◆◇◆◇◆◇◆◇◆
三月の候。本来ならば、長く居座った冬の気配にも、そろそろ綻びが見え始める頃なのだろう。
朝夕にはまだ冷え込みが残っていても、日中に射す陽は少しずつ柔らかくなり、軒下から落ちる雪解け水が春の近さを知らせてくれる。外の世界にいた頃を思い返せば、三月とはそんな季節だった。
けれど、幻想郷では春の足音が随分と遠いように思う。
三月に入って数日が過ぎても、山も森も変わらず白い雪に覆われていた。人里の道こそ毎朝のように雪かきが行われているものの、日陰には厚い雪が残り、屋根から垂れた氷柱もなかなか短くならない。それどころか、つい数日前には夕方から横殴りの雪が降り始め、夜には窓の外が真っ白に染まるほどの吹雪になった。
そりゃあ、直ぐに劇的な変化が訪れるとは俺も思ってなどいない。例年と比べて、冬が長引くなんてことは大いにあり得るだろう。その証拠といってはなんだが、里の人たちも、今年は随分と冬が長いと口を揃えていた。
とはいえ。幻想郷へ来てまだ一年も経っていない俺には、例年と比べてどの程度おかしいのかまでは分からない。故に――冬というものは、去り際に名残惜しむこともあるのだろう。今のところは、それくらいにしか思っていなかった。
そんな三月初旬の、珍しく朝から青空が覗いたある日。俺は、魔法の森へ足を踏み入れていた。
ザクッザクッと雪を踏み締めながら、すっかり歩き慣れた道を進んでいく。前日に降った雪はまだ新しく、枝という枝に積もった白が、雲の切れ間から射す陽光を鈍く反射している。時折、重みに耐えかねた雪が枝から滑り落ち、そのたびに森の静けさの中へ、ぱさりと乾いた音を響かせた。
「……もう一ヶ月か」
吐いた息が白く膨らみ、すぐに冷たい空気へ溶けていく。
――アリス・マーガトロイドと出会ってから、およそ一ヶ月。あの日以来、俺は何度となくこの森を訪れ、彼女の屋敷へ通い続けている。
目的はふたつ。
ひとつは、アリスが作ってくれている封魔服の調整のため。
そしてもうひとつが――魔力操作と、妖力操作の習得のためだ。
『違う。魔力を動かそうとしないで』
『いや……動かせって言ったの、アリスじゃなかったか?』
『言ったけど、力任せに押し流せとは言ってないわよ』
『うーん、難しいこと言うなぁ……』
初めて魔力操作を教わった日のことを思い出す。
アリスの邸宅でのことだ。椅子へ座った俺は両手を膝へ置き、目を閉じていた。
『貴方は霊力を扱えるんでしょう?』
『まあ、人並み以上にはね』
『だったら基本的な考え方は同じよ。まず自分の中にある魔力を認識する。それから身体の中をどう流れているのか確かめて、自分の意思で流れを整える』
『それだけ聞くと簡単そうなんだけどな』
『簡単よ』
『アリス基準で言うのやめないか?』
そんなことを言いながらも、俺は意識を内側へ沈めていった。
霊力ならば、考えるまでもない。呼吸と同じ……とまでは言わないが、手足を動かすことと大差なく扱える。身体の中心から四肢へ巡らせることも、掌や脚へ集めることも、風花へ通すこともできる。造作もないことだ。
けれど、魔力は違った。
存在そのものは、アリスに指摘されて以来はっきりと感じ取れるようになっている。
身体の奥。あの炉のような何かから絶えず生まれ、全身へ薄く広がっていく力。
掴もうと意識すれば、確かにそこにある。
しかし、いざ動かそうとすると途端に感覚が遠ざかるのだ。
『……あ』
『また逃がしたわね』
『難しいな、これ』
『最初はそんなものよ』
アリスの声には、まだ余裕があった。
『霊力とは性質が違うもの。存在を感じ取れているだけでも十分よ。数日は掛かると思って――』
『あ、待って』
『なに?』
『……こうか?』
