。
身体が間違っているのではない。俺の認識が、以前の身体へ置き去りにされている。
動きづらさの正体は、おそらくそれだった。
「速度は出すなよ」
箒へ跨った魔理沙が、俺の横へ並ぶ。
「分かってる」
「あと、髪が翼に絡まないようにしろ」
「それはどうすればいいんだ?」
「知らん」
「忠告するなら方法まで考えてくれよ」
結局、長い髪をコートの内側へ可能な限り押し込み、俺たちは紅魔館へ向けて飛び立った。
——空を進む間も、何度か身体が左右へ流された。
いつもより速度を落とし、霊夢と魔理沙に挟まれるようにして飛ぶ。見慣れた人里の屋根も、霧の湖も、僅かに低くなった視線から眺めると別の場所のように見えた。
霊力の翼は俺の意思へ素直に従う。なのに、翼を支える身体が馴染まない。
たった一晩で、自分が自分から切り離されてしまったような感覚があった。
早く戻りたい。その思いだけが、冷たい風よりも強く胸の中へ吹き込んでいた。
紅魔館の正門へ降りると、咲夜さんが既に待っていた。
「お待ちしておりました、創英様」
「パチュリーさんから連絡があったので来ました」
「伺っております。お身体の状態に変化はございませんか?」
「痛みも熱もありません。霊力も安定しています」
「承知いたしました。直ちに大図書館へご案内いたします」
咲夜さんは霊夢と魔理沙にも軽く一礼し、館の中へ先導する。
昨日と同じ廊下を歩いているはずなのに、足取りはまるで違った。
スカートの裾へ気を取られ、長い髪を扉へ挟まないよう注意し、靴音の感覚にまで神経を使う。
元へ戻る薬がある。その事実だけを何度も胸の中で確かめながら、大図書館へ向かった。
実験区画には、昨日よりも多くの魔法陣と測定器具が用意されていた。
パチュリーさんは書見台の前に立ち、銀色の液体が入った小瓶を手にしている。傍らには小悪魔さんとラッシュが控え、その少し後ろではフランが不安そうにこちらを見つめていた。
「来たわね」
「薬ができたんですか?」
「ええ。けれど、すぐには飲ませないわ。まず昨日の薬が体内へ残っていないか調べる」
「分かりました」
促された椅子へ座る。昨日と同じように、複数の光輪が身体を通過する。小悪魔さんが測定結果を読み上げ、パチュリーさんがひとつずつ資料と照合していく。
検査を待つ間、フランはラッシュの隣から動かなかった。俺と目が合うと、胸元で両手を握る。
「にぃに……」
「大丈夫だよ」
「でも、まだ戻ってない……」
「今から戻してもらうんだ。だから、そんな顔するな」
「本当に戻れる?」
「パチュリーさんが作った薬だぞ。大丈夫、戻れるさ」
そう答えてから、パチュリーさんへ目を向ける。
「戻れますよね?」
「そこで私に確認しないでちょうだい」
「だって、断言はしてくれないじゃないですか」
「魔法薬へ絶対はないもの。けれど、現時点で考えられる危険は全て潰してあるわ」
パチュリーさんは銀色の小瓶を光へ透かす。
「昨日摂取した霊力循環薬と性相変成薬は、既に体内から消えている。中和薬を投与しても、薬効同士が衝突する可能性は低いわ」
「低い、ですか」
「極めて低い。これ以上を求めるのなら、自然に戻るまで待つしかないわね」
鏡へ映る自分の姿を見る。昨日から何も変わっていない。
この身体に痛みはない。動きに慣れさえすれば、このまま生活することもできるのかもしれない。
だが、それを考えた瞬間、胸の奥が強く縮んだ。
受け入れられない。
女の身体が嫌なのではない。
自分の知らないところで、自分の姿を決められてしまったことが怖かった。
鏡へ映っている少女は俺だ。けれど、俺が選んだ俺ではない。
「飲みます」
パチュリーさんへ顔を向ける。
「元に戻してください」
「分かったわ」
短く答え、彼女は薬を小さな杯へ注いだ。
銀色の液体は、光を受けるたびに表面へ淡い紫を浮かべている。
「全部飲み干して。途中で異常を感じても、無理に吐こうとしないこと。私が中断の術式を使うわ」
「はい」
