◆◇◆◇◆◇◆◇◆
最後の糸を結び終えた時、窓の外では薄い雪が舞い始めていた。
「これで……よし、できたっと!」
針を置き、凝り固まった肩を回す。暖炉の前に置いた机には、二体の小さなあみぐるみが並んでいた。
一体は、淡い桃色の帽子と衣服を身につけ、背中に七色の羽を持つ少女。もう一体は、薄い水色の髪に紅い衣装を纏い、小さな蝙蝠の翼を広げた少女だ。
フランの羽は毛糸だけで再現するのが難しく、細く削った木片へ色糸を巻きつけて作った。七色の枝を背中へ縫いつける作業には、思っていた以上の時間が掛かっている。
レミリアお嬢様の方も、帽子の形を整えるだけで何度やり直したか分からない。
細部を見れば、左右で僅かに形が違う。縫い目も咲夜さんが作ったものほど綺麗ではないだろう。
それでも、誰を模したものかは一目で分かるはずだ。
「いやぁ、間に合って良かったー……」
今日は十二月二十四日。
紅魔館で聖夜の宴が開かれる日だった。
昨夜も遅くまで針を動かしていたが、咲夜さんと阿求に釘を刺されたことを思い出し、日付が変わる前には一度眠っている。朝餉を済ませてから最後の仕上げへ取り掛かり、どうにか出発までに完成させられた。
二体を別々の和紙で包み、箱へ収める。
レミリアお嬢様へ渡す箱には、フランの人形を。フランへ渡す箱には、レミリアお嬢様の人形を入れた。
箱の蓋を閉じ、赤い紐で結ぶ。それから鏡の前へ移動し、髪を梳かした。腰まで伸びた金髪を高い位置へ集め、黒い髪紐を二重に回す。
一度目は結び目が緩かった。
二度目は右側へ傾いた。
三度目でようやく、鏡の中のポニーテールが真っ直ぐになった。
「よし……今日は一人でできたな」
咲夜さんや阿求が見れば、まだ直されるかもしれない。
だが、少なくとも一房丸ごと結び忘れたりはしていない。
黒いロングコートを羽織り、二つの箱を大きな風呂敷で包む。戸締まりと火元を確認してから玄関を出ると、白い雪が長い金髪の上へ一粒だけ落ちた。
空を見上げる。
厚い雲の隙間から、淡い冬の日差しが人里を照らしている。
「さて……今日は一日執事、かぁ」
口にすると、改めて妙な響きだった。
料理や掃除ならできる。客人へ茶を出すことも、稗田邸で何度も経験している。
だが、紅魔館の執事として仕えるとなれば話は別だ。咲夜さんの求める水準が、普通の手伝いで済むはずはない。
フランは、俺が執事になることを楽しみにしていた。それだけを支えに、霊力の翼を広げる。
「……できるだけ、失敗しないように頑張るかぁ」
我ながら低い志を口にして飛び立つ。最初から完璧に務められるとは思っていなかった。
⸻
紅魔館の正門へ着いたのは、昼よりもかなり早い時刻だった。
門の周囲には常緑樹の枝と赤い布が飾られ、普段よりも華やかな雰囲気になっている。屋根や庭へ積もった雪の白さと、館の紅い壁が鮮やかな対比を作っていた。
「こんにちは、美鈴さん」
「あっ! お待ちしていました、創英さん!」
門前に立っていた美鈴さんが、大きく手を振る。
帽子には、先日渡した龍の木彫りが結びつけられていた。風を受けるたび、細い紐の先で揺れている。
「その飾り、付けてくれてるんですね」
「もちろんです。門番をしている間は、ここが一番目立ちますから」
「落とさないでくださいよ」
「大丈夫ですよ。今日は風も弱いですし」
美鈴さんは俺が抱えた風呂敷へ目を向ける。
「そちらは、聖夜の贈り物ですか?」
「ええ。レミリアお嬢様とフランへ」
「随分と大きな包みですね」
「中身はそんなに大きくないですよ。潰れないよう箱に入れてるだけです」
「何を作ったんですか?」
「それは、渡すまで秘密です」
「残念。少しだけ見せていただこうと思ったのに」
美鈴さんが冗談めかして笑う。
その時、正門の奥から足音が聞こえた。
「創英様。お時間どおりですね」
現れた咲夜さんは、普段のメイド服姿だった。
「おはようございます、咲夜さん。今日はよろしくお願いします」
「こちらこそお願いいたします。まず、そちらのお荷物をお預かりいたしましょう」
「中身は二人への贈り物です。最後に自分で渡したいんですが」
「承知しております。宴が終わるまで、私が責任を持って保管いたします」
風呂敷を咲夜さんへ渡す。箱を受け取った彼女は、その重さと形を確かめるように一度だけ目を細めたが、中身については尋ねなかった。
「それでは参りましょう。お着替えと指導に、少々お時間をいただきます」
「どのくらい掛かりますかね?」
「創英様の習得次第ですね」
「うーん……長くなりそうだな……」