霊力を扱う時の感覚を、そっくりそのまま真似をするのではない。自分の中にある魔力の流れへ合わせて、意識を沿わせるようにする。無理に引っ張るのではなく、流れているものへほんの少しだけ方向を与えるように。
胸の奥から肩へ。肩から腕へ。そして、掌へ……。
そうしている内にじわりと熱が集まってくる感覚を覚え、目を開けると……右手の周囲に薄い光が滲んでいた。
『……できてるか?』
『…………』
『アリス?』
『もう1回、最初からやってみせて』
『え?』
『いいから』
言われるままに、一度魔力を散らす。そしてもう一度、身体の内側へ意識を向けた。
今度は先ほどよりも容易かった。
流れを見つける。そこへ意識を沿わせ、掌へと集める……。
『できたぞ。これで合ってるか?』
『…………合ってるわ』
『おおっ!』
『……貴方、今まで本当に魔力を扱ったことないのよね?』
『ないよ。そもそも持ってることすら知らなかったし』
『そう……』
その時は、少し驚かれた程度にしか思わなかった。
霊力を扱ってきた経験があるから、多少は飲み込みが早かったのだろう。俺自身もそう考えたし、アリスも最初はそう結論づけていた。
実際、そこから先は簡単ではなかった。
魔力を一点へ集める。一定量を保つ。全身へ循環させる。
外へ漏れ出そうとする魔力を、自分の意思で押し留める。
ひとつ覚えるたびに次の課題が出てきて、少し気を抜けば制御が乱れる。
それでも一ヶ月も経つ頃には、少なくとも自分の魔力がどこを流れ、どこから漏れているのかくらいは分かるようになっていた。アリスによれば、それでも随分と早いらしい。
――だが、彼女を本当に困惑させたのは魔力の方ではなかった。
『次は妖力ね』
魔力操作を始めて数日が経った頃だった。
『魔力の時と同じで、まずは身体の中にある妖力を見つけなさい。力を認識して制御するという基礎そのものは――』
『おっ、これか?』
『…………』
『ん?』
その時のアリスの顔は、今でもよく覚えている。
机の向こうで、目を丸くしていた。
『……ちょっと待ちなさい?』
『分かった』
『貴女……いま、なにをしたの?』
『なにをって……妖力を探しただけだぞ』
『それで?』
『見つけた』
『…………』
『もしかして、やり方が違ったか?』
『違ってないわよ』
むしろ、それが問題だったらしい。
魔力は霊力とは明確に感覚が違った。掴み方も、流し方も、一から覚える必要があった。
ところが妖力は違う。
初めて意識したはずなのに、これが――妙に馴染むのだ。初めて触れたはずなのにも関わらずだ。
胸の奥へ意識を向ければ、そこにあることが分かる。動かそうと思えば、動くのだ。
右腕へ集めようとすれば右腕へ。脚へ巡らせようとすれば脚へ。霊力ほど自由自在ではないにせよ、魔力のような掴みどころのなさがほとんどなかった。
『……じゃあ、それを右手に集めて』
『こうか?』
『左手』
『ほい』
『両脚』
『んっ』
『全身に薄く』
『……こんなかんじか?』
『…………』
『アリス?』
『ちょっと黙って』
『何で怒られてるの俺?』
怒っているというより、困惑していたのだと思う。
アリスは俺の腕を掴み、何度も状態を確かめていた。
『霊力操作の経験があるから魔力の習得が早い。それはまだ分かるわ。でも、妖力は別でしょう? なんで魔力よりこっちの方が上手いのよ』
『いやぁ、そう言われてもなぁ』
俺にも説明などできなかった。
『なんていうか……魔力より分かりやすいんだよ』
『どういう意味?』
『魔力はさ、俺の感覚だと……流れを見つけてから意識して掴んで、動かし方を考えないと駄目なんだけど』
掌へ妖力を集めてみる。
力は俺の意思に応じ、するりと腕を伝って移動した。