「変化が始まったら、身体を動かさないで。昨日と同様に骨格と筋肉が変わる可能性がある」
「分かりました」
杯を手に取る。
フランが、心配そうに俺の手元を見つめていた。
「戻ったら、遊ぼうな」
「……うん」
「今度は実験が終わってから、ちゃんと声を掛けてくれよ」
「絶対にそうする」
フランが強く頷く。それを確認してから、俺は杯へ口をつけた。
「……苦い」
「薬なのだから当然でしょう」
「昨日のより苦いんですけど」
「味を整える時間はなかったわ」
「そうですか……」
覚悟を決め、一息に飲み干す。喉を通った液体は、氷のように冷たかった。
冷気が胸へ落ち、腹の底で弾ける。次の瞬間、身体の内側から強い熱が湧き上がった。
「――っ!」
椅子の肘掛けを掴む。
昨日とは逆に、身体の中心から外側へ向かって何かが押し広げられていく。
肩。腕。脚。骨が軋むほどの痛みはない。だが、関節の位置が僅かずつずれ、筋肉が収縮と弛緩を繰り返す感覚が、皮膚の下を波のように走った。
視線が少しずつ高くなる。細かった指へ骨張った輪郭が戻り、肩幅が広がっていく。
喉の奥が強く震えた。
「ぐっ……」
漏れた声が、途中から低く変わる。聞き慣れた自分の声だった。
それだけで、胸の奥へ詰まっていたものが僅かにほどける。
変化は数分も掛からなかった。
全身を巡っていた熱が収まり、呼吸が落ち着いていく。
「創英。聞こえる?」
パチュリーさんの声へ顔を上げる。
「……聞こえます」
返ってきた声は、昨日までの俺のものだった。
腕を見る。手を見る。
肩の位置を確かめ、足を床へつける。
身体の重心が、知っている場所へ戻っている。
「戻った……」
思わず、息が漏れた。胸の中へ溜まっていた緊張が、一気に抜けていく。
「にぃに!」
フランが駆け寄ってくる。今度は俺も迷わず立ち上がり、飛び込んできた身体を受け止めた。
足は揺れない。腕も、フランの重さを知っている。
「戻ったよ、フラン」
「ほんとに、にぃにだ!」
「昨日も俺だったんだけどな」
「でも、いつものにぃに!」
フランは嬉しそうに俺の胸元へ顔を埋めた。
その頭を撫でる。自分の手が、自分の知っている大きさへ戻っている。それだけのことが、ひどく嬉しかった。
検査のため、咲夜さんが用意した衝立の向こうで元の服へ着替える。
昨日脱いだワイシャツとベスト、スラックスは、綺麗に洗われて畳まれていた。袖へ腕を通し、ネクタイを締め、黒いロングコートを羽織る。
布が、身体の正しい位置へ収まる。鏡を見なくても、自分の姿へ戻ったことが分かった。
「着替え終わりました」
衝立の外へ出る。霊夢と魔理沙が、揃って俺の姿を確かめる。
「ちゃんと戻ったわね」
「ああ。やっぱり、この姿が一番落ち着くよ」
「女の姿も悪くなかったけどな」
「魔理沙」
「褒めてるんだぜ?」
「今は褒められても嬉しくない」
肩を回し、首を左右へ傾ける。
身体に異常はない。霊力も正常だ。
全てが元へ戻った。そう思いながら振り返った時、何かが遅れて背中へ触れた。
「……ん?」
首を動かす。金色の束が肩から前へ流れ落ちた。
長い。腰よりも下まで伸びた、昨日のままの髪だった。
「……パチュリーさん」
「何かしら」
「戻ってない部分があるんですけど」
「髪ね」
「髪ね、じゃないですよ!」
思わず声を上げる。
「どうして髪だけ残ってるんですか!?」
「中和薬が戻したのは、性相変成薬によって書き換えられた生体情報よ。骨格、筋肉、内臓、声帯。生きた組織の性質は元へ戻せる」
「じゃあ、髪は?」
「既に伸びた髪は、生体情報の外側にあるわ。一度作られた長さまで消すことはできない」
「つまり……」
「切らない限り、そのままね」
無言で髪を持ち上げる。金色の束が両腕から溢れた。
男の身体へ戻った安心が、一瞬だけ遠ざかっていく。
「こんなに伸びたまま、生活するんですか……」
「嫌なら切ればいいじゃない」
霊夢が当然のように言う。
「そうだな。帰ったら切るよ」
「だ、だめっ!」
間髪を容れず、フランの声が響いた。
