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◆ side:フランドール・スカーレット ◆
二月に入ってからも、そーえーのお家は相変わらず騒がしかった。
……ううん。正しく言えば、普段は騒がしい。
けど、今日は違う。
「むー……」
私は居間の座布団へ座ったまま、もう一度だけ玄関の方を見る。
誰も来ない。
廊下の向こうから聞こえるのは、冬の風が戸を僅かに揺らす音だけ。囲炉裏の火が小さく爆ぜて、鉄瓶から白い湯気が立ち上っている。
「フラン」
「なに?」
「また見てたね」
「……見てないもん」
「見てたよ」
「見てない!」
「これで5回目だよ」
「数えてたの!?」
向かいに座っていたこいしが、ころころと笑う。
むぅ。何だか負けた気がした。
「だって……そーえー、遅いんだもん」
「まだそんなに経ってないよ?」
「でも遅いもん……」
「そー君、今日は何しに行ったんだっけ」
「えっと……里でお買い物。そのあと、ちょっと用事もあるって」
「じゃあ、まだ帰ってこないんじゃない?」
「むぅぅ……分かってるよそんなのっ」
そう答えながら、また玄関を見そうになって止めた。
絶対に笑われる。そう思ったけど、こいしはそんな私を見ていたのに今度は何も言わなかった。
代わりに鉄瓶へ手を伸ばし、そーえーが用意していった急須へお湯を注ぐ。
「こぼさないでよ?」
「大丈夫だよ」
「そう言って、前の時はこぼしてたじゃん」
「あれは湯呑みが逃げたの」
「逃げないよ!」
「逃げたよ?」
「湯呑みは歩かないもん!」
そう言うと、こいしがまた笑った。
何だかお姉様よりもずっと適当なのに、こういう時だけ妙に落ち着いている。
こいしはふたつの湯呑みへお茶を注ぎ、ひとつを私の前へ置いた。
「はい」
「ありがと」
「熱いから気をつけてね」
「分かってるよ」
湯呑みを両手で持つ。
……ちょっとだけ熱かったから、少しだけ息を吹き掛けて飲んだ。
「……おいしいね」
「そー君の選んだ茶葉だからね」
「こいしが淹れたんでしょ?」
「でも、葉っぱを用意したのはそー君だよ」
「じゃあ……半分ずつ?」
「んー……そうだね。半分ずつ、かな?」
二人で頷くと、会話が途切れてまた静かになった。
嫌な静けさではない……と思う。少なくとも、紅魔館の地下にいた時の静けさとは違う。
あそこは、誰もいないから静かだった。けれどここは、そーえーが帰ってくるのを待っているから、静かなだけだ。
「ねえ、こいし」
「なぁに?」
「わたしたち、前にも会ったよね?」
そんな私の問いかけに、こいしが首を傾げる。
「いつ?」
「去年の八月頃。そーえーが、紅魔館から帰ってきた時」
「……あー」
思い出したのか、こいしが笑った。
「そー君に『おかえりー』って言った時だ」
「うん」
あの時、帰るそーえーに付き添って人間の里へ向かうと、そーえーの帰りを待つ人たちに交じって、こいしが手をぶんぶん振っていたのが見えた。
私とそーえーには、それが普通に見えていた。声も聞こえた。
だから誰なのか聞いた。でも、その時は遮られてしまって聞けなかった。
「そういえば……霊夢たち、こいしのこと全然見てなかったよね」
「うん」
「魔理沙も見てなかった。すごく大きな声だったのに」
「そうだね」
「……どうして?」
こいしは湯呑みの中を覗き込んだ。
「さあ。どうしてだろうね?」
「こいしにも分かんないの?」
「分かることもあるけど、分かんないこともいっぱいあるよ」
「むぅ……」
何だか、そーえーみたいな答え方だ。分からないことを分かったふりしないところが、何となく似てる。
そんなことを思っていると、「でも」とこいしが自分の胸元へ触れた。
そこには、いつも身体へ絡みついている不思議な紐。そして、閉じたままの目がある。
「たぶん、この子を閉じたからかも」
「その目?」
「うん。第三の眼」
私はじっと見る。
