◆◇◆◇◆◇◆◇◆
二月に入って、何日かが過ぎた頃。
「……ん、ぅ……」
障子の隙間から差し込む朝の光に目を細めながら、俺はゆっくりと瞼を開いた。
視界に映るのは見慣れた天井。冬の朝らしく空気は冷え切っていて、布団から出ている鼻先がひんやりする。外からは風が木々を揺らす音が微かに聞こえてきて、家の中にはまだ誰かが動き回る気配もない。
いつも通りの朝だった。
……少なくとも、目を覚ました直後までは。
「…………あー?」
身体を起こそうとして、俺はそのまま枕へ頭を戻した。
「なんだこれ……頭いてぇ……」
ずきずきするというより、重い。
頭蓋の内側へ薄い鉛でも貼り付けられたみたいに、こめかみから後頭部へかけて鈍い痛みが居座っている。目を閉じても楽になる気配はなく、むしろ意識を向けたせいで余計にはっきり感じるようになった。
昨日、夜更かしでもしただろうか。
……いや。いつも通りだったはずだ。
晩飯を食って、片付けをして、風呂に入って。その後はフランとこいしの相手を少しして、日付が変わるよりずっと前には寝た。
「寝不足じゃあない、よなぁ……」
ぼそりと呟いて、今度こそ起き上がる。
肩へ流れ落ちた長い金髪を片手で退けながら上体を起こした、その瞬間だった。
「っ……」
ぐらり。
部屋そのものが横へ傾いた。
「うぉっ……!?」
咄嗟に布団へ手をつく。
一瞬だけ視界が白く霞み、耳の奥で低い音が鳴った。血の気がさっと引いていくような感覚がして、身体だけが自分から少し遅れて動いているような、妙な浮遊感に襲われる。
数秒。
じっとしていると、ようやく視界が元へ戻った。
「なんだ……?」
寝起きに勢いよく起き上がったせいか?
そう考えながら額へ手を当てる。熱っぽさは……多分ない。喉も別に痛くないし、鼻も普通だ。
風邪って感じじゃない。なのに。
「あー……怠い……」
身体が、やたらと重かった。
肩や腕、脚すらも、一日中走り回った後のように芯から疲れている。
筋肉痛とは違う。ただ動かすことそのものが億劫になるような、じっと布団へ沈んでいたくなる怠さだった。
寝れば多少は回復するはずなのに、むしろ寝る前より疲れてるんじゃないかと思うくらいだ。
「なんなんだよ、これは……」
思わず愚痴が漏れる。とはいえ、寝込むほどでもない。
しばらく座っていれば目眩も治まったし、頭痛だって我慢できないほどじゃない。朝飯を作っているうちに身体も目を覚ますだろう。
そう判断して布団から出ようとした時、今度は胸元に違和感を覚えた。
「……いてっ」
寝間着が擦れただけで、胸元が痛んだ。
眉を寄せながら胸元へ手を当ててみると、柔らかい感触の奥に、張っているような重さがある。
「…………」
もう一度、そっと確かめる。
「……なんだこれ。なんか張ってるな」
左右ともだ。別に昨日どこかへぶつけた覚えもない。そもそも打撲なら、こんな妙な張り方はしないだろう。
「一体なんなんだ……?」
訳が分からず、俺は首を傾げた。
……もっとも、この身体になってから初めて経験することなんて、まだ山ほどある。
鏡へ目を向ければ、そこに映っているのはここ最近すっかり見慣れてしまった少女の姿だった。
腰どころか、その先まで伸びた金色の髪。男だった時より柔らかくなった顔立ちに、紫色の瞳。身体つきも完全に女のものへ変わっていて、寝間着の上からでも腰や胸の輪郭は分かる。
一月に入ってから――いや、正確には性相変成薬を自分の意思で使うようになってから、俺はこっちの姿で過ごしている時間の方が圧倒的に長くなっていた。
最初こそ、フランとこいしが布団へ潜り込んでくるなら俺まで女になれば問題ないんじゃないか……なんていう、今思えば何ひとつ解決していない頭の悪い発想がきっかけだった。
「……我ながら、何考えてたんだろうな」
あの時の自分へ呆れながら、俺は寝間着の襟を直した。
