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木片へ刃を入れた途端、首の後ろで髪紐が僅かに緩んだ。
「……っと」
彫刻刀を置き、背中へ流れかけた金髪を片手で掬い上げる。腰まで伸びた髪を高い位置へ集め直し、紐を二重に回してきつく結ぶと、頭の後ろへ馴染み始めた重みが戻ってきた。
男の身体へ戻ってから、二週間近くが経っている。歩く時に髪が揺れる感覚にも、朝一番に櫛を通す手間にも、ようやく慣れてきた。
竈へ立つ時と作業をする時には、火に触れないよう普段より髪紐を強く締める。風呂を済ませた後は、髪が濡れたまま眠らない。髪を梳く時は、毛先から順に櫛を通す。髪油は一滴か二滴まで。
霊夢と魔理沙、それに紅魔館の女性陣から一斉に叩き込まれた教えは、嫌でも身体へ染みつきつつあった。
ただし、髪を自分で綺麗に纏められるかどうかは、また別の話だ。
今朝も一度目は結び目が斜めになり、二度目は半分ほど取りこぼし、三度目でようやく形になった。鏡越しに見る限り、大きく崩れてはいないように見える。
まぁ……阿求や咲夜さんが見れば、まだ甘いと言われそうだが。
「後で阿求に見つかったら、結び直されるだろうな……」
そんな予感を口にしながら、机へ向き直る。室内には乾いた木の香りが満ちていた。
机の上には、家を建てた時に余った木材を小さく切り分けたものが並んでいる。檜や桜、樫。大きな家具を作るには足りない端材ばかりだが、手のひらに収まる細工物なら十分だった。
その隣に置いてある紙へ目を向ける。紙面を埋めているのは、今年になって世話を受けた者たちの名前だった。
阿求。小鈴。霊夢。魔理沙。慧音さん。妹紅さん。霖之助さん。文さん。紫さん。藍さん。橙。それと紅魔館の皆に、大妖精とチルノ。
建築を手伝ってくれた里の大工たち。日々の暮らしで声を掛けてくれる近所の人々。退魔の依頼を通じて縁を持った者たち。
思いつくたびに書き足していった結果、紙の余白はほとんど残っていない。
「いやぁ……こうしてみると大分多いな……」
最初は、身近な者へ何か礼を渡せればいいと思っていた。
一年の終わりが近づき、自分が幻想郷へ来てからの出来事を振り返ったことが始まりだった。
何も知らない俺を稗田邸へ迎えてくれた者。この世界のことを教えてくれた者。家を建てるために力を貸してくれた者。命を預け、命を預けられた者。料理を囲み、笑い合った者。
一人ずつ思い返していけば、名前は減るどころか増えていく一方だ。
この一年、俺は自分で思っていた以上に、多くの者から何かを受け取っていたらしい。
全員へ高価なものを用意する余裕はない。料理を配ることも考えたが、日持ちがしないうえに、妖怪の中には人間と同じ食事を必要としない者もいると聞く。
ならば、自分で作れるものを。そう考えた末に辿り着いたのが、この小さな木工細工だった。
人間へ渡すものには、簡単な守護の術を刻む。病や怪我を完全に防げるような大層なものではないが、身につけた者へ近づく弱い邪気を散らし、不意の災いを僅かに遠ざけることは出来る。何もないよりは役に立つだろう。
対して、妖怪へ渡すものには術を込めない。
俺が扱うのは、妖や魔を祓うことを基礎とした退魔の霊力だ。守護を目的に調整した術であっても、妖怪の身体や妖力とどう反応するかは分からない。親しい相手への贈り物で、不快な思いや痛みを与えてしまっては本末転倒だ。
故に、妖怪たちへ贈るものは純粋な木彫りの飾りにすることにした。守護の力がない代わりに、一人ずつ形を変えて変化を持たせている。