俺の髪を両手で抱え、離すまいとする。
「切っちゃうの!?」
「この長さは流石に邪魔だろ。刀を振る時にも引っかかるし、火を使う時だって危ない」
「でも、綺麗なのに……」
「髪はまた伸びるよ」
「こんなに長くなるまで、ずっと掛かるもん」
フランは残念そうに金色の髪を撫でる。昨日の事故で自分を責めていた時とは違うが、今度は本気で惜しんでいるらしい。
そう言えば……と、ふと昔の記憶を思い出す。絢香が髪の毛を伸ばしたいと、母さんにぐずっていた。
俺の母さんは、とても綺麗なストレートロングの髪を持っていた。それこそ、今の俺と同じくらいの長さだった記憶がある。
当時の母さん曰はく、この長さまで伸ばすのには、3年以上は掛かるのだとか。
人の髪はひと月に1cmほど伸びる。人によってはひと月に2cm伸びる人もいるようだが、それらを加味して3年以上。……フランの言うように、前の長さに切りそろえてからここまで伸ばすのにはかなりかかるのだろう。
「せめて、今日だけ残して?」
「今日だけ?」
「うん。私とおそろいにしたい」
紅い瞳で見上げられ、言葉に詰まる。
危険な願いでもなければ、無理な頼みでもない。
それに、元へ戻ったことを誰より喜んでくれたフランへ、すぐに駄目だと言う気にもなれなかった。
両腕へ溢れる金髪を見下ろす。昨日までは存在すらしなかった髪だ。俺にとっては動くたびに纏わりつき、火へ近づけば燃えかけ、眠れば自分で踏みつける厄介な異変の名残でしかない。
けれど、フランの小さな手は、それを壊れものでも扱うように撫でていた。
——お母さんみたいに、長くしたい。
記憶の中で、幼い絢香の声が重なる。
母さんの長い髪へ憧れて、切りたくないと駄々をこねていた。そんな妹へ、母さんは困ったように笑いながらも、毎朝欠かさず髪を梳いてやっていた。
今、目の前にいるフランの表情は、あの時の絢香によく似ている。
ただ髪が惜しいのではない。きっとフランは、昨日の事故で自分が残してしまったものを、俺がすぐに切り捨ててしまうことを寂しがっているのだ。
「……分かった」
髪を抱えるフランの手へ、自分の手を重ねる。
「今日だけじゃなくていいよ」
「え?」
「この髪、切らないことにする」
フランが何度か瞬きをした。
「ほんとに?」
「ああ。手入れの仕方さえ覚えれば、今すぐ切らなきゃいけないものでもないからな」
「ずっと?」
「フランが飽きるまでは」
「私、ずっと飽きないよ!」
「じゃあ……ずっとになるかもしれないな」
口にしてから、その言葉が思った以上に長い約束であることへ気づく。
だが、不思議と撤回する気にはならなかった。
「にぃに!」
フランが金髪を抱えたまま、俺の腰へ飛びついてくる。
慣れた身体へ戻ったおかげで、今度は揺らぐことなく受け止められた。
「ありがとう、にぃに! 大事にしようね!」
「俺の髪なんだけどな」
「一緒に大事にするの!」
「そうだな」
フランの頭を撫でる。昨日のような罪悪感ではなく、純粋な喜びがその顔に戻っている。それを見られただけでも、髪を残すと決めた意味はあったのだろう。
「では、創英様」
背後から、静かな声が掛かる。
振り返ると、咲夜さんが櫛を手にして立っていた。
「長い状態を維持なさるのでしたら、まずは正しい手入れを覚えていただきます」
「……今からですか?」
「今すぐに、です」
咲夜さんの視線が、俺の腕から溢れている金髪へ向けられる。
「髪を下ろしたまま竈へ近づき、毛先を焦がしたそうですね」
「どうしてそれを……」
「先ほど、霊夢から伺いました」
霊夢へ顔を向けると、彼女は悪びれることなく肩を竦めた。
「必要な情報でしょう?」
「わざわざ報告しなくても……」
「今のアンタに長い髪を任せる方が怖いわよ」
「同感だぜ」
魔理沙まで頷く。
小悪魔さんはいつの間にか書棚の奥から箱を持って戻り、咲夜さんの横へ置いた。中には大小の櫛や刷毛、髪紐、布、硝子の小瓶まで、見たことのない道具が揃っている。
「……何ですか、この量は」
