◆◇◆◇◆◇◆◇◆
紅魔館へ着いた頃には、朝方よりも頭痛は幾分か落ち着いていた。
とはいえ、治ったわけではない。雪を踏み締めて歩いてきたせいもあるのか、身体の怠さはむしろ増している気さえする。門を潜ったところで一度立ち止まり、冷えた指先へ息を吹き掛けながら、俺は白く霞んだ空を見上げた。
「……やっぱ飛んで来なくて正解だったな」
道中、二、三度ほど軽い目眩があった。
立ち止まればすぐに治まる程度だったとはいえ、あの状態で空を飛んでいたらと思うと少し怖い。下手すりゃ空中で平衡感覚を失って、そのまま雪原へ突っ込んでいたかもしれない。
そこまで考えて、俺は小さく肩を竦めた。
「いやぁ……さすがに雪へ頭から突っ込むのは勘弁だな」
誰に聞かせるでもなく呟きながら、館の正面玄関へ向かう。
朝方から感じていた胸の張りも相変わらずだ。歩くたびに痛むほどではないが、普段とは違う重さが妙に気になる。おまけに、今朝初めて迎えた生理の影響なのか、身体全体が薄い膜に包まれたみたいに重かった。
女の身体で過ごすようになって、一ヶ月ほど。
随分慣れたと思っていた。
実際、服の着方にも迷わなくなったし、長い髪の扱いだって今では手馴れたものだ。身体の重心が違うことにも、力の入り方が少し変わることにも慣れきっている。
だからこそ、今朝の出来事は少しだけ衝撃だった。
「……生理、かぁ」
口に出した途端、また何とも言えない顔になる。
別に、嫌だとか気持ち悪いとか、そういう訳じゃない。
……ただ。
「本当に、何から何まで女になってんだな、俺……」
改めて実感させられた、というだけだった。
そんなことを考えながら玄関へ近づいていくと、扉が内側から音もなく開いた。
「おはようございます、創英様」
「うわっ!?」
思わず一歩退く。
そこに立っていたのは、いつも通り隙ひとつない身なりをした咲夜さんだった。
「……おはようございます、咲夜さん。いやぁ、びっくりしたぁ……」
「それは失礼いたしました」
そう言いながらも、咲夜さんはまったく悪びれた様子もなく軽く頭を下げた。
「パチュリー様がお待ちです。どうぞ中へ」
「はい。お邪魔しま――」
敷居を跨ごうとして、足を止める。
「……っと」
視界が、ほんの少し揺れた。
今度は倒れるほどではない。
けれど咲夜さんは見逃さなかったらしい。俺が壁へ手をつくより早く、すっと片手を添えてくる。
「創英様?」
「いやぁ……大丈夫ですよ。ちょっと立ちくらみしただけなんで」
「それを一般的には『大丈夫ではない』と言うのですが」
「うぐっ」
正論だった。
咲夜さんは俺の顔をじっと見る。
「随分と顔色も優れませんね。風邪ですか?」
「多分違います。熱もないし、喉も普通なんで」
「では?」
「んー……俺にもよく分かんなくて。それも含めて、今日はパチュリーさんに相談しようかなって思ってます」
そう答えると、咲夜さんは僅かに眉を寄せた。
俺の身体を上から下まで確認するように視線を滑らせてから、すぐにいつもの落ち着いた表情へ戻る。
「分かりました。では、研究室までご案内いたします」
「いや、場所は分かりますよ?」
「ご案内いたします」
「あー……はい」
二度言われた。
これは多分、断ったところで意味がない。
大人しく従うことにして、俺は館の中へ足を踏み入れた。
外の刺すような寒さから一転して、館内は程よく暖かい。冷え切っていた頬や指先へじんわりと熱が戻ってきて、それだけでも少し気分が楽になった。
ただ、歩いている間にも身体の重さは抜けない。
咲夜さんの後ろを歩きながら、俺は何度か首や肩を回した。
「……やっぱ怠いなぁ」
「無理をなさらない方がよろしいかと」
「今日はちゃんと大人しくするつもりですよ」
「『今日は』という部分に若干の不安を覚えますね」
「うっ……」
なんでみんな同じようなこと言うんだ。
