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木工細工を配り終えてから数日が経った。聖夜までは、あと僅かだ。
レミリアお嬢様とフランへ渡すあみぐるみも少しずつ形になっており、これならば急がなければ間に合わないというほどでもないだろうという事で、その日は慧音先生に頼まれて寺子屋の物置整理を手伝っていた。
「創英、その箱は外へ出してくれ。中身を確認してから、使えるものと廃棄するものに分ける」
「分かりました」
両腕で木箱を抱え、物置の外へ運ぶ。箱の中へ入っていたのは、使い古された教材ばかりだった。
角の欠けた算木。文字の薄れた木札。割れた筆立て。片方だけになった拍子木。
子供たちが工作に使ったらしい木片や竹細工も、大きな籠へまとめられている。
「こりゃまた、随分ありますねぇ」
「子供が使うものだからな。大事に扱えと言っても、壊れる時は壊れる」
「あー。まぁ、それは仕方ないですね」
「それに、以前の霊石騒ぎで寺子屋も一部被害を受けたからな。その時に壊れたものも、まだ残っている」
「あぁ……」
里での一件を思い出しながら、次の箱へ手を掛ける。蓋を開けたところで、俺の手が止まった。
「……これは」
木箱の中から、長い木製の胴が覗いている。
端の一部が割れ、弦は半分近く切れていた。残っている糸も緩み、表面には細かな傷が走っている。
けれど、その形には覚えがあった。
「琴?」
「ああ」
慧音先生がこちらを見る。
「寺子屋の子供たちに音楽を聞かせる時に使っていたものだ。私が弾くこともあったし、外から演奏できる者を呼んだこともある」
「へぇ……でも、壊れてるんですね」
「うむ。霊石の騒ぎの時にな。修理できないかと思って取っておいたんだが……」
慧音先生が箱の中を覗き込み、苦笑する。
「ここまで壊れていると、新しく作った方が早いと言われてな。物置整理がてら、今日の内に処分するつもりだ」
「処分……」
俺は琴を持ち上げた。
胴の一部は大きく割れている。表板にも亀裂があり、このまま楽器として直すには相当な手間が掛かるだろう。けれど、残っている部材全てが使えないわけではない。
張られていた絹糸。硬い木材。割れていない部分の板。糸を留めていた部材も、加工すれば何かへ転用できそうだった。
指先で一本だけ残っていた弦へ触れる。びん……と、弱く濁った音が鳴る。その音を聞いた瞬間、不意に意識が遠くへ引かれた。
結界の外。幻想郷へ来るよりも、ずっと前。時崎宗家で過ごしていた頃の記憶だった。
宗家へ入ってからの俺の毎日は、今思い返しても随分と無茶だった。
退魔術。剣術。体術。霊力操作。結界術。妖魔や悪霊についての知識。一般教養。礼儀作法。歴史。地理。数学。語学。その他諸々……
短期間の間へ、可能な限り詰め込め。教えられるものは全て教えろ。そんな方針だったのかと疑いたくなるほど、朝から晩まで何かしらを覚えさせられていた。
当時は何度、頭から煙が出ると思ったか分からない。
剣を振った直後に古文書を読まされ、計算問題を解いた後に結界を張り、その後で宗谷師範に地面へ転がされる。スパルタという言葉が裸足で逃げ出すような日々だった。
けれど、不思議と今では良い思い出だったと思えている。辛かったことも、怒られたことも、全部まとめて大事な経験と記憶として胸の内にしまい込んである。
——そんな宗家での生活の中で、珍しく息を抜けた時間があった。
それは、音楽だ。
宗家で受けた教養教育の一環として、琴、三味線、鼓を教えられた。
最初は退魔師に必要なのかと疑問に思ったが、古くから続く家へ出入りする以上、芸事の一つも知らないようでは話にならないと教官に言われた。
やるからには徹底的に。……結局、その三つについては、人前へ出ても困らない程度には弾けるようになるまで仕込まれた。
だが、俺が触れた楽器はそれだけではない。
宗谷師範が教えてくれたのは、ギターだった。
稽古が終わった後、いつも不愛想な師範が妙に年季の入った楽器を取り出した日のことを、今でも覚えている。
