◆◇◆◇◆◇◆◇◆
十二月三十一日。
一年の最後の日を迎えた人里は、朝から普段とは少し違う空気に包まれていた。
通りを歩けば、家の前を掃き清める者がいる。店先では年越しのための品が並び、顔を合わせた者同士が「よいお年を」と声を掛け合っていた。寺子屋も今日は休みらしく、子供たちは寒さにも構わず外を元気に走り回っている。
俺も朝から、新居の掃除に追われていた。
「よしっと……こんなもんかな」
居間の真ん中に立ち、周囲を見渡す。
畳は拭いた、炊事場も片づけた、灰は捨てた。
水瓶には新しい水を入れ、食材も腐るものは残していない。
窓や雨戸も確認した。
最後に火鉢の中を覗き、残っていた炭火を完全に落とす。
今日は夜まで家へ戻らない。今日の予定では、これから稗田邸へ阿求を迎えに行くことになっている。その後はそのまま博麗神社へと年末詣へ向かい、帰りには紅魔館へ立ち寄ることになっていた。
帰宅する頃には、日付が変わっている可能性もある。故に、指差し確認しながら要所を点検して回った。
「戸締まり、よし。火元も……よし」
以前なら一度見れば十分だと思っていたが、この家に住み始めてからは、留守にする時ほど慎重になった。
ここは、俺の家だ。
帰ってくる場所があるということは、出掛ける前に守るものが一つ増えるということでもある。
玄関脇へ立て掛けた風花を腰へ佩き、黒いロングコートを羽織る。鏡の前で、最後に髪を確認した。
腰まで伸びた金髪は、いつものように高い位置で一つへ纏めてある。最近では自分で結ぶことにも随分と慣れた。咲夜さんや阿求に直される回数も減っている。
「……これでよしっと」
ポニーテールの結び目を軽く締め直し、玄関を出る。冷たい空気が頬へ触れた。
空はよく晴れている。今夜は、星が綺麗に見えそうだった。
⸻
稗田邸を訪ねると、既に支度を終えた阿求が玄関先で待っていた。
「お待たせ、阿求」
「いいえ。私も今、出てきたところです」
阿求は厚手の着物に羽織を重ね、首元には白い襟巻きを巻いている。手には小さな巾着だけを持ち、いつもの帳面は見当たらなかった。
「今日は記録しないのか?」
「年の瀬くらいは、記録者ではなく一人の参拝客として過ごそうかと思いまして」
「へぇ。珍しいな」
「創英さんは、私を何だと思っていらっしゃるのですか?」
「いつでも帳面を持ってる人」
「もうっ。まぁ、否定はいたしませんが……」
阿求は僅かに頬を膨らませた。
「それで、博麗神社までは歩いて向かうのでしょうか?」
「いや」
俺は空を見上げる。
「今日は飛んで向かおうと思う」
「……飛ぶ?」
「ああ」
阿求の表情が、少しだけ固まった。
「創英さん」
「何だ?」
「私は、飛べませんよ?」
「知ってる」
「では、どのように?」
「俺が運ぶ」
そう答えると、阿求は黙った。
視線が俺の顔から背中の霊力翼を出す位置へ移り、次に腰の風花へ移る。
「……背負うのですか?」
「それも考えたんだけど、空中で身体を固定しづらいだろ」
「では」
「抱えて飛ぶ」
「……か、抱えて?」
「ああ」
阿求の顔が、僅かに赤くなった。
どうしてだろう。寒いからだろうか?
「阿求は身体が丈夫じゃないし、高くは飛ばないようにする。地面から少し離れたくらいの低空を、ゆっくり飛んで進むよ」
「それは……ありがたいのですが……」
「怖いか?」
「そ、そうではありませんっ」
阿求は一度視線を逸らした。
「えっと、その……と、どのように抱えるのでしょう?」
「どうって」
阿求に問われて考える。背負わないとは今言ったばかりだし、脇へ抱えるのは論外だ。……なら。
「こうかな」
阿求の背と膝裏へ腕を回す。
「え——」
そして、そのまま身体を持ち上げた。
「きゃっ……!?」
阿求の身体が腕の中へ収まる。
俗に言う、お姫様抱っこという形だった。
「そそっ、そ、創英さんっ!?」
「うん。この方が安定するな」
「そういう問題ではありませんっ!」
「大丈夫大丈夫。落ちないようにするなら、これが一番だと思うぞ」
「もっと、他に……」
「阿求?」
腕の中にいる阿求を見る。顔が真っ赤だった。
「真っ赤じゃないか。やっぱり具合が悪いのか?」
「ちっ……違いますっ!」
即答だった。
「じゃあ、どうしたんだ?」
「…………もう結構です」
阿求は諦めたように息を吐き、俺の首へ両腕を回した。
「絶対に、落とさないでくださいね?」
「ああ。約束する」
「それと」
「ん?」
「なるべく……人通りの多い場所の上は飛ばないでください……」
「分かった、任せろ」
やはり飛ぶ姿を見られるのが恥ずかしいのだろうか。
まあ、空を飛べない人間が誰かに抱えられている姿を見られるのは、確かに落ち着かないかもしれない。