「何か仰いましたか?」
「いえ何も」
俺は背筋を伸ばし、咲夜さんの後へ続いた。
——案内されたのは、客室の一つだった。
室内には衝立と大きな姿見が置かれ、その横には黒い衣服が一式揃えられている。
白いシャツ。紫色のベスト。細身の黒いスラックス。長い裾を持つ黒の上着。白い手袋。
普段の俺の服装と似ているが、仕立ても意匠も明らかに格式が違った。
「うわぁ……いつ用意したんですか、これ」
「先日、創英様に執事をお願いすると決まった後です」
「俺の寸法、測ってませんよね?」
「以前お召しになっていた衣服から、おおよその寸法は把握しております」
女の姿になった時、咲夜さんへ服を借りたことを思い出す。あの時に、元の服も預けていた。
「まさか、あの時に?」
「衣服を整えるため、必要な範囲で確認いたしました」
「必要な範囲……」
「ご心配なく。今日のために無断で測っていたわけではございません」
「そういう心配ではないんですが……まぁいいか」
何を言っても勝てる気がしなかった。
衝立の向こうで着替える。紫色のベストとネクタイは、普段のものより僅かに暗い色合いだった。黒い上着は膝の裏近くまで裾が伸び、肩や腰へ無駄なく馴染む。
最後に白い手袋をはめ、衝立の外へ出た。
咲夜さんが俺を正面から確認する。
「腕を横へ」
「こうですか?」
「はい。そのまま、肩の力を抜いてください」
袖口、襟元、腰回り。
咲夜さんは目と指先で一つずつ確かめ、僅かな皺を整えていく。
「動きにくいところはございませんか?」
「大丈夫です。普段の服より少し重いくらいで」
「給仕を行うには問題ないでしょう」
次に、俺の背後へ回る。
高い位置で纏めたポニーテールへ手が触れた。
「髪も綺麗に結べるようになりましたね」
「今日は三回目で成功しました」
「三回も掛かったのですか?」
「そ、そこは褒めてくれません?」
「以前よりは上達しております」
「……ありがとうございます」
黒い髪紐を解かれ、結び直される。
自分では真っ直ぐになっていると思っていたが、咲夜さんの手が離れると、頭へ掛かる重さが僅かに均等になった。黒い細幅のリボンが結ばれ、長い金髪が背中へ真っ直ぐ流れる。
「よくお似合いですよ、創英様」
「そう言ってもらえるのは嬉しいですけど、何だか落ち着きませんね」
「普段と大きく異なる服装ではございませんが」
「着る理由が違いますから」
退魔師として黒い服を纏うのと、誰かへ仕えるために執事服を纏うのとでは、身体へ乗る重みが違う。
姿見の中には、見慣れた紫色を残しながらも、普段より格式ばった俺が立っていた。
「それでは、指導を始めます」
「はい。お願いします」
「まずは立ち方からです」
「立ち方?」
「創英様」
「はい」
「既に、右手が風花の柄を探しております」
言われて気づく。今日は風花を佩いていない。
それでも右手は無意識に、普段刀がある位置へ添えられていた。
「……癖ですね」
「本日の役目は退魔ではなく給仕です。刀へ手を掛ける姿勢は、客人へ無用な緊張を与えます」
「分かりました」
両手を身体の前へ置く。
「こちらでよろしいでしょうか」
「手を重ねる位置が高すぎます。もう少し下へ」
直す。
「顎を引きすぎです」
直す。
「肩に力が入っております」
息を吐き、力を抜く。
「今度は背が丸くなりました」
「これは……結構難しいですね」
「戦闘時の立ち姿は美しいのですから、できないはずはございません」
「戦う時なら、相手と刀だけ見ていればいいですから」
「給仕では、室内全体をご覧ください」
咲夜さんは俺の周囲を一周し、正面へ戻った。
「お仕えする方の表情、手元、視線。料理と飲み物の残り。室温や灯り。必要とされる前に気づき、必要以上には踏み込まない。それが給仕です」
「必要とされる前に動くのに、踏み込みすぎない?」
「はい」
「……戦う事より難しくないですか?」
「少なくとも、刃を振るえば解決する仕事ではございませんね」
咲夜さんの口元へ、ごく薄い笑みが浮かんだ。
立ち方の次は、歩き方だった。
廊下を音もなく進み、扉の前で止まる。片手で盆を支えながら、もう片方の手で扉を開ける。部屋へ入る前には必ず声を掛け、客人へ背中を向けすぎないよう移動する。
盆へ水を満たした杯を三つ載せ、廊下を往復する。
一度目は歩幅が大きすぎた。
二度目は身体の動きに合わせて、ポニーテールが杯へ触れかけた。
三度目には、髪が盆へ近づかないよう背筋を意識しすぎて、今度は歩みが不自然になった。
「創英様。髪を気になさりすぎです」