「これだけあれば足りると思ったんだけどな……」
机の端へ積んだ木片を数える。名前を書き出す前に準備した数では、到底足りそうにない。
もう一度、倉へ端材を探しに行く必要がありそうだ。
彫刻刀を握り直す。今作っているのは、小さな筆を模した細工だった。
細い柄の部分を削り、先端へ穂先の筋を刻む。実際の筆よりもずっと単純な形だが、手のひらへ載せれば、何を象ったものかは分かるはずだ。
これは阿求へと渡すものだ。裏側には、邪気を遠ざけるための術式を刻む予定だった。
病を治すことはできないし、彼女が抱えている運命へ、俺の術で踏み込めるとも思っていない。
……それでも、冷たい風や悪い気配のひとつくらいなら、遠ざけられるかもしれない。
できることが小さいからといって、何もしない理由にはならないだろう。
刃先へ力を込めすぎないよう、少しずつ木を削っていく。乾いた音が、小さく室内へ響く。
木屑が指の間へ溜まり、金色の髪へ白い粉が舞い落ちた。
「創英さん。いらっしゃいますか?」
玄関の向こうから声がしたのは、筆の穂先を整え終えた時だった。
予想していたとおり、阿求だった。
「ああ。少し待ってくれ。今、手が離せなくて」
「急ぎませんので、どうぞそのままで」
返事を聞き、細工へ最後の切れ込みを入れる。
刃を置いてから立ち上がり、玄関へ向かった。
戸を開けると、阿求は小さな風呂敷包みを抱えて立っていた。
「こんにちは、創英さん」
「いらっしゃい。寒かっただろ」
「道中はそれほどでもありません。それより……」
阿求の視線が、俺の頭へ向けられる。予想どおりだ。
「髪、乱れてるか?」
「結び目が少し傾いております」
「うーん、やっぱりかぁ……」
「それから、後ろに一房ほど取り残されていますね」
首の後ろへ手を回す。確かに、指へ触れる髪があった。
「うへぇ……鏡では分からなかったなぁ」
「後ほど直しましょう」
「悪いな阿求。頼むよ」
既に、自分で綺麗に結ぶことへの意地は薄れつつあった。
阿求を居間へ通す。机の上へ広がる木片と道具を見た彼女は、僅かに目を丸くした。
「随分と本格的な作業をなさっていますね」
「今年、世話になった人たちへ渡すものを作ってるんだ」
「皆さんへ、ですか?」
「ああ。最初は数人分のつもりだったんだけどね……」
名前を書き連ねた紙を渡す。
阿求は上から順に目を通し、紙の下まで辿り着いたところで、静かに瞬きをした。
「事と次第によっちゃ、まだ増えるかもしれない」
「既に、これほどいらっしゃるのに?」
「うん。書き忘れてる人がいる気がするんだよ」
「創英さん」
「何だ?」
「これを、お一人で全て作るおつもりですか?」
「うん、そのつもりだけど……」
阿求は紙と机を見比べる。
加工前の木片。削りかけの細工。指先に残る小さな傷。
その全てを確認した後で、軽く息を吐いた。
「相変わらず、加減をご存じありませんね」
「大きなものを作るわけじゃないよ。小さいものなら、数を用意できると思ってさ」
「一つひとつ意匠を変えるおつもりなのでしょう?」
「できる範囲でな」
「術も、ご自身で込めるのですよね?」
「人間に渡す分だけは」
「それを、加減を知らないと申し上げているのです」
呆れた声音ではあるが、本気で止めるつもりはないらしい。
阿求は紙を机へ戻し、完成しかけた筆の細工へ目を留めた。
「これは?」
「ふふ、まだ秘密だっ」
「私へ渡すものですか?」
「………………どうして分かったんだよ」
「筆の形を見れば、候補は限られますから」
「驚かせようと思ったのに……」
