◆◇◆◇◆◇◆◇◆
新しい年を迎えて最初に目へ映ったのは、薄い朝日に照らされた阿求の横顔だった。
「……ん」
ぼんやりと目を開く。
障子越しに差し込む冬の光はまだ弱く、部屋の中には夜の名残が残っている。火鉢の炭もほとんど燃え尽き、白くなった表面の奥で僅かな赤が息づいていた。
身体を起こそうとして、肩へ掛かる重みに気づく。見ると、阿求が俺へ寄りかかったまま眠っていた。
「…………」
昨夜……いや、年が変わったんだから、もう去年のことか。
年が変わる直前まで、俺たちは同じ毛布へ入り、肩を寄せたまま話をしていた。
その最中、俺は自分の中にずっとあった感情の正体へ、ようやく気づいた。
阿求の声が好きだった。笑ってくれると嬉しかった。
俺のために何かをしてくれれば胸が弾んだし、他の誰かより近くにいることを、いつの間にか当たり前のように望んでいた。
そして、俺は――。
「……」
眠っている阿求の顔を見ると、胸の奥へ僅かな熱が灯った。
『……別に、同性じゃなくったっていいだろ?』
昨夜、自分が口走った言葉を思い出した瞬間、今度は顔まで熱くなる。
「何言ってんだろうな、俺……」
小声で呟く。あれは、つまり。
……男の姿へ戻った後も、阿求には今と同じ距離にいてほしいと、自分から言ったようなものではないか?
そんな事実へ今さらながら気づいた。
いや、昨日の時点でも薄々分かっていたからこそ、あの後まともに阿求の顔を見られなくなったわけなのだが。
「……参ったなぁ」
以前と何も変わらないはずなのに、一度自覚しただけで全部が違って見える。
阿求が俺に寄りかかっている。たったそれだけのことなのに、肩へ伝わる温度まで妙に意識してしまう。
……もっとも。今の俺は、まだ女の身体なのだが。
「……結局、戻らなかったな」
毛布の中から自分の手を出す。
細い指。小さくなった掌。声も高いままで、身体の感覚も完全に女性のものだった。
パチュリーさんの説明を信じるなら、とっくに薬効が切れていてもおかしくない。
昨夜、身体の奥へ熱を感じた時にはようやく元に戻るのだと思ったが……あの熱は、どうやら薬とは何の関係もなかったらしい。
「…………」
再び阿求を見る。また、胸の奥が騒がしくなる。
「ダメだダメだ。朝から考えるなっ」
「……創英さん?」
「うわぁ!?」
肩へ預けられていた重みが動いた。
阿求がゆっくりと顔を上げる。
「あふ……おはようございます……」
「あ、ああ。おはよう」
「……どうかなさいましたか?」
「いや、何でもないっ」
「そうですか?」
寝起きの阿求は、普段より少しだけぼんやりとしていて、目元も柔らかい。髪も僅かに乱れ、いつもより無防備な姿を晒している。
そんな姿へ、以前よりも目が行ってしまう。
「創英さん?」
「……え?」
「先ほどから、私の顔に何か?」
「な、何もない!」
思わず声が裏返った。阿求が瞬きをする。
「そうですか?」
「あ、ああ」
「ですが、随分と慌てていらっしゃるように見えますが」
「そ、それはほら、寝起きだからだよ」
「創英さんは、寝起きになると人の顔を凝視なさるのですか?」
「いや……しないけど……」
「では、やはり何か――」
「阿求!」
「はい?」
「……朝餉にしよう。な?」
強引に話を切る。
阿求は俺の顔をじっと見つめた後、ふっと笑った。
「はい。そういたしましょうか」
……絶対に誤魔化せてないなぁ、これ。
新年最初の朝から、先が思いやられた。
——
朝餉を済ませ、初詣へ向かう支度を整える。
昨夜、紅魔館から借りた服をそのまま着直した。
黒のスラックスと茶色のローファー。白色のブラウスと紫色のニットベストに、その上からいつもの自分の黒いロングコートを羽織っている。
髪はいつものように、高い位置でポニーテールへ纏めた。
あの事故以来、手入れのたびに何度も結ってきた形だからか、女性の身体になってもこの髪型だけは不思議と落ち着く。
鏡へ映る姿は、どう見ても少女だ。
けれど、高く結んだ金髪と黒いロングコートを見ると、少なくともそこにいるのが自分だという感覚は残った。
「創英さん」
「ん?」
「少し、こちらへ」
背後から阿求に呼ばれる。振り返ると、彼女は櫛を持っていた。
「結び目が少し緩んでおります」
「えっ、嘘」
「本当です」