目なのに、開いているところを見たことがない。そのことは、前から気になっていた。
「開かないの?」
「開けないよ」
「開けない? 開かないんじゃなくて?」
「うん。開けようと思ってないからね」
言っていることがよく分からない。
「どうして閉じたの?」
疑問に思ったから、率直にそう聞いてみた。でも、口にしてから少しだけまずかったかなとも思った。
そーえーなら、こういうことを聞く前に一呼吸を置いてから考える。聞いていいことなのか、嫌なことを思い出させないか……って。必ず、相手の事を先に考えてから、そっと一歩だけ踏み込むようにして尋ねる。
でも、私はもう聞いてしまった。
「えっと……嫌だったら、答えなくてもいいよ?」
私がそう付け足すと、こいしは目を丸くした。
それから、ふっと笑った。
「なんだかフラン、そー君みたいだね」
「えぇっ!?」
「今の、私のことを考えて言うところがそっくり」
そんなことを言いながら、こいしは優しく笑う。
「わたし、あんなにお節介じゃないもん!」
唐突にそーえーとそっくりとか言うから、私もなんだか照れてしまって、心にもないことを口にしてしまった。
しまった。……と思った時には、既に遅く。
「今のそー君に言おっと」
さっきまでの優しい笑顔はどこへやら、悪戯を思いついたような悪い笑みを、こいしは浮かべていた。
「やめてっ! それだけはダメ!」
思わず身を乗り出す私から、こいしは楽しそうに身体を後ろへ引いた。
「ねえっ!! 言わないでってば!!」
「んー、どうしようかなぁー?」
「わたしのお菓子あげるから!!」
いじわるをするこいしへ、私はそーえーがくれた甘い和菓子を差し出した。……すると。
「じゃあ言わない」
「早っ!?」
それまでの態度から一転して、満面の笑みを浮かべながら差し出した和菓子を受け取った。……そんなにお菓子が欲しかったんだ?
そんなやり取りがなんだかおかしくなって、ふたりでしばらく笑った後。こいしが閉じた眼に、もう一度手を触れた。
「……これね、昔は開いてたんだよ」
「そうなんだ。……じゃあ、その時は心も読めたの?」
「読めてたよ」
「何でも?」
「んー、だいたいは」
「そうなんだ……すごいね。まるで、そーえーみたい」
そーえーも人の心を読むことができる。普段は使わないようだけど、少しだけ便利そうだなぁとは思ったことがある。
――そーえーと出会ってから、そーえーやお姉様達が何を考えているか全部分かったらいいなぁって思うことは、たまにあった。
怒っているのか、困っているのか、それとも本当は嬉しいのか。相手の心の内を覗くことができれば、そういう思いを一々聞かなくても分かるのになぁって、そう考えることはたまにある。
だから、心が読める力について、私が思ったことをこいしに話してみた。……でも。
「……みんなは、それが嫌だったみたい」
少しだけ間を置いてから、こいしはそう答えた。
こいしの声は変わらない。いつもの声、いつもの顔。だけど、言葉や声色の裏に何かを感じて、私は湯呑みを持つ手を止めた。
「嫌だった?」
「うん。心って、見られたくないものがいっぱいあるんだってさ。言わないこと。隠したいこと。自分でも見たくないこと。……昔の私は、そういうのまで見えちゃったからね」
なんでもない事のように、こいしはそう言った。
そーえーは、自分自身にも言い聞かせるようにして、いつも言う。相手がどう思ってるかなんて、本当のところは本人にしか分からない。そうやって、心の壁を一枚隔てているからこそ、人と人とのコミュニケーションは成り立つんだって。
そんな隠れたものを、見てしまう、暴いてしまう。そんな力を持った存在が、他の人達からどう見られるのかは、今の私ならわかる。
分かってしまうから、こいしの話を聞いた時、少しだけ心が苦しかった。
……きっとこいしは、いろんな人の心を見てきたのかもしれないから。
「そっか……そうだよね」