背中へ霊力を集める。翠緑の光が広がり、翼の形を作る。
「それじゃあ、行くぞ」
「はい」
地面を軽く蹴る。それに合わせて、身体がふわりと浮き上がった。
「っ……」
阿求の腕へ力が入る。
「大丈夫。急には上がらないよ」
「分かっています……分かっていますが、身体が勝手に反応してしまって……」
「まぁ、初めてだもんな」
地面から二、三間ほどの高さで姿勢を安定させる。
普段の飛行からすれば、かなり低い。速度も歩くより少し速い程度に抑えた。
屋根より低い場所を選び、人家を避けながら里の外へ向かう。
最初のうち、阿求は俺の首へしがみついたままだった。だが、しばらく飛んでいると、少しずつ身体から力が抜けていく。
「……思っていたより、静かですね」
「もっと怖いと思ったか?」
「はい。風が強くて、身体が振り回されるのかと」
「阿求を乗せてそんな飛び方はしないさ」
「普段の創英さんなら、どうなんですか?」
「うーん、もっと速いかな」
「どのくらいですか?」
「今の十倍以上かなぁ」
「……絶対に、その速度を出さないでくださいね」
「ははは! 出さないって!」
阿求が胸元で小さく息を吐く。やがて、恐る恐る視線を外へ向けた。
冬の人里が、少しだけ下に見える。
煙突から昇る煙。白く霜の降りた屋根。行き交う人々。
遠くには、夕暮れへ向かい始めた空が広がっていた。
「……綺麗ですね」
「ああ」
「いつも、創英さんはこの景色を見ているのですか?」
「まあな。でも、こんなにゆっくり飛ぶことは珍しいかな」
「では、今日は特別なのですね」
「うん。阿求がいるからな」
「……」
「ん? どうした?」
「何でもありませんっ」
また顔が赤い。やはり冷えているのかもしれない。
「寒いなら、もう少しコートの中へ――」
「だっ、大丈夫ですっ!」
「そうか?」
「はい。むしろ、今は少し暑いくらいというか、なんというか……」
「うん?」
段々声が小さくなる阿求。冬空の中で暑いというのも、なんだか不思議な話だった。
里を出て、森の中を飛び——やがて、博麗神社の鳥居が見えてくる。
「もうじき着くぞ」
「……もうですか?」
「もう少し飛んでいたかったか?」
尋ねると、阿求は少しだけ迷った。
「……また、機会があれば」
「分かった。その時も低く飛ぶよ」
「ええ、楽しみにしていますね」
阿求が微笑む。その顔を見ながら、ゆっくりと境内へ降りた。
⸻
「……随分と派手な登場ね」
地面へ降りた瞬間、呆れた声が聞こえた。
鳥居の傍で箒を手にしていた霊夢が、こちらを見ている。
「よう、霊夢」
「よう、じゃないわよ」
霊夢の視線が、俺の腕の中へ向く。
「いつまで阿求を抱えてるの?」
「あっ」
そうだった。地面へ降りた安心で、そのままにしていた。
「すまん、阿求」
「……もう少し、このままでも構いませんが」
「え?」
「何でもありません。下ろしてください」
言われた通り、慎重に阿求を地面へ下ろす。霊夢の目が細くなった。
「……へぇ~」
「何だよ」
「別にぃ」
「その顔は絶対に何か思ってるだろ」
「創英にもようやく春が来たのかと思っただけよ」
「ん? 今は冬だぞ?」
「はぁ……この朴念仁」
「え? なに、どゆこと?」
霊夢はそれ以上説明せず、深い溜め息を吐いた。
——年末の博麗神社は、普段より少しだけ賑わっていた。
まだ新年を迎える前とはいえ、年内のうちに一年の無事へ感謝を伝えようと訪れる者がいるらしい。
俺と阿求も拝殿の前へ進む。
ちゃんとやるならば、鳥居を潜る段階で先ず一礼するべきだが、今回は空を飛んで直に入ってきたので、賽銭を入れからの作法のみを行う事にした。
二拝、二拍手、一拝。それに合わせて、目を閉じて今年を振り返る。
今年一年、色々なことがあった。
外の世界で退魔師の力に目覚めて、紫さんと面談し、認められてからは一緒に幻想郷へと渡った。
幻想郷へ渡って一番最初に、阿求と出会った。
次に、霊夢と魔理沙。慧音先生に妹紅さん。
フランをはじめとした紅魔館の皆に、紫さんたち八雲家。
他にも、数え切れないほどの人間と妖怪達。
危険なこともあったし、死にかけたこともあった。
自分が何者なのか、分からなくなるような出来事もあった。
それでも今、俺はここにいる。
帰る家がある。待ってくれる者がいる。……それで十分だった。
「……来年も、皆が無事でありますように」
小さく呟き、頭を下げる。
参拝を終えると、霊夢が湯気の立つ湯呑みを二つ持ってきた。
「はい」
「ありがとう」
「ありがとうございます、霊夢さん」
「今年最後だから、今日は無料でいいわ」
「珍しいな」
「どういう意味よ」
