◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「……それで、今日はなにを飲めばいいんです?」
紅魔館の魔法研究室。その中央に置かれた椅子へ腰掛けたまま尋ねると、机へ向かっていたパチュリーさんの肩がぴくりと揺れた。
返事はない。代わりに聞こえてきたのは、硝子棒が容器の内側を擦る乾いた音だった。
紫色の液体が満たされたフラスコ。その隣には青、赤、緑と、見るからに口へ入れたくない色をした薬品がいくつも並んでいる。鼻を近づけてもいないのに、薬草とも金属ともつかない奇妙な匂いが漂ってきていた。
「パチュリーさん?」
「……少し黙っていて」
「はい」
声が怖かった。
素直に口を閉じ、膝の上へ両手を置く。それから、何となく指先を見る。
細い。当然ながら、今日も俺の身体は女のままだった。
最初にこの姿へ変わってから、どれくらい経っただろう。薬の効果が切れているはずなのに身体が戻らなくなり、頭痛や目眩に加えて、生理まで始まった。
その状態で紅魔館を訪れ、パチュリーさんから一通りの検査を受けた結果――。
『薬効は残っていないわ』
そう断言された。
なら、どうして女のままなのか?
その答えを探すため、ここ数日。俺は何度も紅魔館へ足を運んでいた。
「……よし」
ようやくパチュリーさんが呟いた。
机の上で調合していた液体を、小さな硝子瓶へ移す。完成した薬は、薄い黄色をしていた。
これまで見せられたものと比べれば、随分まともな色だ。
「できました?」
「ええ。前回とは術式の組み方を変えたわ。性相変成薬そのものを打ち消すのではなく、肉体へ残っている可能性のある変容情報を正常な状態へ戻すように調整してある」
「なるほど」
分からん。……だが、真剣な顔で説明してくれているので頷いておいた。
差し出された瓶を受け取り、パチュリーさんの方を見る。
「全部?」
「全部」
「一気に?」
「一気に」
「不味いです?」
「保証はしないわ」
「うへぇ……」
蓋を開けて匂いを嗅いだ瞬間、眉間へ皺が寄った。
「……これ、本当に飲み物なんですか?」
「つべこべ言わずにちゃっちゃか飲みなさい」
「ぐっ……は、はい……」
覚悟を決め、一気に煽る。
「んぐっ……!」
舌へ触れた途端、強烈な苦味と酸味が広がった。
何だこれ……苦い薬草を酢に漬け込んで煮詰めたら、こんな味になるんじゃないだろうか……。
「うぇぇ、不味ぃ」
「良薬口に苦し、よ。いいから舌を出さずに口を閉じなさい」
「良薬って……いや、これは舌も出ますって」
水を渡されたので一息で飲み干す。ようやく口の中から凶悪な味が薄れたところで、パチュリーさんが俺の身体へ手を翳した。
紫色の魔力が指先へ集まり、薄い光となって全身を撫でていく。
「ふむ……」
「どうですか?」
「少し待って」
言われた通り待つ。
一分、二分――五分。
「…………」
「……変わりませんね」
「それ以上なにも言わないで」
「は、はい」
また怒られた。
パチュリーさんは俺の腕を取り、脈を測る。続いて瞳、口内、首筋。さらに魔法陣まで展開し、身体の内側を調べ始めた。……しかし。
「……変化なしね」
「ですよね」
自分の胸元を見る。当然ながら、その膨らみは依然として消えていない。
「これで何本目です?」
「数えてないわ」
「俺は数えてますよ。今日ので四本目」
「数えなくていいわよ」
「昨日と合わせたら――」
「数えなくていいと言っているでしょう?」
今度は本気で睨まれたので黙った。
パチュリーさんは立ち上がると、机へ積み上げていた本を片っ端から開き始める。ぱらぱらと紙を捲る音だけが研究室へ響いた。
……どうやら、かなり参っているらしい。