「うーん……ちゃんと結んだつもりだったんだけどなぁ」
「昨日は何度もお着替えをなさっていますから、髪も多少絡んでおりますね。手を入れますから、後ろを向いてください」
「……お願いします」
もう意地を張る気もない。
阿求へ背を向けて座り、髪紐を解いてもらう。それに合わせて、長い金髪がふわりと背中へ広がった。
「こうして改めて見ると、本当に長いですね」
「別に昨日と変わってないだろ?」
「ええ。その筈ですが……毎日見ておりますと、改めて驚くことがございまして」
櫛が毛先から通される。引っ掛かりを一つずつ解きながら、少しずつ上へ。
「痛くありませんか?」
「ん。大丈夫」
「では、少し引きますね」
「お願いします」
阿求の指が俺の髪へ触れる。それだけで、何故か呼吸が一拍遅れた。
「っ……」
「創英さん?」
「な、何でもないっ」
「今日は、そればかりですね」
「本当に何でもないんだってば」
嘘だ。何でもなくはない。
——『昨日まで普通に接していた相手を、一晩経っただけで急に意識するようになりました』。
……そんなこと、言えるはずがない。
「はい。できました」
阿求が最後に髪紐を整える。
高い位置で纏められた金髪が、背中へ真っ直ぐ落ちた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
鏡越しに目が合う。
阿求が微笑んだ途端、今度は視線の逃がし場所に困った。
「……参ったな」
「何がです?」
「何でもないっ」
「ふふ、またですか?」
今度は、くすくすと笑われた。
⸻
元日の人里は、昨日とはまた違った賑わいを見せていた。
道を歩けば、新しい年を迎えた人々が互いに挨拶を交わしている。俺と阿求も、何度か呼び止められた。
「阿求様、明けましておめでとうございます」
「明けましておめでとうございます」
近所の女性が頭を下げる。
そして、俺を見る。
「……あら?」
「……?」
女性は俺の顔をじっと見た後、目を丸くした。
「もしかして、創英君?」
「えっ?」
「ああ、やっぱり! 昨日、創英君が女の子みたいな姿になっていたって聞いたけれど、本当だったのねぇ」
「…………」
もう知られてる。
「まあまあ。随分お綺麗になって」
「あの、恥ずかしいので、どうかその辺で……」
「ふふ、ごめんなさいね。でも本当にお似合いですよ」
「あ、ありがとうございます……?」
受け答えはこれで合っているのだろうか。
よく分からないまま、女性は楽しそうに笑いながら去っていった。
「……噂って早いな」
「里の噂ですからね」
「昨日、阿求と一緒に帰ってきたところでも見られたのかな」
「その可能性はございますね」
「一晩で回るのかよ……」
「創英さんは、少々目立ちますから」
「俺って、そんな目立つか?」
阿求の視線が、俺の長い金髪から黒いロングコートまでゆっくり動く。
「……」
「何か言ってくれよ」
「申し上げなくても、お分かりになるかと」
「うぐっ。くっそぉ……分かりたくなかったなぁ……」
二人で苦笑しながら、人里を後にした。
——博麗神社へ向かう前。俺は一度だけ、自分の身体の具合を確かめた。
今の姿でも、一人で飛ぶだけなら問題はない。だが。
「阿求を抱えて飛ぶとなるとなぁ……」
「創英さん? どうかしましたか?」
「いや。今日は歩いていこうと思ってさ」
「よろしいのですか?」
「ああ。今の身体にも大分慣れたけど、阿求を抱えたまま飛ぶとなると話は別だからな。万が一があったら困るし」
「……そうですか」
「疲れたらすぐ休もう。急ぐ理由もないしな」
「はい。では、お言葉に甘えますね」
阿求の歩調に合わせ、ゆっくりと神社へ向かうことにした。
⸻
博麗神社へ向かう道へ入ると、人の気配は急に薄くなった。
元日の朝だというのに、神社へ向かう者はほとんど見当たらない。
途中で擦れ違ったのも、見覚えのない妖怪が一人だけ。
人里の賑わいが嘘のようだった。
「……そういえば」
「はい?」
「初詣なのに、こっちへ来る人は少ないんだな」
「博麗神社ですから」
阿求は当然のように答える。
「神社そのものを嫌っているわけではありません。ですが、妖怪が頻繁に出入りしておりますし、道中も安全とは言えませんから。里の方々が好んで訪れる場所ではありませんね」