「いやぁ、触れたらまずいと思って」
「髪は後ろで纏めております。普段どおりお歩きください」
「普段どおりに歩くと、退魔師の歩き方になるんですよ」
「では、退魔師として身につけた重心だけを残し、警戒を解いてください」
「簡単に言いますね……」
「できると判断して申し上げております」
咲夜さんの言葉は厳しい。
だが、できないことを無理に押しつけているわけではなかった。俺が一度失敗するたび、どこが違うかを具体的に示してくれる。
四度目。杯の水面を見すぎず、前方へ意識を広げる。
足裏へ重心を置き、肩から余分な力を抜く。相手へ近づくためではなく、相手の時間を邪魔しないように歩く。
廊下の端まで進んでも、水はほとんど零れなかった。
「今の感覚です」
「……できてましたか?」
「はい。ようやく給仕らしくなりました」
「ようやく、ですか」
「まだ始めて一刻も経っておりません。十分に早いですよ」
それは褒められているらしい。
続いて、茶の淹れ方と出し方を確認する。
湯の温度や茶葉の量は問題なかった。そこは普段から行っている。
だが、盆を置く位置、茶器の向き、相手の左右どちらから差し出すかとなると、紅魔館独自の決まりがあった。
「取っ手のある茶器は、客人の利き手へ合わせて置いてください」
「全員の利き手を覚えるんですか?」
「当然です」
「紅魔館の皆は?」
「レミリアお嬢様と妹様は右手。パチュリー様は、読書中のみ左手を使われることがございます。小悪魔は右。美鈴は両手をお使いになりますが、基本は右です。ラッシュは――」
淀みなく情報が続く。覚えようと頭の中で整理していると、咲夜さんが言葉を止めた。
「一度で全て覚える必要はございません。本日は私が側におります」
「あはは……それなら安心しました」
「ですが、妹様については覚えてください」
「フランのことは分かってますよ」
「本日の呼称は?」
「フラン――」
咲夜さんの視線が鋭くなる。
「っと……おほん。——フランドールお嬢様」
「よろしいでしょう」
「これ、毎回言うんですか?」
「執事としてお仕えする間は」
「本人が嫌がったら?」
「その時は、妹様のご命令へ従ってください」
「なるほど……」
「ただし、恥ずかしがっておやめになるよう訴えられても、それが本心とは限りません」
「え?」
「創英様なら、ご覧になれば分かるでしょう」
よく分からないまま頷いた。
午前の指導が一段落した頃、咲夜さんは俺を厨房へ連れていった。
厨房では、既に聖夜の宴へ向けた準備が進んでいる。
大きな肉へ香草を擦り込む者。パン生地を捏ねる者。果物を切り分ける者。
普段より多くの妖精メイドが行き交い、鍋や皿の触れ合う音が絶えず響いていた。
「創英様には、こちらをお願いいたします」
咲夜さんが示したのは、野菜と数種類の香草だった。
「煮込み料理へ使います。大きさを揃えて切り分け、香草は茎と葉に分けてください」
「分かりました」
白い手袋を外し、袖を捲る。包丁を手にした瞬間、肩の力が自然に抜けた。
野菜を洗い、皮を剥き、同じ大きさへ切り揃えていく。木のまな板へ刃が当たる規則正しい音は、執事としての歩き方よりずっと馴染み深い。
「お上手ですね」
近くで作業していた妖精メイドが、手元を覗き込む。
「普段から料理はしてるからね」
「本当に執事さんみたいです」
「今日は一応、そのつもりなんだけどね」
「一応では困ります」
背後から咲夜さんの声が飛んできた。
「はい。本日は執事です」
反射的に言い直すと、妖精メイドたちが小さく笑った。
料理の準備は順調だった。
頼まれた作業を終えると、別の場所で皿を並べている妖精メイドへ手を貸す。重い鍋を運び、足りなくなった薪を補充し、火加減の弱い竈へ薪を足した。
しばらくして、肩を軽く叩かれる。
「創英様」
「はい。次は何を――」
「今、貴方へお願いした仕事は、全て終わっております」
「ええ。だから、手が足りなさそうなところを」
「それぞれに担当がございます」
「でも、困っていたので」
「助けること自体は悪くございません」
咲夜さんは、俺の手から薪を受け取った。
「ですが、相手が自分で行うべき役目まで奪ってはなりません。先回りして全てを済ませれば、その方は何を判断し、何を選べばよいのでしょう」
「あー……選ぶ前に、終わってしまいますね」
「ええ。相手の望みを先読みすることと、相手の選択を奪うことは別です」
胸の奥へ、静かに言葉が落ちる。
給仕だけの話ではない気がした。
困っている姿を見れば手を伸ばす。