最初の頃は、「興味深い症例ね」くらいの調子だったのだ。
ところがどうだろう、検査を重ねてみてもそれらしい原因が一向に見つからない。仮説を立てて、検証して、解除薬を作っても効かないまま。
それどころか、俺の身体は薬の力など残っていないにもかかわらず、完全に女性として安定しているらしい。
そうなると、さすがのパチュリーさんも笑ってはいられなくなったようだった。
「あの、パチュリーさん」
「なによ」
「別に、そんな焦らなくてもいいんじゃないですか?」
「…………は?」
本を捲る手が止まった。
「今、なんて言ったの?」
「いや。生活できないわけでもないですし……」
俺は自分の腕を軽く上げてみせる。
「最近は身体の扱いにも慣れましたからねぇ。最初みたいに歩くだけで違和感があるわけでもないし、髪だって自分で結べるようになったし。服も咲夜さんが用意してくれたものがありますし、着こなし方も理解して、最近じゃ人の手を借りずともなんとか出来てます」
「そういう問題ではないわ」
「でも、身体そのものは健康なんですよね?」
「現時点ではね」
「だったら、もうちょっとゆっくり原因を探しても――」
「創英」
低い声だった。
「あなた、自分の身体が元へ戻らなくなっているのよ?」
「はい」
「性別が変わっているの」
「そうですね」
「薬の効果が切れているのに」
「そこが不思議ですよねぇ」
「…………」
パチュリーさんが両手で顔を覆った。
「なんで本人が一番暢気なのよ……」
呻くような声が指の隙間から漏れてくる。
「いやぁ……焦って戻るなら焦りますけど、戻らないなら仕方ないかなって」
「仕方なくないの!」
「いやでも、俺こういうの考え続ける方が疲れるんですよ。戻す方法はパチュリーさんが調べてくれてますし、だったら俺は今の身体で普通に暮らしてた方がいいかなと」
「少しは危機感を持ちなさい! 貴方自身の身体のことなのよ!?」
パチュリーさんが顔を上げる。目の下に、薄い隈ができていた。
……もしかして、この人。俺より寝てないんじゃないか?
「あの、ちゃんと寝てます?」
「あなたにだけは言われたくないわよ」
「俺、最近はちゃんと寝てますよ」
「そういう意味ではない!」
何の意味だろうか。
首を傾げる俺を見て、パチュリーさんは深く息を吐いた。
「……とにかく、今日のところはもう帰りなさい。明日にもう一度、術式を組み直すわ」
「分かりました。あ、そうだ」
「なによ」
「一つ相談がありまして」
「……身体について?」
「いえ、名前について」
「…………名前?」
パチュリーさんの眉が寄る。
「ほら、今の俺って見た目だけなら完全に女じゃないですか」
「そうね」
「でも外で名前を聞かれて『時崎創英です』って答えると、最近ちょっと変な顔されるんですよ」
「それで?」
「いっそのこと、女の時用の名前を決めておこうかなって」
「…………」
パチュリーさんが固まった。
「考えてみたんですよ。時崎胡桃ってどうです?」
「…………」
「胡桃。くるみです。字面も悪くないでしょう?」
「…………」
「時崎胡桃。うん。結構しっくり――」
「待ちなさい創英」
声が震えていた。
「はい?」
「いつからそんなことを考えていたの?」
「うんと……昨日くらいからですかね」
「何故?」
「だから、名前を聞かれた時に――」
「そうじゃないッ!!」
珍しく大きな声が飛んできて、思わず背筋を伸ばす。
パチュリーさんは椅子から立ち上がり、俺を凝視していた。
「創英。自分が男だという認識はあるのよね?」
「ありますよ?」
「本当にあるの?」
「ええ。俺は男ですよ」
「今の身体について違和感は?」
「まあ、最初はありましたけど。今はそこまで」
「男へ戻りたいとは?」