『こっちは、動かそうと思ったら動くというか……何故だか知らないけど、最初から身体が動かし方を知ってるみたいな感じがするんだよ』
口にしてから、自分でも変な表現だと思った。
けれど、それ以外に言いようがなかった。
頭では知らない。習った覚えもない。それなのに身体のどこかでは、ずっと前から知っていたような感覚があるのだ。
『……貴方』
『ん?』
『本当に、今まで妖力を使ったことがないの?』
『ないって。妖力が自分にあるなんて、アリスに言われるまで知らなかったんだから』
『そう……』
アリスはそう返したものの、その表情から疑問が消えることはなかった。
俺自身も少しばかり引っ掛かりはした。けれど、考えて答えが出るものでもない。今はまず、扱えるようになる方が先だろう。
そうして訓練を続けた結果――魔力の操作も、妖力の操作も、最初の頃とは比べものにならないほど上達した。
特に妖力については、今では意識さえすれば身体の一部へ集めたり、逆に全身へ薄く巡らせたりする程度なら苦もなくできる。
……それでも。
「……まだ駄目なんだよなぁ」
現在へ意識を戻し、雪道を歩きながら小さく呟く。
扱えるようになったことと、完全に制御できることは違う。
魔力は今も、身体の奥にある炉から絶えず生み出されている。意識している間なら多少は抑えられるが、眠っている間まで管理することはできない。
妖力についても同じだ。流すことはできても、それが自分の身体へどう作用しているのかまでは分かっていない。
だからこその封魔服だ。
自分自身で十全に制御できるようになるまでは、封魔服を着用して外側から余計な力の流れを抑え込む必要がある。
その完成を知らせる手紙が届いたのは、昨日のことだった。
『封魔服が仕立て上がったわ。早く取りに来て』
アリスらしい簡潔な文面。
その紙を届けに来たアリスの人形へ、俺が何の気なしに「やっとか」と漏らしたら、何故か人形が胸を張っていた。
「別に……お前が作ったわけじゃないだろうに」
その時の光景を思い出して、少し笑う。
やがて木々の隙間から、見慣れた洋館が姿を現した。アリスの邸宅だ。
「よし」
玄関前で外套に積もった雪を払い、扉を叩く。
ほどなくして、中から足音が近づいてきた。
「はい」
扉が開く。
「おはよう、アリス」
「おはよう。早かったわね」
「待ちに待ってたからな。ついに完成したんだろ?」
「ええ。外は寒いでしょう? 早く入りなさいな」
「ああ。お邪魔します」
屋敷へ入った途端、暖炉から流れてくる暖かな空気が頬を撫でた。
冷え切っていた指先がじわじわと熱を取り戻していく。
外套を脱いでいると、頭上を一体の人形が横切った。
「おはよう」
軽く手を上げる。
人形はこちらへ顔を向けると、空中で一度だけくるりと回った。
一ヶ月前なら、その動きだけでも目で追っていただろう。
今ではすっかり見慣れた光景だ。
「随分と馴染んだわね」
「そりゃあ一ヶ月も通ってればな。最初は人形が飛ぶたびに驚いてたけど」
「その割には着せ替えると今でも騒ぐじゃない」
「それとこれとは話が別ですぅ~」
「そう」
アリスが小さく笑う。
「……それで、今日は訓練より先に見せてくれるんだろ?」
「随分楽しみにしてたのね」
「そりゃあそうだよ。これで少しは身体の状態も落ち着くんだろ?」
「理論上はね。実際に着せてみないと最終的な効果までは分からないけど」
「充分だよ」
彼女の後について廊下を歩く。
やがて通されたのは、最初に身体を調べられた作業部屋だった。
魔導書や小瓶。裁縫道具。用途の分からない魔法具。壁際や棚には何体もの人形が飾ってある。
ここにも随分と慣れたものだ。……もっとも、いい思い出ばかりではないが。
「ちょっと待ってて」
「ああ」
アリスが部屋の奥へ向かう。
その間、俺はいつもの椅子へ腰を下ろした。