「ああ……なるほど」
言われてみれば当然だった。
俺は空を飛べる。妖怪と遭遇しても、ある程度は自分で対処できる。
だから忘れがちになるが、普通の里人にとって、人里から外へ出ること自体が危険を伴うのだ。
「じゃあ、霊夢のところって正月もあまり人が来ないのか」
「おそらくは」
「……賽銭、多めに入れておこうかな」
「喜ばれると思いますよ」
「何かすごく可哀想になってきたな……」
「本人の前では、仰らない方がよろしいかと」
「うん、そうする」
途中で何度か休憩を挟みながら山道へ入る。
昨夜冷え込んだせいか、日陰には雪が残り、石段の一部は薄く凍っていた。
「阿求、足元気をつけてな」
「はい」
阿求が慎重に歩く。
その直後。
「あっ」
足が僅かに滑った。
「危ないっ」
反射的に腕を掴み、阿求の身体を支える。
「ふう……大丈夫か?」
「はい。ありがとうございます」
「よかった。……ここ、思ったより滑るな」
石段を見ると、この先も同じような場所が続いているのが分かった。
俺なら問題ないが、阿求の身体では転ぶだけでも危険だ。
「阿求」
「はい?」
「手、繋ごうか」
何気なく差し出した俺の手を、阿求が見つめる。
「……よろしいのですか?」
「滑ったら危ないだろ?」
「……ふふ。そうですね」
阿求が手を重ねる。
「…………」
外気で冷えた細い指は、触れた瞬間ひやりと冷たかった。
なのに、重なった掌だけが妙に熱く感じる。
昨日までなら、何とも思わず握っていたはずなのに。
「創英さん?」
「何でもないっ」
「……ふふ」
「な、何だよ」
「いいえ。今日は本当に、そればかりですね」
「放っておいてくれ……」
阿求の手を握り直す。今度は、滑らないように。
ただそれだけだ。
そう自分へ言い聞かせながら、俺達はゆっくりと石段を上った。
——
博麗神社へ着いた頃には、冬の空もすっかり明るくなっていた。
鳥居を潜った先の境内は、いつも通りの静けさだった。
「……本当に誰もいないな」
思わず辺りを見回す。正確には、誰もいないわけではないようだ。
境内の隅では、見覚えのない妖怪が一人、腰を下ろして酒を飲んでいる。縁側にも別の妖怪らしき影があった。
だが、人里から来たと思われる人間の参拝客は、俺たち以外には見当たらない。拝殿の前も閑散としていた。
「元日なのに……」
「だから申し上げたでしょう?」
「いやぁ。これはなんというか、思ってた以上だったな」
そんな会話をしていると。
「新年最初に神社へ来て、第一声がそれ?」
聞き慣れた声がした。
「……あ」
振り返ると、賽銭箱の前に箒を手にした霊夢がいつの間にか立っており、半眼でこちらを見ていた。
「明けましておめでとう、霊夢。今年もよろしくな」
「はいはい、おめでとう。そして今年もよろしく」
気だるそうな感じで言葉を交わす霊夢へ向けて、そそそっと近寄って耳打ちをする。
「……なあ霊夢。参拝客、少ないな」
そう言った瞬間、霊夢の眼にギラリと冷たい光が宿った。
「……創英」
「何だ?」
「今すぐ、有り金すべて賽銭箱に入れなさいっ!!」
そう言いながら、幣でベシベシと俺の頭を殴ってきた。
「いだだだだだっ!? ごめんって!! 悪かったって!!」
ちょっとからかうだけの筈だったのだが、完全に失言だったようだ。
「ったく。昨日は年末詣に来て、今日は初詣と。随分と律儀ねー?」
「あ、ああ。阿求と一緒に来るって決めてたからさ」
「……へぇ~?」
霊夢の視線が下がる。その先には、俺と阿求の手が。
「…………あ」
まだ、手を繋いだままだった。
「見せつけてくれるじゃない。新年早々、随分と仲がいいわね?」
「ちっ、違っ! これは、そのっ……道が凍ってたからだな!」
「へぇ~……それで? まだ境内でも繋ぐ必要があるのかしら?」
「それは……」
慌てて離そうとする。
だが、阿求の手が僅かに指へ残った。
一瞬、どちらからともなく動きが止まる。
「…………」
「…………」
結局、ゆっくりと手を離した。
俺たちの様子を一部始終見ていた霊夢の口元が、にやりと歪む。
「へぇ~?」
「何だよ」
「べっつにぃ?」
「その顔は絶対何か思ってるだろ」
「昨日もお姫様抱っこで連れてきて、今日は手を繋いで初詣ねぇ~? って思っただけよ?」
「だから、昨日は飛ぶためだって!」