「戻れるなら戻りたいですけど……」
少し考える。
「別に、今すぐじゃなくてもいいかなぁって」
俺の返答を聞いたその瞬間、パチュリーさんの顔から血の気が引いた。
「……精神汚染」
「えっ?」
「まさか……肉体だけじゃなく、心にまで性相変成薬の影響が出始めている……?」
「いやいやいや。違いますって」
「自覚症状がないだけかもしれない……」
「パチュリーさん?」
「人格の変容? 自己認識の書き換え? 肉体の性別に引っ張られて、心まで女性化し始めている? ……いや、それならもっと早くに兆候が出ていても……でも肉体の固定化と同時進行なら説明は付く……」
「おーい? 聞いてますー?」
「これはまずいわ」
ダメだ、まったく話を聞いていない。
パチュリーさんは再び机へ向かい、猛烈な勢いで何かを書き始めた。
「肉体だけならまだしも精神にまで影響が及んでいる可能性があるなら、悠長にしていられない。完全に定着する前に戻さないと大変なことになる」
「いや、だからですね」
「今日は帰って」
「はい?」
「今すぐ次を作る。明日までに最低でも三種類は試作するわ」
「三種類!?」
「足りない?」
「いや多いですって! これまでどんだけ飲まされたと思ってるんですか!?」
しかし、既に俺の声は届いていなかった。
魔法使いという人種は、一度何かへ集中するとこうなるものなのだろうか。
俺はしばらくパチュリーさんの背中を眺めていたが、やがて諦めて立ち上がった。
「……じゃあ、今日の所は帰りますね」
「ええ」
「ちゃんと寝てくださいよ?」
「言われなくても分かってるわよ」
「本当に?」
「分かってるからとっとと早く帰りなさい」
どう考えても分かっていない返事だった。
⸻
それから数日。俺は何度も紅魔館へ呼び出された。
赤い薬を飲んだ。
苦かった。
青い薬も飲んだ。
死ぬほど酸っぱかった。
透明な薬も飲んだ。
何故か甘かった。あれだけはもう一回飲んでもいいかな。
……しかし、結果は。
「……変化なし」
「ですねぇ」
全滅だった。
俺の身体は今日も元気に女のままだ。いつの間にか生理も落ち着き、身体の不調や理由のない淋しさとかも解消されている。
その一方で、パチュリーさんの顔色は日増しに悪くなっていった。
「次」
「まだあるんです?」
「あるわ」
「俺の胃、大丈夫かな……」
「胃薬も用意してある」
「用意がいいなぁ」
そんな調子で実験に付き合いながらも、俺の日常そのものは大して変わらなかった。
里の見回りへ行けば、最近では皆この姿にも慣れたらしい。
『あら創英ちゃん、今日は髪が綺麗に結べてるじゃない』
『ちゃん付けはやめてくださいよ、恥ずかしいです』
『あらそう? 似合ってるのにねぇ。もっと自信持ってもいいのよ?』
『そういう問題じゃないんですってば』
……なんて会話まで普通にするようになってしまった。
阿求にも、例の名前を話してみた。
『時崎胡桃、ですか?』
『どう?』
『……何故、そんなに楽しそうなのです?』
『いや、どうせなら名前くらいあった方が便利かなぁって』
阿求はしばらく何とも言えない顔で俺を見ていた。
結局、「創英さんは創英さんでしょう」と言われてしまったので、胡桃という名前はまだ誰にも使ってもらえていない。ちょっと残念である。
――そんなある日。
「にぃに、今日も行くの?」
「ああ。パチュリーさんから呼ばれてるからな」
朝餉を終えたところで、フランが尋ねてきた。
ちなみに二人とも、相変わらず俺の寝室へ侵入してくる。もう最近では、朝起きて両脇に二人がいても驚かなくなってしまった。慣れとは恐ろしいものだ。
「フランも一緒に行くか?」
「うん。お姉様から使い魔伝手に、そろそろ帰ってきなさいって言われてるから」