「いつもなら賽銭を要求するのに」
「来年から倍取るわよ」
「それは困るな」
温かい茶を飲む。冷えた身体へ、熱がゆっくり広がっていった。
「それにしても」
霊夢が俺の髪へ目を向ける。
「本当に、そのままにしたのね」
「ああ」
高い位置で結んだポニーテールを軽く持ち上げる。
「フランと約束したからな」
「似合ってるけど、手入れは続けてる?」
「ああ、続けてるよ。もう一人で結べるし」
「三回くらいやり直してそうね」
「……今日は二回だ」
「ふっ。上達はまだまだ先の様ね」
隣で阿求が小さく笑う。
「何だよ、阿求」
「いえ。今朝も少しだけ傾いていたことを思い出しまして」
「気付いてたんなら言ってくれよ!」
「直すほどではありませんでしたから」
「そこは教えてくれぇ……」
そんな話をしていると、境内の上空から聞き慣れた声が飛んできた。
「おーい!」
阿求と共に空を見上げる。
箒へ跨った魔理沙が、勢いよく境内へ降りてきた。
「よう。やっぱり来てたか」
「魔理沙も年末詣か?」
「いや。霊夢が何か美味いものを隠してないか確認しに来た」
「帰れ」
霊夢が即答する。
「一年の最後くらい、もう少し友人を大事にしろよな」
「一年中勝手に上がり込んでおいて何言ってんのよ」
魔理沙は気にした様子もなく、俺の隣へ座った。
「で、二人はこの後どうするんだ?」
「紅魔館へ行くつもりだ」
「あん? またか?」
「ああ。年末の挨拶も兼ねて来なさいって言われててな」
「随分気に入られてるな」
「創英さんは、紅魔館の方々から家族に近い扱いを受けていますから」
阿求が答える。
「特にフランからはな」
「義理の兄だったか?」
「ああ」
「じゃあ、そろそろ紅魔館に部屋の一つくらい貰えるんじゃないか?」
「家を建てたばかりなんだから要らないよ」
「二拠点生活ってやつだぜ」
「そういう問題じゃねーよ」
魔理沙は楽しそうに笑う。
「そういえば、聖夜はどうだった?」
霊夢が尋ねる。
「執事をやらされたよ」
「ああ、その話は聞いたわ」
「何で知ってるんだ?」
「咲夜から」
「俺の行動、どこまで共有されてるんだよ……」
「妹様が大変お喜びでした、って」
「それだけならまだいいか」
「執事姿も随分似合っていたそうね」
「そこまで聞いたのかっ!?」
魔理沙が身を乗り出す。
「何だそれ。私も見たかったぜ」
「見せ物じゃないぞ」
「次は写真を撮ってもらえよ」
「絶対に嫌だ」
「文に頼めば一瞬だぜ」
「余計に嫌だっ!」
阿求まで口元を押さえて笑っている。
「阿求も笑うなよ」
「申し訳ありません。ですが、想像してしまって」
「阿求は見てないだろ」
「それが残念です」
妙に真剣な声音だった。
「……え、そんなに?」
「ええ」
そう言い切られると、何となく居心地が悪くなる。
しばらく雑談した後、空の色がさらに濃くなってきた。
「……そろそろ行くか」
「そうですね」
俺が立ち上がると、阿求も続く。
霊夢がこちらを見た。
「また抱えて飛ぶの?」
「ああ」
「へぇ~」
「だから何だよ、その顔」
「何でもないわ~」
霊夢は楽しそうだ。魔理沙もにやにやしている。
「ったく……ほら阿求、行くぞ」
「はい」
再び背と膝裏へ腕を回し、阿求を抱き上げる。
「慣れたな」
「創英さんが、でしょう?」
「阿求もさっきより力が抜けてる」
「……それは」
阿求が小さく咳払いをした。
「創英さんなら、落とさないと分かりましたから」
「ああ。任せてくれ」
「はい」
今度は最初から、阿求の腕が自然に俺の首へ回る。
「じゃあ、良いお年を」
霊夢が手を上げる。
「また来年な」
魔理沙も続く。
「ああ。二人とも、良いお年を」
「良いお年を、霊夢さん、魔理沙さん」
霊力の翼を広げる。
ゆっくりと浮き上がり、俺たちは紅魔館へ向かった。
⸻
日が落ちた頃、紅魔館へ到着した。
正門前には、今日も美鈴さんが立っている。
「あっ! 創英さん! それに阿求さんも!」
俺たちを見つけると、大きく手を振った。
阿求を抱えたまま地面へ降りる。
「こんばんは、美鈴さん」
「こんばんは」
「お二人とも、お待ちしていましたよ」
「俺はともかく、阿求も?」
「はい。レミリア様から、創英さんの大切なお客様として最大限のおもてなしをするよう申しつかっています」
阿求が少しだけ目を見開く。
「そこまでしていただかなくとも」
「お気になさらないでください、お嬢様の決定ですのでっ」
阿求を地面へ下ろす。今度は少し名残惜しそうに腕が離れた気がした。
館内へ入ると、咲夜さんが迎えてくれた。
「お待ちしておりました、創英様。阿求様」
「こんばんは、咲夜さん」
「本日はお招きいただき、ありがとうございます」