「そして今日は凍っていたから。でしょう?」
阿求が穏やかに補足する。
「阿求は説明してくれるんだな。ありがとう」
「本当のことですので」
「ねえ阿求」
霊夢が尋ねる。
「何でしょう?」
「昨日、創英と一緒に年越したんでしょう?」
「はい」
「おい霊夢っ!」
「何よ、うっさいわねぇ」
「その聞き方はやめろぉ!」
「なんでよ。何か困るの?」
「困る」
「どうして?」
「いや、どうしてって……」
言葉に詰まり、一人でドギマギしていると――。
「おー、やっぱり今日も来てたか」
不意に上空から声が降ってきた。箒に跨った魔理沙だ。
「明けましておめでとうだぜ」
「明けましておめでとう、魔理沙」
「今年もよろしくな」
「ああ。よろしく」
ふわりと着地し、箒から降りる。そして同時に、俺を見た。
「何だよ」
「今日は女なんだな」
「見れば分かるだろ」
ぶっきらぼうにそう答えると、魔理沙はくつくつと笑う。
「何があったのかは何となく分かるから、聞かないでおいてやるよ。……んで、それは元に戻るのか?」
「ああ。本当なら昨日の夜には元に戻るはずだったんだけどな」
魔理沙が興味津々といった様子で俺の周囲を回る。
「体調は?」
「何ともない」
「霊力は?」
「問題ないよ」
「そうか。じゃあ、暫くこのままでもいいんじゃないか?」
「俺が落ち着かないんだよ」
「でも似合ってるぜ?」
「そういう問題じゃないっての」
そんな俺とのやり取りに霊夢も混ざって、一緒になって俺を見る。
「でも……そうねぇ」
「何だよ」
「アンタ、この間の時よりも馴染んでない?」
「は? 何が?」
「その姿よ」
「……うん?」
霊夢の発言の意味が分からない。
魔理沙も首を傾げながら、俺の顔を覗き込む。
「おお……言われてみれば、確かにな」
「何がだよ」
「前見た時は『創英がそのまま女になった』って感じだったけど、今日は『普通の女の子』に見えるな」
「そりゃあ……俺はいま身体が女なんだから、当然だろ」
「そうじゃないのよ」
霊夢が腕を組む。
「あんた自身が、その姿に馴染んでるように見えるの」
「馴染んで……?」
霊夢に言われて、自分の身体を改めて見る。
……確かに、この間よりは動きやすい。
歩幅や重心に慣れたってのもあるだろうが、腕の振り方や服の裾などをいちいち意識しなくても、身体が勝手に合わせるようになっていた。
「単に慣れただけじゃないのか?」
「その可能性もあるけど……」
霊夢は、それ以上踏み込まなかった。
「なあ、阿求はどう思う?」
魔理沙が突然話を振る。
「私ですか?」
「昨日から一緒だったんだろ?」
「だからその言い方っ!」
「事実じゃないか。何をいまさら照れてるんだ?」
「照れっ……!?」
俺が一人で発狂している傍らで、阿求は少し考えるように俺を見る。
「確かに、以前より違和感は薄く感じますね」
「やっぱりな」
「ですが」
阿求が続ける。
「創英さんは、創英さんですよ」
「っ……」
「姿がどうであっても、それは変わりません」
「……そっか」
「はい」
不思議と、その一言だけで少し安心した。
「へぇへぇ、ごちそーさん。……ところでさ、昨日の夜は二人で何してたんだ?」
魔理沙がにやりと笑う。
「話してただけだよ」
「本当に?」
「本当に」
「どんな話だ?」
「一年を振り返ってた」
別に隠すことでもないと思ったから素直に口にしたが、魔理沙が信じられないものを見たような目でこちらを見てきた。
「……え、それだけか?」
「それだけだよ」
「ヘタレだぜ、こいつは」とか言ってきたので、脳天へ一発チョップをお見舞いしようとしたら避けられた。くそぉ。
「同じ毛布には入っておりましたけれど」
とかなんとかやってる間に、阿求がとんでもない爆弾をぶち込んできた。あの、阿求さん???
「ちょっ!! 阿求っ!? お前何言って……っ!!」
「おお~!?」
魔理沙の目が輝く。
霊夢も目を丸くしてこちらを見る。
「それ初耳なんだけど?」
「阿求ぅぅぅ……」
「何か問題がございましたか?」
「あるよっ! 滅茶苦茶あるっ!」
「ですが、一つの毛布で肩を寄せていただけですよ?」
「それ以上説明しなくていいってばぁ!!」
まさかの公開処刑に悶絶する。どうして本人は平然としているんだ……!?