『剣ばかり握っていると、手まで剣の形になっちまうぞ』
意味が分からないと言った俺へ、師範はギターを押しつけた。
『たまには人を斬らない指の使い方も覚えろ』
そう言われて、最初に習ったのが弦の押さえ方だった。
なれない動作に指先が痛くなったし、何度鳴らしても音が濁った。
けれどある日、初めて六本の弦が綺麗に響いた。……あの時は、すごく嬉しかったっけ。
ピアノを教えてくれたのは、宗家で俺の世話役を務めてくれた千歳さんだった。
あの人は、俺が夕食の後も勉強しようとすると、よく強引に本を取り上げた。
『頭へ詰め込むばかりでは、いつか溢れてしまいますよ』
そう言って連れていかれた先に、古いピアノがあった。
千歳さんはピアノが得意だそうで、よく弾いて聞かせてくれた。
その内、気持ちよさそうに音を奏でる様子に惹かれた俺は、千歳さんに頼み込んでピアノを教えてもらった。
最初は鍵盤の位置。次に指の置き方。
簡単な曲を覚え、慣れてくれば楽譜の読み方を教えてもらい、最後には自分で好きに弾いてみてと言われた。
それから俺は、誰もいない時間を見つけてはピアノへ向かうようになった。
——そして、オカリナ。
あれだけは、宗家へ出向く前から吹けた。
理由は大したものじゃない。昔やったゲームの主人公が、小さな笛を吹いていた。ただ、それが格好良く見えた……それだけだ。
それがオカリナだという事を知った俺は、父さんに頼み込んで買ってもらい、それからは見様見真似でひたすら練習した。
音が鳴るようになると、よく絢香へ聞かせた。
あいつは俺が何を吹いても喜んだ。
同じ曲を何度繰り返しても、
『お兄ちゃん、もういっかいっ!』
そう言って笑った。
「……懐かしいな」
琴の弦へ触れたまま、声が漏れる。
「どうした?」
慧音先生の声で、意識が寺子屋へ戻る。
「あっ……いえ。昔、楽器を習っていたなぁって思い出したんです」
「ほう? まさか、琴を弾けるのか?」
「はい。琴と三味線と鼓なら、一通り弾けます」
「一通り……という顔ではないな。他には?」
「海外の楽器ですが、ピアノとギター。それから、オカリナですね」
慧音先生が黙った。
「どうかしましたか?」
「いや……」
何とも言えない顔で俺を見る。
「お前は時々、妙なところから新しい技能が出てくるな」
「昔、色々習っていたものでね」
「色々で六種類の楽器を弾けるようにはならないと思うんだが」
半分引いている慧音先生に思わず苦笑しながら、もう一度壊れた琴を見る。
琴として直すのは難しい。だが。
「……慧音先生」
「何だ?」
「これ、捨てるんですよね?」
「ああ。そのつもりだ」
「俺が貰ってもいいですか?」
「お前が? 別に構わないが……直すのか?」
「いえ」
残っている絹糸を指で弾く。短く鳴った音を聞きながら、頭の中へ別の形を浮かべる。
胴。首。指板。駒。弦。昔、宗谷師範が抱えていた楽器を思い描く。
「ちょっと、作ってみたいものができまして」
「その琴から?」
「使えるところだけ貰います。あと、廃棄予定の木材も何本かいただいていいですか?」
「好きに持っていけ。元々捨てるものだからな」
「ありがとうございます」
そう言って琴を抱え直す。
不思議なものだ。数分前まで廃棄物だったものが、今では別の形を持って見えている。
物は試し。上手くいかなければ、その時はその時だ。
「……上手くいくか分かんないけど、作ってみるか」
自分へ言い聞かせるように呟いた。
——
そこから数日間、俺の家では再び木を削る音が響くことになった。
贈り物用の木工細工が終わったと思ったばかりなのに、今度はそれより遥かに大きなものを作っている。
机では足りず、床へ布を敷いて作業場を作った。
まず必要なのは、胴だった。
外の世界で見たアコースティックギターの形を、記憶から引っ張り出す。
「確か……この辺りはもう少し細かったよな……」
木板へ線を引く。左右が同じになるよう寸法を測り、中心線を基準に曲線を描く。
一度離れて見る。
「うーん……何か太いな」
線を消す。そしてもう一度描く。
「ん~、今度は細すぎるか?」
また消す。都合三度目でようやく、それらしい形になった。