「十分、驚いておりますよ」
阿求は木彫りの筆へ指を伸ばしかけ、触れる直前で手を止めた。
「まだ仕上げの途中でしょうから、見るだけにしておきますね」
「別に触っても平気だぞ?」
「完成してから受け取りたいのです」
そう言って微笑む。その笑顔に、少しだけ胸が弾む。
贈る前に正体を知られてしまったことは残念だったが、その表情を見られたのなら……まぁ、悪くはないか。
「妖怪の方へは、術を込めないのですね」
紙の横に記した印を見ながら、阿求が尋ねた。
人間の名には小さな丸。妖怪の名には、何も付けていない。
「俺の霊力は、元々退魔のためのものだからな。守りに調整しても、妖怪へは刺激になるかもしれない」
「贈り物なのに、相手を傷つけてしまっては意味がない、と」
「ああ。ただの飾りになってしまうけど、何も贈らないよりはと思ってな」
「ただの、ではありませんよ」
阿求は机の上に並ぶ木片を見渡す。
「創英さんが、その方を思い浮かべながら彫るのでしょう?」
「そのつもりだよ」
「でしたら、守護の術がなくとも、十分に意味があります」
迷いのない返答だった。
術がない。役に立たない。そんな考えが、少しだけ胸の中にあったのかもしれない。
阿求の言葉を聞くと、握っていた彫刻刀が僅かに軽くなった気がした。
「それで、阿求は何を持ってきたんだ?」
「こちらです」
阿求が風呂敷包みを開く。中には、細い紐と小さく切られた和紙、それに数種類の色紙が入っていた。
「稗田家で余っていた紙です。年末の整理をしておりましたら、半端な大きさのものが多く見つかりまして」
「もしかして、俺が作ってることを知ってたのか?」
「昨日、大工の方から木片を分けてもらっているところをお見かけしましたので。何か細工をなさるのだろうとは思っていました」
「よく見てるなぁ……」
「ふふ。創英さんのことですから」
その笑顔に、少しだけドキッとする。
「こちらの和紙で包み、紐を通せば、持ち歩きやすくなるでしょう。お名前を書く札も用意できます」
「あ、あぁ……助かるよ。でも、そこまで手伝ってもらったら、阿求への贈り物まで阿求自身が作ることにならないか?」
「私は包むだけです。中身は創英さんがお作りになるのでしょう?」
「そりゃあそうだけど……」
「でしたら問題ありませんよ」
阿求は当然のように俺の向かいへ座り、紙を大きさごとに分け始めた。
⸻
それから数日、家の中には木を削る音が絶えなかった。
朝餉を終えれば、髪を高い位置へ纏め直し、机へ向かう。
昼を過ぎる頃には指先へ木屑がこびりつき、肩には細かな粉が積もる。
夕方になれば一度作業を止め、炊事を済ませた後、今度は完成した細工へ術を刻んでいく。
全てを同じ形にはしなかった。
霊夢には、小さな鳥居。魔理沙には、先端を五つに分けた星。慧音さんには、閉じた書物。妹紅さんには、風に揺れる炎。小鈴には、鈴の形を刻んだ細工。
人間へ渡すものの裏には、目立たないよう小さな守護の術式を彫り込んだ。
線が太すぎれば、霊力が一か所へ集まりすぎる。細すぎれば、術が途中で途切れる。
彫刻刀の先へ神経を集中させ、木目に逆らわないよう一本ずつ線を繋ぐ。術式が完成すると、指先から霊力を流し込んだ。
翠緑の光が細い溝を走り、木片の奥へ染みていく。
一つ目を終えれば、次。
次を終えれば、さらにその次。
守護を込めるたび、身体の内側から薄く力が抜けていく。大掛かりな術ではないとはいえ、数が重なれば負担も増える。阿求から休むよう言われた回数は、途中から数えるのをやめた。
妖怪へ渡すものは、術式を刻まない分、形へ手を掛けた。