私は、そーえーを通じて垣間見た、絢香の……そーえーの本当の妹の記憶の事を思い出しながら、そう返した。
「それで、その後は?」
「嫌われたし、怖がられたよ」
あんな話をしておいて、こいしは平然と笑っていた。
……どうして笑えるんだろう。私は、ただ純粋にそう思った。
でも、私もそーえーに対して、似たようなことを笑って話したことがあると気が付いて、そういう所はなんとなくシンパシーを感じた。
「そっか。だから、眼を閉じたの?」
「うん」
「そうしたら、嫌われなくなった?」
こいしは、少しだけ考える素振りを見せて。
「嫌われにくくはなったかな。……でも、その代わりに。周りからは気づいてもらえなくなった」
静かに、そう言った。
さっきまで何とも思わなかった第三の眼が、急に寂しそうに見え始める。
こいしとお話しするようになってから、何となくだけど、私とこいしは同じようなところがあるんじゃないかと思ってた。
でも今の話を聞くと、根本的な部分は同じようでいて、実際にはどこか違うように感じた。
私は地下から出て、みんなに見てもらえるようになった。けれどこいしは……自分から眼を閉じて、みんなに気づかれなくなった。
……もしかしたら、今の私たちは同じようでいて、実際には反対なのかもしれない。
「でもさ、わたしはこいしのこと見えてるよ?」
「うん」
「そーえーにも見えてた。それはどうして?」
私の問いかけに、こいしが首を傾げながら考える。
ややしばらく悩んだ後で、観念したようにこいしは口を開いた。
「うーん……私にも分かんないや。フランもそー君も、最初から普通に私を見てたもんねぇ。ほんと、なんでだろ?」
心底不思議そうにしながら、こいしはそう答える。本人からしても、私たちがこいしを見つけられるのはよく分からないみたいだ。
「霊夢よりすごい?」
「どうだろう?」
「魔理沙より?」
「どうだろうね」
「むぅっ」
ニヤッと笑うこいしを見て、また誤魔化されたと私は思った。そんな私を見て、「でもね」とこいしが続ける。
「見つけてもらえるのは、ちょっと面白いよ」
「面白い?」
「うん。みんなが私に気付かないで通り過ぎるのに、そー君だけは急にこっちを見るの。そしたらさ……」
こいしが、そーえーの真似をするみたいに眉を寄せた。
「『……誰だ?』って言うの!」
「あははっ! それにぃにのモノマネ? 全然似てない!」
「えぇー? 似てるよぉ」
「もっとこう、そーえーは変な顔をするもん」
「じゃあフランもやってみせてよ」
「いいよ! えっと……」
私も眉を寄せてみる。
「『妖怪? 怖いなぁ……』」
「ぶふっ! 似てる似てる!」
「えへへ、でしょ?」
そーえーのモノマネをし合って、ふたりで笑い合った。
……そーえーが聞いたら怒るかもしれないから、ふたりだけの秘密にしておこう。うん。
「ねえ。こいしって、どうしてそーえーのこと『そー君』って呼ぶの?」
ふと、気になったことをこいしに聞いてみた。
「そー君だからだよ」
こいしは、なんでもないことのようにそう答える。
「それじゃあ分かんないよ」
「えー?」
「わたしは『そーえー』か『にぃに』だもん。でもこいしは、ずっと『そー君』でしょ? どうして?」
里での出迎えの時もそうだった。すごく親しげに、こいしはそーえーのことを「そー君」と呼ぶ。そーえーも、その呼び方には特に何も言わないで受け入れているように見える。
もしかしたら、こいしはその前からそーえーのことを知っていたのかもしれない。そんなことを考えて、私は少しだけズルいなぁとか思った。でも。
「んー……」
こいしは頬杖をついたまま、少しだけ考え込んで。
「……弟みたいだから?」
「えっ」
そんなことを言うものだから、私は呆気にとられた。
「そーえーが、弟?」
「うん」
弟。こいしは、確かにそう言った。
あまりの衝撃に、うまく言葉が出てこない。
そーえーが、弟……あのにぃにが弟?