できることがあれば、自分が引き受ける。
その行動を間違いだとは思わない。
だが——俺が全てを抱えれば、相手が自分で立つ機会まで奪ってしまうことがあるのかもしれない。
「……難しいですね」
「そうですね」
「咲夜さんは、いつもそれを考えてるんですか?」
「私は、お嬢様方へお仕えする者ですから」
咲夜さんは広い厨房を見渡す。
「主の望みを叶えることと、主の意思を自分の都合で決めつけることは違います。仕える者が、自分の献身へ酔ってはならないのです」
淡々とした声音だった。
その言葉が、彼女自身へ向けた戒めでもあるように聞こえた。
「……しかと覚えておきます」
「それで結構です。では、今度はこちらをお手伝いください」
「はい」
差し出された盆を受け取る。
今度は、頼まれた範囲を確かめてから動いた。
⸻
昼を過ぎた頃、咲夜さんから最初の実務を任された。
「妹様のお部屋へ、お茶と菓子をお届けください」
「俺が一人で?」
「私は廊下で拝見しております」
銀の盆には、紅茶と小さな焼き菓子が載っている。
白い陶器の茶器。桃色の皿。
薄く焼かれた生地へ果実の蜜を挟んだ菓子。
落とせば割れる。
失敗すれば、フランの前で咲夜さんからやり直しを命じられるだろう。
「緊張なさっていますか?」
「えっと、少しだけ」
「妹様へお茶をお持ちするだけです」
「いつもと呼び方が違うんですよ」
「そこが最も重要です」
「やっぱりですか……」
盆を両手で支え、大図書館よりもさらに地下へ続く廊下を進む。
咲夜さんは数歩後ろから、音もなくついてきている。
フランの部屋の前へ着く。
一度、深く息を吸った。
扉を三度、軽く叩く。
「——フランドールお嬢様。お茶をお持ちいたしました」
扉の向こうから、何かが落ちる音がした。
「……フランドールお嬢様?」
「ま、待って!」
慌ただしい足音が近づいてくる。
扉が僅かに開き、その隙間からフランの紅い瞳が覗いた。
俺の顔。執事服。白い手袋。高く結んだ金髪。
順番に視線が動き、最後にまた顔へ戻る。
「……にぃに?」
「本日は、フランドールお嬢様へお仕えするよう仰せつかっております」
「もう一回」
「はい?」
「今の、もう一回言って」
後ろから咲夜さんの視線を感じる。
やり直しを求められる理由は分からなかったが、指示どおり繰り返す。
「本日は、フランドールお嬢様へお仕えするよう仰せつかっております」
「うぅ……」
フランは扉の陰へ半分ほど隠れた。
「どうした? 具合が悪いのか?」
「今は崩さずに」
背後から、咲夜さんの小さな声が飛んでくる。
危うく普段の口調へ戻るところだった。
「……おほん。失礼いたしました。お身体の具合が優れませんか、フランドールお嬢様」
「ち、違うの。何でもない……」
何でもないようには見えない。
頬は赤く、羽の結晶が落ち着きなく揺れている。
「お茶を、お部屋へお運びしてもよろしいでしょうか」
「……うん」
扉がゆっくり開かれる。
部屋へ入り、卓へ近づく。
フランが椅子へ座るのを待ち、右側から茶器を置く。取っ手の向きは右手へ。菓子皿を手前へ置き、最後に折り畳んだ布を添える。
「お待たせいたしました、フランドールお嬢様」
「……うん」
「どうぞ、温かいうちにお召し上がりください」
「……うん」
フランは返事をするばかりで、茶器へ手を伸ばさない。
視線だけが俺の顔と服を行き来している。
「お口に合わないものがございましたか?」
「違うよ」
「では、紅茶が熱すぎましたか?」
「それも違う」
「何か他に必要なものが?」
「にぃにが、格好良すぎるの……」
「…………俺が?」
思わず自分の服を見下ろす。
咲夜さんが用意したものだ。仕立てが良いことは分かる。
「服なら、咲夜メイド長が――」
「違うの。にぃにが真面目な顔で、私に『お嬢様』って言うから……変な感じがする」
「……嫌だったか?」
「嫌じゃない!」
フランが勢いよく顔を上げる。
その直後、また頬を赤くして俯いた。
「嫌じゃないけど……胸のところが、きゅうってなる」
病気ではないらしい。
俺にはよく分からない感覚だった。
「呼び方を戻した方がいいですか、フランドールお嬢様」
「戻してほしいけど、戻してほしくない……」
「……どっちなんだ?」
「創英様」
咲夜さんから再び警告が飛ぶ。
「……どちらになさいますか?」
「今日は、そのままがいい」
「かしこまりました、フランドールお嬢様」
「うぅぅ……」
フランは両手で顔を覆い、椅子の上で小さく身を縮めた。
本当に……これで正解なのだろうか?