結局の所、女になったところでフランもこいしも普通にくっついてくる。だから当初の目的なんてとっくに意味を失っているんだが……それでも、薬を使うこと自体はやめなかった。
女の身体になっても、俺自身が別人になるわけじゃない。多少勝手が違うだけで、慣れてしまえば生活に支障もない。
咲夜さんが服を用意してくれているから着る物にも困らないし、フランはこっちの姿も気に入っている。阿求も最初こそ随分驚いていたが、その後は普通に接してくれているし、里の人達なんて最近じゃ「あら、今日も可愛いわね」で済ませてくる始末だ。
――だったら、まあいいか。男の姿でいるよりは幾分か気が楽だし。
そんな感じで使い続けていたら、いつの間にやら一月の大半を女として過ごしていた。
「…………ん?」
そこまで考えたところで、俺はふと眉を寄せた。
そういえば。
「俺、最後に薬飲んだのって……いつだっけ?」
昨日……ではない。
少なくとも昨晩は飲んでいない。
その前……だったような気がする。
「…………」
少し考えて。
「いや、長くないか?」
ぽつりと、そう呟いた。
以前なら薬の効果はもっと分かりやすかった。時間が経てば少しずつ身体が戻っていくし、急いで解除したい場合はパチュリーから渡された解除薬を使えばいい。
ところが最近は、一度女になるとなかなか戻らなくなっている。
別に困っていなかったから深く考えていなかったが、改めて振り返ると効果時間が妙に延びている気がした。
「……また改良したとか言ってたし、多分そのせいかな?」
今日はちょうど、パチュリーさんのところへ性相変成薬を受け取りに行く予定だ。
なんでも、また手を加えたらしい。
「ちょっと改良したわ」という言葉ほど不安になるものもないが、今のところ身体に妙な異常が出たことは……。
「…………」
頭痛。
目眩。
倦怠感。
胸の張り。
「……出てるな」
俺は思わず天を仰いだ。
「いや、そもそもこれは薬のせいなのか?」
分からない。けど、まあ……その辺もついでに聞けばいいだろう。
そう結論づけ、今度は慎重に立ち上がる。少しふらついたものの、今度は倒れるほどではなかった。
顔を洗って着替えよう。そう思って部屋を出ようとしたところで、もうひとつ。さっきからずっと、妙な違和感が胸の中にあった。
無言のまま足を止める。なんだろう? 胸が痛いとか、そういう話じゃない。それよりもっと曖昧で、自分でも形を掴みにくいものだった。
……静かすぎる。そう感じた。
朝なんだから当然だ。まだ早いし、フランもこいしも寝ている。この家で一番早く起きるのは大抵俺だから、それはいつものことだ。
なのに、今日は。
「……静かだな」
そう声に出した瞬間、何故だか妙に胸が詰まった。
誰もいないわけじゃない。フラン達は隣の部屋にいる。こいしだって、昨日はちゃんとここへ帰ってきていた。
……まぁこいしの場合は、気づいたら何処かに行ってることもあるけど、少なくとも昨日の夜はいた。
ほんの数歩。声を掛ければ届く距離だ。それなのに、自分だけが妙に遠い場所へ置いていかれたみたいな、そんな感じがする。
「…………さっきから、一体なんなんだよこれは」
戸惑って、俺は胸元へ手を添えて考えてみる。
この気持ちを表現するならば――寂しい、だろうか。
多分、これを言葉にするならそうなる。……けど。
「いやいやいや……寝起き一発目でなに言ってんだよ、俺」
思わず首を振った。
家の中に二人もいるのに何が寂しいんだ。
ついでに言えば、この後は紅魔館へ行くんだ。そこにはお嬢様達もいるし、知り合いだって山ほどいる。一人になる予定なんてどこにもない。
……それでも、無性に誰かの声が聞きたかった。
何か話したい。内容なんてどうでもいいから、同じ部屋に誰かいてほしい。そんな、得体の知れない孤独感が胸の中を埋めている。