「そう言えばそうだったな……それじゃあ、一緒に行くか」
「うんっ!」
嬉しそうに笑ったフランの頭を撫でる。
こいしは今日は朝から出掛けていて、どこへ行ったのかは知らない。いつものことなので、夕方になれば勝手に戻ってくるだろう。
戸締まりを済ませ、俺とフランは家を出た。
冬の空へ翠緑の翼を広げる。
「それじゃあ行くぞ」
「はーいっ!」
フランも日傘を差してから七色の羽を広げ、二人並んで飛び立つ。
冬の空は高く、吐いた息が白い尾を引いて後ろへ流れていく。眼下には雪を被った里の屋根が並び、その向こうには白く染まった田畑と森が広がっていた。
俺は時折、となりを飛ぶフランの様子を確認しながら、紅魔館へ向けて翼を動かす。
「にぃにー」
「んー?」
「今日もパチェのお薬飲むのー?」
「ああ、多分なー。昨日の時点で『次は術式そのものを見直す』とか言ってたし」
「ふーん」
フランは日傘を肩へ預けながら、こちらをちらりと見た。
「苦い?」
「苦いのもあるし、酸っぱいのもある。たまに甘いな」
「甘いのもあるんだ」
「あれは美味かったぞ。薬じゃなくて普通に飲み物として欲しいくらいだった」
「じゃあフランも飲みたい!」
「ダメに決まってるだろ」
「にぃにだっていっぱい飲んでるじゃん」
「俺は必要があって飲んでるの」
そう返すと、フランは「むぅぅ」と頬を膨らませた。
もっとも、必要があると言っても、俺自身はそこまで切羽詰まっているわけではない。今のところ身体に異常はないし、数日前まで続いていた体調不良もすっかり治まっている。
パチュリーさんがあれだけ必死になっている以上、俺まで横から焦ったところで仕方がないだろう。それなら、任せられるところは任せてしまえばいい。
……まあ、胡桃という名前を考えた程度で精神汚染まで疑われるとは思っていなかったけど。
「ねえ、にぃに」
「今度はなんだ?」
「今日、帰ったらなにする?」
「んー……」
少し考える。
「レミリアお嬢様たちに挨拶して、それからパチュリーさんの実験に付き合って……そうだなぁ、終わる時間次第かな。遅くなるようなら、俺も今日は紅魔館へ泊まっていくかもしれない」
「ほんとっ!?」
「まだ分からんって。でもまぁ、早く終わったら帰るかもしれない。こいしになにも伝えてないしな」
「じゃあ、遅くまで実験をやろう!」
「なんで実験を長引かせる方向で行くんだよ」
楽しそうに笑うフランにつられて、俺も苦笑する。
そうして他愛のない話を続けているうちに、白銀の森の向こうへ紅い館が見えてきた。
⸻
「ただいまーっ!」
紅魔館の正面玄関を潜った途端、フランの元気な声が広い玄関ホールへ響いた。
「お帰りなさいませ、フランドール様」
俺たちを出迎えた咲夜さんが一礼する。
「ただいま、咲夜!」
「随分と長いお泊まりになりましたね。お嬢様がお待ちですよ」
「お姉様、怒ってる?」
「それはご自身でお確かめくださいませ」
「うぇぇ~……」
分かりやすく顔を曇らせたフランに、咲夜さんが小さく笑う。それから視線が俺へ向いた。
「創英様も、お待ちしておりました」
「こんにちは、咲夜さん。パチュリーさんは?」
「研究室にいらっしゃいます。今朝から一度も出てきておりません」
「……またですか」
思わず眉を寄せる。
「ちゃんと寝たんでしょうか、あの人」
「昨夜、私が確認した時にはまだ起きていらっしゃいましたね」
「うわぁ……」
昨日あれだけ寝ろと言ったのに。
「食事は?」
「朝食は研究室へお持ちしました」
「食べました?」
「手を付けておりません」
「駄目じゃないですか」
「私もそう申し上げたのですが」
咲夜さんが困ったように目を伏せる。
……本当に俺より重症になってないか?