藍さんには、九つの尾を一つの輪へ見立てた飾り。橙には、小さな猫の足跡。文さんには、風を受けて広がる一枚の羽。チルノには、六角形の雪片。大妖精には、葉を模した小さな羽。
紅魔館の者たちへ作る分は、机の上だけでは置き切れない数になった。
蝙蝠。時計。本。小さな悪魔の翼。龍を思わせる細い曲線。虹色の羽を簡略化した形。ラッシュへは、風を抱く獣の足跡を彫った。
紫さんへ作ったのは、閉じた扇だった。冬眠へ入った今は直接渡せないが、藍さんへ預けておけば、目を覚ました時に受け取ってもらえるだろう。
そんなことを考えるうちに、ちょっとしたアイディアが浮かんだので、扇の端へ小さな蝶を一匹だけ刻み足してみたりもした。
——最も時間が掛かったのは、阿求の筆だった。
小さな形へ細い筋を刻み、柄へ糸を巻いたような模様を入れる。裏側には守護の術式。
ただし、他の者へ渡すものより霊力の流れを穏やかにした。強すぎる守りは、身体の弱い阿求にとって負担となる可能性がある。
冷気や弱い邪気を散らす。それ以上のものではない。それ以上にしてはいけない。
俺の願いを、術へ押しつけてはならない。
分かっている。それでも、最後に霊力を通した時、指先が僅かに震えた。
「……できるだけ長く、持ってくれよ」
木彫りの筆へ、聞こえるはずのない祈りのような言葉を落とす。
淡い翠緑の光が一度だけ明滅し、静かに木の中へと収まった。
⸻
贈り物を配り始めたのは、十二月も半ばを過ぎた頃だった。
最初に向かったのは、博麗神社だ。
冬の山道を越え、境内へ降り立つ。髪を纏めた尾が背中で大きく揺れたが、以前のように顔へ絡みつくことはなかった。
縁側では、霊夢が湯呑みを手に空を眺めていた。その隣では、魔理沙が勝手に煎餅を齧っている。
「霊夢、邪魔するぞ」
「見れば分かるわ」
「おー創英。今日は茶を飲みに来たのか?」
魔理沙が煎餅を噛みながら尋ねる。
「俺が来ると、いつもそれだと思われてないか?」
「違うのか?」
「違わい。今日は渡したいものがあるんだよ」
肩へ掛けていた袋を下ろし、包みを二つ取り出す。
赤い紐のものを霊夢へ。黒い紐のものを魔理沙へ渡した。
「何これ」
「開けていいぞ」
霊夢が和紙を解く。中から出てきた小さな鳥居を見て、僅かに目を見開いた。
魔理沙の手には、木彫りの星が載っている。
「おお、私のは星か」
「魔理沙に渡すなら、それしか思いつかなかった」
「八卦炉でもよかったんだぜ?」
「細かすぎて何個作っても失敗したよ」
「試したのか」
「幾つかな」
魔理沙は星を指先で摘まみ、光へ透かした。
「裏に何か彫ってあるな」
「簡単な守護の術だよ。弱い邪気を散らす程度だけど、持っていれば多少は役に立つだろうと思ってな」
「盗みに入った時、家主から見つからなくなる効果は?」
「ない。むしろ悪事をしたら壊れるようにしてもよかったんだぞ」
「危ないところだったぜ」
「何がよ」
霊夢が呆れながら鳥居を裏返す。細く刻んだ術式を見て、表情が少しだけ真面目になった。
「これ、一つずつ術を込めたの?」
「ああ」
「他にも配るんでしょう?」
「世話になった人たちにはな」
「また馬鹿みたいな数を作ったわね」
「馬鹿みたいとは何だよ」
「褒めてるのよ」
「絶対に違うだろ」
霊夢は小さな鳥居を掌で包む。
「でも、ありがたく受け取っておくわ」
「ああ」
「創英」
「何だ?」
「術を込めた分くらいは、きちんと休みなさいよ」
言い方は素っ気ない。けれど、鳥居を扱う指先は思っていたより丁寧だった。
「分かってるさ」
「本当に?」
「……なるべく、早く休むよ」