ほどなくして戻ってきた彼女の腕には、ひとつの箱が抱えられていた。
「それか?」
「ええ」
机の上へ箱が置かれる。
それだけで、中から微かな魔力が伝わってきた。
「……すげぇ」
「なにが?」
「いや……俺でも分かるんだよ。この箱の中から魔力を感じるって」
「それくらいなら、もうできて当然よ」
「一ヶ月前まで魔力が何なのかも知らなかったんだけどな、俺」
「…………」
「なに?」
「いえ、なんでもないわ」
アリスは何か言いたげに俺を見たが、結局口にはしなかった。
「開けていいか?」
「どうぞ」
「よし……」
待ちに待った封魔服だ。ようやく、この不安定な身体を落ち着かせられる。
そう思い、期待しながら蓋を開け――。
「…………」
――そっと閉じた。
「なんで閉じるのよ」
「いや……」
おかしい。今、見てはいけないものが見えた気がする。
「……もう1回いいか?」
「好きにしなさい」
再び開ける。
「…………」
そして、もう一度そっと閉じた。
「だからなんで閉じるのよ」
「現実を受け入れる準備をしてる」
「なんの?」
もう一度、蓋を開ける。今度こそ逃げずに、中身を見た。
――丁寧に畳まれた一着の衣服が納められている。
見覚えのある意匠。白い襟元に、可愛らしく整えられた装飾。
そして……俺はゆっくりと横を向く。
そこには、ふわふわと浮かぶ一体の人形。
その人形を見る。次に箱の中を見る。もう一度、人形を見る。
「…………アリス」
「なに?」
「これさぁ」
「ええ」
「人形が着てる服と同じだよな?」
「そうね」
「そうね、じゃなくてさ」
箱から服を持ち上げる。
サイズこそ人間用だが、意匠はどう見ても同じだった。
「俺の封魔服はどこいった?」
「それよ」
「…………これ?」
「それ」
「ッスゥ~…………」
再び人形を見る。何故か、向こうもこちらを見ていた。
「……お揃いってやつ?」
「お揃いってやつね」
「何でぇ!?」
思わず立ち上がる。
「俺、普通の服を作ってくれてると思ってたんだけどぉ!?」
「普通に着られる服よ」
「そういう意味じゃなぁいっ!」
「動きやすさも考えてあるし、術式の配置も問題ないわ」
「だから、なんで人形と同じ意匠なんだよ!」
「一から設計するよりも、既存の型を流用した方が早かったからよ」
「絶対それだけじゃないだろ!」
「…………」
「うぉい! 目を逸らすなっ!」
……この一ヶ月を通して、嫌というほど分かったことがある。
アリスは人形に関して妙なところで凝り性だ。
そして、俺を着せ替えることに関しても、何故か同じくらい凝るのだ。
「……これ、本当に効果あるんだよな?」
「そこを疑うなら着なくてもいいけど?」
「うぐっ」
そう言われ、服を見下ろす。
……可愛い。
悔しいが、物としては恐ろしくよく出来ていた。
縫製は丁寧で、封魔の糸がどこへ使われているのかも一目では分からない。意識を向ければ、衣服全体を細かな魔力の流れが巡っていることだけは分かった。
「……術式が服全体に繋がってる?」
「へぇ……そこまで分かるの?」
「何となく。ここから入って……こっちへ流れてるような」
指先で服の縫い目を追うと、アリスの目が僅かに細くなった。
「……本当に飲み込みが早いわね」
「そうか?」
「そうよ」
言い切られた。
「特に妖力ね。あれは未だに納得できないわ」
「またその話?」
「一ヶ月で私の想定を何度裏切ったと思ってるのよ」
「いい意味で?」
「気味が悪いって意味で」
「酷くなぁい!?」
「褒めてるのよ」
「絶対嘘だろ」
溜息を吐き、改めて服を見る。
見た目はともかく、これを着れば身体の状態が安定するかもしれない。
そう考えれば、選択肢など最初からひとつしかなかった。