阿求が丁寧に頭を下げる。
「こちらこそ、お越しいただき光栄でございます。レミリアお嬢様がお待ちです」
案内された広間には、既にレミリアお嬢様、フラン、パチュリーさん、小悪魔さん、ラッシュが揃っていた。
「にぃに!」
俺を見るなり、フランが駆け寄ってくる。
「よう、フラン」
受け止める。
聖夜に贈ったレミリアお嬢様のあみぐるみが、今日は彼女の腕へ抱えられていた。
「それ、持ってくれてるんだな」
「うん! 今日はお姉様も一緒だよ!」
「本人もそこにいるけどな」
「二人いるからもっといいの!」
理屈はイマイチよく分からないが、気に入ってくれているなら何よりだ。
「よく来たわね、創英」
レミリアお嬢様が椅子からこちらを見る。
「それから阿求。今夜は遠慮せず、紅魔館の客人として過ごしなさい」
「ありがとうございます、レミリアさん」
「貴方は創英の客人でもある。つまり、私たちにとっても大切な客よ」
阿求が俺を見る。
「……創英さんは、随分と大切にされていらっしゃるのですね」
「ありがたいことにな」
フランが俺の腕へ抱きつく。
「にぃには、私の大切なお兄ちゃんだよっ」
「ああ」
優しく、フランの頭を撫でた。
——夕食は、本当に最大級のもてなしだった。
長い食卓には、聖夜とはまた違った料理が並んでいる。
阿求の身体を考慮しているのか、刺激の強いものや重すぎる料理は少ない。
柔らかく煮込まれた肉や野菜、温かなスープ、小さく切り分けられた菓子まで、彼女が無理なく楽しめるよう工夫されていた。
「美味しい……」
阿求がスープを口へ運び、目を細める。
「お気に召したようで何よりです」
咲夜さんが微笑む。
「咲夜さんが考えたんですか?」
「主に阿求様の体調を伺い、食材を調整いたしました」
「いつの間に?」
「創英様が以前、阿求様のお身体についてお話しくださった範囲で」
「俺、そんなに詳しく話したかな」
「必要な情報は覚えております」
さすが咲夜さんだった。
——その後は談笑しながら食事を楽しんだ。
そして、茶を飲みながら談笑していた時だった。
「ところで、創英」
パチュリーさんが声を掛けてきた。
「何ですか?」
「貴方に試してもらいたいものがあるの」
薄く笑みを浮かべているパチュリーさん。なんだか、嫌な予感がした。
「……薬ですか?」
「ええ」
「帰ってもいいですか?」
「まだ何も説明していないでしょう」
「パチュリーさんが俺に薬を試したいと言うと、ろくな記憶がないんですが」
「前回は事故よ」
「その結果、俺は女になったんですよ」
阿求がぴくりと反応した。
フランは嬉しそうに俺を見る。
レミリアお嬢様は、既に何か知っているような笑みを浮かべていた。
「今回の薬は、その性相変成薬を改良したものよ」
「……か、改良?」
「効果時間を限定し、身体への負担を大幅に減らした。作用も安定しているわよ」
「いや、それって、つまり……」
「意図的に、一定時間だけ女性の身体へ変化できるってことよ」
沈黙。
俺はゆっくりと周囲を見る。
パチュリーさん。レミリアお嬢様。フラン。咲夜さん。小悪魔さん。そして、阿求。
全員の視線が、何となく俺へ集まっている気がする。
「あの~……すごーく嫌な予感しかしないんですが~……」
「大丈夫よ。安全性については、既に複数の魔法実験で確認したわ」
「人体では?」
「貴方以外に適合する人間がいないもの」
「結局、俺が最初に試すことになるやつじゃないですか!」
「無理にとは言わないわよ?」
パチュリーさんは淡々と答える。
「効果は数時間。身体への負担は前回より遥かに少ない。時間が経てば自然に元へ戻る。今回は解除薬も用意してある」
「……本当に?」
「本当よ」
「髪は?」
「今の長さのまま。髪型も基本的には維持されると思うわ」
無意識にポニーテールへ触れる。
「女性になっても、この長さのまま?」
「ええ」
そこは少し安心した。これ以上長くなると、管理が本当に大変になる。
「にぃに」
フランが俺の袖を引く。
「もう一回、女の子になってくれるの?」
「まだなるとは言ってないよ?」
「なってほしいな」
「……えっと、どうして?」
「可愛かったから!」
「それ、本人を前にして言うことか?」
「だって本当だもんっ」
フランの目は期待で輝いている。
「創英」
レミリアお嬢様も口を開く。
「前回は事故だったのでしょう?」
「ええ、まぁ……」
「今回は、自分の意思で選べるわ」
「いやぁ、それはそうですけど……」
「嫌なら断ればいい。誰も責めないわ」
その言葉に、少しだけ考える。
前回、俺は何の準備もなく、突然身体を変えられた。
正直な話、結構怖かった。自分が自分ではなくなるような感覚があったからだ。