そこまで考えてから、俺は額を押さえて唸った。
「……重症だな、こりゃ」
自分でも訳が分からない。
まさか体調を崩しただけで、こんなに心細くなるとは思わなかった。
フランでも起こすか――という考えが、一瞬だけ頭を過ぎる。だが、さすがにそれはすぐに却下した。
まだ寝ている妹を、俺が寂しいからなんてなさけない理由で起こしてどうする。
「ったく……」
大人しく顔でも洗おう。そう決めて、俺は廊下へ出た。
——
冬場の床板は冷たい。靴下越しでも、足の裏から冷気が染み込んでくる。
その冷たさに、少しだけ頭が冴えたような気がしつつも洗面所へ向かう。
顔を洗ってしまえば、この変な気分も多少は抜けるだろう。そんなことを考えながら戸を開け――。
「ん?」
――そこで下腹部の違和感に気付き、次いで、寝間着に滲む赤色を見て眠気が一気に吹き飛んだ。
最初は、何かの見間違いだと思った。でも違う。こんなものを見間違えるはずがない。
もう一度、今の自分の状態を確認して。
「…………は?」
俺は完全に固まった。
「いや……えっ!?」
すっかり覚醒した頭をフル回転させて状況を整理する。
知識としては知っている。別に珍しいことでもなんでもないことだ。健康な女性なら、多くの場合は普通に経験するものだと理解している。俺だって十三年生きてきて、それが何なのか知らないほど世間知らずじゃない。
……でも。
「俺に来るのかよ!?」
思わず漏れた声が、やたら情けなかった。
頭痛と身体の怠さ。軽い目眩に始まり、胸の張りまで起きている。それに、さっきから自分でも意味が分からないくらい強く感じていたこの心細さ。
宗家で習った知識が、全部一本の線へと繋がる。
「もしかしなくても……これは、生理だよな?」
誰もいない洗面所で、俺は小さく呟いた。
口にすると余計に現実味が増した気がする。
「マジかぁ……」
両手で顔を覆う。
女の身体になっている。それ自体はもう慣れたことだ。身体の構造が変わっている以上はこういうことだって起きる可能性も、考えようと思えば考えられたはずだ。俺の年齢的にも、それは決して不自然な事ではない。
だが俺の中では、どこかにまだ「これは薬で一時的に変わってるだけ」という思考が残っていた。
見た目が変わる。声が変わる。身体つきが変わる……その程度だと思っていた。
「いや、そこまで律儀に女にならなくてもいいだろ……」
誰へ言うでもなくぼやく。けど、俺の身体は何も答えてくれない。
「…………先ずは着替えるか」
ひとまず、必要な処置を済ませに掛かる。幸い、何をどうすればいいのかという知識自体はあった。
小学校でもそういう授業はあったが、宗家で教育を受けた時にそこら辺の知識はしっかり叩き込まれている。男女問わず、一通りの生活知識は把握済みだ。
社会に出てから改めて覚えるよりも、予め知っていた方がいい。そういう方針だった。それについてはとても感謝しているし、現にいま物凄く助かっている。
……でも、だからって。
「実践する日が来るとは思わねぇじゃん……」
思わず遠い目になった。
鏡を見やれば、そこには寝起きで乱れたままの金髪をさらした俺がいる。
血を流したからなのか、はたまた諸症状故なのか、少しだけ青ざめた顔をしていた。
「…………」
そんな自分の姿をじっと見つめていると、不意に妙な気持ちになる。
ここ最近、この顔を見ること自体には何の抵抗もなくなっていた。鏡の中に女がいても、それが自分なのだと普通に思えている。最初の頃みたいに「誰だこれ」と思うことも、もうなくなっていた。
髪を整える時も、服を選ぶ時も、動き方に迷うことはほとんどなくなった。咲夜さんに教わった所作諸々も、いつの間にか板につき、半ば癖になっている。
立ち方。座り方。髪の扱い方。長い髪が食事や家事の邪魔にならないよう、手早く纏めるやり方に至るすべてが、今では身体に馴染んでいる。