「創英」
霊夢が俺の肩へ手を置く。
「新年早々、よかったわね」
「何が!?」
「春が来て」
「またそれかよっ!」
「またそれって、お前……まだ意味分かってないのか?」
俺の様子に魔理沙まで呆れたように言う。
「そんなの分かってるよっ!!!」
そんな言い草に対して、反射的に……叫ぶように言い返した。言い返してしまった。
「……え?」
そんな俺の発言に、霊夢が。
「……お?」
魔理沙が。
「…………ふふ」
阿求が、それぞれ異なった反応を見せた。
「……やっちまったぁ……」
俺。
今。
勢いに任せて、何と返事した?
「へぇぇぇ~?」
霊夢の口元が、ゆっくりと上がる。
「分かってるんだぁ?」
「いや」
「いやって何よ?」
「それは」
「ほれほれ。言ってみなさいよ、創英?」
「……さ、参拝してくるっ!!」
耐えられなくなり、その場から逃げ出した。
「あっ、創英さん!?」
「はんっ。逃げたわね、あのヘタレ」
「あっははは!! 待てよ創英!!」
背後から笑い声が追いかけてくる。
今年最初の日から弄られるだなんて、まったく……碌なことがないな。
⸻
賽銭を入れる。いつもより、気持ち多めに。
後ろから霊夢が満足そうにしている気配を感じたが、なんかすげぇムカつくので振り返らないことにした。
二礼。
二拍手。
目を閉じる。
阿求が今年も無事であること。人里が平穏であること。
そして、俺自身も。
できれば、無茶をしすぎずに一年を過ごせればいいなぁ……なんて、そんなことを願う。
最後に。大切な者たちが、笑っていられたらいいなとも付け加えた。
願いを終え、顔を上げた時だった。
「……ん?」
身体の奥へ、熱が走った。
昨日の夜にも感じたもの。けれど、今度は明らかに違う。
「創英さん?」
隣にいた阿求が気づく。
「身体が……」
「大丈夫ですか?」
「ああ。多分大丈夫だ」
肩へ手を置く。
身体中に熱が広がり、骨、筋肉、喉と、身体の内側から何かが元の形を思い出すように変化していく。
「もしかして、戻るのか?」
魔理沙が近づいてくる。
「おそらく」
「こんな所でか?」
「俺に言うなよ。いつ戻るかも分からなかったんだから」
「ちょっと待ちなさい、創英」
霊夢が俺の腕を掴む。
「こんなところで戻られたら面倒だわ。中へ来なさい」
「ああ、分かった」
幸い、境内に人間の参拝客はほとんどいない。妖怪たちもこちらを気にしていないようだった。
それでも、人目のある場所で一部始終を晒す必要はない。
霊夢に連れられて神社の中へ入り、人目のない一室へ通される。
戸が閉められた頃には、身体の変化が本格的に始まっていた。
肩幅が広がりはじめ、腕や脚へ力が戻る。それに合わせて、視線も高くなる。
身体の重心が、馴染み深い位置へと戻っていく。喉の奥が震え、呼吸と共に声が低くなった。
「……あー、あー」
試しに声を出すと、いつもの声にすっかり戻っていた。
「無事に戻ったか……」
息を吐きつつ、自分の手を見る。見慣れた男の手だ。
「よかった……」
阿求の声が聞こえた。
見ると、彼女は心底安心したように胸へ手を当てている。
「やっぱり、心配した?」
「当然です」
「それは……ごめんな」
「謝罪は受け取りますけど……今回も、創英さんが謝ることではありませんよ」
「でもっ」
「無事に元の姿へ戻られた。それだけで、私は十分です」
「……ああ」
そう言い切る阿求に、俺は笑って応えた。
そのまま肩を動かしたところで、ブラウスの生地が僅かに引っ張られる。
「……あ」
「どうしました?」
「いや。そういえば、この服……」
今着ているものは、咲夜さんに女性の身体へ合わせて仕立ててもらった服だ。
着られないほどではないが、肩回りや腰の収まりが明らかにさっきまでとは違う。スラックスも、身体の形が戻ったせいで部分的にダボついたり、逆にキツかったりしている。
「身体が戻ったと思ったら、今度は服が合わないのかよ……」
「そこまでは考えておりませんでしたね」
「俺もだよ」
何とも締まらない。
「ねえ」
そんな俺たちのやり取りを見ながら、霊夢が声を掛けてきた。
「何だ?」
「本当に、ちゃんと元に戻ったの?」
何やら不穏な事を口にし始める霊夢。
「いや、見れば分かるだろ。何処からどう見たって男——」
「そういう意味じゃないわ」
言葉を遮られる。それに合わせて、魔理沙もじっと俺を見ている。