フランといい、こいしといい。そんなに俺は普段から信用がないんだろうか。
「俺だって、自分で危ないと思ったらちゃんと休みますって」
「そうでしたか」
「……なんですか、その間」
「いえ。何も」
絶対何かある。
けれど咲夜さんはそれ以上何も言わず、少しだけ歩く速度を落としてくれた。
俺も何も言わず、その後をついていった。
——
案内された先は、いつもの大図書館ではなく、その奥にある魔法研究室だった。
部屋へ入った途端、鼻を掠めたのは乾いた紙と薬品、それから少し焦げたような独特の匂い。
机の上には大小様々な硝子瓶や器具が並び、壁際には見ただけでは用途も分からない魔法陣がいくつも描かれている。その中心で、パチュリーさんは分厚い本へ視線を落としていた。
「おはようございます、パチュリーさん」
「……来たわね」
ページを捲りながら、こちらを見る。
そして。
「…………」
俺の顔を見た瞬間、眉間へ薄く皺を寄せた。
「何、その顔」
「え?」
「酷い顔色」
「あー……やっぱ分かります?」
「見れば分かるわよ」
即答された。
俺は苦笑しながら近くの椅子へ腰を下ろす。
「実は今日、起きてからちょっと調子が悪くて」
「症状は?」
「頭痛と目眩。あと、やたら身体が怠いです。疲れてる感じっていうか」
「発熱は?」
「多分ないです」
「吐き気」
「なし」
「食欲は?」
「普通ですね。朝飯も食いましたし」
「それ以外は?」
「んー……」
少し考える。
「ああ。胸が張って、ちょっと痛いです」
ぴたり、と。
ページを捲っていたパチュリーさんの指が止まった。
「……胸?」
「はい。朝起きたらなんか張ってて」
「左右とも?」
「ですね」
「打撲ではない?」
「心当たりはないです」
そこまで答えると、パチュリーさんは本を閉じた。
少しだけ考えるように俺を見ている。
「他には?」
「他は……うーん」
朝方のことを思い返す。
「なんか、妙に寂しくなったりしましたね」
「寂しく?」
「そうなんですよ。フラン達は隣の部屋にいるって分かってんのに、一人でいるのが妙に心細くなって。自分でも意味が分かんなかったです」
「…………」
「それで二人が起きてきたら、ちょっと楽になりました」
パチュリーさんは、何も言わない。ただ俺の顔をじっと見ていた。
その沈黙が妙に長く感じて、俺は首を傾げる。
「パチュリーさん?」
「創英」
「はい?」
「あなた、今朝何か気づかなかった?」
「気づいた?」
「その症状が全部繋がるようなこと」
「……あー」
そこまで言われて、ようやく察した。
「そういえば、生理が来ましたね。今朝気が付きました」
「…………」
やや暫くの沈黙の後、パチュリーさんの紫色の瞳がゆっくりと瞬きをした。
「……月経?」
「はい」
「あなたに?」
「いや、まあ……今は女ですからね?」
「それは見れば分かるわよ」
「ですよね」
何故か少し怒られた。
パチュリーさんは片手を額へ当て、少しの間黙り込む。俺としては、そこまで妙なことを言ったつもりはない。
確かに元々は男だけど、今の身体は見た目だけなら完全に女だ。だったら月経が来ても、そんなに不思議じゃないんじゃないかと思う。
「……ちなみに、パチュリーさん。これって普通なんです?」
「何をもって普通と定義するのかにもよるわね」
「いやぁ……今みたいに、女になった時に生理まで来るのかって話です」
「性相変成薬は肉体そのものの性別を変化させる。単純な幻術や外見変化とは違うわ。だから、女性として必要な器官や生理機能そのものが形成されること自体は、何らおかしくないわ」
「じゃあ、別に問題はないんですかね?」
「まだそうとは言ってないわ」
「あ、はい」
ぴしゃりと切られる。
パチュリーさんは机の脇に置いてあった紙束を取り、何かを確認し始めた。
「創英。最後に性相変成薬を飲んだのはいつ?」
「それが、俺も今朝考えてたんですけど……」
「いつ?」