それでも、今回は違う。どうなるかは既に知っているし、戻れることも保証されている。
何より、自分でどうするかを選べる。
「……本当に安全なんですね?」
「現時点では、危険な兆候は確認していないわ」
「何かあれば、すぐ戻せますか?」
「ええ」
「………………じゃあ」
息を吐く。
「一回だけですよ……?」
その瞬間。
「やったぁー!」
フランが跳ねた。
レミリアお嬢様が満足そうに笑う。
小悪魔さんまで、どこからともなく衣装箱を運び始める。
「待って待って待って!?」
嫌なものが見えた。
「何ですか、その箱!?」
「お着替え用ですっ♪」
「いや聞いてないんですが!?」
「今、お話しましたから」
咲夜さんが涼しい顔で答える。
「俺、薬を試すとは言いましたけど、着替えショーをするとは言ってませんよね!?」
「女の子になった創英さんへ、男物の服を着せ続けるわけにもまいりませんので」
「一着でいいでしょう!?」
「何が似合うか、確認しなければなりません」
「誰が!?」
「私たちが」
レミリアお嬢様が即答した。逃げ道が消えた。
俺は阿求を見る。助けを求めたつもりだった。……だが。
「……私も、少し興味がありますね」
「阿求さぁんっ!?」
「前回は咲夜さんのお洋服を一着お借りしただけでしたから」
「阿求までそっち側に回るのかよ!」
「申し訳ありません、創英さん」
全く申し訳なさそうではなかった。
——
その後、パチュリーさんから再度説明を受け、体調を確認した。
問題なしということで、俺は小さな杯を受け取る。
中には淡い紫色の液体が入っていた。
「味は?」
「前回より改善したわ」
「それは助かります」
一口飲む。
「……甘い。これは葡萄味ですかね」
「ええ。飲みやすくしたの」
「思ったよりも薬っぽくないですね」
「油断すると飲みすぎるから、一回分しか用意していないわ」
「飲みすぎるって……ジュースじゃないんですからそんなことは……あ、美味しい」
ぐいっと全部飲み干す。
数秒経ったが、何も変化は起きない。
「……?」
首を傾げていると、次の瞬間、身体の中心から温かな感覚が広がった。
「んっ……来たな……」
以前のような焼ける感覚ではない。
柔らかな熱が、骨と筋肉を包むように流れていく。
肩幅が狭まる。腕や脚の線が細くなる。視線が僅かに低くなる。
喉の奥が震え、呼吸と共に声の響きが変わっていく。
高い位置で結んだポニーテールはそのままに、細くなった首筋と肩へ長い金髪が揺れることで、印象だけが大きく変わった。
そうして変化を体感すること、数分。
「……終わった?」
口から出た声は、すっかりあの時の少女のものとなった。
鏡を向けられる。そこには、以前と同じ女性の姿になった俺が映っていた。
長い金髪と紫色の瞳はそのままに、顔立ちが丸みを帯びて柔らかくなっている。以前のように見知らぬ相手を見ている感覚は少ない。
「……変な感じだな」
前回変化した時よりも落ち着いている。
この姿が自分であると、知っているからだろうか。
「身体の具合はどうかしら?」
パチュリーさんが尋ねる。
「痛みは何もないです。精神面でも、前より全然楽ですね」
「霊力も安定しているわ」
「成功なんですか?」
「ええ。少なくとも現時点では」
「そこは断言しないんですね」
「研究者だからね」
細かく記録を取るように羽ペンを走らせている。その様子を見て納得するしかなかった。
「そーえー!」
フランが俺の前へ回り込む。
「わぁ、やっぱり可愛いっ!」
「あ、ありがとうって言えばいいのか?」
「うん!」
「えっと、じゃあ……ありがとう」
「髪もおそろいのままだね!」
「ああ」
ポニーテールを揺らす。
「これは、このままらしい」
「よかった!」
フランは嬉しそうに俺の髪へ触れた。
「では」
咲夜さんが一歩前へ出る。
「お着替えを始めましょう」
「やっぱりやるんですか……?」
「もちろんです」
「一着だけじゃ駄目です?」
「駄目です」
「どうして?」
「皆様が楽しみにしていらっしゃいますので」
振り返ると、そこにはお嬢様達がいた。
フランに、小悪魔さんに、阿求。誰も目を逸らさない。
「……俺の精神は誰が守ってくれるんですか?」
「それは自分で守りなさいな」
パチュリーさんにまで切り捨てられた。
⸻
一着目。俺は淡い青色のワンピースを着せられた。
「……どうですか?」
衝立の向こうから出る。フランが拍手する。
「かわいい!」
阿求も、僅かに目を見開いている。
「よくお似合いです」
「ありがとう。でも、恥ずかしいな……」
「まだ一着目ですよ」
「咲夜さぁん……今すぐ終わりにしませんか……?」