「……たしかに、何か違うな」
難しい顔をした魔理沙に見つめられながら、俺は首を傾げた。
「だから、何がだよ」
「……顔か?」
「は?」
「何というか、前より少し柔らかい気がするぜ」
「えぇ……? 流石に気のせいだろ?」
俺の顔をジロジロと嘗め回すように見つめてくる。
「創英さん、こちらをどうぞ」
そうしている内に、阿求が横から小さな手鏡を差し出した。
それを受け取り、覗き込んで映った自分の顔を見る。
紫色の瞳、金髪、見慣れた顔。
俺だ、俺の顔だ。けれど――。
「何か、違う……?」
「……僅かにですが」
隣で一緒になって見ていた阿求が答える。
「以前より、顔立ちが柔らかく見えます」
「そう……だよな?」
自分で頬へ触れてみる。
骨格が変わったとまでは思わない。けれど確かに、以前より僅かに中性的な印象が強くなっている。
頬も、以前より少し柔らかくなったような気がした。
「それから」
霊夢が俺の背後を見る。
「髪ね」
「髪?」
そう指摘され、何気なく背中へ手を伸ばすと——。
「…………は?」
——手に、髪の毛が触れた。
長い。……いや、初めて性別がひっくり返った時から、既に長くはあった。だが。
「待て待て待て……」
高く結んでいるにもかかわらず、毛先が明らかに以前より下へ伸びている。
「朝はこんなに長くなかったぞ!?」
阿求も目を見開く。
「はい。今朝、私が髪を梳かした時には、これほどの長さではありませんでした」
「じゃあ……戻る時に?」
髪紐を外す。結っていた癖の残る金色が、背中へゆるく流れ落ちた。
「……いや長っ!?」
思わず叫んだ。
以前とは比較にならない。高い位置で結んでも、腰を大きく越える。
解いた状態ならば、お尻を越えて太ももへ届こうかという長さだ。
「いつ伸びたんだよ!?」
「やっぱり、元に戻る時じゃないか?」
魔理沙が一本持ち上げる。
「こいつはすごいな」
「他人事だと思って……っ!」
「でも綺麗じゃない」
霊夢が毛先を見る。
「痛みもないし、ちゃんと手入れの行き届いた髪だわ」
「だからそういう問題じゃないって!」
「じゃあ切る?」
霊夢のその一言に、俺は反射的に髪を掴んだ。
「いや、切らないよ」
自分でも驚くほど、答えは早かった。
霊夢がこちらを見る。
「それは、フランとの約束?」
「ああ」
この髪を残すと決めたのは俺だ。
事故で伸びた。薬のせいで残った。
でも、残すと選んだのは俺自身だ。
なら、長くなったからといって今さら切る理由にはならない。
「それにしても」
阿求が俺の髪を見つめる。
「どうした?」
「……また少し、似てきましたね」
「誰に?」
「紫さんに」
霊夢と魔理沙が黙る。
「い……いやいやいや」
俺は苦笑する。
「髪の色と長さだけだろ?」
「目の色も同じだけどな」
「魔理沙」
「事実だぜ」
「それに、少し顔立ちも」
霊夢まで俺を見る。
「前よりも、紫に似た雰囲気があるわね」
「やめてくれよ。俺、あんな胡散臭そうな笑い方しないだろ」
「それ本人に言ってみなさいよ」
「絶対に嫌だ」
紫さん本人が聞けば、面白がるに決まっている。
そんなことを考えながら、髪をもう一度高い位置へ纏めようとする。
「お、重い……」
しかし、長さが変わった分、以前と同じように扱えない。
一度結ぶが、すぐに緩んでしまった。
「貸してください」
阿求が後ろへ回った。意図を理解したため、素直に任せることにする。
以前より遥かに長くなった金髪を集め、阿求が丁寧に纏めていく。
「ここまで長いとなると、流石に大変そうですね」
「はぁ~……また一から慣れるしかないなぁ……」
「一人でやろうとはしなくて良いかと。私もお手伝いしますよ」
「悪いな……ありがとう、阿求」
髪の間を滑る阿求の指を意識し、思わず肩へ力が入る。
「できましたよ。……創英さん?」
「何でもない……」
「またですか?」
「……まただよ」
阿求が小さく笑った。
今年は、この台詞を何度言うことになるのだろうか。
⸻
初詣を終え、昼を少し過ぎた頃。
俺と阿求は博麗神社を後にすることにした。
「この後、紅魔館へ行くのよね?」
「ああ。新年の挨拶をしてくる」
「ついでに、その身体も診てもらいなさい」
「そのつもりだ」
「パチュリーなら何か分かるかもしれないしな」
魔理沙も頷く。
「じゃあ、またな」
「ああ」