「多分、一昨日……かな?」
「多分?」
「いやぁ、最近ほとんどずっとこの姿で居たんで、どのタイミングで飲んだか曖昧になってて」
「…………」
また黙った。
さっきから妙に沈黙が多い。
「でも、やっぱ最近効き目長くなってますよね?」
「多少は持続性を伸ばしているからね。でも、一昨日なのよね?」
「はい」
パチュリーさんが顔を上げる。
「……そこまで長く設定した覚えはないわ」
「えっ?」
「少なくとも、前回渡したものなら二日間も完全な状態を維持するようには設計していない」
「…………」
俺は自分の身体を見下ろした。
白いブラウス。紫色のニットベスト。その下にある身体は、今朝見た時と何も変わっていない。
「じゃあ……俺の勘違いですかね?」
「その可能性もある。でも」
パチュリーさんは一度言葉を切り、俺をじっと見た。
「最近、効果時間が延びているように感じたのは今回だけ?」
「いや……そう言われると、前からですね」
「どのくらい前?」
「正確には覚えてないですけど。一月の後半くらいからかなぁ……一回飲むと、前より戻るのが遅いなって感じることがあって」
「どうしてその時点で言わなかったのよ」
「別に困ってなかったんで」
「…………」
「痛くもないし、生活に支障もなかったですし」
「創英」
「はい?」
「薬の効果時間が、設計値から勝手に変わっているのよ」
「はい」
「それを一般的には異常と言うの」
「……なるほど」
「なるほど、じゃないわよ!」
怒られた。
「いやぁ……でも、女の姿にも慣れちゃってたんで、別にいいかなって」
「あなたねぇ……」
パチュリーさんが深々と息を吐く。
なんだか朝からみんなに同じような顔をされている気がする。
「まあいいわ。ちょうどいい機会だから、一度解除して状態を徹底的に確認しましょう」
「解除?」
「ええ。本来なら今日は改良した性相変成薬を渡す予定だったけれど、先に今の状態を確認するわ」
そう言いながら、机の端に置いてあった透明な液体の入った小瓶へ手を伸ばす。
見覚えのある色だった。
あれは、現在続いている薬の効果を解除する薬だ。
「これ飲めばいいんです?」
「ええ。前回までと同じものよ」
「分かりました」
差し出された小瓶を受け取る。
蓋を開けると、相変わらず薬品らしい独特の匂いが鼻をついた。
「……こっちは、味の改善はされてないんです?」
「してないわ」
「そこは改良してくださいよ」
「必要性を感じないもの」
「飲む側は感じてます」
「うっさい。いいから早く飲め」
口に小瓶をねじ込まれたので、諦めて一気に煽る。
「うぇ……相変わらずまっずぅ……」
喉の奥へ苦味が残った。
思わず顔をしかめながら空になった瓶を机へ置く。
いつもなら、ここから少し待てば身体の内側に独特の熱が走る。
骨格が変化する時のむず痒さや、筋肉の付き方が元へ戻っていく感覚。
髪だけはもう戻らないが、それ以外は数分もあれば男の身体へ戻る。
……はずだった。
「…………」
一分。
「…………」
二分。
「…………」
三分。
「…………あれ?」
何も起きない。
胸元を見る。変化なし。手を見ても指は細いままだ。
自分で状態を確かめるために、声を出してみる。
「あー……」
高いままだ。完全に女の声だ。
俺は首を傾げた。
「パチュリーさん」
「…………」
「俺、戻ってませんけど」
「見れば分かるわ」
「ですよね」
パチュリーさんの視線が、俺から空になった小瓶へ移る。
それを取り上げ、ラベルを確認する。次いで、栓の内側を見る。
匂いを確かめて、今度は別の器具を取り出し、瓶の底に残った僅かな液体を一滴だけ垂らした。
淡い光が走り、小さな魔法陣が描かれる。次第に、色が変わっていった。
「…………」
「どうです?」
「少し黙って」
「あ、はい」
何だかさっきより声が低い。
俺は、大人しく待つことにした。