少し待つと、フランはようやく紅茶へ口をつけた。
俺は椅子の横へ控え、茶が減れば継ぎ足し、菓子皿が取りやすいよう位置を整える。
いつものように隣へ座らないことが落ち着かないのか、フランは何度も俺を見上げた。
「にぃに」
「はい、フランドールお嬢様」
「そこに立ってるの?」
「お仕えする間は、必要な時に動けるよう控えております」
「座らないの?」
「本日は執事ですので」
「私が座ってって命令したら?」
咲夜さんの教えを思い返す。
主の命令へ従う。
だが、給仕の役目を放棄するわけにはいかない。
「お茶をお飲みになる間だけでしたら」
「じゃあ、隣に座って」
「かしこまりました」
椅子を一つ移し、フランの隣へ腰掛ける。
それでも背筋は崩さず、手を膝へ置いた。
フランは横から俺の姿を眺め、少しだけ首を傾げる。
「いつものにぃになのに、いつものにぃにじゃないみたい」
「服と呼び方が違うだけだよ」
「今、戻った」
「うっ……し、失礼いたしました」
「少しくらい、いつものにぃにでもいいよ?」
「本日の役目が終わったら、いつもどおりに戻ります」
「絶対?」
「はい。フランドールお嬢様」
「またそれ言う……」
顔を覆いながらも、口元は嬉しそうに緩んでいる。
……咲夜さんの言っていた意味が、少しだけ分かった気がした。
フランの肩へ、長い金髪が一房掛かっていた。
俺とお揃いにするため、今日は赤いリボンで片側を結んでいる。
乱れた毛先を指で整える。
「髪が少し絡まっています」
「にぃにが直してくれる?」
「よろしければ」
「お願い」
小さな櫛を借り、教わったとおり毛先から梳いていく。
俺が長髪になっていなければ、こうしてフランの髪を手入れすることもなかったかもしれない。
「痛くないか?」
「うん。にぃに、上手になったね」
「皆から教わったからな」
「私も教えたよ」
「寝る時のことと、リボンの選び方をな」
「大事なことだもん」
絡まりを解き、赤いリボンを結び直す。
鏡がなくても、相手の髪なら自分のものよりずっと扱いやすい。
「できました、フランドールお嬢様」
フランが一瞬、動きを止める。
「髪を触った後にそれを言うの、ずるい」
「何が?」
「もう……にぃには分からなくていいっ!」
頬を膨らませたフランは、照れを隠すように焼き菓子を頬張った。
⸻
午後からは、宴の準備と館内の給仕を行った。
パチュリーさんの部屋へ茶を運ぶと、彼女は本から顔を上げ、俺の姿をしばらく眺めた。
「……妙に似合っているわね」
「皆から同じことを言われます」
「その髪も、執事服には悪くないわ」
「切らずに残して、正解だったんでしょうかね」
「それを決めたのは貴方でしょう?」
パチュリーさんは茶器へ手を伸ばす。
「自分で決めたのなら、他人へ正解を求める必要はないわ」
「……そうですね」
「それから、茶葉を少し減らして。今日は香りが強いわ」
「失礼しました。次から調整します」
「ええ。及第点ね」
褒められたのかは分からなかった。
美鈴さんへ軽食を届けた時は、門番小屋の前で大笑いされた。
「あっははは! 創英さん、本当に執事になってる!」
「笑わないでくださいよ」
「すっ、すみませんっ。でも、思っていた以上に似合っていて……!」
「今日は皆様、それしか言いませんね」
「呼び方も変わるんですか?」
「一応、館の方へは敬称を使うようにと」
「では、私のことも?」
「はい。美鈴様」
「うわっ、何だか背中が痒いです!」
「言わせたのは美鈴さんでしょう!?」
「もう一度お願いします」
「嫌ですよ」
咲夜さんが近くにいなかったので、そこだけは普段の口調で押し通した。
小悪魔さんには、盆を受け取る直前に一歩引かれた。
「どうされました?」
「いえ。創英様が本当に執事らしくなっていて、少し緊張してしまいました」
「普段どおりで構いませんよ」
「では、髪を一度ほどいてもよろしいですか?」
「……どうしてそうなるんです?」
「執事服に合わせた別の髪型も試したくて」
「駄目です。今日はこれで統一します」
高い位置のポニーテールを押さえる。
髪型だけは、これ以上玩具にされたくなかった。
レミリアお嬢様への給仕は、さらに気が抜けなかった。
彼女は広間の椅子へ腰掛け、試すような笑みを浮かべている。
「創英。喉が渇いたわ」
「かしこまりました、レミリアお嬢様」
用意していた紅茶を注ぎ、右側へ置く。
「少し温度が高いわね」
「申し訳ございません。お取り替えいたします」
「必要ないわ。では、何か甘いものを」
「厨房へ確認してまいります」
「待ちなさい。やはり塩気のあるものがいいわ」
「承知いたしました」
「それから、膝掛けを」
「ただいま」
「やっぱり暑いから要らないわ」
立ち上がりかけた身体を止める。
レミリアお嬢様の口元が、楽しそうに吊り上がった。
「……試していますね?」
「執事が主の言葉を疑うのかしら」
「主が執事を困らせて楽しんでいるように見えましたので」