俺の発言を華麗にスルーし、二着目に入る。
今度は、濃紺のロングドレスだ。
「お姉様みたい!」
「レミリアお嬢様とは全然違うだろ」
「雰囲気だよ!」
「そ、そうか……?」
レミリアお嬢様は顎へ手を当て、真剣に俺を観察している。
「悪くないけれど、少し大人しすぎるわね」
「お嬢様は審査員なんですか?」
続けてどんどん行ってみようのノリで、三着目。
白と紫を基調にした、少し幻想郷らしい和洋折衷の衣装。
「これは……動きやすいな」
「創英様には、こういった服装の方が馴染みますね」
咲夜さんが頷く。
「これで終わりませんか?」
「いいえ」
「ですよねー……」
そろそろ諦めが入ってきた、四着目。
フランが選んだ、赤いリボンの多い服。
「フラン」
「なぁに?」
「これ、リボンが多すぎないか?」
「かわいいよ!」
「俺、今いくつ結ばれてる?」
「七つ!」
「いや多いよね?」
もうどうにでもなぁ~れ! な、五着目。
「……」
衝立の中で、俺は服を見た。
白。濃紺。フリル。……見覚えがありすぎる。あまりにもあり過ぎる。
「咲夜さん?」
「何でしょうか」
「これ」
「はい」
「……メイド服ですよね?」
「はい」
「しかも、咲夜さんと同じ形ですよね?」
「創英様用に、寸法は調整しております」
「そういう問題じゃないですっ!」
「最後ですので」
「最後だからって、一番酷いのを持ってきましたね!?」
衝立の外から、フランの声が聞こえる。
「そーえー、早くー!」
「フランは絶対面白がってるだろ!」
「楽しみにしてるだけだよ!」
「それはほぼ同じ意味だ!」
逃げたい。超逃げたい。
だが、俺の普段着は既に咲夜さんの手元にある。
薬の効果が切れるまでは戻れないだろう。
そして何より。
「創英さん」
阿求の声がした。
「……何だ?」
「私、見てみたいです」
静かな声だった。静かなのに、今日聞いた声の中で一番強い意志を感じた。
「阿求まで……」
「一度だけですから」
「皆それを言うんだよ……」
俺は——潔く諦めた。
数分後、衝立から出る。
「……」
誰も喋らない。
「何か言ってくれよ」
白いブラウスに濃紺のエプロンドレス。白いフリルに、メイド用のカチューシャ。
髪型は、今回はポニーテールから、ふわりとした髪の拡がりを見せるために、背中辺りで二か所ほどに分けて緑色のリボンで結んでいる。
咲夜さんと並べば、体格こそ違うが同じ館のメイドに見えることだろう。
……おれは沈黙に耐えられず、阿求を見る。
「阿求?」
「……」
「阿求さん?」
「……」
反応がない。目を開いたまま、完全に固まっている。
「だ、大丈夫か?」
「創英様」
咲夜さんが俺へ小さな盆を渡す。
その上には、紅茶が載っていた。
「こちらを、阿求様へ」
「え、今ですか?」
「はい、今です」
「絶対わざとですよね?」
「お客様をおもてなしするのは、メイドの務めですよ」
「俺、本職じゃないんですけど……!」
「聖夜には執事を務められたでしょう?」
「あれは男の姿でしたし!」
「問題ございません。要領は執事の時と然程変わりませんので。」
「俺には大問題なんですがっ!」
周囲から笑い声が上がった。
仕方ないと小さく呟くと、意を決して盆を持つ。そして。阿求の前へ進んだ。
彼女はまだ固まっている。
「おほん……阿求」
「はっ、はいっ!?」
肩が跳ねた。
「お茶だ」
「はい」
「どうぞ」
「……」
咲夜さんを見る。
視線だけで、何かを促された。
「…………阿求お嬢様」
努めて冷静さを保とうとするも、言った瞬間に自分の顔へ熱が集まった。
「お茶を、お持ちいたしました」
そうしてチラリと阿求を見ると、阿求の顔が一気に赤くなった。
「……っ」
「……お嬢様?」
「だ、大丈夫ですっ」
「全然、大丈夫そうには見えませんが」
「大丈夫ですから! もう一度、もう一度だけお願いしますっ!」
「何故っ!?」
「記憶に刻みたいのでっ!」
「それ、絶対忘れる気ないだろ!」
「一生忘れませんっ!」
「やめてくれぇ!」
フランが腹を抱えて笑い始めた。レミリアお嬢様も楽しそうだ。
小悪魔さんなんかは、涙を浮かべながら笑いを堪えている。ラッシュですら、僅かに口元が緩んでいた。
「創英様」
咲夜さんが俺の背後から囁く。
「お客様がお待ちですよ」
「ぐぬぬ……覚えててくださいよ」
「はて、何をでしょうか?」
絶対分かっててやってんな……くそぉ。
もうここまで来ればヤケだと、幾度目か分からないながらも腹を括った俺は、改めて姿勢を正した。
「阿求お嬢様」
「……はい」
「お茶をお持ちいたしました。どうぞ、ごゆっくりお召し上がりくださいませ」
今度こそ、阿求が両手で顔を覆った。