パチュリーさんは何度も薬を確認し、書類と見比べ、棚から別の瓶まで取り出している。
それから数分ほどして。
「……配合を間違えたかもしれないわ」
「えっ」
「解除薬の方を」
「パチュリーさんでもそんなことあるんです?」
「…………」
「あっいや! 別に責めてる訳じゃないですけどっ!」
「今のあなたの発言をなかったことにしてあげるから、黙ってなさい」
「はい」
ちょっと怖い。鬼気迫る雰囲気を感じる。
……でも。
「じゃあ、もう一本飲めば――」
「それは駄目」
「え?」
「重ねて飲むなと言っているの」
俺が棚へ視線を向けた瞬間、先回りするように止められた。
「もし解除薬そのものに配合上の問題があるなら、続けて摂取させる方が危険よ。性相変成薬も今日は渡せないわ」
「えー」
「えー、じゃないわよ」
「せっかく取りに来たのに……」
「あなたねぇ……自分の身体が戻らない状況でもそれを言うの?」
「いやぁ、だって今のところ、女なだけですし」
「…………」
「あれ?」
また、すごい顔をされた。
「創英」
「はい」
「今日の所は、一度家に帰りなさい。これから解除薬を一から調合し直すわ。だから明日、もう一度来て」
「分かりました」
「それまで、いまあなたの手元に残ってる性相変成薬は絶対に飲まないこと。あと、体調に大きな変化があったらすぐ来なさい。目眩が酷くなるとか、出血量が異常に増えるとか、痛みが強くなるとか。そういうことがあれば明日まで待たなくていいから」
「随分と慎重ですね……分かりました、何かあればすぐに来ます」
「本当に?」
「そこまで信用ないですかね?」
「ないわね」
「即答……」
思わず肩を落とす。
パチュリーさんはそんな俺を見て、また小さく息を吐いた。
「咲夜に送らせるわ」
「いや、大丈夫ですよ。ひとりで帰れますって」
「送らせる」
「でも――」
「送らせる」
「……お願いします」
今日は二回目だ。
この館の人、二度言えば俺が折れると思ってないか?
……まあ、折れてるんだけど。
——
翌日。
「おはようございます」
「遅い」
「いやいや、時間通りですよ?」
「私が待っていたの」
「それは俺のせいじゃないでしょうに」
研究室へ入った途端、それだった。
昨日帰宅してからは大人しく過ごした。
フランとこいしには、薬の配合が少し変だったらしいから明日もう一回診てもらう、とだけ説明しておいた。
身体の調子は昨日より多少ましだ。
頭痛はまだ残っているものの、目眩はかなり減った。怠さも昨日ほどじゃない。
月経自体は続いている。
そして。
「…………」
俺は自分の身体を見下ろす。
「やっぱ戻ってないですね」
「当たり前でしょう。昨日から解除できていないんだから」
「寝て起きたら戻ってるかなって」
「どういう理屈よ」
「いやぁ、なんとなく」
「なんとなくで肉体の性別が変わってたまるものですか」
「それはそうですね」
パチュリーさんの目の下に、薄く隈ができている。
もしかして昨日からずっと解除薬を作っていたんだろうか。
机の上を見ると、昨日よりも器具が増えていた。
中央に置かれているのは、小さな透明の瓶。
「それが新しいやつですか?」
「ええ」
「ちゃんと解除薬ですか?」
「今度それを聞いたらここから追い出すわよ」
「ごめんなさい」
さすがに昨日の「配合間違えたかもしれない」は触れない方が良さそうだ。
パチュリーさんは小瓶を手に取り、俺へ差し出した。
「昨日のものとは完全に別に作った。材料も器具も全て確認した上で、私自身が術式構成まで一から検証している」
「……随分念入りですね」
「当然よ」
「じゃ、飲みます」
蓋を開ける。匂いは昨日と同じだ。
……多分、味も同じなんだろう。
「せめて甘く――」
「つべこべ言わずにさっさと飲め」
「はい……」
キツく睨まれたので、一気に飲み干した。
「ぐぇぇ……まっじぃ……」
やっぱりまずい。昨日のよりもまずいのではないだろうか?