「分かりました。とりあえず行ってきます」
「お願いいたします」
何故か俺が面倒を見る側になっている気がする。
「フランはどうする?」
「フランも行く」
「レミリアお嬢様のところは?」
「……あとで行くー」
「怒られても知らないぞ?」
「にぃにも一緒に怒られてよ」
「なんで俺までっ!?」
俺が何日も泊まらせたから、と言われたら何も言い返せない。
仕方なく、俺はフランを伴って研究室へ向かうことにした。
⸻
研究室の扉を叩く。
「パチュリーさん、創英です」
「入りなさい」
すぐに返事があった。
扉を開けると、昨日よりもさらに酷い有様になった室内が目へ飛び込んできた。
開いたまま積み上げられた魔導書。書き殴られた紙束。中身の分からない薬瓶に、何重にも描き直された魔法陣。
そして、その中心で。
「……来たわね」
パチュリーさんが振り返った。
「うわぁ……」
思わず声が漏れた。
「なによ」
「いや……その、顔色悪いですよ?」
「誰のせいだと思っているの?」
「えーっと……俺のせい、なんですかねぇ……」
少なくとも、寝ないでくれとは頼んでいない。むしろ寝てくれとも言った筈だ。
「パチェ、ただいまー!」
「ええ。お帰りなさい、フラン」
パチュリーさんはフランへ一度だけ視線を向けると、すぐ俺へ戻した。
「ちょうどいいわ。今朝、新しい解除薬が完成したところよ」
「もうできたんです?」
「昨日のものとは考え方を変えたわ。今度は肉体側へ働きかけるのではなく、性相変成薬によって形成された魔力情報そのものへ干渉するわ」
「はぁ……」
「分かっていない顔ね」
「ええ、分かってないです」
「でしょうね」
呆れたように息を吐きながら、パチュリーさんが一本の瓶を取り出す。中には、透き通った薄紫色の液体が入っていた。
瓶を受け取り、蓋を開ける。鼻を近づけてみるが、匂いはほとんどない。ここ数日で散々酷い目に遭ったせいか、無臭というだけで逆に警戒心が湧いてくる。
「にぃに、それ飲むの?」
フランが俺の腕へくっつき、瓶を覗き込んできた。
「ああ。これで五本目だな」
「五本も飲むの?」
「今日だけじゃないぞ。ここ数日で五本だ」
「そんなに?」
フランが目を丸くする。
「パチェ、いっぱい作ったんだね」
「ええ。……全部失敗しているけれど」
パチュリーさんの声が一段低くなった。
触れてはいけないところだったらしい。
「まあまあ。今度こそ効くかもしれないですし」
「貴方は黙って飲みなさい」
「はいはい」
覚悟を決め、瓶を傾ける。
「んぐっ……」
舌へ触れた液体を一気に飲み下す。
「…………ん?」
思っていたより普通だ。
苦くもない。酸っぱくもない。少し薬草臭い程度で、水がなくても飲める。
「これなら全然――」
「喋らない」
すぐさまパチュリーさんが俺へ手を翳した。
淡い紫色の光が身体を包み込む。
俺も黙って、自分の身体へ意識を向ける。
胸元。腕。脚。喉。
何かが変わるような感覚は――。
「…………」
「…………」
「…………」
ない。
一分ほど経ったところで、パチュリーさんの眉間に深い皺が刻まれた。
「……ダメね」
「みたいですねぇ」
「一体、何故なの……?」
パチュリーさんは俺ではなく、何か別のものを見るように宙へ視線を彷徨わせる。
「情報への干渉も受け付けない。薬効は確実に消失している。変成術式の残滓もない。それなのに、どうして肉体だけがそのままなのよ……」
「パチェ?」
フランの声がした。
「……なに?」
パチュリーさんが生返事をする。フランは少しだけ首を傾げていた。
「今のお薬、なんのお薬なの?」
「性相変成薬の効果を解除するための――」
そこまで答えてから、パチュリーさんの口が止まった。
俺も、フランを見る。
「……解除?」
「ああ」
そこでようやく気づいた。そういえば、ちゃんと説明していなかったな。
「にぃに」
フランが俺を見上げる。
「今は、お薬飲んで女の子になってるんじゃないの?」
「あー……違うぞ」
俺は頭を掻こうとして、結んでいた髪へ指が触れたので途中でやめた。
「前に飲んだ薬は、とっくに切れてるらしいんだ」
「……え?」
「だから、今は何も飲んでない。なのに戻らなくなっちゃってさ」