表板には比較的薄い木材を使った。裏板と側面には少し硬い木を選ぶ。
端材を組み合わせる都合上、一枚板では作れない。継ぎ目を慎重に削り、可能な限り隙間が出ないよう合わせていく。
接着した後は重石を載せ、乾くまで待つ。
乾いたと思って持ち上げた途端、一度剥がれた。
「うわっ……くっそ、早かったかぁ」
悪態をつきながらやり直す。同じ失敗を避けるために、次は丸一日待った。
胴が形になった後、鑢を掛ける。角張っていた木材が、少しずつ丸みを帯びていく。
何度も掌で撫で、左右の違いを確かめる。削りすぎれば戻せない。やり直しはきかない。
少し削っては止まり、見てはまた慎重に削る。
床へ落ちる木屑が、日に日に増えていった。
首——ネック部分には、最も真っ直ぐで硬い木材を選んだ。
問題は指板だった。ここだけは、見た目が似ていればいいというものではない。
「さて……」
机へ紙を広げる。弦長を決めるべく、先ずは寸法の計算に移った。
基準となる長さから、各音程へ対応する位置を求めていく。宗谷師範から教わった計算方法は覚えていた。
半音ごとに弦の有効長を一定の比率で短くする。十二番目のフレットで、弦長はちょうど半分。そこから逆算すれば、それぞれの位置は求められる。
問題は、外の世界にいた頃なら電子計算機を使えたということだった。
数字を入力すれば後は勝手に計算してくれる。そんな便利なもの、今はどこにもない。
「ふぅ……やるしかないか」
紙へ数字を書き込む。
割る。掛ける。近似値を出す。もう一度計算する。誤差を確認する。
一度目の数字が気になり、最初から計算し直す。そうしている内に日が暮れた。
何とか算出し終えた後、直ぐに作業には取り掛からずに一日寝かせ、翌朝になってからもう一度確認した。
「……よし。計算は完璧だな」
ようやく納得できる値が揃った。
算出した位置を指板へ移し、細い溝を掘っていく。ほんの僅かでも位置がずれれば、押さえた時の音程が狂う。木工細工を作る時以上に神経を使った。
息を止める。刃を入れる。一本。二本。三本。全ての溝を刻み終えた頃には、指先へ薄く汗が滲んでいた。
フレットに使ったのは、廃棄予定だった古い釘だ。
錆びの少ないものを選び、頭と尖った先端を落とす。そのあと長さを合わせ、全体の錆びと切断面を鑢掛けして丸め取る。
指へ引っかからないことを何度も確かめてから、指板の溝へ一本ずつ固定していった。
「おぉ……段々それっぽくなってきたな」
思わず笑みが浮かぶ。
糸巻きは硬い木を削って作った。
金属製の機構ほど細かな調整はできないが、摩擦で弦を固定する方式なら作れた。
駒を取り付ける。そして、琴から外した絹糸を選別する。
傷んでいる部分を除き、使える長さを確保する。
本来のギターと同じ弦ではない。当然、音色も同じにはならないだろう。……それでも。
「鳴ればいいんだ」
六本の弦を慎重に張る。
一気に張力を掛ければ、せっかく作った胴が耐えられない可能性がある。
一本目。少し張る。
二本目。また少し。
全体の張力を均等に上げていく。
木が小さく軋んだ。
「頼む……耐えてくれよ……」
誰へともなく祈りながら、最後の弦を張り終えた。
その状態で、俺はしばらく動けなかった。
——床の上には、一つの楽器が置かれている。外の世界で売られていたものと比べれば、不格好だ。
胴の左右には僅かな差がある。
表面には木材を継ぎ合わせた線も残っている。
鉄のフレットも完全に均一とは言い難い。
けれど……六本の弦に曲線を持つ胴と、長い指板を持つソレは、間違いなく、俺が記憶しているギターの形をしていた。
「……できた」
割れ物を扱うように、そっと両手で持ち上げる。思ったよりも軽い。
椅子へ腰掛け、胴を抱える。左手を指板へ、右手を弦へ。
端材で作ったピックで軽く鳴らしてみる。
——びぃん。
「うーん、この……うぅん」
音は鳴った。だが……なんというか、間の抜けたひどい音だった。
「やっぱり濁ってるなぁ。少し弄ってみるか」
弦の張りを調整する。そして一本ずつ音を丁寧に確かめる。
何度も鳴らし、耳で高さを合わせる。