身体が拒否して吐き出しそうになるのを必死で堪えて何とか飲み干した後、空になった瓶を机へそっと置いた。
「…………」
そして待つ。ひたすら待つ。その間、パチュリーさんは何も言わなかった。
昨日なら少し雑談くらいしていたのに、今日は最初から俺の身体だけを見ている。どんな些細な反応も見逃さないつもりなんだろう。
一分が経ち、二分が経過し、三分が過ぎ……。
そして、薬を飲んでから五分を迎えた頃。
「…………」
先日と同じく、変化は訪れなかった。
俺は自分の手を見る。そこには細い指があり、何処も何も変わってはいない。
「パチュリーさん?」
「静かにして」
「あ、はい」
鬼気迫る表情は昨日と同じだが、まとう雰囲気はまるで異なっていた。
なんなら返事の声音だけでも十分伝わる。パチュリーさんは決して冗談を言っていない。
いや……元々あんまり冗談を言う人じゃないけど、今日は真剣さに拍車をかけている。なんなら、焦りすらも滲ませていた。
「…………」
薬を飲んでからおおよそ十分が経過した。
未だに、何も起きてはいない。
俺は一度、喉へ手を当てた。
「あー」
声も同じ。高いままだ。
胸もある。身体つきも相変わらず女性のままだ。
「……戻りませんね」
「ええ」
「薬、間違ってないんですよね?」
「間違っていないわ」
「…………」
……そこで初めて。
俺も、少しだけ笑えなくなっていた。
「じゃあ……なんででしょう?」
「それを今から調べるのよ」
パチュリーさんが立ち上がる。
椅子が床を擦る音が、妙に大きく聞こえた。
「創英。そこへ立って」
「そこ?」
「中央の魔法陣」
「中央の……あ、これか」
言われた通り、床へ描かれている円形の魔法陣の中心へ立つ。
何度か簡単な検査をされたことはあるが、今日使うものは見覚えがない。
幾重にも重なった円に、その間を埋めるようにして小さな文字が刻まれている。その円周の四方に、水晶が置かれていた。
「これから何をするんです?」
「精密検査よ。あなたの身体に何が起きているのかを詳しく見ていくわ」
「……痛いですかね?」
「痛くはないわ」
「ならよかった……」
パチュリーさんが片手を掲げて、詠唱を始める。
「じっとして。あまり動かないで」
低く、一定の調子で紡がれた言葉に応じるように、足元の魔法陣が淡く光り始めた。
「おぉ……」
「喋らないで」
「……はい」
光が足元から上へ昇ってくる。
温かくも冷たくもない。ただ、身体の内側を透かして覗かれているような、妙なくすぐったさだけがあった。
足から順に、腰、腹、胸と昇ってきて、肩を過ぎ頭を通る。
全身を一度通り抜けた光が、今度は先程とは逆方向へ降りていく。水晶がひとつずつ輝き、その色を変えていった。
パチュリーさんは、それを一言も発さずに見ている。
「…………」
俺も黙って待った。
一度、二度、三度。
同じ検査が何度も繰り返される。
「……パチュリーさん?」
「もう一度」
「まだやるんです?」
「もう一度」
「は、はい……」
四度目。五度目。六度目……。
回を追うごとに、さすがに俺も不安になってきた。
別に身体が痛いわけじゃない。けれど、何度調べてもパチュリーさんの顔が晴れない。むしろ回数を重ねるごとに、眉間の皺がどんどん深くなっていく。
……やがて。
「……もういいわ」
「終わりです?」
「ええ」
何度も往復していた光が消えた。
俺は、恐る恐る魔法陣の外へと出る。
「それで……どうでした?」
「…………」
「パチュリーさん?」
返事が返ってこない。
机へ戻ったパチュリーさんは、水晶を並べ直し、何枚もの紙へ数値を書き始めた。
ひとつ見る。別の紙を見る。そしてもう一度水晶を見る。
「なにか悪かったです?」
「……悪くないの」