「髪のお手入れに必要なものです」
「全部使うんですか?」
「日常的に使うものは一部ですが、まずは一通りご説明しますね」
小悪魔さんがにこやかに答える。嫌な予感がした。
周囲を見渡す。
咲夜さん。霊夢。魔理沙。パチュリーさん。小悪魔さん。フラン。ラッシュ。
その場にいた女性陣全員が、長い髪を残すと決めた俺へ視線を向けている。
「……もしかして、皆さん参加するんですか?」
「当然でしょう」
パチュリーさんが本から顔も上げずに答えた。
「貴方が手入れを誤り、残留魔力のある髪を傷めれば、観察にも支障が出るもの」
「私は実験材料として髪を残すわけじゃないんですが」
「理由が何であれ、残すことに変わりはないわ」
逃げ道はなさそうだった。
——実験用の椅子へ座らされ、咲夜さんが俺の背後へ立つ。
長い髪を背凭れの外へ流されると、自分では見えない場所で何かが始まるという不安が湧いた。
「最初に、櫛の通し方です」
咲夜さんは一房の髪を取り、毛先に近い部分を左手で支えた。
「根元から一息に梳かしてはいけません。絡まりへ櫛が引っかかれば、髪だけでなく頭皮にも負担が掛かります。まず毛先を解き、それから少しずつ上へ移ってください」
櫛が毛先をゆっくりと通る。
途中で僅かな引っかかりがあったものの、咲夜さんは無理に引かず、指先で絡まりを解いてから再び櫛を動かした。
「絡まった場所の少し上を手で押さえるのよ」
霊夢が俺の横から髪を持ち上げる。
「そうすれば、引っ張った時の痛みが頭まで伝わりにくいから」
「霊夢も詳しいんだな」
「私だってこのくらいは知ってるわよ。それに、神社は風が強いから、放っておくとすぐ絡むの」
霊夢は咲夜さんとは別の房を取り、俺へ見える位置で櫛の動かし方を示した。
「力任せに引っ張らない。急いでる時ほど丁寧に。アンタ、何でも早く済ませようとして無理やりやりそうだから」
「髪を梳かすくらいで、そこまで決めつけなくてもいいだろ」
「今朝、燃やしかけたのは誰よ」
「……俺です」
「なら大人しく聞きなさい」
反論できなかった。
「洗う時も同じだぜ」
今度は魔理沙が、横から俺の髪へ触れる。
「長いからって、頭の上で全部丸めて擦るなよ。絡まって解けなくなる」
「魔理沙はそういう洗い方をして失敗したことがあるのか?」
「昔、一度だけな」
「あるんだ……」
「笑うなよ。朝まで掛かって解いたんだぞ」
魔理沙は帽子の下から流れる自分の金髪を片手で払った。
「根元は指の腹で洗って、毛先は泡を馴染ませる程度でいい。あと、濡れたまま寝るな。翌朝には髪が鳥の巣みたいになるぜ」
「魔理沙が言うと、妙に説得力があるな」
「どういう意味だ?」
「普段の生活を考えると、何度も失敗して覚えたんだろうなって」
「失礼な奴だな。二、三度くらいだ」
「一度じゃなかったのかよ」
魔理沙は視線を逸らした。
「乾かす際は、まず髪の根元からです」
小悪魔さんが布を一枚取り出し、俺の頭へ軽く被せた。
「濡れた髪を強く擦るのではなく、布で挟んで水分を吸わせます。それから風を通して、根元、中央、毛先の順で乾かしてください」
「自然に乾くまで放っておくのは駄目なんですか?」
「この長さでは時間が掛かりすぎます。冬場なら身体も冷えてしまいますよ」
「それに、濡れた状態は髪が傷みやすいわ」
パチュリーさんが、俺の髪へ小さな魔法陣を翳す。淡い光が一本一本の表面をなぞった。
「特に今の髪には、性相変成薬の魔力が微量に残っている。強い薬品や、洗浄力の高すぎる石鹸は使わないこと。刺激の少ないものを選びなさい」
「普通の石鹸でも駄目なんですか?」
「身体用のものをそのまま使うのは勧めないわ。油分を落としすぎれば、髪が乾燥して切れやすくなる」
「髪って、そこまで気を遣うものなんですね……」
「今まで短かったから知らなかっただけでしょう」
パチュリーさんは当然のように答える。
「身体の一部なのだから、維持するなら相応の管理が必要よ」
その言葉は、昨日の実験について話している時よりも妙に重く聞こえた。