できるだけ軽く説明したつもりだった。
けれど、フランは笑わなかった。
「戻らない……?」
「うん。まあ、今のところな」
「じゃあ……」
フランの視線が、俺の顔から長い金髪へ移る。そこから胸元へ下がり、細くなった腕や脚へ向かっていった。
「にぃに、自分で女の子になってるんじゃないの?」
「今はな。俺も最初はいつもの薬が長引いてるだけだと思ってたんだけど、パチュリーさんに調べてもらったら薬の効果自体はもう残ってないらしくて――」
「――じゃあ、もう男の子に戻れないの?」
その声を聞いて、俺はようやくフランの様子がおかしいことに気づいた。
いつもなら落ち着きなく動いている七色の羽が、ぴたりと止まっている。
「いや、戻れないって決まったわけじゃ」
「でもっ! パチェのお薬も効かなかったんでしょ!?」
「まあ……今のところは」
「いっぱい作ったのに!?」
「……そうだな」
返事をするたび、フランの顔が曇っていく。
俺は慌ててしゃがみ、目線を合わせた。
「大丈夫だってフラン。身体そのものは健康らしいし、今すぐどうこうなるわけじゃない。パチュリーさんもこうして調べてくれてるんだから、そのうち――」
「でもッ!!」
言葉を遮られた。
「……ずっと、このままかもしれないの?」
震えて、うわずった様なフランの声を聞いて、答えに詰まった。
絶対に戻れる。そう言ってやりたかった。
けれど、それを裏付けるものは……現状では、何もない。
何日調べても原因は分からず、色んな解除薬を作るもすべて効かなかった。それを知っている以上、軽々しく断言することは……俺にはできなかった。
「……それは、まだ分からない」
だから、正直に答えた。
……フランの顔が、くしゃりと歪んだ。
「フラン?」
「……やだ」
「え?」
「そんなの、やだ……」
俯いたフランの目から、一粒の涙が落ちた。
「ちょっ、フラン?」
予想もしていなかった反応に、俺は慌てて肩へ手を置く。
「どうした? 別に俺がいなくなるわけじゃないぞ?」
「違うもん……」
「なにが?」
「にぃには、にぃにだけど……でも……」
フランは両手で目元を擦った。
けれど、次から次へと涙が溢れてきて止まらない。
「フランは……にぃにに、お兄ちゃんになってもらったの……」
「っ!」
「地下から出た時も、ずっと一緒にいてくれた。怖くても逃げなかった。抱き締めてくれて……フランのお兄ちゃんにもなってくれた」
胸の奥が、僅かに締めつけられる。
紅い霧の中で出会った頃のフランが、一瞬だけ頭を過ぎった。
泣きながら笑っていた少女。
自分が壊してしまうことを恐れて、誰からも必要とされていないのではないかと思い詰めていた少女。
そんなフランが今では俺の家へ勝手に泊まり込み、俺の布団へ潜り込んでは寝息を立てている。
俺を「にぃに」と呼んで、当たり前のように隣へいる。
姿が変わったところで、俺は俺だ。
男だろうが女だろうが、それは変わらない。そのつもりだ。
……そのつもりだった。
だから俺にとっては、急いで戻らなければならない理由なんてなかった。
けれど。
「……お兄ちゃんに戻ってよ、にぃに」
フランの震えた声が、俺の耳へ届いた。
「フランの……お兄ちゃんに戻ってよぉ……」
「っ……」
俺は、何も言えなかった。
フランにとっては、違ったのだ。
俺自身が変わらないことと、フランが俺へ重ねているものは、きっと別の話なのだろう。
別に女のままでもいい。
戻る方法が分かるまで、このまま暮らしていけばいい。……そんなふうに考えていた。
けれど――フランが泣いている。俺がこの姿でいることを怖がっている。
……なら。
「……分かったよ」
自然と、そんな言葉が口から出た。
フランの頭へ手を置く。
「ごめんな。俺、ちょっと気楽に考えすぎてたみたいだ」
「にぃに……?」
「俺は俺だから、どっちでも大して変わらないって思ってた。でも、フランがそんなに嫌なら――」
涙で濡れた頬を親指で拭う。
「ちゃんと、お兄ちゃんに戻らないとな」
そう言った瞬間だった。
「……え?」
身体の奥が、熱くなった。
胸の中心。いや、もっと深い場所から、何かが一気に全身へ広がっていく。
「創英?」
パチュリーさんの声が聞こえた。
「な、なんだ……?」