「え?」
「むしろ、悪くないことが問題なのよ」
「…………?」
意味が分からない。
俺が首を傾げていると、パチュリーさんは手にしていた紙を机へ置いた。
「心拍、血流共に正常。各臓器にも異常は見られず、魔力循環も正常。霊力にも乱れはない。骨格、筋組織、神経系にも破綻は見られなかったわ」
「……めちゃくちゃ健康じゃないですか」
「そうね」
「良かった……」
「残念ながら、良くはないのよ」
「なんで!?」
健康なのに怒られた。
「問題はそこじゃないの」
パチュリーさんが俺を見る。
いつもの眠たげな瞳が、今はやけに鋭く感じた。
「あなたの身体には……『女性として』何ひとつ不自然なところがない」
「…………え、女性として?」
「何ひとつよ」
自分の胸元を見る。
「それは……薬で女になってるんだから、そういうもんじゃないんですか?」
「違うわ」
短く切られた。
「性相変成薬を使った身体には、少なからず変成術式の痕跡が残る。薬効が続いている間なら尚更ね」
「痕跡?」
「肉体へ性相を固定している魔法的な作用よ。それがあるから、本来の性へ戻ろうとする身体を一時的に押さえ込めるし、解除すれば元に戻せるの」
「なるほど?」
「でも」
パチュリーさんが、検査結果を指先で叩いた。
「あなたには、それがないの」
「…………え?」
一瞬、意味が分からなかった。
「な、ない?」
「ええ」
「じゃあ……薬の効果、切れてるんですか?」
「切れている」
「切れていて……この状態なんですか……?」
俺はまた、自分の身体を見る。
……どう見ても、女性のままだ。
「いやいや……」
思わず笑う。
「本当は切れてないんでしょ? 俺、女のままですよ?」
「だから、おかしいと言っているのよ」
そこで、笑いが止まった。
「薬の成分は?」
「体内に有意な量は残っていない」
「性相変成の術式は?」
「既に活動していない」
「…………」
「なのに身体だけが女性の状態を維持している」
「…………」
しばらく考える。
考えて。
「じゃあ何で俺、女なんです?」
震えた声で、そう口にした。
「それを私が聞きたいのよ」
「ですよね……」
いや、ですよねじゃないだろう。何言ってんだ俺は。
……でも、そうとしか返せなかった。
パチュリーさんは椅子へ深く腰掛ける。片手で口元を覆い、しばらく何も言わなかった。
「……創英」
「はい」
「最近、自分の身体に違和感はあった?」
「違和感?」
「動き方。感覚。何でもいい」
「んー……」
考える。
「いや……特には無かったと思います……」
「本当に?」
「はい。むしろ最近までは楽でした」
「楽?」
「この身体に慣れたっていうか、前までの違和感はすっかりなくなってましたから」
そう言いながら、視界へ垂れてきた髪を耳へ掛ける。そのまま自然に脚を揃え、椅子へ座り直した。
パチュリーさんの視線が、そこへ向いた。
「……何です?」
「今の……」
「今の?」
「あなたのその動きの事よ」
「動き? ……ああ。髪が邪魔だったんで退けただけですけど」
「座り方もよ」
「…………?」
言われて、自分の姿勢を見る。別に変なところはない筈だ。
「別に、普通ですよ?」
「一ヶ月前のあなたなら、その座り方はしなかったでしょうね」
「そうでしたか?」
「そうよ」
……そう言われてみれば、以前はもっと足を開いて座っていた気がする。
今は自然と膝を揃えている。男の時だったら、こんなに脚を閉じていたら、股ぐらのモノが窮屈で仕方なくなっていた筈だ。
「いや、でも……こういう所作とかは咲夜さんに色々教えてもらいましたからね」
「意識してやっているの?」
「……いや?」
すぐに首を振った。
「もう全然。最初は気を付けてましたけど、今は癖みたいなもんですよ」