「……なんか、変なの」
「そうかな?」
「だってそーえー、すっごくしっかりしてるよ? ご飯作れるし、お掃除もするし、剣も強いし、飛べるし……色んなことをいっぱい知ってる。それに、ちゃんとわたしのお兄ちゃんだよ?」
「そっか、フランにとってみればそうなんだね。……でも、私からすれば弟っぽいんだよね」
「なんでぇ!?」
納得できない私を見て、こいしは楽しそうに笑った。
「それはね、人のことになるとすっごくしっかりするから……かな」
「……うん? どういうこと?」
こいしは、指折り数えながら説明する。
「フランが危なかったら助けるでしょ?」
「うん」
「私が家出したって言ったら、ご飯食べさせてくれて、お家にも置いてくれてるでしょ?」
「うん」
「阿求が転びそうなら、すぐ手を出すでしょ?」
「うん」
「でも、自分のことになると……どう?」
そう問われて、今までのそーえーの行動を思い返す。
私が見てきたそーえーは、怪我をするとそれを隠そうとすることが多かった。
きっと、私や阿求を心配させないようにするためなんだと思うけど……その結果として、分かりやすく無理をすることがとても多かった。阿求とかパチュリーとかにバレた時は、こっぴどく怒られてもいた。
そうしたら、今度はバレないようにって、そーえーはもっと上手く隠そうとする。普段からコートをあまり脱ぎたがらないのは、身体の傷を隠すためなんだって、私は勝手に思ってる。
それ以外にも、なにか問題が起きたら、そーえーはまず自分でどうにかしようとする。誰にも相談しないままひとりで頑張って、全部解決してなにも無かったような顔をする。
……いつのことだったか、阿求が言ってた。そーえーは頑張り過ぎなんだって。ちっとも頼ってくれなくて、寂しいって。
似たようなことは里の人間達も言ってた気がする。あの子は無茶しがちだから、こっちから声を掛けてやらないと心配だって。
「……うーん、なんかダメダメかも」
「でしょ?」
こいしは、少しだけ優しい顔をしながらそう言う。
頼りないという訳じゃないけど、見ていて心配になるという意味では、確かに弟っぽくはあるのかも?
「でも、にぃにはにぃにだもん」
「フランにとってみればね」
「むぅ……」
そこは譲らないんだ……。いや、私も譲らないけどさ。
「そー君ってね。人をお家に入れるのは上手なの」
「お家?」
「うん」
唐突に、そんなことを言いながら玄関の方を見る。
「人でも、妖怪でも、怖いって言いながら入れてくれるでしょ?」
「うん」
「でも、自分の中に誰かを入れるのは、ちょっと下手なんだよね」
「うん?」
「だから、弟みたいだなって思うの」
「うーん?」
なんだかよく分からないことを言い始めた。
お家? 自分の中? ……きっと比喩表現なんだろうけど、どういう意味なんだろう?
「んー……よく分かんないや」
「あはは。これに関しては、私も上手く言えないや。自分の中に誰かを入れるのは、私も上手くないからね」
説明を諦めた様に、こいしは笑った。
「それ以外でも、放っておいたら勝手にどっか行って、勝手に怪我して帰ってきそうだなーって」
「あっ、それは分かる!」
「でしょ?」
「うん!」
そこはものすごく分かる。お姉様が起こした異変の時も、その後のことも、そーえーはそういうことばっかりしてた。
「だから私は、創英のことを……そー君って呼ぶの」
「それが、こいしの言う『弟みたいだから』ってこと?」
「うん。勿論、そー君は本当の弟じゃないよ? でも、見ていて心配になるほど、一生懸命で健気なところが弟っぽいから、そう呼ぶの」
「そうなんだ……」
こいしは少しだけ、自慢げに胸を張る。
「えっへん。フランも、私のことをねぇねって呼んでもいいんだよ?」
「えー? なんだか似合わないなぁ」
「にあっ……!? うぅ、ひどいやフラン。どうしてそんなこと言うの?」
「だって、こいしだから」
「それってどういう意味っ!?」
「あははははっ!」
今度は私が笑う番だった。
⸻
「フランってさ、お姉ちゃんいるんだよね」
「うん。レミリアお姉様」
「好き?」
「好きだよ。……前までは、どう接したらいいのかよく分からなかったけど。今は好き」