「ほら見なさい、やっぱり分かってないじゃないの」
隣で魔理沙が笑いながら、星へ黒い紐を通して帽子の内側へ結びつけていた。
——人里では、阿求と小鈴へ直接渡した。
小鈴は鈴の形をした細工を光へ翳し、何度も礼を言ってくれた。紐を指へ巻きつけて揺らしながら、音がしないことを少しだけ残念がっていたので、後日、小さな金属片を中へ仕込めないか試すことになった。
阿求へ筆を渡したのは、その日の夕暮れだった。
稗田邸の縁側へ並んで座り、庭へ落ちる冬の日を眺めながら、包みを差し出す。
「完成したんだ。受け取ってほしい」
「はい。ここで拝見しても?」
「いいぞ」
阿求は和紙を丁寧に開いた。
掌へ現れた木彫りの筆を見つめ、しばらく言葉を発しなかった。
「……お気に召さなかったか?」
「逆です」
阿求の指が、筆の柄に刻んだ模様をゆっくりとなぞる。
「ここまで細かく作ってくださるとは、思っておりませんでした」
「……阿求には、紙を分けてもらったり、包むのを手伝ってもらったりしたからな」
「それ以前にも、お世話をしたからでしょう?」
「自分で言うのかよ」
「事実ですから」
顔を上げた阿求は、悪戯っぽく笑っていた。
「裏に守りの術がある。強いものじゃないけど、冷えや悪い気を少し遠ざける程度の力はあるはずだ」
「私のために、調整してくださったのですね」
「……分かるのか?」
「他の方へお渡ししたものより、なんだか暖かくて、柔らかく感じられます」
俺が思っているより、阿求は俺の霊力を感じ取っているらしい。
「身体へ負担が掛からないようにした。だから、大したことはできないぞ」
「十分です」
阿求は筆を胸元へと抱えるように、両手で包んだ。
「創英さんが、私のことを考えて作ってくださった。それだけで……私には十分すぎるほどです」
「……そっか」
照れくさくて目を伏せる。こうも真っ直ぐ言われると、どう答えていいのか分からなかった。
そうして、夕日の赤さを言い訳に、俺は視線を彷徨わせた末に庭へ逃がした。
背中で揺れたポニーテールへ、冬の風が冷たく触れる。
「それにしても」
「ん?」
「髪型も、随分と板についてまいりましたね」
「今、その話をするのか?」
「照れていらっしゃるようでしたので、話題を変えてあげようかと」
「……わざと言ってるだろ、それ」
「はて、何のことでしょう?」
阿求は筆を大切そうに袖の内へ仕舞い、何も知らない顔で庭を眺めていた。
⸻
妖怪たちへ贈る時には、少しだけ緊張した。
守護の術がないことを、どう受け取られるか分からなかったからだ。
最初に訪ねたのは、冬の間に紫さんとの連絡役を務めている藍さんだった。
貰った札へ霊力を通すと、空間に細い境界が開く。そこから姿を現した藍さんは、俺の抱えた袋を見て首を傾げた。
「今日は、何か依頼でしょうか」
「いえ。渡したいものがあって」
藍さんと橙へ、それぞれ包みを渡す。橙は猫の足跡を見つけるなり、顔を明るくした。
「私の足?」
「橙を見てると、こういう形が浮かんだんだ」
「藍様、見てください!」
「ああ。よくできているな」
藍さんも、自分の掌に載せた九尾の輪を静かに眺める。
「一つ、お伝えしておきたいことがあります」
「何でしょう」
「妖怪へ渡すものには、守護の術を入れていません」
橙が不思議そうに俺を見上げる。
「人間へ渡すものには入れたの?」
「ああ。俺の術は退魔を基礎にしてるから、妖怪にとっては刺激になるかもしれないんだ。だから、二人のものは本当にただの木彫りで……」
「ただの、ではありませんよ」