「髪の扱いも?」
「それもですね」
「歩き方は?」
「多分……?」
「身体の重心の取り方は?」
「……そこまで考えて歩いてないですよ」
普通に動いているだけだ。
そう答えると、パチュリーさんはますます難しい顔になった。
「一ヶ月近く、この身体で生活してたんですから。それくらい慣れて当然じゃないです?」
「…………」
「パチュリーさん?」
「創英」
「はい」
「月経が来たと言ったわね」
「あー……はい」
「それは、今も続いてるの?」
「ええ、続いてますよ」
「痛みは?」
「頭痛はありますけど、そこまで強くはないです。むしろ、怠さの方が今はしんどいですね」
「胸の張りも続いているの?」
「はい」
「精神面の変化は?」
「今朝は、少し寂しくなったくらいですね。今は結構平気です」
「…………」
また黙る。
その沈黙が、今度はさっきまでとは違って見えた。
「……パチュリーさん?」
「少し、まずいかもしれない」
——ぽつり。
初めて、そんな言葉が出た。
「まずい、とは?」
「まだ仮説よ」
そう前置きしてから、パチュリーさんは検査結果へ目を落とす。
「性相変成薬は、本来なら外部から一時的に身体の性を変えるだけのもの。薬効と術式が消えれば、身体は元の状態へ戻るわ。……でもあなたは、一月の間に何度も薬を使った。しかも後半になるにつれて、一度に変成した状態を維持する時間が長くなっていった。その結果……」
一度、言葉を止めた。
「あなたの身体そのものが、女性である状態を『通常』として認識し始めている可能性がある」
「…………つまり?」
「あなたの性別が、女性として定着しはじめている」
短い言葉だった。
「……女性として?」
「あくまでも可能性の話よ。でも、今の検査結果を見る限りでは……その可能性が一番高い」
俺は自分の手を見る。
白く細い指。男だった頃より一回りほど小さい手。
……もう、随分見慣れた手だ。
「……身体が勝手に?」
「勝手に、という表現が正しいかは分からない」
パチュリーさんが静かに答える。
「でも少なくとも、今のあなたは薬によって無理矢理女性へ変えられている状態ではない。薬効は切れている。変成術式も消えている」
「なのに、女のまま」
「そういうこと」
なるほど。頭では理解した。
……理解したんだけど。
「……なんか、実感ないですね」
「でしょうね」
「だって俺、普通に元気ですし」
「今朝から頭痛と目眩と倦怠感を訴えている人間の台詞ではないわね」
「あー……そうだった。女なら来て当たり前だよなぁって受け入れてました」
「忘れてはダメよ。それと、順応し切ってしまうのもダメ」
「はい」
とはいえ……とはいえだ。少なくとも今、身体そのものが壊れている感覚はないのだ。
指も動く。手足だって動く。なんなら今日だってここまで歩いて来た。食欲だってちゃんとある。霊力も普通だ。……だったら。
「まあ……元に戻せばいいんですよね? 解除薬が効かないなら、別の方法で」
「簡単に言ってくれるわね……」
「パチュリーさんなら何とかするかなって」
「あなたねぇ……」
呆れたような声だった。
でも、何故かその直後。パチュリーさんは少しだけ目を細めた。
「……怖くないの?」
「え?」
「戻らないかもしれないとは考えないの?」
そう聞かれて、初めて考えた。
もし、このままずっと女だったなら。
「んー……」
自分の身体を見る。
胸がある。声も高い。髪は長い。月経まで来た。
……これが、今後一生続くかもしれない。
それに対して、嫌か? と、そう聞かれれば……。
「困りはしますね」
「その程度?」
「いやぁ、だって」
頭を掻こうとして、結ってある髪に指が引っ掛かった。
「あっ」