「…………着替えてくる」
「隣の部屋を使っていいわ」
「はいよ」
封魔服を抱えて立ち上がる。
隣室へ向かおうとしたところで、人形がふわりと俺の横へ寄ってきた。
「…………」
人形を見てから、手元の同じ服を見る。
「……なんか嬉しそうだな、お前」
人形がくるりと一回転する。
「俺は複雑だよ……」
肩を落としながら隣室へ入り、扉を閉めて今着ている服を脱ぐ。
この一ヶ月で見慣れてしまった女性の身体。薬の効果など、とっくに残ってはいない。
それでもこの姿のままなのは、俺自身の中にある何かが原因らしい。
そんな身体へ、封魔服を一枚ずつ身につけていく。
「さすが……サイズはぴったりだな」
まぁ当然か。この一ヶ月の間に、何度も採寸されたからな。
……採寸という名目で何着の服を着せられたかについては、思い出さないことにする。
最後に袖を通し、衣服を整える。
「…………ん?」
その瞬間。
身体の内側に、明確な変化があった。
「……静かだ」
思わず呟く。
魔力はあるし、妖力もある。何処かに消えたわけではない。
けれど、今まで身体の中を好き勝手に流れ、意識を緩めれば外へ零れていた力が、綺麗に内側へと収まっている。
薄い膜で包まれたような感覚を覚えるが、押さえつけられるような感じは特になく、別段苦しいわけでもない。
むしろ、今まで開け放たれていた扉がようやく閉じたような、不思議な落ち着きがあった。
「こいつはすごいな……」
魔力の流れを追う。
以前なら、意識して押し留めなければ外へ漏れていた。
それが今は、何もしなくても身体の中を巡っている。
妖力も――。
「…………」
――そうして妖力の方へ意識を向けた瞬間、胸の奥が熱を持った。
「っ……」
思わず壁へ手をつく。この感覚を俺は知っている。
そう。それは、身体が変わる時の――。
「まさか……」
熱が全身へ広がっていく。
けれど、これまでの変化とは違った。
暴れるような熱ではない。
無理やり形を変えられる感覚でもない。
むしろ逆だ。
長い間、ずれていたものが。
ゆっくりと本来の場所へ戻っていく。
「…………」
身体の輪郭が変わる。
胸元に腰、脚ときて、次は重心……この一ヶ月ですっかり慣れてしまった感覚が、少しずつ遠ざかっていく。
そして、熱が完全に引いた時。
「……あー」
声を出す。
「……あー、あー」
低い。
懐かしの、男の俺の声だった。
「…………戻った?」
自分の身体へ触れる。
胸元からは膨らみが消えて平らになっていて、腰の位置も変わっている。
ああ……間違いない。
「戻った……!」
思わず頬が緩んだ。
「アリス!」
扉を勢いよく開ける。
「ちょっと、乱暴に開けないでよ」
「戻った!」
「なにが?」
「身体! 身体が元に戻ったんだよ!」
「……本当?」
「ああ!」
アリスの前まで駆け寄る。
「服を着たら魔力と妖力が急に落ち着いて、それから身体が熱くなって……!」
「動かないで」
「お、おう」
アリスがすぐさま俺の肩へ触れる。
魔力を直接流し込まれる。一ヶ月前なら何をされているのか分からなかったが、今なら少し違う。
アリスの魔力が封魔服へ触れ、そこに縫い込まれた術式へ沿って流れていく。
「……へぇ」
「なんだ?」
「私の魔力を追えてるでしょう」
「え、分かるのか?」
「顔を見ればね」
「服の中を流れてるのは分かる。細かいところまでは無理だけど」
「充分よ」
アリスが呆れたように息を吐いた。
「本当に、一ヶ月前まで魔力の存在すら知らなかったとは思えないわね」
「師匠の教え方がいいんじゃないか?」
「ふふ、そういうことにしておいてあげるわ」
そう言いながら、彼女はさらに状態を確かめていく。
「……うん。魔力の漏出はかなり抑えられてる。妖力も安定してるわね」