少し上げる。少し下げる。そんな作業を一通り整え、もう一度鳴らしてみる。
——じゃらん。
今度は、六本の弦が一つの音として重なった。
「おお……」
調和の取れた音に、思わず声が出た。
試しにもう一度鳴らしてみる。
じゃらん。
「すげー……ちゃんと鳴ってるよ」
自分で作っておいて、自分が一番驚いていた。
今度は簡単な和音を押さえて鳴らしてみることにした。
最初のフレットを指で押さえる。次。もう一つ。
奏でられる音程に致命的な狂いはない。
高い位置では僅かに癖があるが、演奏できないほどではなかった。
右手で弦を弾く。その音が、木の胴の中で震える。
琴の絹糸を使っているせいか、記憶にあるギターより音は柔らかい。
金属弦のような明るい鋭さではない。丸く、少し乾いていて、どこか琴にも似た余韻を残してよく響く。
「ふむ……これはこれで悪くないな」
和音を変える。
じゃらん。
もう一度。
じゃららん。
弦を掻き鳴らせば鳴らすほどに、右手が昔覚えた動きを少しずつ思い出していく。
今度は指で弦を弾く。
親指。人差し指。中指。
低い音から、高い音へ。
記憶の奥に眠っていた旋律を、アルペジオと共にゆっくりと辿る。
気づけば、俺は笑っていた。
⸻
「創英! それ、本当にあの琴から作ったのか!?」
数日後。寺子屋へ持っていくと、慧音先生は珍しく目を丸くした。
「琴そのものを使ったのは弦と一部の木材だけです。ほとんどは端材ですよ」
「いや、そういう問題ではないと思うんだが……」
授業を終えた子供たちも集まってくる。
「先生、これ何?」
「琴じゃない!」
「変な形!」
「触っていい?」
「待て待て。一度に来るな」
楽器を抱えたまま、押し寄せる子供たちを片手で制する。
「これはギターっていう、外の世界の楽器だよ」
「ぎたー?」
「ああ。こうやって弦を鳴らすんだ」
指で軽く弾いて見せる。ぽろん……と、柔らかな音が鳴った。
子供たちの声が止まる。
「わぁ! ねぇねぇ、もう一回!」
「弾いて!」
「何か曲を弾いてみて!」
「分かった。分かったから、少し離れてくれ。ぶつかったら壊れちまう」
座る場所を作ってもらい、椅子へ腰掛ける。
高く結んだポニーテールを背中へ払い、ギターを組んだ足の膝へ載せた。
何を弾くか少し考える。子供たちが聞くなら、難しいものよりは明るく簡単な曲の方がいいだろう。
「じゃあ、一曲だけな」
胴を指先でコンコンと軽く打ち鳴らしてリズムを取った後に、左手で和音を押さえる。そして、右手を振り下ろす。
——じゃらん。
教室へ音が広がった。
最初はゆっくりと単純な和音を繰り返す。そこへ、指先で弾いた小さな旋律を重ねる。
琴の弦から生まれた柔らかな音が、木造の寺子屋へよく響いた。
やがて手拍子が聞こえ始める。一人、また一人と、次第に増えてゆく。
俺はその拍子へ合わせ、少しだけ速度を上げた。
指が動く。弦が鳴る。木の胴が胸元で震える。
ただ、音を届ける。それだけのために指を動かし、一曲を終えた。
最後の和音が消えるより早く、子供たちから拍手が上がった。
「もう一回聴きたい!」
「僕も!」
「私も弾きたい!」
「俺も!」
「こらこら、一曲だけって言っただろ?」
苦笑しながら慧音先生を見る。
助けを求めたつもりだったのだが、彼女まで腕を組んで笑っていた。
「子どもとの約束は大事だぞ、創英」
「先生まで子どもらの味方ですか……」
結局、その日は三曲弾くことになった。
——その日の帰り道。
肩から提げた手製のギターが、歩くたび背中へ軽く当たる。
壊れた琴と家を建てた時の端材。それと、捨てられるはずだった釘。それらが、今は一つの楽器になっている。
物も、人も。形が変われば、また違う場所で生きられることがある。
「……名前でも付けるか?」
そこまで考えて、首を横に振った。
⸻
十二月二十四日。紅魔館で聖夜の宴が開かれる日。一日執事としての役目を終え、食事も一段落した頃だった。
談笑のお伴にお菓子を用意することになっているのだが、その菓子の準備には少し時間が掛かるらしく、咲夜さんからも「今は客人としてお過ごしください」と言われている。