藍さんが、俺の言葉を静かに遮った。阿求と同じ言い方だった。
「術の性質を考えたうえで、我々へ害が及ばぬよう分けてくださったのでしょう。その心遣いも含めて、これは立派な贈り物です」
「……そう言ってもらえると、助かります」
「それに、妖怪が人間の退魔師から持ち歩ける品を贈られるというのも、なかなか面白い」
藍さんの尾が、背後で僅かに揺れた。
「大切にいたします」
「私も!」
橙は既に足跡の飾りを首から提げようとしていた。
「それから、こちらを紫さんへ」
閉じた扇の包みを差し出す。藍さんは受け取ると、表面へ刻んだ蝶を見て目を細めた。
「紫様がお目覚めになりましたら、必ずお渡ししましょう」
「お願いします」
「きっと、お喜びになります」
「喜んでくれるといいんですがね」
「ええ。少なくとも、枕元に置いたまま何日も眺める程度には」
「え、そんなに?」
「紫様は、案外こういった贈り物に弱い方ですから」
意外な話を聞いた気がした。
目覚めた紫さんがどのような反応をするのか、少しだけ怖くもあり、楽しみでもあった。
——その後も、袋を抱えて幻想郷を回った。
霖之助さんは、自分が人間用と妖怪用のどちらへ分類されたのかを気にしていた。迷った末に術なしの細工にしたと正直に伝えると、複雑そうな顔で頷いていた。
チルノは雪片の形を見るなり、「あたいの方がもっとすごい形を作れる」と宣言し、その直後には嬉しそうに胸元へ結びつけていた。
大妖精は何度も頭を下げ、チルノが失くさないよう、紐を結び直していた。
家に帰った後、新聞を届けに来た文さんへ羽の細工を受け渡した。文さんは贈り物そのものより「人間と妖怪で術の有無を分けた理由」に興味を示し、記事にしてよいかと尋ねてきた。当然、断った。
「さて——居るんだろ、萃香」
俺はそう言葉にして、虚空へ向けて小さな瓢箪を差し出した。
「——へえ。あたしにもあるのかい?」
薄い霧状の妖気が形を成し、部屋の中に萃香が現れた。
「あの時、忠告してくれただろ。だから、その礼だよ」
「忠告ねぇ」
萃香は片手で細工を摘まみ、歯を見せて笑う。
「言ったそばから、また随分な数を抱えたじゃないか」
「今回は、俺がやりたくてやってるんだ」
「そうかい、そうかい」
彼女はそれ以上からかわず、瓢箪を腰の大きな瓢箪へ結びつけた。
「なら、潰されない程度にやりな。貰った方が、心配しちまうからね」
「……ああ、覚えておくよ」
自分では休んでいるつもりだったが、指先に増えた傷を見れば、強く反論はできなかった。
⸻
最後に紅魔館へ向かった頃には、肩へ掛けた袋も随分と軽くなっていた。
正門へ降りると、美鈴さんがすぐに気づいて手を上げる。
「こんにちは、創英さん。今日は随分と大荷物……ではなさそうですね」
「こんにちは美鈴さん。いやぁ、来る前はもっと重かったんですけどね」
「何か配っていらしたんですか?」
「ええ、今年のお礼です。美鈴さんにもありますよ」
「私にも?」
包みを渡す。美鈴さんの細工には、細長い龍を一筆で描いたような曲線を彫っていた。
「うわあ……これ、創英さんが作ったんですか?」
「形が分かりづらかったら、すみません」
「龍ですよね?」
「おぉ……良かった。蛇って言われたら、作り直すところでした」
「ちゃんと龍に見えますよ!」
美鈴さんは嬉しそうに笑い、帽子へ紐を結びつけた。
「どうです?」
「似合ってます」
「では、今日からここが定位置ですね」
「仕事中に落とさないでくださいよ?」
「大丈夫です。帽子ごと飛ばされない限りは」
「そっちは飛ばされることがあるんですか……?」