「観察力は悪くないわね」
彼女は満足そうに紅茶へ口をつけた。
「けれど、まだ顔に出るわ。咲夜なら、私が何を言っても眉一つ動かさない」
「咲夜さんと比べないでください。初日ですよ」
「初日でここまでできるのなら、伸び代はあるわ」
「次もやる前提ですか?」
「嫌なの?」
「嫌というより、精神が疲れます」
「では、妹が望んだ時だけにしてあげる」
「それ、ほとんど次もありますよね?」
レミリアお嬢様は答えず、愉快そうに笑った。
夕刻が近づくにつれ、館内の灯りが一つずつ増えていく。
広間には大きな常緑樹が運び込まれ、赤や金の布、硝子細工、色とりどりの灯りで飾られていた。パチュリーさんの魔法によって、小さな光の粒が枝の間を雪のように漂っている。
暖炉では薪が弾け、長い食卓には白い布が掛けられた。
銀の食器。硝子の杯。蝋燭。磨かれた皿。
外の世界でも、これほど華やかな聖夜を過ごしたことはない。
俺にとって聖夜は、家族で少しだけ豪華な夕食を囲む日だった。
母さんが料理を作り、父さんが珍しく早く帰り、絢香が贈り物を待ち切れず何度も時計を見ていた。
あの頃の温かさは、もう戻らない。そう思っていた。
だが、目の前には忙しく行き交う者たちがいる。
俺へ声を掛ける者。失敗を笑う者。役目を任せる者。
あの家とは違う。失った家族の代わりでもない。
それでも、ここにも確かに、食卓を囲もうとする者たちがいた。
料理が全て整うと、咲夜さんが俺の前へ立った。
「これより宴を始めます。創英様には、前半の給仕をお願いいたします」
「前半?」
「後半は、創英様も席へお着きください」
「俺は執事役でしょう?」
「本日は客人でもございます」
「でも、給仕を途中で抜けるのは」
「これはお嬢様のご命令です」
横を見る。食卓の上座に座ったレミリアお嬢様が、当然のように頷いていた。
「貴方は今日、働きに来たのではないわ。私たちと聖夜を過ごすために来たのよ」
「一日執事を命じたのは、お嬢様では?」
「それは余興よ」
「余興で朝から訓練されたんですか、俺」
「咲夜が本気にしたのでしょうね」
「お嬢様が許可なさったからです」
咲夜さんが涼しい顔で返す。
「どちらにせよ、後ほどお座りいただきます」
「……分かりました」
与えるために来たはずなのに、また受け取る側へ回される。
少し落ち着かない。けれど、断ればレミリアお嬢様だけでなく、フランも不満を口にするだろう。
「では、始めましょう」
咲夜さんの合図で、広間の扉が閉じられた。
料理を載せた盆を持ち、食卓を回る。
最初はレミリアお嬢様。次にフラン。
パチュリーさん、小悪魔さん、美鈴さん、ラッシュ。
咲夜さんは俺の動きを見ながら、自分も足りない部分を補っている。
大皿から料理を取り分け、杯へ飲み物を注ぐ。
厨房で切った野菜は、香草と共に柔らかく煮込まれていた。焼き上げられた肉からは、食欲を誘う香りが立ち昇っている。
フランの前へ皿を置く。
「お待たせいたしました、フランドールお嬢様」
「……っ」
フランの肩が跳ねた。
「本日の主菜でございます。熱くなっておりますので、お気をつけください」
「う、うん……ありがとう」
「何かございましたら、お申しつけください」
「じゃあ、にぃに」
「はい」
「食べさせて」
手が止まった。
「……今、なんと?」
「お仕えしてくれるんでしょう?」
フランは期待に満ちた目で俺を見上げている。
咲夜さんへ視線を送る。
彼女は否定しなかった。
レミリアお嬢様は杯の陰で笑みを隠している。
「……かしこまりました」
皿から小さく肉を切り、銀の叉へ刺す。
熱を確かめるため少し待ってから、フランの口元へ運ぶ。
「どうぞ、フランドールお嬢様」
「……あーん」
フランが口を開き、肉を頬張る。
ゆっくりと噛み、飲み込んだ後、両頬へ手を当てた。
「美味しい……でも、駄目」
「何が駄目なんだ?」
「創英様」
また咲夜さんから注意が飛ぶ。
「……何がいけませんでしたか、フランドールお嬢様」
「にぃににそんな顔で食べさせてもらったら、胸がずっとばくばくする」
「食べ物が熱すぎたのでは?」
「そうじゃないのっ!」
フランが机へ額をつける。
「もう一口いかがですか?」
「欲しい……」
「では、どうぞ」
「うぅ……にぃにが意地悪になった……」
「俺は頼まれたとおりにしてるだけだよ」
「そこだけ、いつものにぃにに戻らないで!」
難しい注文だった。
「創英」
上座から、レミリアお嬢様の声が掛かる。
「妹ばかりに構うのは、公平ではないわね」
「お嬢様も食べさせてほしいんですか?」
「そこは察しなさい」
「相手の選択を奪うなと、今日教わったばかりなので」
咲夜さんが、僅かに目を伏せる。笑いを堪えているように見えた。
「……口が回るようになったわね」
「給仕も少し慣れてきましたから」
「では、主の望みへ応えてみなさい」
「かしこまりました、レミリアお嬢様」