反射的に手を止め、崩れた部分だけ指先で整える。
……こういうところも、もうすっかり慣れた。
「俺は俺ですから。男でも女でも、俺が急に別人になる訳じゃないですし。まあ、元に戻れるなら戻りたいですけど」
「どうして?」
「そりゃ……」
そこで一瞬、フランの顔が浮かんだ。
俺を見上げて「にぃに」と呼ぶ、小さな妹の顔が。
「……俺、兄貴なんで、妹に『姉ちゃんになりました』って言うのも変じゃないですか」
「そこなの?」
「そこも、です」
他にも理由はある。
元々男だったんだから、戻れるならそっちの方が馴染みがある。
今の身体を嫌っている訳ではない。でも、このままでいいかと聞かれれば、それもまた違う。
「だから、戻せるならお願いします」
「言われなくてもそのつもりよ」
パチュリーさんは立ち上がった。
机の上へ積み上がっていた本を何冊か引き寄せ、紙と羽根ペンを広げる。
「今日からしばらく、性相変成薬は使わないこと。手元にあるものも追加で飲まないで。私が解除方法を調べるから」
「お願いします」
「それと」
羽根ペンを止め、俺を見る。
「身体に何か変化があれば、どんな小さなことでも報告すること」
「小さなこと?」
「何でもよ。体温。食欲。睡眠。感覚。魔力の変動。今までと違うことがあれば全部教えなさい」
「分かりました」
頷くと、パチュリーさんはようやく視線を資料へ戻した。
「今日はもう帰っていいわ」
「え?」
「何よ」
「いや……もっと色々されるのかと思ってました」
「今の段階では検査しても同じ結果しか出ないでしょうし、まず私が原因を絞るわ。ただし、明日からはしばらく毎日来てもらう事になるわね」
「毎日ですか?」
「嫌?」
「いやぁ……遠いなぁって」
「飛べばいいでしょうに」
「今日は目眩があったから歩いて来たんですよ」
「なら咲夜に迎えに行かせるわ」
「いやいや、そこまでしなくても……」
「あなたに任せると一人で無理をするでしょう?」
「……みんな同じこと言うなぁ」
朝から何回目だろう。
フランにこいし、咲夜さん。そしてパチュリーさん。
「俺、そんな信用ないです?」
「信用しているから言っているのよ」
「え?」
「あなたが自分より他人を優先することを、ね」
「…………」
一瞬、言葉が出なかった。
「……なんですか、それ」
「事実でしょう」
「いやぁ……」
否定しようとして、やめた。
今朝だって体調が悪いのに、朝飯を作ろうとして二人に止められたばかりだ。
「……まあ、気をつけます」
「期待しないでおくわ」
「酷いなぁ」
苦笑しながら立ち上がる。
今日は目眩も昨日ほどではないし、ゆっくり帰れば大丈夫だろう。そう思って研究室の扉を開ける。
廊下へ出たところで、俺はもう一度だけ自分の手を見た。
何も変わっていない。昨日までと同じ手だ。今日の朝とも同じ、健康的な……女の身体。
「……定着、か」
呟いてみても、やっぱり実感はなかった。
薬が切れているのに戻らない。解除薬も効かない。それでも俺の身体は、まるで最初からこうだったみたいに何の異常もなく動いている。
「…………」
何となく、胸元へ手を添える。
とくん……とくん……と、当たり前みたいに心臓が動いている。
だから余計に。
「……変なの」
そう思った。
怖がるべきなのかもしれない。もっと焦るべきなのかもしれない。
けれど、まだそこまで現実味がなかった。
パチュリーさんなら何とかする。今までだって何とかなった。
そんな、根拠の薄い安心感がどこかにあったから。
俺は深く考えることもなく、そのまま館の廊下を歩いていった。
――研究室の中で、パチュリーさんが再び検査結果を手に取り、俺の背中が見えなくなってからも長いことそれを見つめていたことには、当然ながら気づかなかった。