「毛先が乾きやすい場合には、こちらを少量だけお使いください」
小悪魔さんが硝子の小瓶を差し出す。中には淡い琥珀色の油が入っていた。
「一度に使うのは、一滴か二滴です。手のひらへ薄く伸ばし、毛先だけへ馴染ませてください」
「根元には付けないんですか?」
「付けすぎると重くなりますし、埃も付きやすくなります」
「量を間違えると一日中べたつくぜ」
魔理沙が口を挟む。
「それも経験が?」
「……知識として知ってるだけだ」
誰も信じなかった。
「飛行や戦闘の際は、必ず纏めてください」
今まで黙って見ていたラッシュが、俺の背後から髪の長さを確かめる。
「そのまま飛べば、風に煽られて視界を塞ぐだけでなく、霊力の翼へ絡みつく可能性もございます。創英様は刀をお使いになりますので、腕や柄へ巻き込む危険もあります」
「やっぱり、戦う時には邪魔になりますよね」
「下ろしたままであれば、です」
ラッシュは長い髪を首の後ろへ集め、細い紐で一度束ねた。さらに長さの中ほどをもう一度纏め、毛先が大きく広がらないよう整える。
「高速で飛行する際には、一か所だけで結ぶより、このように二段階で纏める方が安定いたします。激しく身体を動かす戦闘では、三つ編みにするのも有効でしょう」
「三つ編み……」
「見た目の問題ではございません。安全のためです」
俺が何を気にしたのか察したらしく、先回りして釘を刺された。
「別に嫌とは言ってないですよ」
「お顔には出ておりました」
「そんなに分かりやすかったですか?」
「はい」
即答だった。
「寝る時も三つ編みがいいんだよ!」
フランが待ち切れなくなったように、俺の正面へ回り込む。
「きつく結ぶと痛くなるから、ふわっと緩くするの。そうしたら寝返りしても髪がばらばらにならないよ」
「阿求にも同じことを言われたな」
「じゃあ、にぃにはもう忘れられないね」
「皆から同じことを言われてるからな……」
「それから、リボンは毎日替えてもいいんだよ」
フランが、どこから持ってきたのか赤、白、青、黒と色の違うリボンを両手へ広げる。
「それは手入れと関係あるのか?」
「あるよ。今日は赤で、明日は白にするの」
「それはフランが楽しみたいだけだろ」
「だめ?」
上目遣いで尋ねられる。
「……一日に一本までな」
「やった!」
後ろで魔理沙が笑いを堪えている気配がした。
「一通りご説明しましたので、次は創英様ご自身で行っていただきます」
咲夜さんから櫛を渡される。
「今、ここで?」
「ご自宅へ戻ってから忘れてしまっては困りますので」
髪を肩の前へ流し、教わったように毛先から櫛を通す。
最初の数回は力加減が分からず、櫛が絡まりへ引っかかった。
「無理に引かない」
霊夢から声が飛ぶ。
「絡まったところの上を持つんだぜ」
魔理沙が続く。
「一度、櫛を外して指で解してください」
小悪魔さんが補足する。
「髪を引き寄せすぎると、反対側が絡まるわよ」
パチュリーさんまで口を挟む。
「肩へ力が入りすぎております」
ラッシュの指摘が加わる。
「にぃに、もっと優しく!」
最後にフランからも叱られた。
「……一度に全員で言わないでもらえますか?」
「では、一度で覚えてくださいませ」
咲夜さんの微笑みに、逃げ場はなかった。
——どうにか全体を梳かし終えると、次は髪を纏める練習へ移った。
自分の後頭部は見えない。鏡越しでは左右の感覚も逆になるため、紐を結ぼうとしても髪が指の間から逃げていく。
三度目の失敗で、魔理沙が吹き出した。
「刀はあんなに器用に振るうのにな」
「うるせーやい。後ろを見ずに髪を結ぶのと一緒にするなよ」
「慣れよ、慣れ」
霊夢が俺の手元を直す。
「最初から綺麗にしようとしないで、まず全部を同じ手で持つ。もう片方の手で紐を回すの」
「こうか?」
「違う。そっちを離したら全部落ちるでしょう」
「あっ」
纏めていた髪が、再び背中へ広がった。周囲から一斉に溜め息が聞こえる。
「いや、これ思ったよりも難しいんだって……」