いちいち「女らしくしよう」と考えているわけじゃない。ただ、こっちの身体で一ヶ月近く生活していたら、自然とそうなっただけだ。
「……慣れって、怖いなぁ」
苦笑しながら、髪を軽く梳く。
けれど、その直後にまた頭の奥がずきりと痛んだ。
「ぐっ……」
眉間を押さえる。さすがに今日ばかりは、無理をしない方がいいかもしれない。
「朝飯くらいなら、作れるだろうけど……」
そう呟きながら廊下へ戻った。
——
居間へ向かい、火を起こす。
囲炉裏の炭がぱちぱちと小さく爆ぜ、冷えていた部屋へ少しずつ暖かさが広がっていく。
米は昨夜のうちに用意してある。味噌汁も簡単なものでいい。焼き魚と漬物があれば朝飯としては十分だろう。
いつものように動こうとして――長い髪が肩からするりと落ちてきた。
「あー……」
……邪魔だ。
俺は、手早く髪を高い位置で纏める。
腰を遥かに越える長さになった髪をいつもの高い位置で結び、それだけでは調理中に先端が邪魔になるため、今日はさらに下の方も軽く結んでおいた。
「これでよしっと」
改めて包丁を手に取り、朝飯の準備を始める。……だが。
「ゔぁ~……しんどい~……」
いつもなら何でもない動作なのに、妙に腕が重い。まな板へ向かっているだけなのに肩が張り、包丁を動かしていると頭痛がじわじわ強くなる。
「マジでなんだよこれ……世の女性達は、みんなこんなのを抱えて生きてんの……? これもう人体のバグか何かだろ……」
体力が落ちているわけじゃないはずなのに、もう身じろぎするのも嫌でたまらない。
戦った後の疲労とも違う。身体の芯に、抜けない重さがずっしりとまとわりついている。
……それでも、朝飯を作る手だけは止めなかった。俺が作らなければ、あの二人が起きた時に困るからだ。
別に大した作業じゃない。これくらいならなんとか――。
「そー君」
「うわっ!?」
真後ろから声がして、肩が跳ねる。
反射的に振り返ると、そこにはこいしが立っていた。
「ああ……こいしか。お前、いつからそこにいた?」
「今だよ」
「いや絶対嘘だろ」
「ほんとだよ?」
「お前の『今』は信用ならないんだよなぁ」
いつの間にやら、こいしが居間の入口に立っていた。寝起きらしく、少しだけ髪が乱れている。
こいしは俺の顔を見ると、何度か瞬きをした。
「そー君、今日は変だね」
「朝っぱらから随分と失礼な奴だな」
「いつも変だけど、今日は違う変」
「おい、余計失礼になったぞ」
苦笑して再び包丁へ向き直る。
「体調でも悪いの?」
「あー……まあ、ちょっとな」
「ふーん」
こいしが近づいてくる。
俺の横まで来ると、覗き込むように顔を上げた。
「顔、白いよ」
「元からだろ」
「いつもよりも白いよ。ほんとに大丈夫?」
珍しく、こいしの声に冗談の気配を感じない。
確かに、鏡で自分の状態を見た時も少し青ざめて見えはしたが……。
「大丈夫だ。朝飯作ったら少し休む――」
そう言いながら身体を動かした瞬間、また視界が揺れた。
「くっ……」
反射的に調理台へ手をつく。こいしの顔が、一瞬だけ二重に見えた。
「……そー君?」
「へ……平気だ。ちょっと、立ちくらみしただけだ」
そう言って数秒ほど待つ。……そうしている内に、眩暈は治まった。
なら問題はない。そう思って包丁を持ち直そうとしたところで、今度はこいしが俺の袖を摘んだ。
「今日は座ってた方がいいんじゃない?」
普段は感情を読めないこいしの顔に、はっきりと心配の色が浮かんでいる。
「……朝飯、まだできてないぞ?」
「食べなくても今すぐには死なないよ」
じっと眼を覗き込むようにして合わせてくるこいしのその様子に、有無を言わせないような雰囲気すらも感じる。
「フランにそれ言ってみろ。多分泣くぞ」
こいしからの追及を躱すために、それっぽく反論をしてみるが……。