私は、すぐにそう答えた。
異変が終息した後、お姉様が私にこう言ったことを覚えている。
――『私は、あなたを怖がっていた。どう接していいのか、分からなかった。それで、閉じ込めて、離れて……“守る”なんて言葉で誤魔化していたの』
みんなが、私の力を怖がっていたのはわかっていた。必要以上に近寄ってくることもなくて、用事があるとき以外は誰も来ない地下の部屋で、当時の私は暮らしていた。
仕方ないとは思っていた。でも、本音を言えば少しだけ寂しくもあった。私のこの歯止めの効かない力は、扱いを間違えれば悲劇を生む。故に、お姉様からも距離を置かれていた。
誰かから明確に拒まれたわけじゃないのに、どこにも居場所がない。そう感じる時もあった。
けど――そんな暗がりにいた私を、にぃには……そーえーは、連れ出してくれた。
その日から、みんなの態度が大きく変わった。誰も、私を遠巻きに見なくなった。前よりもずっと近い場所で声を掛けてくれるようになった。
地下に引きこもっていた私に、地上の居場所が出来たんだ。
「私が何かするとすぐ怒るし、小難しいことばかり言うし、偉そうだし。たまに変なこと言うけど……」
苦笑しながら瞳を閉じる。薄ぼんやりとした目蓋の裏の暗闇に、浮かんでくるのは館のみんなの顔。
凛とした表情の咲夜。小難しそうな表情のパチュリー。ころころと目まぐるしく表情が変わる小悪魔。明るい表情を浮かべる美鈴。いつも傍にいてくれるようになったラッシュの、見守るような表情。
そして――そんな館の皆の上に立つ、お姉様の不敵な表情。
いまは、そんなみんなの輪の中に……私もいる。
「でも、大好きだよ」
目を見開いてそう締めくくる。……本人たちの前では気恥ずかしくて口にできないけど、いまだけは、素直に言うことができた。
「そっか。お姉ちゃんって、どこも同じなんだね」
私の言葉に苦笑を漏らしつつも、こいしはそう答えた。きっと、思い当たることがあるんだろう。
「こいしにも、お姉ちゃんいるの?」
「いるよ」
「どんな人?」
「えっとね、さとりお姉ちゃんって言うんだけど……」
その名前を言った時、こいしの表情が少しだけ柔らかくなったように見えた。
「お姉ちゃんも第三の眼があるよ」
「そうなんだ。そっちは開いてるの?」
「うん」
「じゃあ、心を読めるんだ。こいしと一緒だったんだね」
少し迷ってから、そっと聞いてみた。
「……お姉ちゃん、嫌い?」
「どうして?」
「だって、家出したんでしょ?」
「あー」
こいしは何でもないように答えた。
「嫌いじゃないよ」
「じゃあ好きなの?」
「好きだよ」
「じゃあ、どうして帰らないの?」
「今は帰りたくないから」
同じ答え。そーえーに聞かれた時も、そう答えていたのを思い出す。
「それだけ?」
「それだけ」
「……本当に?」
「本当だよ?」
私には分からなかった。
好きなのに帰りたくない。そんなこともあるのかな?
「フランは、ずっと紅魔館に帰りたい?」
「え?」
「ここにいる時も」
「…………」
答えようとして止まった。
紅魔館は好きだ。お姉様も、咲夜も、美鈴もパチュリーもラッシュも、みんな好きだ。
でも、今はそーえーのお家にいるのも好き。
「……どっちも好き」
「でしょ?」
「でも、それと家出は違うもん」
「そうかな?」
「違うよ!」
「じゃあ、違うのかもね」
「もうっ!」
やっぱり、こいしの考えてることはよく分からない。
……だけど、ほんの少しだけなら分かった気もした。
⸻
お茶がなくなった。こいしが急須を覗く。
「もうないや」
「そーえーが帰ってきたら淹れてもらお」
「自分たちで淹れたら?」
「それでもいいけど、そーえーが淹れてくれた方がおいしいもん」
「それはそうだね」
二人で頷いた。
……しばらくして、私は何とはなしにまた玄関を見た。
「あ、6回目」
「数えないでよ!」
「フラン、そー君のこと好きだね」
「それは……うん、好きだよ。だってわたしのにぃにだもん」
何も考えず答える。
「女の子でも?」
「え?」
こいしが、首を傾げた。
「最近のそー君って、女の子でいることが多いでしょ?」
「……うん」
一月に入ってから……ううん。あの薬を自分から使い始めてから、そーえーはほとんどずっと女の子の姿で過ごしている。