「じゃあ成功?」
「ええ。少なくとも封魔服そのものは想定通りに働いてる」
「よっしゃ!」
思わず拳を握った。
ようやくだ……これで、寝て起きたらまた身体が変わっていた、なんてことに振り回されずに済む。
「ただ……」
「……ただ、なに?」
アリスが俺の顔を見ていた。
「鏡、見てみたら?」
「鏡?」
言われて、部屋に置かれた姿見へ向かう。
身体が戻ったことが嬉しくて、まだ自分の姿をきちんと確認していなかった。
「…………」
鏡の前へ立つ。
「…………ん?」
瞬きをする。少し近づき、頬へ触れる。
「…………」
離れる。そして、もう一度見た。
「……俺、だよな?」
「貴女でしょうね」
「だよなぁ」
性別は戻っている。そこは身体の感覚でも分かる。
……だが。
「……何か、あんま戻ってなくない?」
「そうね」
「やっぱり!?」
思わず自分の頬を両手で挟む。顔立ちに、以前より明らかな丸みが残っていた。
顎の線も柔らかい。肩もそうだ。
完全な女性体だった時ほどではないものの、以前の男性体よりも線が細く、膝や手足にも妙な柔らかさがある。先ほど真っ先に確認した声ですら、改めて意識して聴けば、少し柔らかい響きを持っているように感じた。
「……男にはなってるよな?」
「身体そのものはね」
「その言い方やめてくれない?」
「事実でしょう」
「そうだけどさぁ!」
鏡の中の自分を改めて見る。……自分の事をこう表現するのは些か抵抗があるが、鏡に映った俺は美少年といって差し支えがない容姿ではある。
あるのだが……ただこれは、美少年というよりは……。
「これ、下手したら女に見えないか?」
「下手しなくても見えるわね」
「即答っ!?」
「今の服のせいもあるでしょうけど」
「服のせいだけじゃないだろこれ!」
アリスが俺の肩や顔を改めて観察する。
「この一ヶ月、女性の身体で安定していた影響でしょうね。性別そのものは正常に変化したけど、肉体が受けた変容の痕跡までは完全に消えてない」
「いつかは、ちゃんと元に戻るかな?」
「それは分からないわ」
「そこを何とか!」
「私に言われたって知らないわよ。少なくとも、封魔服で力が安定している限り、これ以上変容が進む可能性は低いと思うけど」
「……これ以上は悪化しない?」
「恐らくね」
「なら、まあ……」
鏡を見る。
少女に見えなくもない自分と目が合った。
「……よくはないけど、今はいいか」
女の身体から戻れなくなった時に比べれば、随分と贅沢な悩みだ。
それより、気になることがある。
「なあアリス」
「なに?」
「これって、いつまで着てればいいんだ?」
「貴女が自力で魔力と妖力を完全に制御できるようになるまで」
「…………それってさ」
嫌な予感がする。
「一日のうち、どれくらいだ?」
「できる限り四六時中着ていなさい。入浴中までとは言わないけど、少なくとも起きている間は着ていた方がいいわね。寝ている時も、今の状態なら着ておいた方が安全だと思うわ」
「…………」
俺は自分の服を見て、次に人形を見た。人形も俺を見ている。
鏡を改めて見ると、そこには……艶やかな長い金髪を揺らし、女性の面影を色濃く残した顔立ちで、人形とお揃いの服を着ている俺がいた。
その時、俺の脳裏にいろんなことが過ぎった。
人里、阿求、霊夢、魔理沙、こいし、咲夜さん、フラン、パチュリーさん。
その他にも、頭の中へ次々と顔が浮かんでくる。
「……男の時まで、この服を着なきゃダメかぁ……」
「…………」
返事がない。
「せめて見た目だけでも普段の――」
「待って」
「ん?」
振り向く。
アリスが固まっていた。
「……今、何て言ったの?」
「見た目だけでも?」
「もっと前よ」
「男の時までこの服を着なきゃダメか?」
「…………」
何だ?