少しだけ不安になった。
館内へ入ると、咲夜さんが俺を広間へ案内してくれた。どうやらフランへ来訪が伝わったらしく、広間には既に紅魔館の主だった面々が揃っていた。
「そーえーにぃにー!」
フランが駆け寄り、俺の腰へ抱きつく。
その勢いで背中のポニーテールが大きく揺れた。
「髪、まだ長いね!」
「残すって約束しただろ?」
「ずっとおそろい?」
「ああ。今のところはな」
「今のところじゃなくて、ずっとがいい!」
「っはは。分かった、分かった」
フランの頭を撫でながら、持ってきた袋を卓へ置く。
「今日は、皆に渡したいものがあるんだ」
名前を書いた札を確認し、一人ずつ包みを手渡す。
レミリアお嬢様には蝙蝠。フランには、七色の羽を広げたような飾り。咲夜さんには小さな懐中時計。パチュリーさんには、月と本を重ねた意匠。小悪魔さんには悪魔の翼。ラッシュには、風を抱く獣の足跡。
皆、和紙を開きながら細工を掌へ載せる。
「これを、貴方が全て作ったの?」
レミリアお嬢様が蝙蝠の翼を指でなぞる。
「はい。今年は色々とお世話になりましたから」
「貴方、幻想郷中へ同じことをして回っているのではないでしょうね」
「同じものではありませんよ。形は一人ずつ変えてます」
「そういう意味ではないわよ……」
レミリアお嬢様が額へ手を当てる。
「どうして周囲の者は、誰もこの子を止めなかったのかしら」
「止めましたが、聞いていただけませんでした」
咲夜さんが即座に答えた。
「まだ咲夜さんには相談してなかったでしょう」
「阿求様から連絡を頂きましたので」
「いつの間に……」
幻想郷では、俺の行動が俺の知らないところで共有されているらしい。
「これ、霊力は入ってるの?」
フランが七色の羽を光へ翳す。
「入れてないよ」
「どうして?」
「俺の術は妖怪を祓う力が元になってるからな。フランたちへ渡すものに入れたら、痛かったり、妖力の邪魔をしたりするかもしれない」
「じゃあ、これはただの木?」
「ああ。ただの木だ」
フランの顔を見ながら、言葉を続ける。
「でも、フランに似合うと思って、俺が形を考えて彫った。だから、受け取ってくれたら嬉しいな」
フランは掌の羽と、俺の顔を交互に見た。
やがて、細工を両手で包む。
「これがいい」
「守りがなくても?」
「にぃにが作ってくれたから、これがいいの」
そう言って笑う。胸の奥へ、木を削っていた時の疲れとは違う熱が広がった。
「創英様」
咲夜さんが時計の細工を胸元へ添えながら、静かに尋ねる。
「こちらを作るのに、何日ほど掛けられたのですか?」
「全部で一週間くらいです。阿求にも手伝ってもらいましたけど」
「作業時間は?」
「朝から夕方まで……夜も少し」
「睡眠時間は?」
「ちゃんと寝ましたよ」
「何時間でしょう」
「うーん……五時間くらい?」
咲夜さんの目が細くなる。
「今夜は、夕食を召し上がってからお帰りください。その後、十分にお休みを」
「でも、まだ家でやることが」
「お休みください」
「は、はいっ」
反射的に返事をしてしまう。周囲から小さな笑い声が漏れた。
「ところで、創英」
レミリアお嬢様が蝙蝠の細工を掌で転がしながら、口元へ笑みを浮かべる。
「貴方、聖夜の予定は空いているかしら?」
「聖夜……二十四日ですか?」
「ええ。紅魔館では、外の文化に倣った小さな宴を開くの」
「宴なら、俺が来てもいいんですか?」
「誰が招かないと言ったのよ。貴方は私が認めたフランの義兄よ?」
レミリアお嬢様は椅子へ深く腰を掛け、当然のように顎を上げる。