最初は薬のせいだった。でも今は、自分であの薬を飲んでいることを知っている。
髪はずっと長いまま。顔も、声も、身体も、女の子になると全部変わる。
「女の子のそー君は、嫌い?」
「嫌いじゃないよ!」
すぐに否定した。
「可愛いし髪も綺麗だし、お洋服もすごく似合ってる」
「うん」
「それに、抱きついても怒らないし」
「男のそー君でも怒らないよ?」
「それは……そうだけど」
こいしが笑う。
「じゃあ、何が嫌なの?」
「嫌じゃないってば」
「でも、何かあるんでしょ? 何が引っ掛かってるの?」
「うーん……」
湯呑みを指で触る。お茶の温もりは消え失せて、もうすっかり冷たくなっていた。
「……分かんない」
「そっか」
「女の子のそーえーも、そーえーだよ。それは分かってる。でも……」
言葉が上手く出てこない。
何だろう……胸の奥で、何かがずっと引っ掛かっている。
女の子になったそーえーを見ても、そーえーだと思う。声が変わっても、顔が少し変わっても、抱きつけばちゃんと同じ匂いがする。
頭を撫でる手も優しいし、怒る時の顔も同じだ。
だから、同じなのに。同じの筈なのに……。
「もしも、ずっと女の子のままだったら……あの時の約束まで変わっちゃうのかなって」
散々悩んだ末に、やっと言葉となって出てきた。
「……その約束っていうのを、そー君は変えるって言ったの?」
「いや……言ってないよ」
「なら、変わらないんじゃない?」
「そうなのかな」
「うん、変わらないと思う」
こいしが笑う。
「呼びたいように呼べばいいんだよ。フランにとって、そー君はお兄ちゃんなんでしょ?」
「うん」
そこだけは、すぐに答えられた。
「だって、そーえーは――わたしが『にぃにって呼んでいい?』って聞いたら『いいよ』って言ってくれた人間だから。それに……わたしのことも『妹として迎え入れるよ』って、言ってくれたんだもん」
「そっか。ずっと気になってたけど、あれはフランが勝手に呼び始めたんじゃないんだね。じゃあ、なおさら変わらないんじゃないかな」
「……でも。もしも、ずっと女の子になったままだったら?」
「んー、それでもフランが『にぃに』って思うなら、にぃになんじゃない?」
「そうかなぁ……」
「私は女でもそー君って呼ぶよ」
「こいしはそもそも、ずっとそー君で呼ぶつもりでしょ?」
「うん」
「だよね。でも、わたしは……」
やっぱり、何か違う。
嫌ではない。女の子のそーえーも好きだ。
それでも、私が初めてそーえーを「にぃに」と呼んだ時に欲しかったのは――「可愛いお姉ちゃん」じゃなかった。
「……やっぱり」
「うん?」
「にぃにには、にぃにでいてほしいよ」
口に出したら、少しだけ胸のつかえが取れた。
こいしはしばらく私を見た後で、薄く笑いながら頷いた。
「じゃあ、それを本人に言えばいいよ」
「そーえーに?」
「うん」
「……うぅ、恥ずかしい」
「どうして?」
「だって……」
理由は分からない。でも、なんだか恥ずかしい。
「言わなくても分かってくれないかな……」
「絶対無理だよ」
「即答っ!?」
「だって、あのそー君だよ?」
「…………」
何も言い返せない。
「そー君、人のことはいっぱい見るけど、自分がどう見られてるかは全然分かってないよ」
「それは……分かるかも……」
「でしょ? だから、ちゃんと言わなきゃダメだよ」
こいしが、人差し指を一本立てる。
「言葉にしないと伝わらないこともあるんだよ」
「……こいし、なんだかお姉ちゃんみたい」
「でしょー? だって、私はそー君のお姉ちゃんだもんね」
ふたりで笑い合う。そうしてひとしきり笑った後で、私はもう一度だけ玄関を見た。今度は、こいしは数えなかった。
女の子のそーえーも好き。どんな姿でも、そーえーはそーえーだと思う。
でも――私を助けてくれた後、館のガゼボで改めてお話をした時、「にぃにって呼んでいい?」と聞いた私を、そーえーは妹として迎えてくれた。
だから、私にとってそーえーは「にぃに」なんだ。
いつか、ちゃんと言える時が来たら……この気持ちをそーえーに伝えよう。
そう思いながら、私は帰ってくるはずの人を待った。