アリスの視線が、ゆっくり俺の顔から下へ落ちる。
それから再び顔へ戻った。
「貴女、男なの?」
「……えっ?」
アリスが俺を指差す。
「だから、貴女は元々男だったの?」
「いや……俺、ずっとそう言ってたはずだけど……」
「…………」
「生まれた時から、俺は男だよ」
「…………」
「……アリス? おーい?」
「ええええええええええええっ!?」
「うおっ!?」
屋敷中へ響き渡るような声だった。
周囲にいた人形たちまで一斉に飛び上がる。
「な、何だよっ!? 一体どうした!?」
「だって貴女、一ヶ月ずっと女だったじゃない!」
「身体が戻らなかったからだよ!」
「性別を変える薬を飲んだとは聞いたけど!」
「説明しただろ!?」
「元が男だなんて聞いてないわよ!」
「えっ?」
そう言われて、思い返す。
一ヶ月前は薬で身体の性別を変えていた、戻ったり変わったりしていたと、そうアリスに説明した。
元の性別については――。
「あれ? 俺、アリスにちゃんと言ってなかったっけ?」
「聞いてないわよ!」
「ま、マジか……」
「私はてっきり、女の貴方が薬の影響でおかしくなってたんだと……!」
「ちがうちがう! そもそも前提がちがうって!」
アリスが両手で顔を覆った。
「嘘でしょ……?」
「そこまで!?」
「だって私……この一ヶ月ずっと女の子だと思って採寸して、服も全部それ前提で着せて、封魔服だって仕立てたのよ……?」
二人揃って、俺の服を見る。
「アリス」
「なによ……」
「これ、俺を女だと思って作ったのはいいとして、絶対それだけじゃないよな?」
俺にそう問われて、アリスはそっぽを向く。
「おい、目を逸らすなよ」
「……設計を流用した方が早かったのよ」
「それだけじゃないって顔に書いてあるぞ!」
「に、似合ってるからいいじゃない。ねっ?」
「ねっ? じゃねーよっ!」
今度は俺の声が屋敷に響いた。
⸻
「あーもう分かったわよ。仕立て直せばいいんでしょ、仕立て直せば」
「頼んます……流石にあんなにひらひらした服で表を歩く度胸はないっす……」
あれからしばらく、言った言わないの話に発展してやや口論になったものの、そんな不毛な言い争いを経てどうにか話はまとまった。
「普段はどんな服を着てるのよ」
「黒いスーツっぽいやつだ。退魔の仕事でも動けるように手を入れてある」
「じゃあ、次に来る時はそれを持ってきなさい。参考にして作り直すわ。封魔の糸と術式はそのまま使えるし、そこまで時間は掛からないと思うわ。……まったく、感謝してよね」
「本当に助かりますアリス様……」
「気持ち悪いから様付は止めて頂戴」
「酷くないっ!? ……でもまぁ、本当にありがとうアリス」
「ふんっ」
心の底から安堵した。
この服で人里を歩き回る未来だけは回避できそうだ。
「ただし」
「……来たな」
「なによその顔は」
「アリスが『ただし』って言う時、大抵ろくな条件が付かないからさ」
「失礼ね」
「この一ヶ月の経験則です」
アリスが腕を組む。
「さっき説明しようと思ってたんだけど、封魔服は作って終わりじゃないの。貴方の力に合わせて術式を調整する必要があるし、封魔の糸も定期的に状態を見ないといけない。それに、今の貴方なら分かってるでしょうけど、これはあくまで補助具よ」
封魔服へ目を落とす。確かに、今まで外へ漏れ続けていた魔力と妖力は、服によって押し留められている。
俺自身の意思で抑え込んでいるのもあるが、封魔服による補助の方が優勢に働いていた。
「前にも言われたけど、行く行くは自分で制御できるようにならないと駄目、か」
「そういうこと」
「だとしたら、今後も訓練は続けたいな」
「そうね、そうした方がいいわ。特に貴方の場合……」
アリスが僅かに目を細める。
「妖力の方は、改めてちゃんと調べておいた方がいいわ。一ヶ月見てきたけど、どう考えても馴染み方がおかしいもの」
「そんなに?」
「そんなによ。だって貴方人間なんでしょう?」