同じように料理を一口分取り分ける。
レミリアお嬢様はフランほど慌てず、優雅に口へ含んだ。
「悪くないわ」
「ありがとうございます」
「ただし、妹へ向けた時より笑顔が足りない」
「そんなに違いがありましたか?」
「ええ」
「にぃには、私のお兄ちゃんだもん!」
フランが誇らしげに胸を張る。
「私が認めたのだから、半分は紅魔館のものよ」
「人を分けないでください」
食卓へ笑い声が広がった。
前半の給仕を終えると、咲夜さんが俺の手から盆を受け取った。
「創英様。こちらへ」
用意されていた席は、フランの隣だった。
「ここでいいんですか?」
「そこがいい!」
フランが即答する。
「妹様のご希望です」
咲夜さんが椅子を引く。
「ですが、今は俺が客になるんですよね?」
「はい」
「では、自分で座ります」
「本日は最後まで、私の給仕をお受けください」
断る隙もなく、椅子へ案内される。
席へ着くと、目の前へ温かな料理が置かれた。
さっきまで俺が配っていたものだ。
同じ料理なのに、座って眺めると香りも温度も違って感じられる。
「どうぞ、創英様」
「ありがとうございます、咲夜さん」
叉を手に取る。一口食べると、香草の香りと肉の旨味が舌へ広がった。
「……美味しい」
「当然でしょう?」
レミリアお嬢様が満足そうに頷く。
「今夜は、紅魔館が貴方をもてなすのだから」
自分のために作られた料理ではない。
この場にいる全員のための宴だ。
それでも、その輪の中へ自分の席が用意されている。
そのことが、胸の奥へゆっくりと染み込んでいった。
⸻
食事の後には、大きな菓子が運ばれてきた。白い乳脂と赤い果実で飾られ、中央には蝋燭が立てられている。
聖夜の歌らしきものを小悪魔さんと妖精メイドたちが歌い、フランが楽しそうに手を叩いた。美鈴さんは途中から歌詞を間違え、ラッシュに小声で教えられている。
レミリアお嬢様は上機嫌だった。
パチュリーさんも本を閉じ、いつもより長く食卓に残っている。
俺は隣で笑うフランを見ながら、ここへ来て良かったと思った。
菓子を食べ終えた頃、咲夜さんが俺へ目配せをした。
預けていた二つの箱が、彼女の手にある。
俺は席を立ち、箱を受け取った。
「レミリアお嬢様。フラン」
役目は終わっている。
いつもの呼び方へ戻ると、フランが少しだけ名残惜しそうにしながらも顔を上げた。
「木彫りとは別に、二人へ渡したいものがあるんだ」
「まだあるの?」
レミリアお嬢様が片眉を上げる。
「はい。こっちは、二人だけに」
一つ目の箱をレミリアお嬢様へ。
二つ目をフランへ差し出す。
「開けていい?」
「ああ」
二人が赤い紐を解く。
箱の蓋が持ち上がった。
「……これは」
レミリアお嬢様の手が、中へ収められた人形へ伸びる。
桃色の帽子。同じ色の衣服。七色の羽。フランを模した、小さなあみぐるみ。
一方、フランの箱には、紅い服を着たレミリアお嬢様の人形が入っている。
「お姉様だ!」
フランは人形を両手で持ち上げ、目を輝かせた。
「髪も、帽子も、お羽もある!」
「細かいところは少し違うけどな」
「すごい! お姉様、見て!」
「見えているわ」
レミリアお嬢様も、フランの人形を掌へ載せていた。
七色の羽へ指を触れ、縫い目を確かめるようにゆっくりとなぞっている。
「どうして、互いの人形なのかしら」
「二人には、それぞれ相手のものを持っていてほしいと思ったんです」
「私たちは同じ館に住んでいるわよ?」
「ええ。でも、ずっと同じ部屋にいるわけじゃないでしょう」
フランは地下で過ごすことが多い。
レミリアお嬢様には、紅魔館の主としての時間がある。
姉妹だからといって、いつでも隣にいられるわけではない。
「離れている時でも、少しくらい近くに感じられたらいいかなって」
上手く説明できず、頬を掻く。
「俺が勝手に思っただけですけど」
レミリアお嬢様はすぐには答えなかった。
掌の上にいるフランの人形を、赤い瞳で見つめている。
その指が、壊さないよう僅かに力を緩めたのが分かった。
「……縫い目が少し曲がっているわね」
「すみません。慣れてなくて」
「羽の左右も、ほんの僅かに違う」
「何度も作り直したんですが、そこまでは揃えられませんでした」
「けれど」
レミリアお嬢様が人形を胸元へ寄せる。
「この子がフランだということは、よく分かるわ」
「それなら良かったです」
「私のも、ちゃんとお姉様だよ!」
フランはレミリアお嬢様の人形を抱き締め、満面の笑みを浮かべる。
「ありがとう、にぃに!」
椅子から飛び降り、そのまま俺へ抱きついてきた。
腕の中には、姉の人形が大切そうに抱えられている。
「喜んでもらえて良かったよ」
「ずっと大事にする!」
「ああ」
「寝る時も一緒にする!」
「壊さないようにな」
「絶対に壊さないもん」
フランの頭を撫でる。
手のひらへ、柔らかな金髪が触れた。
「創英」
レミリアお嬢様の声へ顔を上げる。
彼女はフランの人形を片腕に抱き、こちらを見つめていた。