「これほど手間の掛かった品を受け取っておきながら、返礼もしないのでは、紅魔館の名に傷がつくでしょう?」
「返礼なんて気にしなくても」
「私が気にするのよ」
「にぃにも来るの!?」
フランが俺の袖を掴む。
「聖夜は一緒にいられる?」
「何もなければ、来られると思う」
「絶対に来て!」
「っはは。分かったよ」
答えると、フランは羽の細工を胸元へ抱え、嬉しそうに跳ねた。
「では、当日は少々早めにお越しくださいませ」
咲夜さんが穏やかに告げる。
「早めに、ですか?」
「創英様には、宴の前からお手伝いいただきたいことがございます」
「準備ですか?」
「ええ。私の補佐として、一日ほど執事を務めていただきます」
「……執事? 俺がですか?」
「はい。創英様は炊事と家事に慣れていらっしゃいます。基本的な給仕作法を覚えていただければ、十分に務まるかと」
「待ってください。それ、今決まったんですか?」
「たった今、決定いたしました」
「お嬢様の許可は?」
「許可するわ」
レミリアお嬢様が楽しそうに笑う。
「私へ贈り物を届けた責任だと思って、立派に仕えなさい」
「いや責任て。贈り物をしたら仕事が増えたんですが」
「にぃにが、執事になるの?」
フランの紅い瞳が、大きく輝く。
「いや、まだなるとは――」
「フランドールお嬢様って呼んでくれる?」
「………………咲夜さん」
「当日の呼称も、私が責任を持ってご指導いたします」
逃げ道が塞がれていく。フランは既に、両手を胸元で組みながら頬を赤くしていた。
「にぃにの執事さん……」
「その言い方だと、俺が俺に仕えてるみたいだぞ」
俺の言葉は耳へ届いていないらしい。フランは一人で想像を膨らませ、嬉しそうに身を揺らしていた。
——結局、聖夜の訪問と一日執事の件は、その場で決定してしまった。
皆から貰った礼の言葉よりも、帰り際までフランの期待に満ちた視線の方が、強く記憶へ残っている。
空になった袋を肩へ掛け、紅魔館の門を出る。日が傾いた冬の空には、薄い茜色が広がっていた。
背中のポニーテールが風を受け、長く尾を引く。
作り始めた時には、あれほど多いと思った贈り物も、今はほとんど残っていない。
木片だったものが、一つずつ誰かの掌へ渡っていった。
鳥居。星。筆。羽。扇。蝙蝠。
形は違っても、込めたものは同じだ。
今年、俺をここへ繋ぎ留めてくれたことへの感謝。
幻想郷へ来たばかりの俺は、何も持っていないと思っていた。
家族を失い、居場所を失い、外の世界との繋がりまで断たれた。残ったのは風花と退魔の術、それに守れなかった者への悔いだけだと。
けれど、振り返れば、俺の周囲にはいつの間にか多くの手があった。
食卓へ招く手。空を共に飛ぶ手。叱り、支え、引き上げる手。
小さな木彫りでは、受け取ったもの全てを返せない。
それでも、何も渡さないよりはいい。
手のひらから手のひらへ移った小さな贈り物が、俺の見落としていた縁の形を教えてくれていた。
新居へ戻り、灯りを点ける。机の上には、まだ二つだけ、贈り物の包みへ入れていないものが残っていた。
木ではない。赤と桃色の毛糸。白と黒の毛糸。
細い針と、途中まで形になった柔らかな胴体。
レミリアお嬢様とフランへ渡す、本当の特別な贈り物だ。
「聖夜まで、あと少しか……」
ポニーテールの結び目を締め直し、椅子へ腰を下ろす。
咲夜さんには休むよう言われた。
阿求にも、無理をしないよう念を押されている。
分かっている。だから今日は、少しだけ。
針を持ち、毛糸の輪へ通す。
一目。
また一目。
冬の夜は静かで、柔らかな毛糸が擦れる音だけが、暖炉の火と共に部屋へ残った。