「じゃあじゃあ、しばらくは私がお手伝いするっ!」
フランが嬉しそうに手を上げた。
「毎朝紅魔館から来るつもりか?」
「にぃにが泊まればいいよ」
「それは髪のために生活場所を変えてるだろ」
「では、創英様が一人でも扱えるようになるまで、簡単な結い方からお覚えになりましょう」
咲夜さんが再び背後へ回る。
まずは首の後ろでひとつに束ねる、低い位置の結び方。
次は動きやすさを優先した、高い位置でのポニーテール。
さらにラッシュが、飛行や戦闘向けの三つ編みを実演する。
そのたびにフランは鏡の横へ立ち、楽しそうに感想を口にした。
「その結び方、格好いい!」
「こっちはにぃにらしいね!」
「次は私とおそろい!」
「まだやるのか?」
「一番大事なのが残ってるもん」
フランが赤いリボンを持ち、俺の髪を片側へ集める。
咲夜さんに手を添えてもらいながら、自分と似た形へ結んでいく。完全に同じではないものの、顔の横へ長い金髪が流れ、赤いリボンが揺れる姿になった。
「できた!」
フランが俺の横へ並び、鏡の中で笑う。
同じ金髪。同じ位置で揺れる赤い飾り。
年齢も顔立ちも違う。それでも、並んで立てば確かに兄妹のように見えなくもなかった。
「おそろいだね、にぃに」
「ああ」
鏡越しにフランを見る。
「おそろいだな」
そう答えると、フランは今日一番の笑顔を浮かべた。
最後には、咲夜さんが普段使いに向いた高めのポニーテールへ結い直してくれた。
首を動かすと、纏められた金髪が背後で大きく揺れる。下ろしていた時とは違い、視界や腕へ絡みつくこともない。
「いかがでしょうか?」
「これなら、動く時にも邪魔にならなさそうです」
「戦闘の際は、もう少し低い位置で固く纏めるか、先ほどの三つ編みになさってください」
「分かりました」
「お料理の時も結ぶのよ」
霊夢が念を押す。
「濡れたまま寝るなよ」
魔理沙が続く。
「油は毛先へ一、二滴です」
小悪魔さんが小瓶を手渡す。
「強い薬品は避けなさい」
パチュリーさんが言う。
「飛行時には二か所以上で固定を」
ラッシュが付け加える。
「寝る時は緩い三つ編み!」
フランが締めくくる。
「……はい。覚えました」
「本当に?」
全員の声が、見事に重なった。
「そこは信用してくださいよ!」
大図書館へ、俺の声と皆の笑いが広がった。
⸻
紅魔館を出る頃には、長い髪を高い位置で纏めた姿にも多少は慣れていた。
霊力の翼を広げ、空へ上がる。身体そのものが元へ戻ったことに加え、髪が纏められているおかげで、往路のように視界を塞がれることもない。背後で髪が大きく揺れる感覚にはまだ馴染まないが、飛行を妨げるほどではなかった。
「結局、残すことにしたのね」
隣を飛ぶ霊夢が、俺の髪へ目を向ける。
「ああ」
「フランのためか?」
反対側から魔理沙が尋ねる。
「それもあるよ」
「それも?」
「昨日の姿は、俺が望んだものじゃなかった」
風を受けながら、背中で揺れる重みを意識する。
「でも、この髪を残すかどうかは、俺が決められる。だったら、フランが喜ぶ方を選んでもいいかなって思ったんだ」
霊夢は少しだけ目を細めた。
「そう」
それ以上は何も言わない。
魔理沙は帽子を押さえながら、にやりと笑う。
「まあ、似合ってるからいいんじゃないか?」
「結局そこへ戻るのかよ」
「似合わないものを無理に褒めたりはしないぜ」
「それはそれで信用できるけどさ……」
冷たい風が頬を撫でる。後ろへ引かれる長い髪は、もう事故の残り滓にしか思えないものではなかった。
自分で残すと決めた。その違いは、見た目には何も表れない。
それでも俺にとっては、昨日までとは全く違う重さだった。
——新居へ戻ると、阿求は居間で本を読みながら待っていた。
戸の開く音へ顔を上げ、俺の姿を確認する。
最初に顔。次に肩幅と服装。
俺が元の身体へ戻っていると分かった瞬間、張りつめていた表情がゆっくりと緩んだ。
「お帰りなさい、創英さん」
「ただいま。無事に戻ったよ」
「そのようですね。本当に良かった……」