「……もう、無理ですぅ……」
「俺もとっくのとうに無理だよ!」
広間が笑いに包まれた。
⸻
騒ぎが落ち着いた頃には、随分と時間が経っていた。
「そろそろ帰るか」
「そうですね」
阿求が答える。……問題は。
「まだ戻ってないんですが」
俺は自分の身体を見下ろす。
服は既に、咲夜さんが用意してくれたという俺専用の女性用私服へと着替え直していた。
白色のブラウスと紫色のニットベストに、黒のスラックス。その上から、自分の黒いロングコートを羽織っている。
様相から見れば、普段の着こなしとそう変わりはない。
髪は、先ほどメイド服を着た時のままだ。こちらの方が、何となく印象がよく見えた。
「薬効は、あと二時間ほどね」
パチュリーさんが答える。
「解除薬を使えばすぐ戻せるけれど」
「身体に負担は?」
「僅かにはあるわ。自然に戻る方が安全ね」
「なら、このまま帰ります」
「創英さん?」
阿求が俺を見る。
「どうせ稗田邸までだろ。あと二時間なら、帰ってる途中か、着いた頃には戻るよ」
「そうですが……」
「何か問題ある?」
「……いいえ」
阿求は少し考えた後、首を横へ振った。
なぜか、少しだけ嬉しそうに見えた。
「にぃに!」
帰り際、フランが抱きついてくる。
「今日は女の子のまま帰るの?」
「ああ。途中で戻るかもしれないけどな」
「また今度もなってくれる?」
「そっ……それは、考えさせてくれ」
「えー?」
「今日だけで精神が大分削られたんだよ」
「でも楽しかったよ?」
「フランはな」
「阿求も楽しそうだったよ」
「そうなのか?」
阿求を見る。そっと、視線を逸らされた。
「……何でしょう?」
本当に、楽しんでいたらしい。まぁ楽しんでもらえていたのならよかったよ。
——俺と阿求は、皆の方へと向き直ると、年末の挨拶をした。
「今年は、お世話になりました」
「来年も、よろしくお願いいたします」
阿求も一緒になって頭を下げる。それを見たレミリアお嬢様が笑う。
「来年も、存分に世話を焼かせてもらうわ」
「そんなに頼りないですかね?」
「そういうわけではないけれど、貴方は放っておくとすぐ無茶をするでしょう?」
「うぐっ……否定できない……」
「言われたくないのなら、さっさとその癖、直すことね。では、よい年を迎えなさいな」
「はい。良いお年を」
「良いお年を、皆様」
そうして、紅魔館を後にした。
⸻
稗田邸へ戻る頃には、夜も随分深くなっていた。
今回は阿求を抱えて飛ばなかった。今の身体では、飛行の感覚が僅かに違うからだ。なので、安全を優先して二人で歩いて帰ることにした。
月明かりの下。人里へ続く道を、並んで歩く。
阿求はいつもより、少しだけ俺の近くにいる。肩が触れそうな距離だった。
「阿求」
「はい?」
「なんか、さっきから近くないか?」
「そうでしょうか」
「いつもより近い気がするけど……」
「今は、同じ女性同士ですから」
「えっと、中身は俺だけど?」
「分かっています」
「じゃあ、変わらなくないか?」
「……変わります」
「何が?」
「気分が、です」
よく分からない。分からないが、阿求はそれ以上説明しなかったため、知る機会は訪れなかった。
そうして他愛ない会話を繰り返しているうちに、稗田邸へと辿り着いた。今日と明日までは、阿求と一緒に過ごすことになっていた。
久々にやってきた稗田邸の居間には火鉢が置かれ、温かな茶と軽い夜食が用意されている。
俺と阿求は隣り合って座り、大きな毛布を一枚、二人で身を寄せ合って膝へ掛けた。
「……思ったよりも近いな」
「嫌ですか?」
「いいや」
正直に答える。
「嫌ではないよ」
「でしたら、よいではありませんか」
阿求が少しだけ肩を寄せる。
柔らかな髪が、俺の肩へ触れた。
身体は女性。けれど、心はいつもと変わらない。……そのはずなのに、阿求が普段より近くにいるだけで、何となく落ち着かない。
「今年は、色々ありましたね」
阿求が呟く。
「ああ」
「幻想郷へいらしたのも、今年です」
「そうだったな。七月の頭辺りから、だったか」
「ええ。……創英さんにとっては、長い一年でしたか?」
「そりゃあ……長かったなぁ」
迷わず答える。
「でも、短くも感じてる」
「矛盾していますね」
「色々ありすぎたんだよ。ほんと、あっと言う間だった」
思わず笑う。
幻想郷へやってきて、阿求と出会った日。
妖怪を恐れながら、それでも向き合おうとした日。
里の子どもたちを背に、皆を守るべく自ら強大な敵に立ち向かった日。
異変解決のため、初めて紅魔館へ入った日。
美鈴さんとラッシュとの弾幕決闘の末に、フランと出会った日。
家を建てて、宴を開いた日。
鬼と話した日。女になった日。