フランを見やれば、レミリアお嬢様の傍で楽しそうに話していた。
それなら、と。俺は一人、館内をぶらつくことにした。
——聖夜の紅魔館は、普段よりもずっと明るい。
廊下には色とりどりの飾りが並び、窓の外では雪が静かに降っている。
さっきまで執事として館中を動き回っていたのに、役目を終えて歩くと同じ廊下が別の場所に見える。
「しっかし……ほんとに広いな」
どうやら咲夜さんの能力で、館内の空間を拡張して広く保っているそうだが……何度来ても、全ての部屋を把握できる気がしない。
そうして適当に歩いているうち、見覚えのない扉へ辿り着いた。
少しだけ開いているその向こうから、冷たい空気が流れ込んでいた。
「テラスか?」
扉を押し開く。そこは、想像した通り、庭へ面した広いテラスだった。
屋根があり、外側は大きな硝子窓で囲われている。
冬の庭を眺められるよう作られた場所なのだろうか。
そして、その中央。
「あれは……ピアノか」
一台のグランドピアノが置かれていた。
黒い表面へ、館内の灯りが映り込んでいる。
蓋は閉じられているが、手入れは行き届いているようだった。
おもむろに近づく。指先で、鍵盤の蓋へ触れてみた。
冷たい。けれど、その感触を俺は知っていた。
「懐かしいな」
千歳さんに教わった際に触ったピアノとは違う。宗家にあったものよりも、ずっと立派だ。
それでも白と黒の鍵盤は同じだった。
蓋を開けて椅子を引き、腰を下ろす。指を鍵盤の上へ置いた。
——ぽん、と。一音だけ鳴らす。澄んだ音が、硝子張りのテラスへ広がった。
「よく調律されているな」
もう一音。ぽん……と。
気づけば、右手が簡単な音階を辿っていた。
「幻想郷へ来て半年経つけど……案外、忘れないで覚えてるもんなんだな」
まぁ、当然か。忘れるほど昔のことでもない。
——さて何を弾こうか。そう考えた時、一つの旋律が浮かんだ。
誰かに教わった曲ではない。
宗家にいた頃、誰もいない時間にピアノの前へ座って作った曲だった。
両手を置く。ゆっくりと、最初の音を鳴らした。
低い和音。その上へ、細く高い旋律を一つ。
静かな始まりだった。
明るいとも、暗いとも言えない、曖昧な曲調。
不安定で、どちらへ向かうのか不明瞭な音階。
退魔師というものを初めて知った頃、俺が生きていた日常のすぐ隣に、別の世界が存在していた。
学校へ行く人。仕事へ向かう人。店で買い物をする人。
誰もが当たり前に生きている、その裏側。そこには、人に知られぬまま怪異と戦い続ける者たちがいた。
長い年月を経ても、誰にも知られず、表へ姿を現すことなくひっそりと息を繋ぎ、生き延びてきた一族。
——時崎。それに連なる、退魔師達。
そんなものは、物語の中だけに存在するのだと思っていた。
妖怪。悪霊。呪術。結界。それらが現実にあるなど、考えたこともなかった。
けれど——俺はそこへ足を踏み入れた。
右手の旋律が、少し高くなる。左手の和音が、僅かに不安定な響きを作る。
怖かった。けれど、同時に知りたいと思った。
俺が知らなかった世界。日常と異界。人と、人ならざるもの。
光の中で生きる者と、暗がりで戦う者。そのどちらにも完全には属さない場所。明と暗を分ける線の上。
——『境界』。
俺が初めて立った、中間色の世界。
音が重なる。
不安。期待。恐怖。好奇心。
進むことへ躊躇い、それでも一歩を踏み出した時の、あの高揚感。
あの頃の俺は何も知らなかった。自分がいつか、本当の意味で境界の中へ落ちることも。幻想郷という場所へ辿り着くことも、妖怪と食卓を囲むことも。
吸血鬼の少女から兄と呼ばれることも。人間と妖怪の間で、こんなにも多くの縁を持つことも。
当然知らなかった。……知る由なんて、なかった。
旋律は静かに続く。弾きながら、不意に思う。
あの頃作った曲なのに、今の方がこの曲の意味を理解できる気がした。
俺はずっと、境界の上を歩いていたのかもしれない。
人でありながら妖怪を恐れるだけではなく、退魔師でありながら妖怪と手を取り、外の世界から来て人里へ家を持ち、それでも……どこか一つへ完全に収まることはない。