「何でしょう?」
「この館で、貴方が妹の兄として振る舞うことを、私は認めたわ」
「はい」
「けれど、貴方が私にまで礼を返す理由はないでしょう?」
「ありますよ」
「何かしら」
「フランの傍にいることを許してくれたのは、お嬢様です」
紅魔館の主が拒めば、俺はフランと今のような関係を築けなかった。
遊びに来ることも。兄として抱き締めることも。今日、同じ食卓を囲むこともなかった。
「それに、俺自身も何度も助けてもらいました」
紅い霧の中で。紅魔館を訪れた時に。住む家が完成した後も。
ここへ来るたび、俺は外から訪れた退魔師ではなく、フランの兄として迎えられている。
「だから、これは俺からの感謝です。受け取ってください」
「……そう」
レミリアお嬢様は短く答えた。
いつものような自信に満ちた笑みはない。
代わりに、少しだけ柔らかな表情で、腕の中の人形を見下ろしている。
「受け取ってあげるわ。紅魔館の主として、ね」
「ありがとうございます」
「ただし、来年はもう少し縫い目を揃えなさい」
「来年も作るんですか?」
「当然でしょう?」
「今、決まったんですか?」
「たった今、決定したわ」
どこかで聞いた言い回しだった。
咲夜さんを見ると、彼女は静かに微笑んでいる。
「承知いたしました、創英様」
「どうして咲夜さんが返事をするんです?」
「来年もお手伝いできることを、楽しみにしておりますので」
「……逃げられそうにないですね」
「にぃに、来年はにぃにのお人形も作って!」
フランが腕の中から顔を上げる。
「俺の?」
「お姉様と、私と、にぃに。三人にするの!」
「自分で自分の人形を作るのは、少し恥ずかしいんだけど」
「だめ……?」
「……来年までに考えておくよ」
「約束ねっ!」
また一つ、先の予定が増えた。
夜が深まり、宴はゆっくりと終わりへ向かった。
レミリアお嬢様の人形は、最後までフランの腕の中にあった。
フランの人形も、レミリアお嬢様の席の傍へ置かれている。
同じ館に住む姉妹が、互いの小さな姿をそれぞれの近くへ置いている。
それを見られただけで、何日も針を動かした意味はあった。
皆が広間を離れた後、咲夜さんが俺を呼び止めた。
「創英様。本日はお疲れさまでございました」
「こちらこそ、色々教えていただいてありがとうございました」
「初めてにしては、十分な働きでした」
「及第点ですか?」
「はい。給仕の作法だけならば、合格と申し上げてよいでしょう」
「だけなら?」
「創英様は、執事として仕えるよりも、兄として妹様の隣へいらっしゃる方が向いております」
咲夜さんが、広間の扉へ視線を向ける。
その向こうには、レミリアお嬢様の人形を抱えたフランが戻ってくるのを待っているのかもしれない。
「俺も、その方が落ち着きます」
「ですが、妹様は本日の執事姿を大変お気に召したようです」
「……次もありますかね?」
「妹様がお望みになれば」
「やっぱり」
「その際は、もう少し高度な作法をお教えいたします」
「今日より難しいんですか?」
「本日は基礎だけですので」
背中へ冷たいものが走った。
「次までに、少し考えさせてください」
「かしこまりました」
咲夜さんの微笑みは、断られるとは思っていない者の顔だった。
⸻
執事服から普段の黒い服へ着替え、紅魔館を出る。
門前まで見送りに来たフランは、レミリアお嬢様の人形を腕へ抱いていた。
「もう帰るの?」
「ああ。明日も朝からやることがあるからな」
「泊まっていけばいいのに」
「今日は家へ帰るよ。また遊びに来る」
「執事さんで?」
「今度は、いつもの兄ちゃんで」
「執事さんもいいけど、いつものにぃにも好き」
「っはは、そっか」
屈んで目線を合わせる。
「その人形、大事にしてくれよ?」
「うん。にぃにも、お姉様も、大事にする」
「ああ」
フランの頭を撫でてから立ち上がる。
「おやすみ、フラン」
「おやすみ、にぃに!」
霊力の翼を広げ、雪の舞う夜空へ浮かび上がる。
眼下の紅魔館は、雪の中でも多くの灯りを灯していた。
紅い窓の向こうに、誰かがいる。
俺を待ち、招き、席を空けてくれる者がいる。
今日、俺は感謝を返すつもりでここへ来た。
執事として仕え、贈り物を渡し、受け取ったものへ少しでも報いようと思っていた。
けれど、結局はまた多くのものを受け取っている。
食卓の席。笑い声。
役目を終えた後に差し出された料理。
来年もここへ来ることを、当然のように含めた約束。
与えたものと、受け取ったもの。
どちらが多いかなど、もう数える意味はないのかもしれない。
手渡した糸は、相手の手から俺の方へも繋がっている。
背中のポニーテールが、冬の風を受けて長く靡く。
俺は一度だけ紅魔館を振り返り、暗い空の向こうに灯るその場所を目へ焼きつけた。
今年の聖夜は、失った家族を思い出すだけの夜ではなかった。
新しく結ばれた縁の中で、誰かと同じ温かさを分け合える夜だった。