贈り物を作った日。そして、聖夜の宴にお呼ばれした日。
そして……今日。
「本当に……色々あったな」
「後悔していますか?」
阿求の声が、少しだけ静かになる。
「何を?」
「幻想郷へ来たことを、です」
答えは、すぐに出た。
「まさか」
阿求を見る。
「来たばかりの頃は、帰りたいと思うこともあった」
「……はい」
「外には、俺の家があった。絢香たちとの思い出もあった。宗家の人たちもいた」
今でも忘れていない。忘れるつもりもない。
「でも」
火鉢の中で、炭が小さく弾ける。
「ここへ来なかったら、阿求に出会えなかった」
阿求の目が、僅かに見開かれる。
「霊夢や魔理沙、慧音先生、妹紅さん、紫さんたち、紅魔館の皆にも」
「……」
「フランにも、会えなかった」
少しだけ笑う。
「だから、来て良かったと思ってる」
「そうですか」
「ああ」
「……それなら、よかったです」
阿求の肩が、さらに少しだけ近づく。
俺たちは、そのまましばらく何も話さなかった。
不思議と……沈黙は、気まずくならなかった。
火鉢の中で火が燻る音と、外から聞こえる風の音。
遠く、人里のどこかで響く笑い声。
年を越す準備をしている誰かの足音。
やがて。
身体の奥に、微かな熱を自覚した。
「あ」
「創英さん?」
「薬が切れ始めたかも」
指を見る。しかし、戻る気配はない。
「おかしいな。戻るかと思ったけど……」
そこまで言いかけて、俺はこの胸の熱が何なのかを悟る。
阿求が俺を見る。その顔を見て、更に確信を深めた。
ああ……俺は、いつの間にか、阿求の事を——。
「どうかしましたか?」
「……いや」
目を伏せ、小さく返事を返す。今この瞬間だけは、まともに顔を見れる気がしなかった。
「それにしても……もう少しで戻ってしまうのですね。少しだけ残念です」
チラッと覗き見るように阿求の様子を窺えば、僅かに名残惜しそうな顔をしていた。
「……なんでだ?」
「もう少し、同性の創英さんとお話ししてみたいと思いまして」
「男に戻ってから話したって別にいいだろ」
「それは、そうなのですが」
阿求は笑う。
「不思議と、少しだけ距離を近くしても許される気がしたのです」
「っ……」
そんな阿求の言葉ひとつひとつに、一々反応してしまう。
「……別に、同性じゃなくったっていいだろ?」
……そんな、小さな勇気と共に絞り出した言葉に、阿求が固まる。
「え?」
「……い、いや! 別に、男に戻ったからって、急に離れなくてもいいと思うけどなーって思っただけだよ! あはは……!」
「……」
「あ、阿求?」
「創英さんは、本当に……」
阿求が顔を伏せる。
「な、何だよ」
「何でもありませんっ」
耳が、赤かった。そして、そのまま阿求は離れない。
肩と肩が触れる。ひとつの毛布。何も変わらない距離。
それらの、意味するところは——。
——ごぉん。
遠くから、鐘の音が響いた。
一つ。また一つ。
「あ」
阿求が顔を上げる。
「もうすぐですね」
「あ、ああ……」
今年が終わる。新しい年が来る。
「創英さん」
「ん?」
「今年、私と出会ってくださって、ありがとうございました」
胸の奥が、温かくなる。
「……それは、俺の台詞だよ」
「そうなのですか?」
「ああ」
俺は阿求を見る。
「幻想郷に来たばかりの俺を、最初に受け入れてくれたのは阿求だから」
「私は、記録者として興味を持っただけですよ」
「それでもだよ」
あの日。右も左も分からなかった俺を、阿求は家へ招いた。
話を聞いてくれた。この世界を教えてくれた。
何度も叱ってくれて、何度だって心配してくれて、それで……今も、こうして隣にいる。
「ありがとう、阿求」
「……はい」
阿求が微笑む。
「来年も、よろしくお願いします」
「ああ。こちらこそ」
鐘の音が、夜へ広がる。
新しい一年が始まる、その直前。
俺たちは、一つの毛布の中で肩を寄せたまま夜を待った。
……激動の一年だった。
失ったものを抱えたまま、知らない世界へやってきた。
けれど、そこでまた多くのものを拾った。
家。仲間。家族と呼べる者。そして——縁。
俺はきっと、これからも無茶をするだろう。
そして、その度に阿求に叱られる。
霊夢と魔理沙にも呆れられるかもしれない。
フランにたくさん振り回されて、知らない人間や妖怪、知らない異変とも、これから出会うことだろう。
……それでも。今はもう、何も持っていないとは思わない。
隣にいる阿求の体温を感じながら、俺は静かに目を閉じる。
遠くで、ごん……と。最後の鐘が鳴った。そして。
「明けましておめでとうございます、創英さん」
「ああ」
目を開く。
「明けましておめでとう、阿求」
新しい一年が、始まるのだった。