明でもない。
暗でもない。
けれど——どちらでもないからこそ、見えるものも確かにある。
最後の旋律へ入る。最初にあった不安定な和音が、少しずつ形を変える。
完全な明るさにはならない。暗さも消えない。
ただ、その二つが同じ場所へ存在する。
不安と期待。過去と未来。人と妖。
その間へ、一つの音を落とす。最後の鍵盤を押すように。
余韻が、テラスの中へと広がった。
俺は目を閉じたまま、その音が消えるのを待つ。やがて、完全に静かになった。
「……ふぅ」
息を吐く。ピアノなんて久しぶりに弾いた。
少し指が鈍っていたところもあったように思うが、それでも、思ったよりは覚えていたらしい。
鍵盤から手を離そうとした、その瞬間。
——ぱちぱちぱちぱち。
「……え?」
背後から、拍手が聞こえた。
それも一人ではない。明らかに複数人。
俺はゆっくり振り返る。
「…………」
そこには、レミリアお嬢様にフラン。咲夜さんに、パチュリーさん。小悪魔さん。美鈴さん。ラッシュ。
ついでに、何人かの妖精メイドまでいた。
「……えっと。いつから、そこに?」
「さて、いつからでしょう?」
咲夜さんが微笑む。
「少なくとも、貴方が完全に自分の世界へ入ってしまった後かしら」
レミリアお嬢様が楽しそうに答える。
「声を掛けても、全然気づかなかったわよ」
「うわぁ……恥ずかしいところを見られましたね……」
無意識に頬を掻く。
「にぃにっ!」
フランが駆け寄ってくる。
「すごかった!」
「フラン……ありがとな」
「にぃに、ピアノも弾けるの!?」
「ああ。昔、教えてもらったんだ」
「どうして今まで教えてくれなかったの!?」
「それは……聞かれなかったからな」
「それだけ!?」
「それだけだよ」
フランが信じられないものを見るような顔をする。
「創英」
パチュリーさんがこちらを見る。
「貴方、楽器はいくつ扱えるの?」
「えっと……」
指を折って数える。
「琴、三味線、鼓、ギター、ピアノ、オカリナ」
「六つ?」
「はい」
「そのうち、どれが一番得意なのかしら」
「琴と三味線と鼓は教養としてかなり叩き込まれました。ギターとピアノは、教えてくれた人がいたので。オカリナは昔からです」
「……退魔師の教育とは、そこまで多岐に渡るものなの?」
「多分、うちがおかしかっただけだと思います」
自信を持って答える。パチュリーさんは何とも言えない顔になった。
「先ほどの曲は?」
レミリアお嬢様が尋ねる。
「聞いた覚えがないわ」
「あれは、自分で作った曲です」
一瞬、周囲が静かになった。
「自作?」
「はい」
「曲名は?」
「……『境界』です」
答えると、レミリアお嬢様の赤い瞳が僅かに細くなった。
「貴方らしい題ね」
「そうですか?」
「ええ」
それ以上、彼女は何も言わなかった。
「にぃに!」
フランが俺の腕を掴む。
「もう一回!」
「同じ曲を?」
「違うのも聞きたい!」
「アンコールということですね」
咲夜さんが楽しそうに補足する。
「……皆さんもですか?」
周囲を見る。
美鈴さんが大きく頷く。小悪魔さんも、控えめに頷いた。妖精メイドたちまで期待するようにこちらを見ている。
ラッシュは普段と変わらない顔をしているが、立ち去る気配はなかった。
パチュリーさんに至っては、ストールを肩に掛けていつの間にか椅子まで用意している。
「……分かりました」
再びピアノへ向き直る。
「今度は、自分の曲じゃなくて、知っているものを弾きますよ」
「うんっ!」
フランの弾んだ声が返ってきた。その声を背に、鍵盤へ指を置く。
先ほどの『境界』とは違う。もっと明るく、もっと温かい。
聖夜に似合う、昔から知っている旋律を。
最初の音を鳴らす。
今度は、一人で世界へ潜るためではない。
背後で聞いている誰かへ届けるために。
白と黒の鍵盤の上を、指が軽やかに走り始めた。
——その夜。紅魔館のテラスには、ピアノの音が響いていた。
雪の降る庭へ。紅い館の廊下へ。
そして、音に耳を傾けてくれる者たちのもとへ。
幻想郷の外にいた頃に覚えた音が、幻想郷の中で鳴り響いていた。