「今年もよろしく」
「こちらこそ」
阿求も二人へ頭を下げる。
「霊夢さん、魔理沙さん。今年もよろしくお願いいたします」
「よろしく」
「またな、阿求」
挨拶を済ませ、鳥居を出る。往路で歩いた石段には、まだ雪と氷が残っていた。
「阿求」
「はい?」
「帰りも手を――」
そう言いかけて、途中で止まる。
違うな。もう男に戻ったのだし、紅魔館まで行くなら――。
「――いや、阿求」
「はい?」
「また、抱えて飛んでもいいか?」
そう口にしてから、心臓の鼓動が少しだけ速くなる。
昨日は、ただ安全のためだった。
今は男の身体へ戻った。阿求を抱えて飛ぶことにも不安はない。
そして今は、それだけではないことを……俺自身が知っている。
目を逸らしそうになりながらも、何とか真っ直ぐ見つめていると、阿求が一度瞬きをする。そして。
「はい。お願いします、創英さん」
にっこりと微笑む。返事は、早かった。
「……ああ、分かった」
背と膝裏へ腕を回し、抱き上げる。
昨日よりも、明らかに緊張した。
「創英さん?」
「何でもない」
「ふふ」
「何だよ」
「今日、何度目でしょうね」
「数えなくていいよ、もう……」
阿求は俺の首へ腕を回す。
近い。昨日より断然近い。
……いや、単に俺が意識し過ぎているだけなのかもしれない。
「ほら、行くぞ」
「はい」
霊力の翼を広げる。長くなった金髪のポニーテールが、風を受けて大きく揺れた。
新年の空へ――俺たちは、ゆっくりと浮かび上がった。
⸻
「明けましておめでとうございます」
紅魔館の広間へ通された俺と阿求は、レミリアお嬢様へ向けて揃って頭を下げた。
「ええ。明けましておめでとう」
レミリアお嬢様が杯を片手に笑った。
「今年もよろしくね、創英」
「こちらこそ。よろしくお願いします」
「にぃに!」
声と同時に、フランが飛びついてくる。
「おっと」
受け止める。
「明けましておめでとう!」
「明けましておめでとう、フラン」
「今年もよろしくね!」
「ああ。今年もよろしくな」
頭を撫でる。
フランが俺の胸元へ顔を押しつけた後、ふと顔を上げる。
「……にぃに!?」
「何だ?」
「髪……っ!」
背後へ回る。
「もっと長くなってるっ!」
「あはは。やっぱりすぐ分かるか」
「すっごく長い!」
フランがポニーテールを持ち上げる。
「昨日よりずっと長いよ!?」
「ああ。薬が切れて元へ戻る時に、何故かこうなったみたいなんだ」
「そうなんだ! ……ここまで長くなっちゃったら、大変だよね。髪、切っちゃう?」
「いいや、切らないよ。約束しただろ?」
「……うんっ!」
フランの顔が一気に明るくなり、満面の笑みを浮かべる。
その顔を見て、やっぱり残して良かったと思った。
「それで」
低い声が飛んでくる。
見ると、後ろにパチュリーさんが立っていた。
「創英。少し、こちらへ来なさい」
「……やっぱり検査ですか?」
「当然よ」
逃げられそうになかった。
「それと」
「まだ何か?」
横から咲夜さんが歩み寄り、俺の肩回りを一目見てから言った。
「そのお召し物では少々窮屈でしょう。検査が終わりましたら、昨日お預かりしたお洋服をご用意いたします」
「助かります」
やっぱり見ただけで分かるらしい。
さすがだった。
⸻
大図書館へ連れていかれると、すぐに椅子へ座らされた。
霊力の流れにはじまり、身体の状態、魔力反応と順番に追っていき、最後に薬の残留がないかを確かめる。
以前にも受けた検査を、一つずつ繰り返していく。阿求も少し離れたところから見守っていた。
やがて、パチュリーさんが手を止める。
「……どうです?」
「薬効は、完全に切れているわ」
「じゃあ、元に戻ったんですよね?」
「ええ。……ただし」
パチュリーさんが俺を見る。
「完全に、以前と同じ状態へ戻ったわけではないわね」
そんな予想は、していた。
「顔立ちが僅かに変化している。身体の線も、以前より中性的になっているわね」
「そんなに変わってますか?」
「注意して見なければ分からない程度よ。身体機能に異常もない」
手元の資料へ視線を落としながら、パチュリーさんが言葉を続ける。
白衣のような作業用の外套を揺らして、俺の背後へと回る。
「髪は、どうなんですか? 何でこんなに伸びたんですかね」
「分からないわ。けれど、仮説ならある」
パチュリーさんが、指先で手元の資料を軽く弾く。