覚えがある。
性相変成薬を飲んだ時と同じ――いや、それよりもずっと自然な感覚だった。
熱が身体の輪郭をなぞっていく。指先から腕へ。脚から腰へ。胸から喉へ。
「ちょっと待ちなさい。これは――」
パチュリーさんが駆け寄ってくる。
けれど、その前に。
「うわっ!?」
視界の高さが変わった。
僅かに伸びた手足へ服が引っ張られ、身体の重心が一気に移動する。胸元にあった重みが消え、喉の奥へ熱が集まった。
「に、にぃに!?」
「ちょ、待っ……」
自分の声が耳へ届く。ここ最近、ずっと聞いていなかった声だった。
少しだけ低くなった――聞き慣れた自分の声。
「…………あれ?」
自分の胸へ手を当てる。
ない。
次に肩。腰。脚。
見覚えのある感覚が戻っている。
金色の髪だけは相変わらず背中へ流れているものの、身体つきは明らかに以前のものへ戻っていた。
「……戻った?」
俺が呟く。
「にぃに……?」
フランが、涙を浮かべたまま俺を見上げている。
「……多分、元に戻ったな」
「お兄ちゃんに、戻ったの?」
「ああ……」
答えた瞬間。
「にぃにぃぃぃっ!」
「うおっ!?」
フランが勢いよく胸へ飛び込んできた。
咄嗟に抱き止める。
「戻った! 戻ったぁ!」
「あ、ああ。戻ったな……俺もなんでか分かんないけど」
背中へ回された腕へ力が籠もる。
泣いているのか笑っているのか分からない声を上げるフランの頭を撫でながら、俺は自分の身体をもう一度確かめた。
本当に戻っている。胸元も、腰回りも、腕の太さも、どう考えても男の身体だ。
「パチュリーさん、戻りましたよ」
そう声を掛けた。しかし、返事がない。
「パチュリーさん?」
振り返ると、パチュリーさんは立ったまま固まっていた。
「…………」
「……パチュリーさん?」
顔色が真っ白だった。
口が僅かに開いている。
手に持っていた羽根ペンが、床へ落ちた。
「薬効なし……術式なし……残留魔力なし……解除薬も無効……なのに……」
「はい?」
「戻りたいと……思っただけ……?」
「あー……まあ、そうなるんですかね?」
「…………」
パチュリーさんの身体が、ふらりと揺れた。
「パチェ?」
「パチュリーさん?」
「…………きゅう」
「パチュリーさぁぁぁぁん!?」
「パチェェェェェェェェェ!?」
そのまま、パチュリーさんは泡を吹いて後ろへ倒れた。
⸻
「……本当に、男性へ戻っていますね」
咲夜さんの声が、静かな研究室へ響いた。
「みたいですね」
「『みたい』ではありませんっ」
「はい」
怒られた。
あれから、倒れたパチュリーさんを俺とフランで慌てて抱き起こし、騒ぎを聞きつけてやってきた咲夜さんへ事情を説明した。
幸い、パチュリーさんは少し休ませたところで目を覚ました。
目覚めた直後に俺を見るなり、
『もう一度調べるわよ創英』
とだけ言った。
そこからが大変だった。
血液。脈拍。体温。骨格。霊力の流れ。魔力反応。薬効の残留。術式の痕跡。
ありとあらゆる方法で、文字どおり頭の先から爪先まで調べられた。
その結果。
「……完全に戻っているわ」
項垂れるようにして椅子へ座ったパチュリーさんが、掠れた声で告げる。
机の上には検査結果を書き込んだ紙が何枚も散らばっていた。
「一時的な外見の変化でもない。肉体構造も男性の状態へ戻っている。以前と比較しても、金髪が残っていること以外に目立った変化は……少なくとも、今確認できる範囲にはない」
「じゃあ、一件落着ですね」
「…………」
「パチュリーさん?」
「創英」
「はい?」
「どうして戻ったの?」
「いや……それは俺が一番知りたいです」
「薬は効かなかったわ」
「そうですね」
「魔法も使っていない」
「はい」
「変成を解除する術式も存在していなかった」
「そうらしいですね」
「なのに、フランに泣かれて『戻ろう』と思ったら戻った」
「……そうなりますね」
「…………」
パチュリーさんのこめかみが引きつった。
「パチェ、怒ってる……?」
俺の隣に座っていたフランが、小声で尋ねる。
「怒ってないわ」
怖い。
めっちゃ怖い。
絶対怒ってる奴だこれ。
「……ま、まあ、戻れたんですから良かったじゃないですか! ねっ? ねっ?」
「私が一体何日寝ずに研究したと思っているのかしら」