「じゃあ私が作るよ。そー君は居間で待ってて」
袖を捲くって横に並び始めたので、慌てて止めた。
「お前に任せる方が怖ぇよ!」
「失礼だなぁ。私だって料理くらいできるよ」
「前に湯呑み逃がした奴が何言ってんだ」
「あれは湯呑みが勝手に逃げたんだよ?」
「歩かないんだよ、湯呑みは……」
どっかで聞いたような話だな……とか、そう思いながら笑ったその時、廊下の向こうからぱたぱたと軽い足音が聞こえてきた。
「そーえー?」
今度はフランだった。
寝間着姿のまま居間へ顔を出したフランが、俺とこいしを交互に見る。
「おはよう、フラン」
「おはよー……」
まだ少し眠そうだ。けれど俺の顔を見た途端、目がぱちりと開いた。
「……そーえー?」
「ん?」
「なんか元気ない?」
「いや、まあ……ちょっとな。体調が優れないだけだ」
誤魔化すほどのことでもないので素直に答える。
するとフランはすぐに俺のところまで来た。
「大丈夫……?」
「ああ。寝込むほどじゃないさ」
「ほんと?」
「ほんとほんと」
安心させるように頭を撫でる。
いつもの柔らかい髪。いつもの体温。
そのままフランが俺の腕へ抱きついてきて――。
「…………」
ふっと。胸の奥にずっとあった、あの妙な心細さが和らいだ。
「……?」
なんだ、今の。
「そーえー?」
「あ、いや」
何でもない、と答えながらフランの頭へもう一度手を置く。
ただ傍に誰かいる。それだけで、さっきまで妙に広く感じていた家が、急にいつもの大きさへ戻ったような気がした。
……ほんとにどうしたんだ、俺は。
「そー君、やっぱり今日変だね」
「うっさい」
こいしがニヤニヤしている。
「でも……フランが来たら、ちょっと元気になった」
「なっ……」
言われて、妙に気恥ずかしくなる。
「別にそういうのじゃ……!」
「そういうのって?」
「ぐっ……し、知らんっ!」
「にぃに、寂しかったの?」
「フランまで乗るなっ!」
思わず声を上げる。その拍子に頭へ響いて、俺は顔をしかめた。
「あぐっ……いっ、たぁ……」
「ほら! やっぱり具合悪いじゃん!」
「だから……ちょっと頭痛いだけだって……」
「座って!」
「いや、でも朝飯――」
「座って!!!」
「…………はい」
有無を言わせない勢いだった。こういう時のフランは、妙に押しが強い。
仕方なく囲炉裏の傍へ腰を下ろすと、こいしまで満足そうに頷いた。
「弟はお姉ちゃんの言うことを聞くものだよ」
「誰が弟だ、誰が」
「そー君」
「違ぇよ」
まったく。昨日だか一昨日だか知らんが、一体ふたりで何を話したんだ。
そう思いながら火へ手を翳す。
……温かい。
少しだけ、身体の力が抜けたような気がした。
「……で、そーえー。どこが痛いの?」
「頭。あとちょっと目眩がする」
「それだけ?」
「まあ……そうだな、身体も怠いな」
そこまで答えて、胸の張りについては黙っておいた。
別に隠す必要もないんだろうが、わざわざ妹相手に言う内容でもない。
「今日は紅魔館行くんでしょ?」
「ああ。ちょうどパチュリーさんに用があるから、ついでに相談してみるつもりだ」
「薬のこと?」
「そう。新しいのが出来たから取りに来いって言われてたんだよ」
性相変成薬。
また改良したとか何とか言っていた。
この体調不良が薬のせいなら、なおさら本人に聞いた方が早い。
「でも、今日行かなくてもいいんじゃない?」
「いやぁ、まあ……」
一瞬迷う。
確かに急ぐ必要はない。
けど。
今朝気づいたことが、どうにも引っ掛かっている。
薬の効きが長すぎること。
そして。
「……ちょっと確認したいこともあるんだよ」
「確認?」
「んー……まあ、身体のことだな」
それ以上は濁した。
フランが首を傾げる。こいしは何も言わず、俺の顔を見ていた。