「元の姿へ戻る際、貴方の身体が変化前の状態を完全に再現せず、女性化した身体情報の一部を残した可能性がある」
「……身体情報?」
「簡単に言えば――」
パチュリーさんが俺を見る。
「――貴方の身体が、元の姿と女の姿を完全に別のものとして区別していない可能性がある」
背中へ僅かな冷たさを感じた。
「それって……大丈夫なんですか?」
「現時点では、大丈夫としか言えないわ」
「またそれですか」
「分からないものを断言するほど、私は無責任ではないもの」
正面へ戻ってきたパチュリーさんは、資料を閉じてこちらを見据えてくる。
「異常な変化が起きていること自体は確かよ。ただし、それが薬を使ったことによって残ったものなのか、それとも元々貴方の身体にある何らかの性質が変化を定着させているのかは、まだ判断できない」
厄介な現象を前にしたような目で、俺を見つめる。
「霊力は安定している。身体機能にも異常はない。健康状態だけを見れば問題なし。だから今すぐ深刻に考える必要はないわ」
「……でも」
「ええ。楽観視もできない」
パチュリーさんの紫色の瞳が、改めて真っ直ぐ俺を見た。
「だから現時点では大丈夫。それ以上は、まだ何も言えないわ」
「……分かりました」
息を吐く。
怖くないわけではない。でも、分からないことを今ここで考え続けても答えは出ないだろう。
「それから、女性になった時の面影が残ったことについてだけど」
「はい」
「貴方自身は、どう感じてる?」
そう問われて、少し考える。
怖くない。そう言えば、きっと嘘になる。
何故、俺の身体はこんなにも変化を受け入れてしまうのか。
考えてみても分からない。分からないけれど。
「……俺が俺であることは、変わってないと思います」
かねてから胸の中にあった答えを口にする。
「男でも」
一度、言葉を切る。
「女でも」
昨日までの自分を思い出す。
「俺は、俺だから」
パチュリーさんは、しばらく何も言わなかった。
やがて、静かに答える。
「……そう」
僅かに目を伏せる。
「貴方がそう思えているのなら、今はそれでいいわ」
それ以上、彼女は何も言わなかった。
⸻
検査を終えた後、咲夜さんから元の衣服を返してもらい、ようやく身体へ合った服へ着替えることができた。
そうして紅魔館で新年の挨拶を済ませ、人里へ戻る頃には夕方になっていた。
空は薄い橙色へ染まり、遠くの山へ日が沈み始めている。俺は再び、阿求を腕へ抱えて空を飛んでいた。
「創英さん」
「ん?」
「今日は、ありがとうございました」
「初詣のことか?」
「それもです」
「紅魔館?」
「それもです」
「えっと、じゃあ何だ?」
阿求が俺を見る。
「今年も、一緒に過ごしてくださることです」
胸が跳ねる。
「阿求、それは……」
「はい」
少し迷う。
昨日までなら、たぶん何も考えずに笑っていた。
でも今は、自分の気持ちを知っている。
知ってしまっている。
だから――。
「……俺の方こそ」
阿求を見る。
「今年も、俺の傍にいてくれたら嬉しい」
少しだけ、勇気を振り絞って口にする。
阿求は目を大きく開いて、俺を見ていた。
言ってから、恥ずかしさが遅れて身体中へ広がっていく。
「いや、その……変な意味じゃなくて、さ……」
「はい」
「あの、えっと……」
違う。決して変な意味ではない。
でも、完全に何の意味もない言葉でもない。
「その……」
何かを言わなければ。そう思うのに、言葉が喉の奥から出てこない。
そんな時。
「創英さん」
「な、何?」
阿求が、嬉しそうに微笑んだ。
「私も、同じ気持ちですよ」
「っ! ……そっか」
「……はい」
お互いに、それ以上は何も言えなかった。
ただ、腕の中にいる阿求を落とさないよう、少しだけ強く抱き直す。
阿求も、自ら身を寄せるようにして俺の背へ腕を回した。
「苦しくないか?」
「大丈夫です。それに」
「ん?」
「今の方が……温かいです」
「……そっか」
夕暮れの空を飛ぶ。
背中では、以前より遥かに長くなった金髪のポニーテールが、冬の風を受けて靡いている。
身体は男へ戻った。けれど、全てが以前と同じではなくなったようだ。
髪も。顔も。そして……多分、俺の心も。
新しい年が始まったばかりだというのに、もう去年とは違う俺がいる。
それでも――少なくとも今は、それを悪いことだとは思わなかった。