阿求は胸元へ手を添え、安堵した息を吐く。それから、俺の背後へ視線を移した。
「……髪は、残ったのですね」
「ああ。薬じゃ長さまでは戻せないらしい」
「それで、ポニーテールになさっているのですか?」
「紅魔館で、皆から手入れの仕方を教え込まれたんだ」
「皆から?」
「咲夜さんに霊夢、魔理沙、パチュリーさん、小悪魔さん、ラッシュ、フラン。全員から」
阿求の口元が僅かに綻ぶ。
「随分と豪華な講師陣ですね」
「一度に全方向から注意されるんだぞ。講習というより包囲だったよ」
「ですが、綺麗に纏まっております」
「これは咲夜さんに結んでもらった。自分でやると、まだ上手くいかないんだよな……」
阿求が俺の周りをゆっくりと回り、結び目を確かめる。
「少し緩んでいますね」
「飛んできたからかな」
「直してもよろしいですか?」
「ああ。頼むよ」
背を向ける。阿求の指が髪を集め、結び目へ触れる。咲夜さんの手つきよりもゆっくりで、髪を引かないよう慎重に整えているのが分かった。
首筋の近くで指が動くたび、僅かなくすぐったさが走る。
「阿求も、やっぱり慣れてるんだな」
「この長さの髪は初めてですが、手入れ自体は日頃から欠かしていませんので」
「寝る時は緩く編むんだったな」
「覚えてくださったのですね」
「みんなから言われたからな」
「それでも、創英さんのことですから、面倒になってそのままお休みになるかもしれません」
「信用がないなぁ」
「実績を信頼しております」
「最近、それを悪い意味で使ってないか?」
阿求は答えず、結び直した髪を軽く整えた。
「できました」
「ああ、ありがとう」
振り返ると、阿求は俺の長い髪を改めて眺めていた。
「一週間が過ぎれば、切るおつもりなのですか?」
「いや」
首を横へ振る。
「このまま残すことにしたよ」
「そうなのですか?」
「フランがおそろいにしたいって言ってくれたからな。今すぐ切る必要もないし、手入れさえ覚えれば何とかなるだろ」
「フランさんのために」
「ああ」
阿求は一度目を伏せ、それから柔らかく微笑んだ。
「創英さんらしい選択ですね」
「また甘いって言われるかと思った」
「少し甘いとは思います」
「思うんだ……」
「ですが、これは創英さんご自身でお決めになったことでしょう?」
「ああ」
「でしたら、よろしいのではないでしょうか」
阿求の指が、肩へ流れた一房の髪をそっと背中側へ戻す。
「それに、長い髪もよくお似合いです」
「今日だけで何度それを言われたと思う?」
「私はまだ一度目です」
「そういう問題かな……」
「何度でも申し上げますよ。事実ですから」
阿求は澄ました顔で卓へ戻った。
俺だけが、どう返せばいいのか分からず、その場へ取り残される。背中で揺れた髪の重みが、先ほどより少しだけ熱を持ったように感じられた。
その後、阿求にも見守られながら、自分で髪を結ぶ練習をすることになった。
紅魔館で教わった手順を思い出し、全ての髪を片手へ集める。反対の手で紐を回そうとして、半分ほど取りこぼす。
「あっ」
「創英さん。最初から全部を高く纏めようとなさらず、低い位置から練習しましょう」
「うーん。それは咲夜さんにも言われたけども……」
「でしたら、なぜ難しい方から始めたのですか?」
「できる気がしたから、かな……?」
「その根拠のない自信を、時折見直した方がよろしいかと」
「……はい」
阿求の指導も、紅魔館の女性陣に負けず劣らず厳しかった。
窓の外では、十二月の風が枯れ枝を揺らしている。
俺の身体は元へ戻った。声も、手も、重心も、昨日まで知っていた俺のものだ。
それでも、背中には長い金髪が残っている。
女の姿になった証。俺の身体が、魔法による変化を受け入れた痕跡。
そして今は、フランと交わした小さな約束でもある。
借りものだった姿は消えた。けれど、その名残まで捨てる必要はない。
俺が自分で残すと決めた瞬間から、この金色の髪はもう、事故によって押しつけられたものではなくなっていた。