「大丈夫だって。パチュリーさんの所まで行って、話を聞くだけだから」
そう言って笑う。自分でも、この時は本当にその程度にしか考えていなかった。
薬で女になっている。なら、この身体に起きていることも薬による変化の延長だろう。
月経が来たことだって――女性の身体になっている以上、そういうこともある。少なくとも、そう考えれば説明はつく。
問題があるとしても、せいぜい薬が効きすぎている程度だ……と。
「……よし。朝飯食ったら行ってくるか」
そうして立ち上がろうとして。
「座ってて!」
「座っててね、そー君」
「……はいはい」
両側から止められ、俺は諦めて腰を戻した。
どうやら今日は、朝飯ひとつ作らせてもらえないらしい。
「じゃあ誰が作るんだよ」
「三人で作ればいいじゃん」
「俺座ってろって言われてんだけど」
「指示して」
「料理長?」
「うん」
「フランは?」
「助手!」
「私は?」
「……こいしは」
「なんで間があったの?」
「味見係?」
「料理させる気ないじゃん」
思わず吹き出す。釣られて、フランも笑った。こいしだけが不満そうに頬を膨らませている。
さっきまで胸の中にあった妙な孤独感は、いつの間にかかなり薄れていた。
そのことに少しだけ戸惑いながら、俺は二人へ簡単な朝飯の作り方を指示していく。
こうしていれば、いつもの朝と何も変わらない。
俺が女であることも、身体が少し重いことも。今朝、生まれて初めて経験するものが来たことも。
全部、あとでパチュリーに聞けばいい。この時の俺は、まだそう思っていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
朝食を終えた頃には、頭痛は多少落ち着いていた。
完全に消えたわけじゃない。
身体の怠さも残っているし、急に立てばまだ少し視界が揺れる。
それでも歩けないほどではなかった。
「じゃ、行ってくるよ」
玄関で黒いロングコートへ袖を通す。
今日の服は、白いブラウスに紫色のニットベスト。それに黒のスラックスという、最近よく着ている組み合わせだ。
長い金髪はいつものように高い位置で纏め直した。さすがに調理も終わったので、下側へ追加していた結びは解いてある。
「ほんとに一人で大丈夫?」
フランが心配そうに見上げてくる。
「大丈夫だよ。紅魔館まで行くだけだって」
「飛んでくの?」
「いや。今日はゆっくり歩いてく」
目眩がある状態で空を飛ぶのは、さすがに危ない。そこまで無茶をするつもりはない。
「帰るの遅くなる?」
「んー……どうだろうな。薬受け取って、ちょっと診てもらうだけなら昼前には戻れると思うけど」
「ほんと?」
「ああ」
そう答えて、フランの頭を軽く撫でた。
「何かあったらラッシュを呼べよ」
「うん」
「こいしも、勝手にどっか行くなよ」
「えー?」
「えー、じゃない」
「帰ってくるよ?」
「出てく前提じゃねぇか」
ため息をつきながら戸へ手を掛ける。
「じゃあ、行ってくる」
「いってらっしゃい、そーえー!」
「いってらっしゃーい、そー君」
二人の声を背中で聞きながら、外へ出る。冷たい風が頬を撫でた。
「さむっ……」
思わずコートの襟元を押さえる。雪の残る道へ足を踏み出しながら、俺はもう一度だけ自分の身体へ意識を向けた。
頭痛。
胸の張り。
怠さ。
目眩。
そして……生理。
「…………」
並べれば並べるほど、健康とは言い難い状態だ。
とはいえ全部、女性なら普通に起こり得る症状でもあることは知っている。
「……まあ、パチュリーさんならなにか分かるだろ」
そう呟き、俺は紅魔館へ向かって歩き始めた。
……それと同時に。
ふと、昨日までならとっくに切れていたはずの薬の効果が、今朝も何ひとつ衰えていないことを思い出して――。
「…………やっぱ長いよな、これ」
小さな疑問を抱えたまま、白い冬道を進んでいった。