「だから寝てくださいって言ったじゃないですか」
「誰のために起きていたと思っているのよッ!?」
「はっはいっ! 俺ですっ! すみませんでしたぁっ!」
思わず背筋を伸ばす。
パチュリーさんは荒く息を吐くと、額へ手を当てた。
「……もういい。今は考えない。考えたくない」
「その方がいいですよ。疲れてる時に考えても碌なことになりませんって」
「貴方に言われるとものすごく腹が立つわね……」
「なんでですか!?」
「自分の胸に聞きなさい」
言われたので、自分の胸を見る。
「……戻ってますね」
「そういう意味ではないわよッ!! 喧嘩売ってるのなら買うわよッ!?」
また怒鳴られた。隣でフランがくすくす笑っている。
先ほどまで泣いていた目元にはまだ僅かな赤みが残っていたが、表情はすっかり明るくなっていた。
……まあ、この顔が見られたのなら戻れて良かったのかもしれない。
「……ところで創英」
「はい?」
パチュリーさんが立ち上がった。
何故だろう。ものすごく嫌な予感がする。
「性相変成薬は、今どれだけ持っているの?」
「え?」
「自宅に保管している分よ」
「あー……何本だったかな。まだ何回分かは――」
「全部持ってきなさい」
「……はい?」
「全部。一本残らず」
「いや、何故です?」
「没収するからよ」
「えぇっ!?」
思わず椅子から立ち上がった。
「ちょっと待ってくださいよ! あれ、まだ残ってるんですよ!?」
「だから没収するの」
「勿体ないじゃないですか!」
「勿体ないで済む話ではないでしょうッ!!」
パチュリーさんが机を叩いた。
「本来なら半日から一日で切れるはずの薬効が延び続け、最終的には薬効そのものが消失しても肉体の変容だけが残った! そのうえ、解除薬も効かず、挙げ句の果てに本人の意思だけで元へ戻ったのよ!?」
「言われてみれば不思議ですねぇ」
「他人事みたいに言うなッ!!」
「でも、もう戻りましたし」
「だからと言ってもう一度飲んでいい理由にはならないのッ!!!」
正論だった。
しかし、あれはあれで便利だったんだけどなぁ。
「せめて一本くらい――」
「あァん!?」
「――じゃ、じゃあ記念に空瓶を……」
「それなら好きにしなさいよもうッ!!!!!」
空瓶はいいらしい。
「創英様」
背後から咲夜さんの声がした。
振り返ると、いつの間にか俺のすぐ後ろに立っていた。
「ご自宅までご同行いたしましょうか?」
「……何故ですか?」
「残らず回収できたか確認するためです」
「信用ないなぁ!?」
「「当然でしょう」」
パチュリーさんと咲夜さんの声が綺麗に重なった。
「にぃに」
今度はフランが服の裾を引っ張る。
「フランも、もうあのお薬は飲まない方がいいと思う」
「フランまでっ!?」
「だって、また戻れなくなったら嫌だもん」
「うっ……」
それを言われると弱い。
俺はしばらく三人の顔を順番に見ていたが、どう考えても味方はいなかった。
「……分かりましたよ」
両手を上げる。
「全部持ってきます。もう飲みません」
「当然よ」
「はいはい」
「返事は一度ッ!」
「はい……」
完全に子供扱いだった。
パチュリーさんは俺の返事を聞いて、ようやく肩から力を抜いた。
「性相変成薬は金輪際、摂取禁止。いいわね?」
「分かりましたって」
「勝手に新しく作ろうとするのも禁止」
「作れませんよあんなの」
「他の魔法使いに頼むのも禁止」
「頼みませんって」
「本当に?」
「本当です」
念を押され、俺は苦笑しながら頷いた。
――こうして、一ヶ月近く続いた俺の奇妙な女生活は、フランの涙一つで呆気なく幕を閉じることになった。
原因は最後まで分からなかった。
どうして薬の効果が切れても女の身体が残っていたのか。
どうして解除薬が何一つ効かなかったのか。
そして何より――どうして俺が戻ろうと思っただけで、あれほど簡単に身体が元へ戻ったのか。
考えれば考えるほど不可解ではあったものの、今の俺に答えを出せるはずもない。
パチュリーさんですら分からないものを、俺が考えたところで仕方がないだろう。
何はともあれ、身体は元へ戻った。
危ない薬も没収された。
これで、この妙な騒動も終わり。
――俺はこの時、本気でそう思っていた。