即答された。
「魔力の習得速度も充分おかしいけど、あれはまだ霊力を長く扱ってきた経験で説明できなくもない。でも妖力は、それだけでは説明がつかないもの」
「それはまぁ、確かに……」
「自分では何も感じないの?」
そう問われて、右手へ意識を向ける。封魔服に抑えられているため、いつもより動かしづらい。
だがそれでも、身体の中にある妖力は、俺が求めればすぐに反応した。
「前にも言ったけど……やっぱり、使いやすいとは思う。霊力とは違うのに、妙に馴染むというか」
「それよ」
「それって言われてもなぁ」
「まあ、今すぐ答えを出せとは言わないわ」
アリスは小さく息を吐く。
「だから、しばらくは私が面倒を見てあげるわ。魔力も、妖力もね」
「……いいのか?」
「ここまで関わって放り出せると思う? それに」
何故か口元が笑っている。
「対価はきっちり貰うから」
その発言に、嫌な予感がした。
「今後も人形の服作りを手伝うこと」
「それは最初から約束してたし、いいよ」
「私が作った服の試着もお願いするわ」
「……男だって分かったよね?」
「だからなに?」
「ああ、そこは関係ないんだぁ……」
「だって貴方、その服だって着こなせてるし。なに着せたって似合うんだから別にいいでしょう?」
「よくないんだけどっ!?」
「それから、魔法実験にも付き合って頂戴」
「…………マホウジッケン?」
嫌な予感が、一気に危険なものへ変わった。
「参考までに、どんなことをするつもりで?」
「色々よ」
「具体的には?」
「これから考えるわ」
「怖い怖い怖い怖い! めっちゃ嫌なんだけど!」
「危険なことはしないわよ」
「本当に???」
「多分」
「いま多分って言ったよなぁ!?」
「細かい男ねぇ」
「一ヶ月俺を女だと思ってた奴に言われたくないわぁっ!」
アリスが楽しそうに笑う。ちくしょう、絶対に面白がって言ってんな。
……だが、封魔服を俺に合わせて仕立て直してもらう約束は交わしたし、今後の調整や修繕も請け負ってもらうことにもなった。そしてなによりも、魔力と妖力を自分で扱えるようになるまで教えてもらえることにもなった。
それだけのことをしてもらうのだから、こちらも相応のものを返すべきだろう。
「……分かったよ。人形の服作りも手伝うし、試着もする。魔法実験も……まぁそっちは危なくない範囲なら付き合うよ」
「交渉成立ね」
「ただし!」
今度はこちらから言う。
「着せ替え人形にするのは程々にすること!」
「善処するわ」
「なにその返事ぃ……この一ヶ月で一番信用できないんだけど……」
深々と溜息を吐く。すると、視界の端で人形がふわりと近づいてきた。
俺の前で止まり、くるりと楽しそうに回転する。その様子に思わず苦笑した。
外では、三月とは思えないほど冷たい風が木々を揺らしている。
春はまだ遠い。俺自身の身体についても、分からないことは山ほど残っていた。
魔力が何故生まれたのか。
妖力が何故これほど身体へ馴染むのか。
どうして俺の身体は、意識一つで性別すら容易く変えてしまうのか。
それでも、何も分からず変化に振り回されていた一ヶ月前と比べれば、いまは少しだけ前へ進めている。
力があるなら、知る。分からないなら、調べる。扱えないなら、扱えるようになる。
宗家にいた頃から、それだけは変わらない。
「さて」
「ん?」
「男だと分かったところで、ちょうど試したい服があるのよ」
「……いまの俺の独白を返してくれる?」
「なんの話?」
「何でもない……」
げんなりしている俺を尻目に、アリスが指を鳴らす。
すると奥の部屋から、数体の人形が大量の衣服を抱えて飛んできた。
「…………えっ? 俺、今日は封魔服を取りに来ただけだよな?」
「ええ、そうね」
「帰っていい?」
「ダメよ♪」
「……ですよねぇ~!!」
三月になっても、幻想郷の冬は終わらない。
……そしてどうやら、俺の着せ替え人形生活も、当分終わりそうにはなかった。